第8話 駆引き

「樹さん! 樹さ〜ん!!」


 大声で名前を呼ばれ俺はハッとした。皿を洗っていたはずの手は止まり、蛇口から水が出しっぱなしになっていた。慌てて水を止め、声がした方を向くと、バイトのあきらが呆れ顔でこちらを見ていた。


「今日はどうしたんっすか? なんか一日ぼーっとしてますよね?」

「そうか? 別に何でもない」


 いや、何でもなくはない。俺は一日中蛍への答えを考えていて、正直今日一日の出来事が記憶に残っていないほどだ……。

 

「なぁ、ものすっごい美女に突然『抱いてくれ』って頼まれたら、お前ならどうする?」

「なんすかそれ? まさか誰かに誘われてるとか!?」

「『も・し・も』の話だよ!」


「そうっすね〜。喜んでオッケーしたいとこですけど、好きな人に嫌われたくないんで、俺なら即断りますね」

「えっ!? お前、好きな人とかいたの?」

「えっ!? そりゃいますよ! 全然相手にされないですけどね〜」


 正直、こいつなら女なんて選び放題だと思っていた。かなりモテると噂の男が夢中になる相手か……。一体どれほどの女性か見てみたいものだ。

 そう思いながらあきらの方を横目で見ると、彼がニヤニヤと意味ありげな顔でこちらを眺めていたので、俺は少しイラっとした。


「まっ、も・し・もの話だから……忘れてくれ」


 俺が愛している人はすでにこの世にはいないし、別に蛍のことも嫌いではない……。そして俺は過去の後悔から、彼女に何かしてあげたいと思っている。要するに断る理由がないことに気づく。

 自分の心が決まってしまうと、今度は一刻も早く彼女に答えを告げたくなり、俺は急いで店を閉めて彼女の部屋へと向かった。



 コンコン……


 蛍の部屋のドアをノックすると、中から彼女の返事が聞こえた。

 俺は扉を開けて部屋の中へ入る。すると、彼女の部屋は電気が消えたままで、窓から差し込む月明りに照らされた蛍がベッドの上に腰かけていた。月明りなのか、それとも彼女自身が放っているのか区別がつかない妖しい光に惹き込まれそうになるのをグッと堪えた。


「樹さん、決まりましたか?」


 彼女は、その穏やかな口調に反して挑戦的な目で俺のことを見ている。


「あぁ、決まったよ。俺がお前の餌になってやる。ただし、俺はその辺の男みたいに自分の欲望だけでお前を抱くことはしない。お前が“必要だ”と求めた時にだけ抱くことにする。それでもいいか?」


 蛍は俺の答えを聞くと、満足げに『ありがとうございます』とお礼を言った。


「それを聞いて安心しました。じゃ、私もう寝ますので」


 そう言うと、彼女はベッドに横になろうとした。


「えっ……? 今日はいいのか?」

「えぇ、大丈夫です。じゃ、おやすみなさい」

「あ、あぁ……、おやすみ……」


 俺は彼女の意外な返答に拍子抜けしてしまった。それと同時に、答えを告げればすぐにでもそんな雰囲気になるかと思い、急いでシャワーを浴び、入念に歯を磨いた自分が恥ずかしくなった。




 その後、何事もなく数日経過した。あれほど積極的だったのにも関わらず、蛍は一向に俺を求めてこない。普段通り一緒に食事をし、普段通り一緒にお店に立ち、たまに一緒に散歩をする……。あまりにも変化のない日常が続くので、俺は段々ともどかしさを感じてきた。


 “自分の欲望では抱かない”と宣言したものの、時たま誘惑に負けて思い切り彼女を抱きたい衝動に駆られる。このままでは彼女のエネルギー切れを待たずして俺の方が我慢の限界を向かえそうだ……。

 そして、俺は今夜も一人悶々としながらベッドで横になった。



 一方、蛍も自分の部屋で横になっているが、その様子は息も荒く苦しそうだ。


 ヤバい……そろそろ限界かも……。

 仕方がない。もう少し粘りたかったけど、彼を溺れさせるにはもう十分だろう。


 ……灯さん、もう少し待っててね。もうすぐしたら樹に会わせてあげるから。

 …………そっちの世界でね。

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