44:お人好しの令嬢と、約束を破れない悪魔と

「お願い、助けて!」


 わたしの腕を引っ張る悪魔の手を、わたしはもう片方の手で握って懸命に訴える。


 今やわたしの身体は鏡の悪魔とほとんど同じ背丈に縮んでしまっていた。

 そのせいで、わたしが鏡を落としたときに立っていたはずの沼の岸辺が、絶望するほど遠くに見える。

 こんなことになるなら、あんなに精一杯腕を伸ばさなければよかった。


「大丈夫、死にはしねェよ。泥に見えるが、こりゃあ実体じゃねェ。なにせ鏡の中だからな」


 やっぱりそうか。

 また鏡の中に引き摺りこまれたんだ。

 わたしはちゃんと約束を守ったのに!


「う、嘘つき!」


 そう叫んだ瞬間、わたしの腕をつかむ悪魔の力が弱まったように感じた。

 わたしはここぞとばかりに悪魔の手を振り解き、両手を無茶苦茶にバタつかせ悪魔の顔や身体をぶった。


「フフェフェッ、痛ェ……、痛ェなァ……」


 抵抗もせず、弱々しくぶたれるままになる悪魔に対し、わたしは罪悪感を覚えてしまう。

 こんな状況なのに、こんな奴なのに……!


「どう……して……?」

「……すまねェな……」


 泥はすでにわたしの胸の辺りまで迫っていた。

 懸命に踏ん張って脚を持ち上げようとしても身体全体が沈んでいくのを止められない。


「この沼に沈んで……、光が完全に塞がれても、意識を無くすまでには相当長い時間がかかるのさァ……。退屈で退屈で、気が狂いそうになるんだ。もうあんなのは嫌でよォ。だから、それまでの間、ちっとォ話し相手に……。お前なら……、お前がいれば気が紛れるんじゃないかと……」


 わたしの喉から悲鳴のような息が漏れた。

 声が出せなくなったのは、こんな恐ろしいことを言う悪魔の顔が、吊り上がった眼が、とても悲しげに見えたからだった。

 そんな場合ではないのに、深い絶望と悲哀を真正面に受け止めて同情してしまった。

 理不尽な仕打ちをした悪魔に対する怒りはどこかへ行き、どうにもならないという絶望感がわたしから抵抗する力を奪った。


「そんな……、でも……、でもわたし、困る……。困るわ……」


 首を下に曲げ、くらい泥沼の底を覗き込んだとき、脳裏をよぎったのは、優しく笑うミハイル様のお顔だった。


 これでお別れなの?

 こんな心残りをするのなら、きちんと言葉にしてお伝えしておけば良かった。

 周りの人々の期待や、分別を聞き分けさせる自分自身の声など関係なく、ミハイル様のご決心だって関係なく……。

 ただ正直に、わたしがお慕いしている人に、わたしの気持ちを、愛していますと……。


 ミハイル様……。

 ミハイル様。ミハイル様!

 沼の泥水が口元を覆い、わたしは反射的に息を詰める。

 陽の光を求めて懸命に手を上に伸ばす。

 視界が……塞がれる──。


 その間際、ズイと上に引っ張り上げられる力を感じた。

 フワリと宙に浮き上がるような奇妙な感覚。

 視界が物凄い勢いでクルクルと回って定まらない。

 何がどうなったのか分からなかった。

 気付くとわたしは、泥沼の側にある草の上に立っていた。

 といっても、今は身体が縮んでいるせいで、その草はわたしの背丈よりも高く繁って見える。


 ……助かったの?


 振り返ると、そこには大きな鏡がそびえ立っていた。

 わたしが泥沼に沈めたはずのあの鏡だ。

 ピカピカに磨かれてあった鏡面は、今は八割がた泥で塞がれてしまっている。


「ノイン。水だ。水筒の水を垂らして鏡を拭くんだ」

「えっ、はっ、はい」


 この声? ミハイル様⁉


 鏡がゴロリと上向きに倒される。

 また視界が揺れる。

 気付くとわたしは鏡の中から空を見上げていた。

 大量のしずくゆがんだ鏡面にノイン君とミハイル様のお顔が映る。

 ミハイル様が袖口で鏡の上の水気を拭き取ると、その歪みが消え視界がはっきりした。


「ミハイル様!」

「無事か⁉ アシュリー!」


「ええっ! 一体どうなってるんすか、コレ⁉ 鏡の中にアシュリー様が?」


 鏡の向こうからもこちらが見えてるんだ。

 それは良かった。でも、これからどうしたらいいの?


「おい、お前! アシュリーをそこから出せ! 今すぐ!」


 ミハイル様が見たこともない険しいお顔で怒鳴る。

 わたしが振り返ると、背後にはあの悪魔が立っていた。


 ……立って?

 いえ、確かに座ったり倒れこんだりはしていないんだけど、辛うじてそうならないようにしているだけだわ。

 膝に手を突き、姿勢をどうにか支え……。

 理由は分からないけど、彼が衰弱しているのは明らかだった。


「ミハイル様……、危険です。この鏡にお姿を映さないようにしてください。ミハイル様まで中に引き摺り込まれてしまうかもしれません」

「その方が何倍もマシだ。側にいて、君のことを守れるのなら!」


 わたしたちは鏡面を境にして、互いに手を合わせて見つめ合った。

 わたしの方は手の平で。ミハイル様の方は指の先で。


「おい、悪魔。俺を中に入れろ! そっちへ行ってお前をぶった斬ってやる!」

「……へッ……、誰も彼も鏡の中に引きずり込むとか、そんな都合良くできたら世話がねェって話よ……」


 やはり衰弱している。

 憎まれ口を叩くその声も弱々しく震えていたし、それに、いっときの疲労ではなく、彼の力はどんどん弱っていくように見えた。

 悪魔はついに身体を支えられなくなり、その場にバタリと倒れ込む。


「……どうして、なの?」

「……ふんッ……」


 悪魔は精一杯の虚勢を張り、わたしの問い掛けを鼻で笑うと、僅かに身体を起こして片手を上げた。


 その瞬間、全てが元通りになった。


「きゃっ!」


 わたしは突然鏡の外に押し出され、ミハイル様のお身体に向かって倒れ込んでいた。

 わたしの体重を受け止めても微動だにしないガッシリとした体幹。

 硬く力強い筋肉を肌身に感じ、わたしは心の底から安堵する。


 ……戻って来られたのだ!

 互いに触れ合うことのできる確かな事実に感謝し、わたしは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 ミハイル様の両腕がわたしの背中に周り、しっかりと抱き締める。

 彼の温もりが、触れ合う肌を通してゆっくりと伝わってきた。


「アシュリー……、すまない。この鏡が元凶であることは聞いていたのに、安易に君を一人にしてしまった」

「いいえ、ミハイル様。わたしが悪いのです。悪魔にそそのかされて、わたし……」


 それに、ミハイル様はわたしの危機を察してこうして助けに来てくれたではありませんか。

 そう言って、感謝を述べようとしたけれど、抱き締められた幸福感で言葉が詰まり、それ以上は話すことができなくなった。


 そんなわたしたち二人の時間に割って入ったのは、側で身を持て余したノイン君だった。


「あのー、すみません、団長。そのー、この鏡、危ない物なら早いところ処分しなくて大丈夫ですか? またそこの沼に沈めるとか。それとも、このまま叩き割っちゃいます?」


 そうだった。あの悪魔。どうなったの?

 わたしはミハイル様の腕の中から這い出ると、草の上に捨て置かれていた鏡を覗き込んだ。


「お、おい」


 またわたしが中に引きずり込まれないかと心配したのだろう。ミハイル様が後ろからわたしの手を握って引き留めた。


「大丈夫です。多分……」


 外から見る鏡は、もはや鏡の性質を為していなかった。

 それは外の世界を映すことなく、中には不思議な青い色合いの水面が果てしなく広がっていた。

 その中にポツンと黒い染みのように、あの悪魔が横たわっている。


「どうしてなのです? 何故、そんな衰弱を?」

「……フェフェッ、天罰……かもなァ。魔が差した。魔が差したんだ。俺様、悪魔らしいのによォ」


「天罰……?」

「嘘ばっかり吐いても許される人間とは違ってなァ。俺様ァ、約束を破れないようにできてるんだ。破れないようにできてる……。そうだとばかり、思ってたんだが……」


 約束……。

 そうだ。わたしはあのとき、この悪魔に向かって確かに言った。

 〈嘘つき〉……と。


 この悪魔から急に力が失われたように感じたのはそのときだった。

 裏切られた──約束を破られたと、そう思ったときだ。

 わたしには詳しい仕組みは到底分からないけど、想像を働かせるに、悪魔は誓約のようなものに縛られていて、それは人間との約束を破ることがトリガーだったのだろう。

 いま目の前で悪魔に起きている状況が、その結果なのだ。


「死んじゃうの? 貴方……」

「へッ、できねェと思ってたことでも、意外に何とかなることもあるんだなァ。人間みたいに、自分で死んじまうことはできなくても、こんな方法が、あったとは……」

「待て! アシュリーに掛けた呪いを解いていけ。くたばるのはその後だ」


 今にも息絶えそうになっている悪魔をミハイル様が叱責する。

 悪魔はもう一度こちらに顔を向け、片手を上げた。


「……駄目だ……。もう、力がねェ」


 そう言って悪魔はポトリと腕を落とした。

 わたしは自分の顔を覆っていた手をどけ、その手をジッと見つめる。


 知らぬ間に、手の平はぐっしょりと濡れていた。

 何故自分が泣いているのか分からない。

 こんな意地悪で、何を考えているかも分からない、不気味な悪魔のために涙を流すなんて、全然、意味が分からない。

 あんな酷いことをされたのに。それに、この悪魔にとって、死は救済であるはず。喜ばしい結果であるはずなのに。


「すまねェな。お前には最初から、悪気はなかったんだよなァ。ただ、馬鹿正直で、疑うことを知らない、根っからのお人好しな……」

「いいえ、赦すわ。貴方のことを赦します。だって、全然困らなかったもの。貴方のヘンテコな呪いのせいで、逆に大助かりだった。だから、気にしないで──」


 ──安らかな気持ちでって……。

 言葉が詰まってその先は言えなかった。

 水面にうつ伏せになっているせいで、半分しか見えないけど、最後のその顔は安らかに笑っているように見えた。

 それを映し出していた鏡面が不意に暗くなり、そして気付いたときには全てが元通りになっていた。

 元の、普通の鏡のように、外の世界を反射して映し出している。

 そこには涙で顔をぐしょぐしょに濡らしたわたしの顔も映っていた。

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