雨とフェルマータ

真花

雨とフェルマータ

 記憶の中でピアノを弾くとき、いつも雨だった。それはゆっくりと空を搾ったような、涙と言うにはあまりにも静かな。けれど、決して忘れられることのない。もしもその頃に今と同じだけ私が掠れていたなら、君を離したりはしなかった。……今日も雨が降っている。君のところは濡れているのかな、それとも、乾いているのかな。何かを得て何かを失うより、失ってから何かを探すことの方が多いように思う。君の側に涙は降っていない、きっと、降っていない。

 夜が始まってもうずいぶん経つ。雨は昼と夜の切れ目を滑らかに繋いで、私はいつもよりも長い今日の中を漂っている。パソコンを操作する手が止まっていた、窓の外に流れる気配に、その向こう側の過去の私に耳を澄ませていた。私はどんな顔をして弾いていた? 君を想っていただろうか、自分のためだけに奏でていただろうか。ため息と共に鍵盤から手を下ろして、窓辺に立って見た雨。その雨は今日に届いている。私はパソコンを閉じてベランダに向かう。低い椅子で、タバコに火をつける。煙が雨粒たちに吸い込まれて消える。だけど君は流れない。

 いつも思っている訳じゃない、雨が降れば思い出す訳でもない。煙と一緒に私の中で膨らむ君を吐き出す。もう済んだこと、私たちの重なりは解けて、別々に泳いでいる、それなのに君が消えない。雨は何がしかの光を含んで、その僅かな煌めきを映しながら去ってゆく。どうして君なのだろう。君じゃない、彼との三年を今日終わらせた。まだ太陽が傾く前、空は毎日見るそれよりもずっと青く光っていた。雲との境目が一番青くて、目が焼けそうだった。時間をかけて私たちは別れ話を始め、終結させた。彼は泣かなかったし、私も泣かなかった。まるで笑って別れたかのようにさっぱりと、背中を振り向かずに去った。彼のことは思い出せるけど、もう二度と思い起こさない、そう分かる。それはきっと、君がここに現れたからだ。

 部屋に戻りパソコンの前に就く、暫し画面を見てから首を振る。パソコンを閉じて、キッチンに向かう。

 冷蔵庫から剥いておいたりんごを取り出して、手で摘んでシャリシャリ食べる。

「今日はもうおしまい」

 君がそこに座っていたら、同じように手で食べるだろう。本物の君が今誰と生きているのか知らない。りんごを今夜食べるのかも知らない。昨日まではそれでよかった、でも。

 顔を洗いたい。私が貼り付けていたものを流し去りたい。洗面台に急いで、冷たい水を顔にかける。何度も何度も、頬の温度が水のそれと同じになるまで続ける。新しいタオルで拭く、鏡に映った私、それくらいじゃゼロにはならないけど、最低限にはなった。

「明日もし……」

 自分の顔に言い聞かせるように、体の底から言葉を絞り出すように。

「もし雨が上がったら、君に会いに行こう」

 鏡に向かって笑顔を作ったら、酷く不敵になった。


 目覚ましを止めながら見た部屋は暗い、射し込むべき朝陽が見当たらない。ベッドから出てカーテンを開けると、やはり雨が降っていた。昨日は今日に繋がってしまった。雨。さめざめと降るそれをぼんやりと見詰める。どうして雨? 私が君に会いに行くことを何故阻む? 問いかけてみても雨は何も言わない。

「そっか。……そう言うことね」

 身支度を整えてからタバコを一服する。煙。雨に溶ける。そこが雨の目であるかのように、じっと睨む。

「雨だけど、君に会いに行くよ」

 君の手掛かりはあの頃住んでいた家しかない。でも二人が再会するべきならばきっとそこに君はいる。君がいる予感がする、呼んでいる。スニーカー、空色の傘。玄関のドアを開ける。

 傘がなければ気付かないくらいに、雨は静かに降っている。人通りは少ない、日常に溶け込んだ道を駅へ向かう。君とは歩いたことがない。君の街はここよりもずっと西だ、もしかしたら空も違うかも知れないくらいに、同じ東京であっても遠い。そこがどんなに遠くても始まりはいつだって私の家で、きっと帰って来る場所も同じ。君は休日は家にいる。必ずではないけど、殆ど予定を入れなかった。だから私が連れ出した、それでも一日の後半は君の家で過ごした。君は今日は私を待っていてくれる。なだらかな下り坂の底、商店街が始まる。雨のレース越しに見る店はどこも寂しそう、私は目を合わせないように正面を睨む。駅。改札を抜けて、上ったホームの高さは私の家と同じくらい、黄色いブロックを足で弄びながら電車を待つ。

 反対側のホームに車両が滑り込む、アナウンスがくぐもって聞こえる。じきにこっちにも。乗車する。

 君は電車を嫌っていた。憎んでいた。素行の分からない他人と空間を共有することを毛嫌いしていた。それでも便利さに負けて利用する、自らの行動を恥じていた。嫌いなのは理解出来るけど、恥じる必要はないよ、そう私が言っても頑として恥じた。恥じるだけで、他に何をする訳じゃない。それはしなくていい損を汲み上げているみたいだった。車窓からくすんだ景色が続いている。どの家も、ビルも、一律に同じ顔をしている、乗客も。雨が表情を強制している。私もそうなのかな、想いも濡れれば覆い隠されてしまうのかな。電車が止まる度に同じ顔の人々が乗り込んで来る。降りる人は少ない。

 君に会える。なのに私は笑顔にならない。これも雨のせいなのかな。乗り換え駅で降りて、ホームを慎重に歩く。湿った空気が鼻の奥に水滴の匂いを嗅がせる、何度も嗅いでいる筈なのに何の情感もない、中性的だ、階段を下りる。地下通路はすえた熱気と地上からの冷気が入り混じって、それを通過する人々がかき混ぜて、その人々の吐息が重なる。催した微かな嘔気に眉を顰める。早く抜けたいのに前の人が邪魔でスピードを上げられない。君が、人が人であることで平等なのは権利でも義務でもなくて、物理的に世界の一部を占有することだ、と言っていたことが思い出される。人間一人が人数分だけそこかしこを埋めている。私が吐き気に耐えながら定められた遅さで目的地に進むのが、それによるものだと理解しても、小さな苛立ちの萌芽を止められない。でも、だからと言って押し退けることも、言いがかることも、しない。関わらなければ無害な他者のままなのだから、トラブルの種は間引いた方がいい。だから、我慢して、改札を通るまで一定の速度で歩いた。

 改札を出るとそこは空いていて、街か、もっと外の空気が大勢を占めていた。人のさらに少ない場所で立ち止まり、深く息を吸って、抱えていた吐き気と苛々の両方を乗せて口から吐き出す。二度、三度繰り返して自分の中にある汚濁を清浄に近付ける。でも四回もやればもう十分で、軽くなった体で次に乗り込むべき駅に向かう。屋根がずっと続くから傘は畳んだままで、幾つかの売店は暖かい光を強く放って、まるで今日も雨じゃないみたいだった。雨を忘れさせることに商売の強い力を感じる、なのに、傘を売っている売店があって、「どっちがしたいの?」と口の中で呟きながらその前を通過した。店がどう主張しても、鼻を効かせれば雨の匂いはウッドベースの低音のように漂い続けているから、逃れることは困難だし、だからこそいっときでも忘れられたらいいのに。……忘れたいのかな。

 改札を通過する。電車は出発を待って並んでいる。乗り込んで席に座る。アナウンス、ドアが閉まる。揺れる、最初は地下のようなところを走っていたけど、地上に出る。君に続く電車。一緒に乗ったこともあったね。私は目を閉じて、振動を感じる――


 その日はどうしようもない嵐だった。でも、君が大切な話があると呼ぶから、私は風の中を渡って、君の家を訪ねた。びしょびしょだった私のために君はお風呂を沸かしてくれていて、でも、玄関で会った君の顔があまりにも青くて、湯船に落ち着いて浸かることができなかった。用意されていた服を着る間も、君はうろうろと部屋の中を歩き回り、音のない部屋にはごうごうと打ち付ける風の響きだけが舞っていた。直角に置かれたソファに座って、君は私の目を見る。

「シノは怒るかも知れない」

「そう。怒るかもね」

 君は口を引き結んでもう一度私の目を見据える。予定されている恐慌を受け入れる準備は出来ていて、後はその皮切りだけだとその顔に書いてある。私は自分の心の城壁が、もう、ほろほろと崩れ始めていることを自覚して、それはとても残念なのに、手のひらを零れ落ちるように止められない。君が何を言ったって腹の底から真っ黒になって怒るなんてことはないよ。忘れないで、私は君のシノだよ。

 君はゆっくりと一度だけ瞬きをする。

「僕は、小説を書きたい」

「知ってるよ。ずっと書いてるじゃない」

「だから他のことに時間を割くことを、やめたい」

 フラッシュバックのようにそれが自分のことを言っていると理解させられる。

「私と別れるの?」

「違う」

「じゃあ、何? ……まさか」

 君はもう一度瞬きを、時間が停滞したかのような速度で。

「仕事を辞めたい」

「本当に」

「貯蓄と遺産でかなり生活は出来る。家もこの通りある」

「お金の問題なの?」

「仕事をしていたのはお金のためだよ。嫌いじゃなかったけど、僕のやりたいことは小説だから。……中途半端に働きながら書いても、少なくともかけられる時間はかなり減るし、それで上手くいかなかったときに、どんな顔して死ねばいいのか分からない」

「本当はもう、辞めたんでしょ」

 君は目を見開いて、薄く笑う。嵐が猛威を振るっている、風がノックする。私はそれこそが彼なのだともうどこかで納得している、心の城壁はすでに芥と化している。

「辞めた」

 君は取り返しのつかないことをした自覚があるのだろうか。いや、ある。あってやっている。いっときの感情で判断を狂わせるような人ではない。でも、先に相談してくれてもよかったのに。結果が全く変わらなかったとしても、私を人生の選択の根拠に含ませて欲しかった。急に私は一人ぼっちで、目の前に君がいるのに、君の用意した服を着ているのに、嵐の暗さよりもずっと深く、闇にくるまれる、君がずっと遠い。そして君は黙って、薄笑いが徐々に重力に負けるみたいに平坦になって、眼だけが違う。ギラギラとどこから射すのか分からない光を反射させて私を見ている。私が何て言うのかを待っている。これまで積み上げてきた二人のものが全て賭けられて、私に乗せられている。違う。認めろと言っている。その目が言っている。君は主張の多い人だ、道を歩いても、テレビを見ても、いつだって何かを主張する。でも。一度だってそれを私に押し付けたことはなかった。……なかったのに。確かに君の人生だ。君が決断する以外にはない。だけど、私たちの人生でもあったんじゃないの? 息が苦しい、闇とギラギラに飲み込まれそう。それとも、「そうだね」って当たり前のように受け入れて度量のあるところを見せるべきなのかな。そしたら君はきっと満足する。予定通りに小説を書く。私はそんな君と生きていけるだろうか。これからも大事な局面で一人で突っ走ることを理解出来るだろうか。私は穏やかでいられるだろうか。私は。私は……。私はどうして欲しいの? 私、君じゃない、私が。

 言葉が口から漏れる。

「分からない」

「辞めたんだよ」

「どうしたらいいのか、何を感じているのか、全然分からない」

 君は目の光を変えないまま、口角を上げる。

「ゆっくりでいいんじゃないのかな」

「ゆっくり何?」

「新しい日々に馴染んでいけばいい」

 確かに君の退職は済んだことだ。でもそう言うことなのだろうか。君の顔から目を逸らす。途端に胸の中に不愉快が鋼線の塊のように溜まっていることを自覚した。それは怒りの種のようで、悲しみの実のようで、チクチクと胸を刺す痛みがその正しい種類を教える。君が辞めたことじゃなくて、君が辞めると一人で決めたことが、やっぱり嫌なんだ。置き去りの私が、嫌なんだ。

「どうして相談してくれなかったの?」

 君の顔をもう一度見る、君は目を瞬かせる。

「大切なことこそ、一人で考えたい。自分の人生の責任にシノを巻き込みたくない」

「巻き込んでよ」

 君は、「え」と小さく怯む。

「パートナーなんだから、巻き込んで欲しかった。と言うか、勝手に決められたから、私はハルにとっていっぱしのパートナーじゃないって言われた」

「そんなことはないよ」

「口で何と言っても、行動がそう言ってる」

「だからそんなことないって」

「がっかりした」

 その後のことはあまり覚えていない。濡れた自分の服で帰って風邪を引いた。その日以来、君と連絡を取らなくなった。君からは一切連絡がなかった。年月よりも自分の意志で君との関係が終わったと決めた。幾つかの恋をして、昨日彼と別れて、今、君のいる場所に向かって電車に乗っている。


 車内アナウンスが目的地を告げる、瞼を開く、照明が眩しい。コントラスト強く、窓の外の暗さが次に目に入る。雨は止んでいない。電車がスピードを緩めて止まり、ドアが開く。

 懐かしいホーム。君と別れてからは一度も来なかった。……避けていた。エスカレーターで下る、その中腹で急に自分がどの時代にいるのかが分からなくなる。いつものように君の家に行く、その反復は途切れた筈なのに、今日もその延長線上にある。階下に降りた私は若いときの私で、そうだ、飲み物とお菓子を買わなくちゃ。君はお茶を作り置きしないし、お菓子も用意しない。君は変わらないから私が変わる。二人にとってハッピーなことを模索して、実践する。その繰り返しの結果、私がお茶とお菓子を持って君の家に行って、少し寛いでから連れ出して、半日は外で過ごしてから家に戻ると言う型が出来た。

 街は商店街、馴染みの店で大福を買う。お茶はコンビニのパックの麦茶。下げたビニール袋の重みを引きながら本屋の前を通ろうとした。でも、本屋がなかった。私は立ち止まる。

「あれ?」

 雨が降っている。静かな、雨。いつもと同じ道を歩いていた。私はあのときの私じゃない。反対側を振り向くと理髪店が焼き鳥屋に変わっていた。その隣のパン屋は居酒屋に、向こうのイタリアンは廃墟になっている。私はいつもと同じ道を歩いていた、時代は変わっていた、道だけが同じだった。ビニール袋、お茶と大福。首を振る。それでも、君がいるならきっと食べる、一緒に。じんわりと今が私に追い付く。君のところに行かなくちゃ。

 商店街を抜けたら、多くの建物が前と同じだったけど、錯覚は二度と起きなかった。住宅の間を縫って、次の角を曲がったら三軒目に君の家がある。逸る気持ちに突き動かされる、私は早足になる。

 角。

 一軒、二軒。

 三軒目。

 そこは更地になっていた。

 小さく跳ねる息、あるべきものがない、君は。

「ハル……」

 何もない。門がない。ドアもない。家がない。君はここにいない。ビニール袋の重さ、傘に伝う雨水、立ち竦んだ私、どこへ行けばいい? きっとここで待っていてくれる筈だった。私を迎え入れてくれる筈だった。なのに、いない。胸の中が凹んでゆく、いずれウロになる。君はいない。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

 呼び掛けに振り向くと、少年が私のことを見上げていた。真っ赤な傘。言われて頬に触れて初めて、そこが濡れていることを知った。

「泣いてるみたい」

「ここに用があったんだよね? 僕もそうだよ」

「でも、手遅れだったみたい」

「そうだね。何もない」

 彼の言う通り、何もない。君は跡形もない。私は玄関があった場所に入る。少年は付いては来ない。廊下があって、まっすぐ行って左に居間がある。私は道筋をなぞるように、ふらふらと歩く。居間に入ればソファに君が座って文庫を読んでいる。君は視線を上げて、「おかえり」って言うんだ。私は荷物をテーブルに置きながら、「ただいま」と返して、はにかみながら君の横に、ここに、座る。「何を読んでいるの?」「ヘミングウェイの『移動祝祭日』」「今日はどこか行きたいところはある?」「特にないよ」「じゃあ、私が決めるね」。この場所はそう言う場所だ。更地であっていい筈がない。雨は降り続いている。足元はぬかるんで、ともすれば沼になって私を引き込みかねない。君ももしかして沼に落ちてしまったの? 私はソファのあった場所に立っている。雨は静けさを孕んで降り注ぐ。ここは決してあのときのソファではない。

「お姉ちゃん、危ないよ。戻って来て」

 彼にも見えているのだろうか。でも大丈夫、私は過去に埋まるつもりはない。

「今戻る」

 迷ったけど、私は建物の中を通らずに直線で外に出た、もし建物があったなら壁を通過するように。

「お姉ちゃんの用は済んだ?」

「ううん。ハルがいなきゃ済まないよ。……でも、いないって分かったから、もう、いいってことにする」

「強いね」

「掠れてるだけだよ」

 少年は私をじっと見る。彼も何か用があって来たと言っていたけど、その瞳は落胆の色をしていない。彼の口がそっと動く。

「そんなことないよ」

 さっき出会ったばかりなのに、その言葉がストレートに届く、そんなことないのかも知れないと思えたら、私が少し強くなったと認めてもいいような気がした。私は微笑んで見せる。彼が続ける。

「ここで使う筈だった時間、僕もぽっかり開いた。だから、フラれた者同士、少し一緒に歩かない?」

 表面的だった私の微笑に、意味が込もる。

「いいよ。どっちに行く?」

「こっち」

 空色と赤の二つの傘を並べて、私たちは歩き出す。

「ハルと色々歩いたけど、こっちは来たことがなかったな」

「きっと彼が避けてたんだよ。上手に」

「あー、その上手にって、分かる。よっぽど考えないと誘導されているのに気付かないことが多々あったから」

 彼はケラケラと笑う。

「だよね」

 道の周囲は次第に寂しくなってゆく。雨に塗られているせいなのか、どこも薄暗い。彼は迷いなく進む、まるで最初から行く先が決まっているかのように。やがて、小学校に辿り着き、彼が「ここから入れるんだよ」と示したフェンスの穴から敷地の中に入った。

「どうして学校なの?」

「もうすぐ分かるよ」

 施錠のされてないドア。私たちは講堂に侵入した。壇上の端にはグランドピアノ、きっとずっと放置されて調律も狂っている、かわいそうなピアノ。彼は椅子を持って来て、ピアノの側に座る。

「弾いてよ。まだ僕はシノのピアノを聴いたことがない」

 どうして彼と一緒に歩こうとすぐに決められたのか。どうして当たり前のように会話をしたのか。どうして、危険を感じるような場所に共にいるのか。その理由が分かった。

「いいよ。最後に」

 私はピアノの天板を上げて、椅子に座る。

 ドビュッシーの「月の光」。何年弾いてなかろうと、自分の髄にまで入っている曲はいつだって演奏することが出来る。そう言う曲の一つ。呼吸を整えて、気持ちを曲のそれと同じに、静謐で、冷たい緊張の中に、青い月の光が柔らかく差し込む、イメージに浸ってから最初の音を鳴らす。

 体が覚えている動きに、今の想いが乗って音になる。

 さよなら。


 最後の音、余韻を終わらせてから、彼の方を向く。少年は呆けたような顔をしている。

「この一曲で全てだから、これでおしまい」

「もっと前から聴いていればよかった」

「ありがとう」

 それから私たちは言葉を発するのをやめて、グラウンドに出た。

 雨が止んで、満月が浮かんでいる。私は大きく息を吸って、小さな声で「月の光」のフレーズを口ずさむ。斜め後ろを着いて歩く少年。空気中にはまだ水の匂いが残っている。でも、空は晴れている。

「お姉ちゃん」

「なぁに?」

「僕の方こそありがとう」

「お互い様だよ」

 少年はニコリと微笑む。

「僕、そろそろ行かなくちゃ」

「今度こそ本当にさよならだね」

「うん。さよなら、シノ」

「さよなら、ハル」

 君はフェンスの穴を先に潜って、行ってしまった。私はもう少しグラウンドで月を見上げていたくて、ドビュッシーの旋律を小さく歌いながら、ゆっくりと歩き回る。

 記憶の中でピアノを弾くとき、いつも雨だった。それは今日を越えても、同じ。


(了)

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雨とフェルマータ 真花 @kawapsyc

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