第9話 黒い感情

「おつかれっしたー」

「いつも言うけどだろ? まっいいや。おつかれ」


 今日も一日の営業を終え、バイトのあきらを見送ると、俺は店の2階へと上がった。すると、先に上がっていた蛍がパタパタと足音を立てながら迎えに来た。


「樹さん、おかえりなさい。お風呂沸かしたのでお先にどうぞ!」

「ありがとう」


 彼女の笑顔と日々の気遣いのおかげか、最近では“二人の生活も悪くないな”と思える余裕が出てきた。

 

 少し熱いくらいの湯舟に浸かると、一日の疲れがお湯に溶け出していく。どうせ今晩も何もないだろう……とは思いつつも、入念に身体を洗ってしまう自分自身が可笑しく感じられた。

 火照った身体を冷ましながらリビングに戻ると、突然蛍が俺の前に立った。

 

「樹さん、今晩お願いしてもいいですか……?」


 完全に油断していた俺は、『あぁ……』としか反応ができなかった。しかし、彼女には了承の意思が伝わったようで、『後で部屋に行きます』と言い残し、彼女は俺と交代で風呂に入りに行った。

 

 “いよいよだ”と思うと、ガラにもなく緊張してきた。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、蓋を勢いよく開けそれを一気に飲み干した。


 ベッドで横になっていると、ドアが開く音がして蛍が静かに部屋に入ってきた。彼女が『自分専用』と言って使っているシャンプーの香りが部屋中に充満し、その香水のような甘い香りで頭がクラクラする。


「樹さん、本当にいいんですね?」

「あぁ、もちろん……。お前こそ本当にいいんだな?」


 蛍は俺の首に腕を回すと、返事の代わりにキスをしてきた。風呂上りなのにも関わらず彼女の唇はとても冷たい。最初は様子見だったキスも段々と濃厚なものになっていく。


「んんっ……樹さん……」

「……っつ、蛍……」


 月夜の下、俺たちは激しく抱き合った。その行為はこれまで感じてきたものとは比べ物にならない。こんなにも快感を得られるのであれば、彼女にいくらでもエネルギーを吸い取られても構わないとまで思える程だ。

 そして俺は、蛍の本当の目的を知らないまま彼女の身体に溺れていくのだった。

 


 朝日が眩しくて俺は目を覚ました。腕の中では蛍が静かな寝息を立てて眠っている。間近で見る彼女の寝顔は“かつての恋人あかり”そのままだ。


「んん……、樹さん、おはようございます」

「おはよう、蛍」


 愛おしさが溢れ俺は蛍を抱き寄せた。そして、不思議そうに俺の顔を見上げる彼女の表情に目を細めた。


「さっ、今日も一日頑張るか」

「そうですね!」




 一度抱き合ってしまえば、二度目、三度目はあっという間だった。『蛍が求める時にだけ』なんて約束はとっくに反故にされ、時間さえあればお互いを求めあった。抱き合う回数が増える度、俺たちのキョリは縮まっていくように思えた。それは身体だけではなく、心のキョリも同じ。俺は自分が利用されていることを忘れ、彼女と過ごす時間に幸せを感じるようになっていった。

 



 そんなある日、いとこの美香が久しぶりに店にやって来た。彼女は蛍に会って以来ここに足を運ばなくなっていた。


「美香さん! なんで最近来てくれなかったんですか! 姿見せないから心配してたんですよ!?」


 美香の姿を見てあきらが思わず駆け寄った。しばらく会わない間に痩せた気がする。また不倫相手に振り回されたのだろうか……。

 彼女は店内を見回すと、少し安心した表情でカウンター席に座った。俺が淹れたコーヒーを一口飲む。すると、珍しく彼女の口から『美味しい』という素直な言葉が出てきた。

 

「樹さーん、エプロン取ってきましたよ」

「おっ、わりぃ!」

「もうっ! しっかりしてくださいよぉ!」


 俺は、人の目があることをすっかり忘れ、つい慣れた手つきで蛍の頭を撫でた。髪が揺れ一瞬彼女の首元が露わになった。彼女の首には独占欲の表れでもあるキスマークがくっきりと付けられている。そのことに美香は気づいてしまった。


「ねぇ、なんなのそれ!? ま、まさか……」


 美香が俺と蛍の顔を交互に見る。こういう時の“女の感”というのは恐ろしいもので、二人の間に流れる空気から俺たちの関係を察したようだ。


「私が一番近くで樹のことを見てきた。灯さんが死んだ時だって私が一番樹を支えてきた。ずっと穏やかに暮らしてたのに……。よりによってなんであんたなの……。なんであの人と同じ顔してんのよ……」


 苦悶の表情を浮かべた美香は蛍に詰め寄り、懇願した。


「小さい頃から好きなの。ねぇ、樹を返してよ」


 美香の気持ちにはずっと気づいてはいたが、俺はそれを見て見ぬ振りしてきた。そして、彼女とは身内である以上それに応える気もない。


「今までもこれからも、お前は俺の大事なだ。でも、それ以上になることはない。すまない……」


 美香は泣きながら店を出て行った。俺は決してその後を追わない。俺に代ってあきらが彼女を追って店を飛び出していった。

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