第二十二話 最期の告白

手に持った琥珀糖に、確かな手応えを感じる。


 大きな口を開き、二人に向かって突進してくる饕餮に向かって、雪蓉は勢いよく手を振りかぶった。


「私の渾身の一品、いただきなさい!」


 雪蓉は、琥珀糖を饕餮の口に向かって投げた。


なにしろ人間の体よりも大きい口である、外すということはあり得ない。饕餮の口の中に入った琥珀糖は、溢れんばかりの光を放つ。


 饕餮も、自分の口に入ったものはなんだと驚き、足を止めた。


そして、口を閉じて琥珀糖を飲み込む。饕餮の体の中に入った琥珀糖は、饕餮の内側から淡く輝き、そして、光を失った。


 琥珀糖を食べた饕餮は、急に大人しくなり、眠そうに大あくびをすると、そのまま床に体を丸めた。


 劉赫と雪蓉は、黙って饕餮を見守るように見つめ続けた。そしてついに、饕餮は大きないびきをかいて眠り込んだ。


「よっし!」


 雪蓉は、饕餮が起きないように、控えめな声で、けれど力強く胸の前で拳を握った。


 対して劉赫は、ああやってしまったと至極残念そうな顔を浮かべている。その表情を見て、雪蓉はとても不満そうだ。


「助かったんだから、もう少し嬉しそうな顔をしなさいよ」


「まったく手放しで喜べん……」


 劉赫は深く落ち込んでいた。嫌がる雪蓉を無理やり後宮に連れてきたにも関わらず、一番懸念していた事態に陥ってしまった。しかも、原因は劉赫本人である。


 もしも連れてこなければ、雪蓉は仙になっていなかったとかもしれないと思うと、色々と思うところがあるのである。


「まあとりあえず、私たちも外に出ましょう。饕餮がいつ起きるか分からないし」


「そうだな」


 その点については賛成だ。安心しきるのはまだ早い。仙が戻り、眠っている饕餮の周りに結界を張らないと終わったことにはならない。


「おぶって扉まで連れて行くわ」


「いや、それはいい」


「なんでよ」


「その仕事は男に頼む」


「さっきは大人しく私の背に乗っかったじゃない」


「緊急度が違うだろ。女に運ばれるなんて、男の矜持を考えろ」


 面倒くさい奴だなーと思いつつ、劉赫の意思を尊重して、一人で扉の前に向かった。


 そして、「もう安全なので開けてくださーい」と言うと、分厚い扉がギギギと音を立てて開いた。


 門番が扉を開くと、真正面にいたのは意外な人物だった。


「華延様……?」


 どうしてここに、というのが、雪蓉が最初に思った言葉だった。


 劉赫の母、華延は、落ち着いた藍色の上襦を羽織り、口を真一文字にして立っていた。


 側女もつけず、たった一人でこの場にいることに、雪蓉は少し不思議に思った。


けれど、華延と話しをしたことがあったので、彼女がおっとりとした性格で、子供思いの良き母親だということは知っている。


恐らく劉赫を心配し、駆けつけたのだろうと思った。 


 華延は、劉赫を傷つけてしまったことを気に病んでいた。母として、息子の危機は、後宮でじっとしていられないほど切迫した不安事だったのだろう。


 雪蓉は、不審がることなく、むしろ微笑ましい気持ちで華延を見つめた。


 華延が、心配して駆けつけたと知ったら、劉赫は喜ぶに違いないと思った。表向きは、気恥ずかしくて、ぶっきら棒に相対するとしてもだ。


 華延は、雪蓉に一言も声を掛けることなく、大廟堂の中に進んでいった。


 饕餮は眠っているとはいえ、まだ危険なことに変わりないので止めようか迷ったが、それよりも親子の久しぶりの対面に水を差したくない。


 雪蓉は扉の前で、華延の後ろ姿を見守った。


 華延は真っ直ぐに劉赫の前に行き、起き上がることすらできずにいる息子を、無表情で見下ろした。


「母上……」


 劉赫は戸惑いながら、華延を見上げた。何しろ十四年ぶりの再会である。


 何を言ったらいいのか、突然の登場に動揺を隠せない。


「大きくなったわね」


 華延は、小さな声で言った。顔は、相変わらず無表情のままだが、言葉には哀愁が漂っていた。


 母上は、お変わりなく……と言った方が女性にとっては嬉しいだろうと思いつつも、顔に刻まれた皺や年月を感じる悠揚たる雰囲気に、十四年の歳月を感じた。


「母上……あの……」


 告げたい言葉は山ほどある。兄上を見殺しにして申しありませんでしたという謝罪の言葉を言わなければいけないと思うし、息災ですか? と近況も聞きたい。


 まずは、どの言葉を言おうかと逡巡していると、華延が先に口を開いた。


「これで、終わりにしましょう、劉赫」


 華延の瞳が、紅く光った。そして、懐から短剣を取り出し、迷うことなく劉赫の胸に突き立てた。


 あまりに予想だにしない、一瞬の出来事だったので、雪蓉は一歩も動くことができなかった。


手足を動かすことすらできない今の劉赫に、逃げることなど不可能だった。


「母……上……」


 劉赫を刺した華延は、本懐を遂げたことで、意識を失って横に倒れた。


それと同時に、華延が握っていた短剣も、カラカラカラと音を立てて床に転がる。


切っ先には、確かに血がついている。


「劉赫!」


 血相を変えた雪蓉が、走ってくる。


劉赫は、自分の胸から熱い血が流れるのを見て、刺されたのだと実感した。それも、実の母親に。


「大丈夫⁉」


 雪蓉は、倒れた華延を一切無視して、劉赫の胸から溢れてくる血を手で押さえた。


「あー、今度こそ駄目だろうな」


 劉赫は、まるで他人事のように淡々と言った。


 自分を殺したのは、神龍でも饕餮でもなく、実の母親という現実に、なぜか笑いが込み上げてくる。


大好きだった母、優しかった母。その母に殺されるとは、なんという巡り合わせか。


(死に方としては……最悪だな)


 恐れられていたことは知っていた。


けれど、殺したいほど恨まれていたとは知らなかった。唯一生き残り、体に神龍を宿した劉赫のことがよほど許せなかったのだろう。


 ただ、守りたかっただけなのに。やりたくもない皇帝となり、この国を守るために自分を犠牲にしてきた。


 この国の中には、もちろん母も含まれる。劉赫の顔を見て、恐怖に怯えた母でさえも、守りたかったのだ。それなのに……。


 全てを犠牲にしてきて、最後はこれかと思うと、悲しみや怒りを通り越して笑いたくなる。


自分の人生とは何だったのか。つくづく思う。あの時、兄上と一緒に死んでいれば良かった。


「しっかりしなさいよ! あんたが諦めたら、本当に……」


 その先は言葉にできなかった。言葉にしてしまったら、本当にそうなってしまう気がしたからだ。


 どうして華延は劉赫を刺したのだろう。


四凶を解き放ち、劉赫の身を危険にし、衛兵に仙術を用い操った黒幕の正体は、華延だったのだろうか。


そういえば、仙術で操られた衛兵は、後宮の警備にあたる右玉鈐衛の者たちだった。


 華延が黒幕なら、なぜ彼らだったのか謎が解ける。


「雪蓉、死ぬ前に伝えたいことがあるんだ」


 劉赫は薄れそうになる意識の中で言った。劉赫はだいぶ弱っていた。体も心も、もう変な意地を張る気力もないくらい弱りきっていた。


「死ぬとか、縁起でもないこと言わないで!」


 雪蓉も動揺していた。もしも劉赫が死んでしまったら、それは自分の落ち度である。


側にいながら、みすみす刺されるところを見ていたのである。悔やんでも、悔やみきれない。


「雪蓉、好きだ」


 雪蓉は、劉赫の想像通りに驚き、固まった。その様子を見て、劉赫は満足そうに笑みを浮かべた。


「その顔が……見たかったんだ」


「なっ! こんな時に冗談やめてよ!」


「冗談なんかじゃない。料理人にはせず、後宮に入れたのは、雪蓉のことが好きだったからだ」


「え……ちょ、待っ……」


 雪蓉は分かりやすいほど、うろたえていた。


冗談と思うには、劉赫の目が真面目すぎるし、こんな時にこんな嘘を言うわけがない。


「雪蓉の料理は、最高に美味しかった。ありがとう」


「やだ、やめて……」


 雪蓉は泣きそうになった。これでは本当に、最期の別れみたいではないか。


 なんでいつも素直じゃない奴が、こんな時に限って素直なのよ。


美味しい? と聞いたら恥ずかしそうに頷くだけで、言葉に出して気持ちを伝えてきたことなんて、今まで一度もなかったじゃない……。


 劉赫は、目を閉じた。最悪な死に方だと思ったが、好きな女に看取られるのは悪くない死に方だと思った。


 雪蓉に会えて良かった。


十四年前から、時が止まったように、楽しいことなんて一つもなかったが、雪蓉と一緒にいる時は心から楽しかった。


好きだと伝えられて良かった……。


「劉赫? ……劉赫っ!」


 意識を手放した劉赫に、必死で雪蓉が名前を叫ぶ。


しかし、劉赫は目覚めない。


 出会って間もないし、怒ってばかりいた。


でも、嫌いにはなれなかった。なんだかんだで気になるし、知れば知るほど、放っておけなくなった。


 劉赫の死を前にして、いつの間にか自分の中で劉赫の存在がとても大きくなっていたのだと知った。


それは、皇帝だからとかではなく、一人の友として……男として、劉赫の存在は大切なものになっていた。


(どうして今更、それに気が付くのよ……)


 涙が込み上げる。


好きだと告げて死んでいく男の顔を見ながら、それってずるいんじゃないの? と非難の気持ちが湧き上がる。


私の気持ちはどうなるのよ。


ねえ、劉赫……。

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