38:悪魔との取引

 わたしは立ち上がり、姿見にかじり付くようにしてその中を覗き込んだ。

 こうして間近にしているのに鏡には自分の姿が映らない。

 鏡というよりもガラスの向こうに、こことよく似た別の世界が広がっているよう。


 未練たらしくミハイル様の背中に向かって呼び掛けていると、自分が、今も足元にいる魔法士の彼と同じになったような気分になり、それ以上続けることに堪えられなくなる。


 次にわたしはミハイル様が消えた闇の彼方を照らそうと思い立ち、床に置いたランタンに手を伸ばす。

 ほとんど無意識の仕草で、屈みながらランタンのつるを指に引っ掛け、すぐに鏡と向かい合おうとした。


 だけど、その手応えがない。

 指先にランタンの重さも感じなければ、身体の動きに合わせて光が追従してくることもなかった。

 目を見開いて振り返った先には、ランタンが元々あった位置のまま残されていた。

 距離感を誤ったのかと思い、もう一度しゃがみ、ランタンに手を伸ばしたとき、それがつかみ損ねではないことを悟った。


 いや、つかみ損ねつかみ損ねなのかもしれないけど。

 そもそもランタンに触れられないのだ。

 ランタンは確かにそこにあるのに、幻のように手がすり抜けてしまう。


「フフェフェッ。やっと気付いたか? 鏡の中にいるのが自分の方だってことによォ?」


 えっ⁉ ……ええっ!

 いや、気付いてなかったわ。

 鏡の中⁉

 こっちが?


 鏡の悪魔の早過ぎるタネ明かしにツッコミを入れたい気持ちが沸き上がったけど、でも、遅過ぎるよりは大分マシだった。


「ねえっ、ねぇ戻して! ミハイル様が行ってしまうわ。わたしを元の世界に戻してよ」


 わたしは、いつの間にか魔法士の頭の上にその場所を移していた悪魔に向かって詰め寄る。


「いィィ反応するじゃねェか。そうそう、そういう反応よ。フヒャヒャヒャヒャ」


 悪魔は面白くて仕方ないというように手を叩いて笑った。

 その様子にカッとなったわたしは両手をバシンと合わせて悪魔を挟み込んだ。


「うォ?」

「戻しなさい。今すぐ」


 確かに手の中には捕らえている感触があった。

 その小さな身体は、少し力の加減を強めただけで、玩具の人形のように折れてしまいそうな危うさがある。


 自分の中にあった狂暴な衝動に驚き、思わず力を緩め両手を開いた。

 ごめんなさい、痛くするつもりはなかったの……、そう言おうとして開いた口が、そのままポカンと開け放たれた。

 確かに捕らえたと思った悪魔の姿が、すっかり消え失せていたのだ。


「おォィ、勘違いしてねェか? 玩具はよォ、お前の方なんだぜェ?」


 地の底から響くようなしゃがれた声に、ゾクリと悪寒が走る。

 その口調は間違いなく今まで話していたあの鏡の悪魔のものだったけど、声質はこれまでとまるで違う、別の誰かのものに聞こえた。


 足元を見る。

 そこにはあの痩せた魔法士の男がいた。

 あれほど執着していた鏡から目を離し、上体を起こしてこちらを見上げている。


「ヒヒヒッ。ヤベェなこの肉体。完全にイカれてやがる。上手く動かせねェや」


 痩せた男が言った。

 言葉を話しているのに、わたしの方を向いてしゃべっているはずなのに、その目はわたしのことを見ていない。

 まったく正常な意思というものを感じさせないうつろな瞳だった。

 そのアンバランスさが非情に気持ち悪い。


 思わず後退あとずさったわたしの脚にその男がしがみ付いてきた。

 さっきまで鏡に向かってしていたように、両腕をわたしの脚の後ろに回し、しっかりと抱え込む。

 動転して体勢を崩したわたしは尻もちをついて倒れてしまった。

 そこに男が覆いかぶさってくる。


 凄い力。あれほど痩せ細って見えたのに、その身体を払い除けることができない。

 男はいずるようにしながら、わたしの身体を上ってくる。

 わたしの両腕を押さえ付け、焦点の合わないその狂気の瞳で、男がわたしの顔を覗き込む。


「俺様はまだいいが、お前はどうだろうなァ? お前の精神がこの肉体に乗り移ったら、一体どうなるか、試してみてェよなァ?」


 身体の芯を貫く悪寒。

 一瞬のうちにわたしは、鏡の悪魔が言った言葉の意味するところを知った。


 このまま唇を奪われたら、今度は、この男の人と身体を入れ替えてしまうことになるの?

 おそらくは、メフィメレス家の秘薬の実験によってボロボロになった魔法士の身体になって……、そんな身体になって、果たしてわたしはまともに意識を保っていられるのだろうか。

 暗い牢獄の中で、鏡にしがみつき、正気を失った自分を見つめ続けることになる──そんな自分の末路を、思い切り想像してしまった。


 だ、駄目っ!


 恐怖で動けなくなっていた身体に必死で命令し、わたしは男の身体を振り払おうとする。

 わたしの両腕を押さえていた男の片方がずれて、その身体が前にかしぐ。


 わたしは自由になった方の手で男の喉元をつかんだ。

 その手を懸命に持ち上げ男を引きはがそうとする。


 駄目。体勢が悪い。上手く力が入らない。

 助けて。

 助けて、ミハイル様──!


 ガサガサに乾いた男の唇が大きく開き、わたしの唇を覆って塞ごうとしたその直前。

 不意にわたしを上から押さえつけていた男の力が抜けた。

 見えない力で持ち上げられ、男の身体がふわりと浮き上がり、そのまま仰向けに身体を返して吹き飛んだ。


 その不思議な光景に呆気に取られる。

 けど、放心したのは一瞬のことだった。

 重しから逃れたわたしは急いで上体を起こし、冷たい石の床の上にお尻をついたまま、足をバタつかせて後退った。


 目線を水平に正したことで、鏡の中にミハイル様のお姿が映っていることに気付く。

 ミハイル様は鏡の中で、痩せた男に対し馬乗りになり、その暴れる手足を押さえ込んでいた。


 鏡の中(実際には外なんだけど)では確かに二人でそうして組み合っているのに、こちら側の世界ではミハイル様のお姿が見えないものだから、あの男が一人で暴れているように見える。


 やがて単純な力では敵わないと知ったのか、鏡の悪魔に乗り移られたその男は、唐突に脱力し動かなくなってしまった。

 それと同時に、わたしの目の前にひょこりと悪魔が姿を現す。


「ちっ。冗談の通じねェやつらだ」


 悪魔は後ろを振り返り、鏡の中のミハイル様の姿を見つめながら言った。

 ミハイル様は動かなくなった男の様子を用心深く窺っている。

 その身体から抜け出た、背後の悪魔のことには気付く様子がない。


「じょ、冗談⁉ 冗談では済まされません。自分が一体何をなさろうとしたか分かっているのですか?」

「へッ、ちょっとからかってやろうと思っただけじゃねェか。お前ェがあんまり強がり言ってわめいてるもんだからよォ」


 悪魔はこちらと顔を合わさないまま、吐き捨てるように言った。

 後ろめたそうにするその仕草は、なんだか、やり過ぎた悪戯を叱られた子供を連想させる。

 入れ替わりの呪いとか、わたしを鏡の中に引き摺り込むとか、とんでもなく凄い力を使ってみせているのに、叱られてねているようにも見えるそんな言動は、どうにもそれと釣り合わない。

 あんなことをされた直後だというのに、わたしはそんな子供のような悪魔に対し、なんとなく不憫ふびんに思う感情を芽生えさせていた。

 自分の方は全然、そんな余裕をみせている場合ではないというのに。


「わたしが泣いてゆるしを請えば満足なのですか? 貴方の不興を買ってしまったことはおびしますが、そもそもわたしは知らなかったのです。あの鏡にどんないわれがあったのかも。綺麗に拭いてしまったことが問題なのであれば、また元のように泥だらけに汚して差し上げますから、わたしをここから出して、それに、呪いも解いていただけませんか?」


 わたしがそう話している横ではミハイル様が、ぐったりした男を床に寝かせたまま、鏡の前で思案顔をしていた。

 かと思うと、床に両手と両膝を付いて四つん這いになり、先ほどわたしが組み伏せられていた場所に対し雑巾掛けをするように手を前後左右に振っている。


 わたしはそれで、ミハイル様がわたしのことを捜していらっしゃるのだと直感した。

 明らかに、そこに誰かがいるはずだと当たりを付けている。そんな動きだった。


「約束するか?」

「えっ?」


 ミハイル様の方に気を取られていたので反応が遅れた。


「約束できるかって訊いたんだ」

「できます。誤解のないように、何をすべきかちゃんと指示してくだされば」


「本当かァ? 人間てのは嘘をつく生き物だからなァ」

「約束を破るようなら、またわたしを鏡の中に閉じ込めれば良いでしょう?」


「そんなことして、俺様にどんな得があるってんだァ? お前とずっと一緒に鏡の中だなんて……ゾッとするぜ」


 悪態にしては微妙に間延びした台詞だった。

 何か途中で別のことに思いを馳せていたような気がするけど、実のところそれが何の間だったのかは分からない。


「実際にやる必要はないでしょう? 脅迫なのですから、相手が嫌がることをするぞと脅して、言うことを聞かせれば良いのです」


 キスで入れ替わるなんて回りくどい嫌がらせではなく、と付け加えようと思ったけど、この悪魔にあまり知恵を付けてやるのは考え物だぞと思い、それ以上言うのはやめておいた。


 悪魔はしばらく考え込み、わたしはしばらくそれを見つめていた。

 そして不意に。突然。何の予兆もなしに。ミハイル様が現れた。わたしの目の前に。


「「わっ!」」


 互いに驚いて声を出す。

 ミハイル様にしてみれば、わたしの方が突然何もないところから現れたように見えただろう。


 わたしはまず先に、ミハイル様が鏡の中に引き込まれたのではなく、わたしが鏡の外に出たのだということを確かめるため、足元のランタンに触ってみた。


 大丈夫。持てる。

 ここは現実の世界だ。


「大丈夫か、リゼ殿? 今までどこに?」


 あ、そうか。リゼだ。リゼだった。

 ミハイル様からそう言われて、わたしは今の自分がリゼの姿であったことを思い出した。

 そのことも説明しないといけないけど、今は後回しね。


「鏡です。鏡の中に捕らわれておりました」


 わたしは鏡に映るリゼの姿を視界に入れながら、あちこちに視線を走らせる。


 ──いた!


 悪魔は、わたしの背後から同じように鏡を覗き込むミハイル様の肩の上あたりに浮いていた。


「何をすればいいのか正確に聞いていないわ。あの鏡を同じように汚すだけでいいの?」

「沼だ。沼にしよう。あの近くに沼があるから、そこに〈俺様〉を沈めるんだ」


 たったそれだけだった。

 それだけ言うと、悪魔はいともあっさりと姿を消してしまった。

 彼が望んでそうしたのなら、もう、わたしがいくら探しても見つけることはできないだろう。


「リゼ殿、今のは一体……」

「御覧になられました? あれが鏡の悪魔です」


「アシュリー様が言っておられた? あれが……」

「ああ、失礼しました、ミハイル様。そうでした。助けていただいたのにお礼もなく。本当に、危ないところでございました」


「いや、私はわけも分からず動いたまでだ。目に見えぬ何者かに対し、襲いかかるように暴れていたこの男を大人しくさせねばと──」


 そこへ階段の方からバタバタと騒がしく下りてくる足音が割り込む。


「団長! やっぱり外には、い──いたぁっ⁉」


 息を切らせて下りてきたのはノイン君だった。

 ノイン君は、鉄格子の外に転がる大男の身体を跳び越えて現れるなり、ミハイル様の身体の陰に隠れていたわたしを見つけて驚きの声を上げる。


 それからわたしたちは、互いの無事を喜び合い、それぞれの身に何があったのかを話し始めたのだった。

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