第26話 婚約者様は私を怒らせたいようです

「触れていいよ。君は特別だから」


 睡眠不足を理由に横になったのですから、少しでも眠られたら良いと思いますのに。

 婚約者様は私の膝を枕にしても、本当に眠ることはありません。


 つまり、そういうことです。


 お言葉に甘えた私はそっとひとつの旋毛に指を置きました。

 それから髪の生える向きに沿ってくるくると指の腹を移動して、隣の旋毛に到着します。


「まだあの日のことを怒っているかな?」


 指を逆に動かし始めたところで、婚約者様は聞きました。


「怒ってなどおりません」


「そうかなぁ?今日も二人きりだ。そろそろ本気で怒ってみないか?」


 本当に怒っておりませんのに。

 婚約者様は何度も同じように仰るのです。


「怒りがないなら、不満でも愚痴でもいいよ。あの日のことで何かないか?」


 旋毛を撫でながら、負の感情を出せと言われましても大変困るのですが。

 しばらく考えた私は、思い付いた言葉を口にすることにしました。


「私の悪いようにはしないと……」


 あえて途中で言葉を止めてみますと、婚約者様は笑い出しました。


「私としては、悪いようにはなっていないと信じたいところなのだけれど。君には良くないことだったかな?」


 かつてと比較すれば、良くないと言い切ることは出来ません。

 けれども、さて良かったかと問われると、甚だ疑問でした。


 たとえば誰の目もない密室で求婚されておりましたら、私もすぐには同意しなかったように思います。

 母と伯父への対策としては、婚約は素晴らしい提案でした。

 それでも選択肢のひとつとして有難く受け取ったあとには、短くも考える時間を置いたことでしょう。


 ただし他に最良の案を提示出来たかと言えば、怪しいものです。

 ですから時間を置いたのち、結局私はこの御方と婚約していたようにも思います。


 それが『私の悪いようにはなっていない』と言えばそうなのでしょう。

 けれどもやはり『それで良かった』と心から喜べることではないように思うのです。


 私としましては……本当は誰とも婚約せずに、なんとか伯父の心を鎮められないかと考えていたところだったのです。

 たとえば、父と交渉して帝国の支店で働くようなことで……。



「ごめんね、ローゼマリー。あのときは私も焦っていてね。君の想いを事前に確認してあげられなかったんだ。それが良くないことだったなら……私には謝ることしか出来ないが。これからは君が良いと思えるように婚約者として努力を続けることも誓おう。だからどうか……許してくれないかな、ローゼマリー?」


 ですから許すもなにも、怒ってはいないのですけれど。



 あの日。


 私はあの議会の場に残って、皆様が続々と連行されていく様を最後まで眺めておりました。

 すでに隣に並び立っていた父の温かい手が肩に置かれていたことは覚えています。


 婚約者様とお話しすることになったのは、その後のことです。

 まだ騎士様たちが残る会場で、婚約者様は改めて私に求婚し、父も含め今後の話をしたいと希望されました。


 この御人が狡いことには、またあのように跪いたことです。

 そのうえ、頭まで下げて謝罪をされたのですから。


 長丁場となったこと、その間立たせてしまったこと、そもそもこんなにも騒がしい議会の場に呼び出してしまったこと、それから王女殿下の振舞いについて、等々色々と謝ってくださったのですが。

 その間ずっと、私は珍しい二つの旋毛を拝見することになりまして……。



 だからこの狡い御人には、少々の意地悪もしてみたくなるというもの。


「そうですね。良いかどうか、それはこれから見極めて参ります」


 少しの嫌味を込めてお答えしましたところ。

 何故か婚約者様は、肩を揺らして笑い始めました。


 太ももに直接振動が伝わっておりますので、あまり笑わないで欲しいのですが。

 その振動があまりに擽ったいものだったので、私もつい微笑んでしまいました。



 怒れと言いながら、怒れない状況を作り出す狡い御人なのですから。


 それなのに、またこの御人は言うのです。


「本当にそろそろ本音を聞かせてよ、ローゼ。私は君をもっとよく知りたいんだ」




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