第二十一話 仙の代償

饕餮の体が、ピクリと動いた。


 すぐに二人は気が付き、辺りに緊張感が走る。


 饕餮がもぞもぞと動き出した。まだ立ち上がってはいないが、意識を取り戻したようだ。


「仙、頼みがある」


 大廟堂の扉の前で二人の様子を見ていた仙に向かって、劉赫が声を掛ける。


「何用ぞ?」


「饕餮を鎮めることはできるか?」


「それができたらとっくにやっておる。わしができるのは饕餮の腹を満たすこと。怒りを鎮める力はわしの仙術にはない」


「そうか。では、宝玉を聖堂の中から持ってきてほしい。そこに戻っているはずだ」


「……承知した。わしが戻るまで、死ぬでないぞ」


「努力はする」


 そして、仙は一瞬で姿が見えなくなった。


 二人のやりとりを聞いていた雪蓉は、意味が分からない。


「宝玉が聖堂に? 宝玉はこの世に二つとない物ではなかったの?」


「神龍が俺の体に宿る時、宝玉は聖堂に戻るのだ」


 どうやら、神龍が持つと凶暴になる宝玉は、自らの意思で聖堂に瞬く間に戻っていけるらしい。不可思議なことだが、一応は理解した。


「聖堂はここから近いの?」


「普通の人間が走って戻るのに、一時間はかかるな」


「一時間⁉ どうやって時間稼ぎするの⁉ 饕餮はもう起き上がりそうよ!」


「だから仙に頼んだ。そもそも聖堂は普通の人間が入れる場所じゃない。それよりも……」


 劉赫は、ふらふらよろめきながら立ち上がろうとしている饕餮を睨み付けて言った。


「俺を抱えて、扉まで走れるか? とりあえず宝玉が戻るまで、饕餮を大廟堂の中に閉じ込めておく」


「それはできるけど……」


 宝玉を手にしたら、再び神龍を解き放つつもりなのだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。


この体で再び神龍を出せば、今度こそ生き延びることはできないだろう。


 迷っている雪蓉に、劉赫が焦ったように大きな声を出した。


「早く! 思っていたより回復が早い!」


 雪蓉は、ハッとして饕餮を見た。饕餮は立ち上がったが、まだ足に力が入らないようで、よろめいている。


 雪蓉は一旦考えるのを止め、劉赫を背におぶって走ろうと身構えた。その時、饕餮が、雪蓉と劉赫の存在に気が付いた。


 雪蓉と饕餮は、目が合った。やばい、と思った瞬間、ふらふらしていた饕餮が大きな口を開けて襲い掛かってきた。


 喰われる! と思った刹那に、雪蓉の体が動いた。


劉赫をおぶったまま間一髪のところで避けると、獲物を捕らえ損ねた饕餮は頭から壁にぶつかった。


「あ、危なかった……」


 息を切らしながら、壁に衝突して動けないでいる饕餮を見る。衝撃は大きそうだが、気絶はしていない。また襲い掛かってくるだろう。


 雪蓉は、扉を見た。さきほどの動きで、扉は遠くなり、饕餮の横を走らなければ辿り着けない。


 雪蓉と劉赫よりも、饕餮の方が扉に近い。最悪の結果を想像し、雪蓉は覚悟を決めた。


「扉を閉めて!」


 饕餮が起き上がったことに恐怖を感じていた門番は、躊躇うことなく扉を閉めた。


「何を!」


 焦ったのは劉赫である。自分一人が取り残されるならまだしも、雪蓉も閉じ込められる形となってしまった。


「お前は……自分が何をしたのか分かっているのか⁉」


 劉赫の怒声は、自分の身が危険になったことに対してではない。雪蓉の命が危うくなったことに、心底怒っているのである。


「私に、あなたを扉の外まで投げられるほどの力があれば良かったと心底悔やんでいるわよ。もっと体を鍛えておけばよかった」


 成人男性を背におぶり、動けるほどの怪力を持ちながら、雪蓉は本気で悔しがっていた。


 そこじゃない、と劉赫は思いながらも、もう起こってしまったことは取り返しがつかないので、奥歯を噛みしめ切り替えることにした。


(考えろ、考えるんだ。雪蓉だけでも助かる方法を……)


「とにかく俺を下ろせ! もう必要ないだろ!」


 苛々しながら劉赫は言った。


好きな女に身を預けるという屈辱極まりない状況だったが、助かるために、というか、助けるために仕方なくおぶさっていたのである。一刻も早く下りたい。


 雪蓉も、身軽になった方が饕餮と戦えると思ったので、劉赫を下ろしてやった。


「くそ……なんで動かないんだ」


 足どころか手も動かない。これでは雪蓉を守ろうにも守れない。絶体絶命だ。


 雪蓉は、どうやったら饕餮に勝てるか頭の中で戦い方を想像した。


平低鍋は、もう必要ないだろうと思って置いてきてしまった。素手で勝てる相手でもないだろう。


かといって、黙って食べられるわけにもいかない。


「あの子は、お腹が空いているのよ」


 雪蓉が、あの子と饕餮を呼んだので、劉赫は渋面を作った。


敵対する相手をあの子と呼ぶのはいかがなものだろうか。


それに饕餮は、可愛いと思えるところが一つもない。


「それはそうだろう。饕餮は満腹を知らない」


「いいえ、私たちが作り、仙の術がかかったものを食べれば、饕餮は満足して眠りに落ちるの」


「だが、仙が言うには饕餮は怒っていると言っていた。怒りを鎮めて腹を満たさなければいけない。それにそもそも食べ物もない」


「そうね……」


 劉赫は、雪蓉が何を考えているのか分からなかった。こんな会話は意味のないものだ。それよりも、雪蓉だけでも助かる方法を考えなければいけない。


 雪蓉は、必死に頭を巡らせていた。饕餮は、食べ物の量で満足するのではない。


仙が心を込め丁寧に作ったものなら、少量でも満足し眠りに落ちるという。


 少量でも……例えば、小さな飴玉程度でも。


「……あっ!」


 雪蓉は急に思い出した。


 あるではないか。手作りのものが。心を込めて丁寧に作った琥珀糖が。


 雪蓉は懐から琥珀糖を取り出した。常に持ち歩いているこの砂糖菓子。これ一つで、本当に満足するのか。そもそも雪蓉は仙ではない。


「この琥珀糖に、全てを賭けるしかなさそうね」


 劉赫は怪訝な目で、雪蓉が摘まみ上げている宝石のように輝く琥珀糖を見つめた。


「何をする気だ?」


「仙になる。今ここで」


「はっ⁉」


 予想外の言葉に、劉赫は心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。


 そんなことできるはずが……と思うが、雪蓉の顔がいつになく本気で、体から殺気のようなものが溢れ出ている。


 雪蓉は琥珀糖を手の平に置き、瞼を閉じた。


一点に集中し、仙術を生み出そうとしているのが分かる。そして、何かが起こりそうな予感が、確かにした。


「駄目だ! 雪蓉! 仙になるな!」


「静かにしていて! 集中できない! 何か体の奥から溢れそうなのよ!」


「雪蓉! 俺の話を聞け!」


 劉赫は体から全力で声を振り絞った。


 あまりに鬼気迫る言い方に、雪蓉は軽く目を開けた。


「……仙になったら、人間ではなくなる」


 劉赫は、苦渋の思いで真実を告げた。


「どういうこと?」


 荒唐無稽な話をしているのではないことは、劉赫の真剣な面持ちから察することができた。


「仙は一つの能力を極める代わりに、命を失う。そして、望んだ能力以外に対する執着をなくす。人間の心さえも消えていくんだ」


「え、じゃあ、仙婆は……?」


「人間じゃない。お前も見ただろう、あの身のこなしを」


 確かに、人間とは思えない速さだった。老婆の見た目で、あの動き……。常人ではないと思っていたけど、人間ではないなんて。


 仙になることが夢だった。今では夢というよりも目標に近いほど、手が届きそうな存在となっている。


 ずっと憧れ続けてきた仙が、命を失う代わりの代償だったなんて。


「でも、命を失っても死ぬわけじゃないでしょ」


「人間の雪蓉は死ぬ。感情や記憶がなくなっていくんだ。大切な記憶も、人を思いやる感情もなくなる。残るのはお前じゃない。雪蓉の体をした魔物だ」


 雪蓉は、自分の中の大切なものが壊れていくようで、カタカタと小刻みに震え出した。


 真っ青になっている雪蓉に、劉赫は諭すように告げる。


「仙になるな、雪蓉」


 劉赫の真剣な眼差しに、雪蓉の心が揺れる。


 仙になることは、命を捨てること。でも……。


「……あんたを救うためには、仙になるしかないのよ」


 雪蓉は、覚悟を決めた声で、静かに力強く言った。


 劉赫は、ハッとする。雪蓉の新たな強い意思を感じて青ざめた。


「駄目だ、雪蓉!」


 劉赫の悲痛なまでの叫びは、雪蓉の心には届かない。


 劉赫を守るために、仙になる。


 このまま黙って二人とも死ぬくらいなら、人間ではないものになったとしても構わない。


 雪蓉の強い意思に反応し、琥珀糖が内側からぼんやりと光り出した。


 その時、壁に衝突して動けずにいた饕餮が立ち上がり、頭を左右に振った。そして、ゆっくりと振り返り、劉赫と雪蓉を瞳に捕らえた。


(仙の力を……私に!)


 雪蓉は強く願った。


(怒りを鎮める力を私に……!)


渾身の力を内部から引き出し、小さな琥珀糖にぶつける。


 すると雪蓉の体から風が吹き、突風となって辺りを包み込んだ。そして、風が消えると、琥珀糖は神々しい光を放っている。


(仙術が、宿った!)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る