37:泣きっ面に悪魔

「落ち着いて! 落ち着いてください。大声を出さないで」


 魔法士の彼の心身も心配だったけど、それより今問題なのは、この大声で地下室の存在がバレてしまうことだった。

 焦点の合わない虚ろな目に呼びかけながら、わたしは彼の骨ばった肩を懸命に揺する。


「ェ……ェエ、ェエエエエエエエエエエエエ!」


 駄目。駄目だわ。

 意思の疎通ができない。

 完全に心が壊れてしまっている。

 無理矢理口をふさぐ?

 でも、今さら静かにさせても手遅れだろう。


「エッ、……オエッ、ェエエエエエ、エエエエッ!」


 断続的に続く絶叫の合間に訪れる静寂に耳を澄ますと、上の階でドタドタと足音が鳴っているのが分かった。

 きっと見つかってしまった。

 今はこの地下室へと下りる入口を探し回っているに違いない。

 あの跳ね板まで見つかってしまえば、ここでは袋のネズミだ。

 でも、今からあの階段を上って行っても鉢合わせになるだけだし……どうしよう。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう⁉


「おい、うるせェ。そいつを黙らせろ」


 えっ⁉


 わたしは両腕で支えている男の人の瞳を覗き込む。

 ここにはわたしと彼の二人しかいないのだから、声の主は彼以外にあり得ないと思ったのだ。

 だけど、彼の完全に正気を失った瞳を覗くと、それこそ言葉を発したのは彼ではあり得ないと断言できた。


「だ、誰⁉」


 抱き上げていた男の人を硬い石畳の上に下ろし、替わってランタンを片手に持って掲げる。

 鉄格子の外、燭台の明かりに照らされたテーブルの下などに視線を走らせるが、……誰もいない。そもそもそんな遠い場所から聞こえた声ではなかったわ。


 わたしがそうする間も、石の上に横たわった魔法士の彼は虚空を見つめたまま絶叫を繰り返していた。

 疲れたのか、息継ぎの間隔は長くなり、その声も力をなくし始めているけど、この場所を上の階の野盗たちに知らせるには十分過ぎるほどの音量だ。


「鏡だよ。どうやらそいつァ、鏡の中に入りたいみたいだぜェ? 奇特なこった」


 鏡?

 そういえば、こんな牢獄の中に鏡が置かれているなんて妙だわ。

 何故こんな物を置く必要が?


 そしてわたしは、最初彼が鏡に向かい、すがりつくようにしていた姿を思い出した。

 わたしはもう一度ランタンを床に置くと、叫び続ける彼の肩をつかんで鏡の方に向き直らせた。


 その効果はてきめんだった。

 彼は視界に鏡を入れると、機敏な動きで這い進み、最初に見たときと同じような格好で鏡に抱きついたのだ。

 そして食い入るように中を覗き込む。

 いいえ。見ているのは鏡ではないのかもしれない。

 鏡に映る自分を──自分の瞳を、そうやって覗き、そうすることで自分というものを保とうとしているのかも。

 彼の様子を見ていると、ふと、根拠もなしにそんな考えが思い浮かんだ。


「静かになったろォ?」


 確かに。

 この場違いな鏡はきっと、彼をここに閉じ込めた人間が、彼を大人しくさせるために置いたものに違いない。

 そんなふうに思考を巡らせることができるようになったときには、わたしはすっかりその声の主の正体に思い当たっていた。

 謁見の間で倒れて運び込まれた王宮の一室で、初めて会って以来、およそ一週間ぶりとなる。

 鏡の中の、そこに映る痩せ細った魔法士の頭の上に立っているのは、紛れもなくあのときの黒く小さな悪魔だった。


「何をしに出てきたの? わたしのことを笑うため?」


 こいつはわたしに、くちづけをした相手と身体が入れ替わってしまう、なんていう意味の分からない呪いを掛けた、頭のおかしな悪魔だ。

 なんで今、こんな場所で、という疑問よりも先に警戒心が働く。


「正解だァ。笑えたぜ、お前」


 でしょうね。

 泥だらけの鏡を綺麗に拭いてあげただけなのに、それを余計なことだと言って逆恨みするような奴なのだ。

 常識的な理由で姿を現したとは思っていなかった。

 底意地の悪い、ねじ曲がった精神で、窮地にあるわたしのことを笑うために出てきた。それなら、今、ここに、現れた理由も納得よ。


「って言いてェとこだけどよォ。まあ半分だな」

「?」


 微妙な違和感。

 何が半分なのかも気になったけど、くるりと踊るように回って振り向いた悪魔の姿に引っ掛かるものがあった。

 手の上に載りそうなほど小さな悪魔の姿をよく観察して、その違和感の正体に気付く。


 あ、こいつ。鏡の中から出てきてる。

 最初に見たときは確かに鏡の中にいたはずなのに、今見るとそいつは鏡の手前側、鏡にすがりついている男の人の頭の上にちょこんと載って、こちらに意地悪い目線を投げかけていた。

 今なら手でつかめるかも。

 ギュウギュウに絞め上げてやれば、呪いを解かせることができないかしらと考える。


「感謝しろ? 助けにきてやったんだぜェ?」


 子供の頃、蝶をつかまえるときにしていたように、わたしは息を殺し、気取られないように、悪魔に向かって飛びつくタイミングを計っていた。そのとき──。


 鏡の奥から剣を持った大柄な男がヌッと姿を現した。

 野盗の一人だ!

 闇の中から音もなく、にじみ出るようにして現れた男の姿に驚いて、わたしは急いで振り返る。


 だけど、そこには誰もいなかった。

 そんなはずはない。だって、鏡には映って──。


 もう一度鏡の中を覗くと、鏡には、やはりあの大男が映っていた。

 鏡に背を向けてキョロキョロと辺りを見回している。

 そこにもまた違和感。

 その大男は確かに鏡の前に立っているのに、現実のその場所に大男は存在していない。

 それに、おかしなことはもう一つある。

 その大男が立っている場所、正気を失った魔法士のすぐ隣にはわたしがいるはずなのに、鏡にはのだ。


 だからわたしを見つけられないの?

 あの大男のいる地下室にはわたしがいないから?


 理屈に合っているような、それでいて、まるで筋の通らない不条理な考えが浮かび、頭がおかしくなりそうだった。

 男が鏡の前を離れる。

 鉄格子の扉をくぐって慌てて外へと向かい、剣を抜く。

 大きく前に剣を突き出すような動きをして……。

 そしてバタリと前のめりに倒れた。


 不思議なことに、男の声も倒れる音もまったく聞こえなかった。

 影絵芝居か何かのように、わたしが見ている鏡の中だけで繰り広げられるその顛末てんまつ


 わたしはもう一度鏡から目を離して後ろを振り返った。

 だけど、鉄格子の外の、大男が倒れているはずのその場所には、やはり誰も倒れてなどいない。


「……どういうこと?」

「言ったろ? 助けてやったんだよ」


 呆然と呟くわたしに向かって悪魔がこともなげに言う。


「どういうこと?」


 無意識に同じ言葉を繰り返していた。

 自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと不安になる。


「なんでいないはずの人が鏡に映ってるの? なんでわたしが映ってないの?」


 言葉を変えて言い直すことで、自分は正常だと自分自身に言い聞かせる。

 大丈夫。ちゃんと考えることはできる。

 わたしは正気のはずよ。


「フフェフェッ。代わり映えしねェ反応だが、久しぶりに見ると新鮮だなァ。人間のその慌てた様ァ」


 悪魔がその位置をパッと変えてわたしの肩の上に現れた。

 思わず振り払おうとして右手で左の肩を払う。

 手が触れる瞬間、そこにいたはずの悪魔の姿が消えた。


 見失った。どこ⁉


「ご挨拶だなァ? 命の恩人を虫か何かみたいに」


 次に声がした場所はわたしの頭上だ。

 正確には、リゼの姿になったわたしの頭の上、と言うべきだけど。

 鏡を見ても、やはりそこにリゼの姿は映っていなかった。

 その頭の上にいるはずの悪魔の姿も。


「本当に、助けてくれたの?」


 そこにいる見えない相手に語り掛けるように上を仰ぐ。

 相手がとても人間に太刀打ちできる存在ではないことを理解し、ひとまずわたしは自分の怒りを引っ込めた。

 相手の機嫌を損ねたくなかったというのもあるけれど、この悪魔の言うとおり、本当に助けられたのではないかという気がしてきたというのもある。


 先ほどの絶叫で、この地下の存在は確実に地上にいた野盗たちに知られたはず。

 実際、駆け付けて来たのがあの大男だ。

 本当なら、わたしはあの大柄な野盗の一人に捕らえられていたはずだった。

 でも、そうはならず、代わりに大男は鏡の中に現れた。

 鏡の悪魔が大男を鏡の世界に捕らえて倒してくれたのだと考えるのは、妄想が過ぎるだろうか?


「……ありがとう」

「フェッ、まさか呪った相手から感謝されるとはなァ? おめでてーやつだぜ」


 悪魔はわたしの頭の上からピョンと降り立ち、今度はランタンの上に座って脚をブラブラさせ始めた。


「な、なによっ。感謝しろって言ったのは貴方でしょ?」

「まァなに、別に感謝されたくてやったんじゃねェ。折角呪った相手に簡単に死なれたんじゃツマンネェだろォ? もっとドタバタ無様に楽しませてくれねェと」


 やっぱり悪魔は悪魔だ。

 わたしは今度は感謝する気持ちの方を引っ込めた。


「悪いですけど、貴方の思惑がどうだろうと、わたしに掛けたあの呪いは逆に利用させていただいてますから。あれがなければ、わたしはとっくに毒殺されているのですから。ご生憎あいにく様。呪われたお陰で大助かりです」


 わざわざそう言ってやったのは、性格のねじ曲がったこの悪魔なら、こう言ってやれば悔しがって呪いを解く気になるのではと思ったからだった。

 わたしは精一杯意地悪く、小憎らしく聞こえるようにそう言ったあと、悪魔の反応を用心深く窺った。


「…………」


 反応がない。

 鏡の悪魔は手の上にあごを載せ、ランタンの上にジッとしている。

 わたしはその視線の先を追った。

 視線の先は鏡だ。

 鏡の中に映る世界。

 野盗の一人が倒れている方の世界。

 そのはずだった世界に、今映っているのは……、あれは⁉


 間違いない。あれはミハイル様だ!

 良かった。ご無事だったんだ。

 でも、どうしてここにミハイル様が?

 鏡の中のミハイル様は、わたしがさっき灯した燭台に照らされたテーブルに両手を突き、その上の紙片に見入っているようだった。


「ミハイル様!」


 大声で呼んだにも関わらず、ミハイル様はこちらに気付かない。

 無駄と知りつつ振り返るが、やはりそこは予想どおり。

 こちらの世界のテーブルの前には誰もいなかった。

 もう一度鏡の方を見るとミハイル様は遠く闇の中へと消えていくところだった。

 あちらは一階と地下を繋ぐ階段がある方だ。


 ……あぁ、行ってしまう。


「ミハイル様。わたしはここです。ここにいます。こちらです、ミハイル様!」

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