43:いにしえの刻、泉の畔にて

 これは、〈鏡の悪魔〉がまだ悪魔と呼ばれるようになる前のこと。


 この地にオリスルト王国が興るより前の遥かな昔。

 ユースティリスという当時栄華を極めた古代国家が、危急存亡の危機からどうにか脱し、人々が復興に向けて新たな活力をみなぎらせていた、ある初夏の記憶である。


 荘厳な寺院の裏手にある泉のほとりに、一人の若い女性が佇んでいた。

 美しい衣服に身を包む姿は、ひと目で高貴な素性だと窺い知れる。

 彼女は澄んだ泉の水面を水鏡として髪型を整えているようだ。

 額に掛かる髪の毛を、どちら向きに分けるかで随分悩んでいるように見えた。


 不意に水面みなもに波紋が立ち、それが収まると、そこにいつの間にか黒く小さな人型が映り込んでいた。

 女性の肩口に腰掛けるようにして水面からこちらを覗き返している。


「まあっ、貴方。突然、驚かさないで」

「自分の姿を見るならよォ、〈俺様〉を使えばいいじゃねェか。なんでわざわざこんな場所に?」


 女性は表情を緩め、水面の影に向かって微笑む。


「貴方はこの国の大切な神様よ? そんな日用使いのような真似をしたら私が怒られてしまうわ」

「神様ァ? 一体いつの間にそんなことになったァ?」


「貴方が助けてくれたお陰で、この国の多くの人の命が救われたのよ。いくら感謝してもしきれないくらい。だから、おまつりするの。

 これから、何百人……いいえ、何千人という人々が貴方にお礼を言いに訪れることになるわ。これでずっとずーっと、退屈しなくて済むわね」


 黒く小さな人型が〈俺様〉と呼んだ青銅の鏡は、彼女たちの背後に建つ寺院の祭殿に、恭しく飾られていた。

 ユースティリスの一大事を救うため、彼女が見出し、すがった、神秘の法具であったが、その力が広く認められたからには、もはや彼女一人の思惑で取り扱える代物ではなくなってしまったのだった。


「よく分かんねェなァ。俺様は、できるからやっただけだぜ? お前に言われたとおりのことを。だから、人間が感謝する相手は、人間のお前なんじゃないのか?」

「私はただの妃だもの。王や王子を差し置いて崇められては困ったことになってしまう。だから、お願い。貴方が代わりに皆の感謝の気持ちを受け取ってあげて?」


 女性の言葉を聞いて、水面に映った小人は彼女の肩からフワリと飛んで離れる。

 まるで彼女からの視線に戸惑うように、彼女の目から自身の姿を隠そうとするように、彼女の周りをくるくると飛び回る。

 だが、決して飛び去りはしない。声の届く距離をひとしきり飛び回り、やがて彼女の耳の後ろで止まると、そこで呟くように言った。


「俺様は、人に憑り付くことでしか力を出せねェ。今はお前に憑いてるが、人はすぐに死んじまうだろゥ? お前が死んだ後はどうしたらいい?」

「まぁっ、随分先のことを心配するのね。大丈夫。今、偉い人達が考えてくださっているから。決まったら、その後のことをお願いするわ。あとそれと、憑り付くって言い方はおやめなさい。貴方はこの国の護り神なのですから」


「お前の、前の女……。それと、その前の前の女もそう言ってたんだぜ? 呪いだってよゥ。憑り付かれてしまったーって、ピーピー泣いてやがった」

「どう受け取るのかは、そのかた次第です。でも私は、貴方はきっと人間を祝福するために生み出されたのだと思いますよ? 呪いなどではなく、その者を守護しているのです。創造主のかたに、そのように言い付けられませんでしたか?」


 そうだっただろうか、と考えに耽りながら、黒く小さな人型は水面からスッと姿を消した。


 ──あの頃、意識が芽生えたばかりの頃は、よく物事を考えられなかった。

 自分には人間にはできない強大な力を振るうことができると知っていたが、その力を無制限に使うことはできないと教えられた気がする。

 人の為にあれと、お前は決して人を害することができないのだと、強い調子で何度も何度もそのように教え聞かされたような記憶が微かにあった。

 遠く、おぼろげな記憶だ。

 あれから色々な人間を見てきた。

 憑り付いた──彼女に言わせれば守護に選んだ──人間を通し、自分に何ができて何ができないのかを少しずつ学ぶうち、この女と出会った。

 このような女は珍しい。

 人間にとって恐ろしい見た目をしているらしい自分のことを恐れず、見下さず、まるで人間と同じように扱って話す人間。

 人間に対し、初めて好意と呼べるような感情を抱いたのは、この女が初めてであったかもしれない。

 できることなら、ずっと一緒にいて、話をしていたいと思う。

 だが人間は短命だ。

 どうすればそれが叶うだろうか。

 当時の彼は、その執着を叶えるすべを知らなかった──。


 鏡の守護精霊が水面から姿を消したのを見ると、その行方を探すこともなく、ユースティリスの乙女は泉の畔を離れ、寺院に向かって歩きだした。

 彼女はすでに気紛れな彼の性分をすっかり理解していたからである。


 彼女はこれから、久しぶりに暇を見つけて会いに来てくれた婚約者の王子と会う約束をしていた。

 混乱していた国内もようやく落ち着きを取り戻し、二人が正式に結ばれる日も近い。

 その、浮き立つ心のように軽く弾んでいた歩調が不意に乱れた。

 立ち止まり、しゃがんで、苦しそうに咳き込む。

 どうにか咳が治まり、口に当てていた手を開いて見たとき、そこには、鮮やかな赤色の血痰けったんが、ベットリと付着していた。

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