第十二章  ライブハウス

大粒の雨が、シャワーのようにガラス窓に叩き付けている。

雨の模様が幾重にも重なって、まるで水の中にいるみたいであった。


ひとみは片方の手で頬杖をつきながら、ぼんやり外を見ている。

テーブルの上のコーヒーは、口もつけられないまま微かに湯気をたてている。


色々な事が頭の中をかけめぐっていた。

仕事の事、優子の事、田坂の事・・・そして・・・青井の事。


ふと、青井の息子、勇太の笑顔が浮かんできて、ひとみは顔をほころばせた。

青井にそっくりな顔は、天使のような笑顔でひとみに話しかけてくる。


時折、青井が遅い時などに電話をかけてくるのだが、たまたま一緒に残業していたひとみがとると可愛い声で歓声をあげるのだった。


「あっ、ひとみねーちゃんやー」


本当に幼子の関西弁はかわいいと思うのだった。

だが、この頃では青井のアクセントも、そう気にならなくなっていた。


むしろ青井が外出して会社にいない時などはその声が聞こえず、寂しく思う時さえある。

ひとみの微笑んだ顔が又少し固くなる。


美都子の事を思い出したのだ。

そうなのだ、勇太のあと必ず美都子が、丁寧な口調で代わって言う。


「青井がいつもお世話になっております。

あのー、おりますでしょうか・・・?」


そう言う時、あの後楽園で初めて見た美都子の美しさが鮮明に思い出されてくる。

ひとみよりも背が高く、スラリと伸びた長い足、ブラウンがかった長い髪、グラマーなプロポーション、大人の妖しさ・・・。


全てがひとみにはない物のようで、青井の妻であるこの女性にはどうあがいても勝てないと思った。

どうして、あんなタコ焼きの事を・・・と自分を叱咤してごまかそうとするのだが、心でもう一人の自分が悲しい顔で見つめている。


嘘は、ダメだと・・・。

青井と話せば話すほど、その印象が強く心に残っていく。


週末が近づくにつれ、寂しさが募ってゆくのである。

今まで、あれ程楽しみにしていた金曜日であるのに。


もちろん何度か幼い恋心を抱いた事もあったが、今回の恋は初めての経験であった。

たまらなく、一人が寂しくなる。


夜、眠れない時、庭の桜を見ても父の写真を見ても心は満たされなかった。

ひとみは窓ガラスに息を吹きかけ、くもりを作り、指をすべらせてみた。


ぼんやりとした街の風景が、そこだけ鮮やかに浮かび上がってくる。

たくさんの色の車が行き交うが、徐々にぼやけモノトーンに沈んでいく。


ひとみは、この一人待っている時間を大切に仕舞い込んでいたかった。

いつかは会える時間。


こんな幸せが、この世にあるとは気がつかなかった。

楽しく二人で過ごすより、何倍も嬉しいと思った。


少なくとも、別れの寂しさに心をふるわす事はないからだ。

まだ来ないでほしいと願う。


もう少し、このまま。

自分の取り止めのない気持ちを、雨にしずめていたかった。


まだ自分の心にも、その言葉を投げかけていない。

言ってしまうと、心の中に出来た波紋がいつまでも消えることがないと、うすうす感じているからだ。


だからこのまま、雨にけむる街の風景のようにぼんやりと、モノトーンに・・・。


「おう、待ったか。

すまんな・・・ちょっと電話が長びいてな」


青井の大きな声で、ひとみは現実に戻された。

潤んだ目を、青井に向けている。


青井はその美しさに顔が赤くなりそうで、レシートをつかむと言った。


「出るか・・・」


青井が精算しているのを先に店の外に出て、ひとみは見つめている。

本当はもう少しいたかったのだが、何だか泣き出してしまいそうで慌てて席をたったのである。


「すみません、ごちそうさま・・・です」

青井が出てくると、ひとみは頭を下げて言った。


今日のひとみの装いはオリーブグリーンのシックな麻のスーツで、腰のあたりがピッタリとフィットしていて一見するとワンピースかと思われる程で、ボディラインに自信がないと着られないものである。


アンダーは大きく胸元がV字に開いたトップスを着ているので、ちょっと見には何も着ていないように胸元の美しい肌を直接覗かせている。


この頃ひとみは、わざと大人っぽい服を選んで会社に着てくる。

はかない抵抗だとは知っているのだが。


特にこのタコ焼き男に、デリケートな感性があるとは思えないのである。

だが、青井はそんなに鈍感ではなかった。


この頃やけに大人っぽくなったひとみに、眩しさをおぼえて軽口も少なくなってしまう。

今もためらうように、目を伏せて言うのだった。


「何・・・食べる?」

ひとみも、いつになく静かな青井に戸惑いながら小さな声で言った。


「あんまり・・お腹すいていない・・・の。」

青井は、わざと明るい声で言った。


「何や、いっつも人の財布や思うて、

バクバク食うくせに。

今日は覚悟してきたんやけどな・・・。


そうやな、俺も昼飯遅かったし・・・

よしっ決めた。

その代わり、おもしろぉのーても、我慢せいよ。

あとで旨い店にでも行くから・・・」


そしてひとみを、促すとタクシーを止めて先に乗り込んで言った。


「渋谷まで・・・」

運転手にそう告げると、青井は腕組みをして座り直した。


ひとみもタクシーに乗り込むと、しばらく青井を見つめていたが、しびれを切らしたように口を開いた。


「どこへ・・・行くんですか?」


いつになく素直な声であった。

青井はため息に似た笑いをもらすと、優しく言った。


「うん、ちょっとな・・。

学生の頃、よー、シャンソンのライブハウスに行ってたんや。


東京にも銀パリちゅう、有名な店があったんやけど、

だいぶ前になくなってな・・・。


そこのスタッフが今度渋谷に店出すゆうて、

前に招待状もろたんや。

昔・・・ちょっと、知っとってな・・・。


まー、今はビジュアル系やらダンスミュージックやらで

若い人にはウケンやろけど、暇潰しにはなるやろ・・・。

入換え制やから、8時には終わるよって、

その後、晩飯食って帰ろか・・・?」


ひとみはじっと青井を見つめ、何にも言わず聞いていた。

何かいつもと違うひとみを感じて、青井は少し戸惑ったような表情をして言った。


「やっぱ、イヤか。

どっか別のところでも・・・」


そう言いかけたのを遮るように、ひとみは言った。


「ううん・・・

私もカラオケの時、演歌も歌うし・・・。


知ってます?

私の天童よしみ、結構社内のオジ様方にうけてるんですよぉ。


へえー、シャンソンかー・・・。

私、初めてだけど、何だかおもしろそう・・・」


やっと白い歯をこぼした小悪魔にホッとしたのか、青井は肩の力を抜いて座り直した。


車は雨の中をすべるように走っている。

雨のせいか混んでいて中々進まなかったが、やっとスピードがでてきた。


「そういえば、課長はカラオケ行きませんよね。

どうしてですか・・・?」


ひとみに言われて、面倒くさそうに頭をかいて青井は答えた。


「俺は音痴やさかいな。

カラオケはパスや・・・。


それに若い頃、失敗こいてな、

でっかい商談パーにしたんや・・・。

それ以来、なるべく遠慮しとる。

そんでも営業やから、唄わん訳にはいかんさかいに。

まー、大阪やから行っても六甲おろし

(阪神タイガースの応援歌)歌とったなあ。


これをやるとみんな大合唱になるし、

何回、歌うてもええんや・・・。


どんな気難しいクライアントでも、文句言わんしな・・・。

ただ、東京ではそうもいかんから『メダカの学校』歌とった。


意外とうけるんやで、これ・・・。

でもな、仲間内でそればっかりいうんのもな・・・」

 

ひとみは話を聞いていて青井らしいと思った。


(メダカの学校か・・・ふふっ・・・) 

一度その歌を聞きたいと言いかけた時、タクシーは渋谷駅の前を通りかかった。


「あっ、そこの角曲がって・・・

確かロフトの前の道を・・・

あー、あのピンクのネオンの前で止めてくれるか・・・」


雨はもう止んでいて、濡れた歩道に二人は降り立った。


小さなビルの地下に下りていくと、もうすでに一部のコンサートは始まっているらしく、ドアの向こうから微かに言葉が聞こえてくる。

ドアを開けると、ボリュームがきいた重厚な音楽が二人を包んだ。


黒いカーテンに仕切られたチケット売り場でお金を払うと、二枚のチケットを渡された。

結構人が入っていて、二人は後ろのテーブルに座った。


すぐボーイがやって来て注文を聞く。

チケットはドリンク付きになっていて青井はビールを、ひとみはオレンジジュースを頼んだ。


ステージの上ではドラム、ベース、リードギターの三人が演奏していた。

ちょうど曲の合間らしく、アドリブで三人がアンサンブルをしている。


拍手と共に黒いカーテンの隙間から、太った女性が出てきた。

狭いステージで窮屈そうにマイクに向かった。


化粧が厚めで派手に彩られている。

ひとみは何度かライブハウスに来た事はあるが、こういうテーブル席についてじっくり聞く所は初めてで、なにか胸がドキドキしてきた。


ドラムがゆっくりリズムを刻みだし、ベースがそれを追いかける。

ギターがイントロを弾くと、おもむろに女性歌手が歌いだした。

 

※※※※※※※※※※※※※※※


あんた久しぶりだね。

ずいぶん顔を出さなかったじゃないの。

    

知らばっくれてもダメさ。

あの子の所へ、行ってたんだろ。


でも、いいのよ。

私はいつでもあんたを待っている。


どんな時でも。


あんたが旅に疲れた時に、立寄るだけの女さ。

   

でも、それで幸せさ。

待つって楽しいんだよ。


知ってたかい・・・・?

別れの不安におびえる事もないから・・・ね。

   

もう少し、ゆっくりしていきなよ。

今日は泊まっていっておくれ。


お酒もほら、あんたが好きなのを買っておいたよ。

あたいの事は気にしなくてもいいんだよ。

  

旅の途中の・・・。


そうね、居酒屋だと思えばいい。

 

※※※※※※※※※※※※※※※


フランス語の直訳なのか、直接的な表現の歌詞が声量のある歌手から、メロディーに合わせて語られてくる。


だが、それはひとみの心に新鮮にしみ込んできた。

まるで自分が今、フランスの片田舎の酒場にいるような気分になってくる。


太ってさほど美人ではない歌手が、厚ぼったい化粧をとおして愛らしい娼婦に見えてくる。 

最初の曲から、ひとみはのめり込み涙を目ににじませていた。


※※※※※※※※※※※※※※※

 

本当に久しぶりね。


ほら、あたいの胸に触ってごらん。

こんなにドキドキしている。


ねえ、唄ってよ。

あたいの好きな唄を。


あんたの声が聞きたいのさ。


下手でもいいよ。

あんたが唄うから、いいのさ。


待つって、楽しいんだよ。

寂しくなんか、なかった。


いつか、あんたに会えるって思うからね。  

だけど、今の方が恐いよ。


あたいが・・・。

目を覚ましたら、あんたは・・・。


そう・・・

どこかへ・・・。


あんた・・・。


※※※※※※※※※※※※※※※

 

曲が終わると同時に、歌い手が頭をうなだれた。

観客から割れんばかりの拍手がおこる。

 

ひとみはジーンとして鳥肌がたっていた。

 

女性歌手はいったんカーテンに身を隠している。

水でも飲んでいるのだろうか。


「どや、退屈やないか・・・?」


青井が心配そうに声をかける。

ひとみはキラキラ目を輝かせ、振り向いて言った。


「ステキ・・・すごく新鮮。

カッコイイ・・・・」

 

そう言うと再び女性歌手が出て来たのに、拍手を送っている。

青井はホッとため息をつくと、ビールを一口飲んだ。

青井自身も久しぶりにライブハウスに来たので、すぐ歌の世界に没頭していった。


※※※※※※※※※※※※※※※


第一部が終わり、二人は顔を上気させてライブハウスを出た。

青井は大きく伸びをして言った。


「あー、久しぶりに聞いたなー・・・」


そしてタバコを取り出すと火を点け、旨そうに煙を吐いた。

ひとみは余韻に浸って目を潤ませている。

 

「本当・・・ステキだったわ。

唄が・・・。

詩がシンプルで、情熱的で・・・。

私、すごく好きになっちゃった。

ありがとう、こんないい所へ連れてきてくれて・・・」


「ほーか、そんなに気に入ってくれて、

俺もうれしいわ・・・」


二人は、しばらく黙って靴音をたてながら歩いていく。

ひとみの腕が、自然に青井の腕に滑り込んできた。


青井は一瞬ドキッとしたが、何も言わずに歩いている。

ホテル街のネオンが妙に艶かしく見える。


青井は戸惑いながら、大きな声で言った。


「あー、腹へったなー。

な、何・・・食おかー・・・?」

 

ひとみは青井の腕を強く抱きしめて、小さな声で言った。


「もう少し・・歩きたい・・・」


夜の8時の渋谷は、色んな世代の人達でごった返していた。

二人は何度か人にぶつかりながら、当てどもなく歩いていく。


ただ回りの喧噪は、二人の耳には届かなかった。


青井も戸惑いながらも、出来るならこのまま地の果てまでも歩いていたいと思った。

ひとみはずっとうつ向いたまま、しっかりと男の腕を抱いている。


向こうの方から、サラリーマン風の酔っ払いが二人を見つけて冷やかしてくる。


「ヒューヒュー、お二人さんいいねー。

失楽園かいー・・・?」


下卑た笑いを二人に浴びせてくる。

ひとみはその言葉にドキッとして青井を見た。


青井の戸惑った顔を見ると、みるみるうちに顔を赤くして泣き出しそうになった。

童顔のひとみと歳よりも老けた青井では不倫のカップルに見えるのだろう。


まさに、そうで。

青井には妻も子供もいるのだ。


ちょうどその時タクシーが通りかかり、客を下ろした。


反射的にひとみはそのタクシーに乗ると、自分の住所を告げた。

青井は慌ててドア越しにひとみを見たが、訴えるような潤んだ瞳に気づき、何も言えずただ呆然と見送るのだった。


タクシーはすぐ車の流れにのり、光の渦に消えていってしまった。

夕立が降った後の都会の街は涼しい風が吹き、所々にネオンの明るさに負けない星の光が見えていた。


男の腕に、女の温もりが残っている。

それがもどかしく、男の心をくすぐった。


夏の盛り、夜の事であった。


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