おうちに帰りたい……

22:遥かなりし家路

 ──おっと!


 わたしは自分に向かって倒れ込んでくるヴィタリスの身体を、手慣れた反応で受け止めた。

 その結果、ヴィタリスのあの大きなお胸を両手でガッシリと揉むことになってしまったんだけど……。

 こんなもの、ただの脂肪の塊よ、と心の中で悪態をつきながら、そのままヴィタリスの身体を横に寝かせる。


 身体を横向きにして、しどけなく髪を乱したヴィタリスの寝姿。

 流石にこれは良くないなと思ったわたしは、倒れていた椅子を直して、ヴィタリスの身体をテーブルの上から滑らせるようにして下ろし、その椅子の上に座らせた。

 なお眠ったままの彼女の両腕を曲げて、テーブルに向かって顔を突っ伏すようにさせる。

 よし……、大丈夫。

 これなら間違っても情事の後には見えないでしょう。

 その出来映えに満足し、わたしは毒草と謎の文書が入った小箱を引っつかんで小部屋を後にした。


  *


 わたしは太陽が完全に沈んだ夜道を自分の屋敷に向かって急ぐ。

 王宮を出ると、外は想像以上に真っ暗だった。

 女性の身でこんな夜道を出歩いていると考えたら恐ろしくて堪らなかったけど、人とすれ違う度、わたしを見る相手の方が驚いている様子を見て余裕が出てくる。

 自分がミハイル様のお身体でいることを心強く感じるようになる。

 すれ違う相手は大抵自分よりも背が低く、せっぽっちの小人に見えた。

 彼らからしたら、さぞかしこちらは恐ろしい大男に見えていることだろう。


 そうして、じきに見覚えのある塀が見えてきた。

 こんな時間まで外を出歩くなんて悪い娘です。

 心の中でお父様に向かってそう詫びる。

 けれど大丈夫。

 アシュリーの身体は、今もずっとベッドの上にある。

 わたしは今日一日、屋敷から一歩も外に出ていないことになっているのだ。

 流石にずっと眠ったままでいるのを心配されている頃合いかもしれないけど、もう一度キスをすればすぐに、もと……ど、お……り?


「……ああ、どうしよう……!」


 わたしは馬鹿だ。

 どうやってこのミハイル様の姿のまま、わたしの部屋まで戻ればいいのだろう。

 本当なら、まだ陽が昇っているうちに帰ってくる必要があったんだわ。


 とりあえず、出てきたときと同じ裏側の通用口の方に来てみたけど、案の定、その扉は中からかんぬきが掛かり固く閉ざされていた。

 屋敷をぐるりと取り囲む石塀だって……、これはとても乗り越えられる高さではない。

 いくらミハイル様が大きな上背をお持ちだと言っても、これは無理だわ。


 困ったわたしは正面の門の方へと回ってみた。

 歩きながら、騎士団長のミハイル様が正式に訪問し、わたしに会いたいと言えば通してもらえないだろうかと考える。

 でも流石にこんな時間だ。考えるまでもなかった。

 取り次ぎを願おうにも、正門もすでに締め切られており、門の前にも誰も立っていなかった。

 そもそも、そうでなくともだ。

 王国騎士団長たる者が、事前の約束もなく伯爵家を訪問することがおかしい。

 そして、無理を押し通し中に入ったとしても、当のアシュリーが眠ったままでは家人が会わせようとしないだろう。


 困った……。

 とにかく明日まで待って、陽の高い時間を狙って出直す?

 でも、その明日まで、ミハイル様わたしはどうしたらいいの?

 ミハイル様の寝屋がどこにあるのかも分からないのに。


 うんうんうながりながら、わたしは十六年間過ごした自分の生家の外周をうろうろと歩き回った。

 意味もなく正門と裏口の前を行き来する。

 それで何度目となるだろうかというタイミングで石塀の角から裏口の様子を窺ったとき、暗がりの中で通用口のドアが開かれる音が聞こえてきた。


 し、しめたわ。

 誰かは分からないけど、相手が屋敷の使用人なら、なんとか丸め込んで中に入れてもらえるかも。

 いいえ、何としてもそうしないと。

 多少強引でも、わたしの部屋まで上がり込んで、寝ているわたしにキスさえしてしまえば……。


 わたしがそんな剣呑けんのんなことを考えながら駆け出そうとしたそのとき、突然誰かに後ろから肩をつかまれた。


「団長⁉」


 脚だけが前に行こうとして身体がつんのめり、思わず転びそうになる。


「あ、危ないでしょ⁉ 突然」


 振り返りざまに口をついて出た声に我ながら強烈な違和感。

 これはミハイル様の口から出るお言葉ではなかったと自分に駄目出しをする。

 対する相手の方も、ミハイル様らしからぬ反応に面食らい言葉を失う気配があった。


「ご、ごめんなさい……。いえ。……えっと。すまん。何の用だ?」


 上擦った声を取り繕うため、今度は無駄に低い声になってしまう。

 よく見ると相手は複数人だった。

 わたしの肩をつかんで声をかけてきた人以外に、その後ろからさらに二人の男性が近寄ってくるのが見えた。

 前の一人は比較的小柄だけど、後の二人はいずれもミハイル様に負けず劣らずのたくましい背格好をしている。


「いえ、こっちこそ、すみません。どうされたのかなぁと思って。こんな時間に、こんな場所で」


「申し訳ありません、団長。きっと大事な用だから、声を掛けない方が良いと言って止めたのですが……」


 暗闇でもかろうじて見える服装や会話の内容から、相手はミハイル様の部下の騎士団の人間だということは分かった。

 でも、わたしには誰が誰なのだか名前も何も分からない。

 どう答えれば良いか迷い、内心アワワとなっているところへ、背後の通用口の方から女性の声が聞こえてきた。

 何と言ったかは分からなかったけど、切羽詰まったように言い争う声。

 そちらの暗闇に目を凝らすと、小柄な女性の影が、後ろから羽交い締めにされるようにして屋敷の中へと引きずられていくのが見えた。


 えっ⁉ かどわかし?

 いえ、うちの者に限ってそんなことは……。

 というか、中に連れ込まれるというよりも、外に出て行こうとしてたのを引き戻されたように見えたけど。

 ……あれは一体誰?


 多少暗闇に目が慣れたとは言え、遠くということもあってほとんどシルエットしか分からない。


「なりません! 危のうございます。お戻りください」


 あ、この声はリゼだわ。

 だけど、そうと分かったときにはもう遅かった。

 通用口の扉は再び閉じられ、その周囲は何事もなかったかのように、真っ暗な静寂に包まれた。


 あー、しまった……。なんてことなの。

 相手がリゼなら確実に言いくるめる自信があった。

 屋敷の中に入る折角のチャンスだったのに。


 わたしは、わたしの肩をつかんで引き止めたミハイル様の部下を恨みがましくにらむ。

 事情を知らない相手に文句を言っても仕方ないのは分かってるんだけど、千載一遇の好機を逃したというショックはあまりに大き過ぎた。


「あー、す、すみません。何か俺たち、邪魔しちゃいました?」

「俺たちじゃない。ノイン。お前個人がやらかしたんだ」

「団長、すみません。俺たちがちゃんとこいつを見てなかったばっかりに」


 ミハイル団長のわたしは、深い溜息をつきながら、逞しい肩を深く深く落とすのだった。

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