再失恋後の呼び出し


「こんにちは。この前の商品について,詳しく聞きたいんだけど,いいかな?」



 熱心に商品の状態を確認しているアイさんに,遠慮がちに声をかける。

 真剣な表情で作業をしていたアイさんは,声をかけられるとすぐに可愛らしく目を細めた。



「今日も来てくださったんですね。嬉しいです」



 適当に言っているようには見えないその様子に,心が軽くなる。



「ご案内しますので,どうぞ」


 そう言うと,アイさんはおれが進むのを待った。二人で肩を並べて歩いている間,アイさんは本当に楽しそうに笑っていた。



「とても勉強になったよ。ありがとう」



 一通り店内を巡回した後,改めてお礼を言った。でも,おれが言いたいのは,感謝の言葉ではない。本当に言いたいことは,言わなければならないことは確かにここにあるのに,うまく言葉になってくれない。


身体が固くなっているのが分かる。

どうしたの,とでも言いたげにアイさんは首をかしげる。その可憐な姿に,鼓動が早まる。自分の意思とはまった違うところで体が反応する。こんな間隔は初めてだ。



「いつもお仕事終わりに熱心に勉強しに来てますもんね。しっかり休んでください」



 様子のおかしいおれを見て,疲れていると思ったのだろう。どんなに高い酸素カプセルよりもよっぽど効果のある笑顔を振りまいて,アイさんは労ってくれた。



「アイさん,お疲れでしょう。良かったら,ご飯ごちそうさせてください。いつもお世話になってますし,営業も調子がいいんですけど,間違いなくアイさんのおかげです。お礼もかねて,どうですか?」



 思い切って言った。だが,アイさんの表情に,胸が切り裂かれたような気持になる;。



「ごめんなさい。せっかくなんですけど,今日も残している仕事が山積みで」



 ごめんなさい,と繰り返して俯く様子を見て,おれは自分を責めた。何を勘違いしているんだ。営業スマイルに見事に翻弄されて,自分を見失っていた。アイさんが,おれに好意を抱いているはずもないのに。


 諦めかけたその時,守田とのやりとりが脳裏によぎった。

 守田の話では,プレミアムリビングの社員が会社から出ているのを見たことがないという話だった。いくらなんでも,それが言いすぎなのは分かっている。いくらブラック企業とは言っても,社員にだって生活はあるし,人生がある。ただ,アイさんがどんな生活を送っているのか知りたかった。



「いつごろ終わりそうですか?」

「その・・・・・・キリがない仕事なので,いつとかははっきり分からなくて」

「おれ,いつまででも待ちます。アイさんといると,心が休まるんです」



 言うつもりのないことまで口走ってしまい,顔が熱くなる。

 何気持ち悪いこと言ってるんだ,と自著しながらも,アイさんを見据える。

 アイさんは,困ったような顔をして,首を振った。



「ごめんなさい。終わったらくたくたになってて,休ませてください」



 そう言うと,アイさんは深々と頭を下げた。いつまでもその顔を上げないので,表情が読めない。

 「無理しないでね」とだけ言って,おれは店を後にした。




 気味が悪いと自覚していながらも,おれは車の中にいた。

 プレミアムリビングから,道路を挟んだ向かいにあるコンビニに車を止めて,時間が経つのを待っている。

 どれくらい待っただろう,空腹感を感じたころ,社内のラジオが十時になったことを知らせた。


 頭に入ってこないラジオパーソナリティの声を聞きながら,プレミアムリビングの窓を見る。営業時間はとっくに終わっているにもかかわらず,来た時と同じように外を照らしていた。


 明日も朝一番に,契約を目前にした打ち合わせが待っている。目をこすりながら仕事をするわけにはいかないとエンジンをかけようとしたとき,変化が起きた。


 人通りの少ない夜道を華やかに照らしていた明かりが消えた。

 考えるよりも先に身体が反応し,気づけば車の鍵もかけずに飛び出していた。


 プレミアムリビングの玄関前に着くと,大して走ってもないのに息が上がっていた。

 一分,二分と時間が経過するが,中から人が出てくる気配がない。

 おかしい。アイさんはどうしているだろうと気にはなるが,おれが店を出た時には他にも従業員はいた。何人かが遅くまで残って仕事を片付けることはどの仕事にもあるだろう。ただ,社員が一人も退社しないということがあるだろうか。


人権をないがしろにしたらだめですよね


 守田が言った言葉が,頭の中でこだまする。

 ふと視線を上げると,暗がりの中に人がいたような気がした。建物の中は消灯して仲は見えないし,大部分はガラス張りの作りになっているため,見間違いかもしれない。

 重たい雲が,月の姿を隠す。明日は雨かもしれない。陰鬱な気持ちで,おれは車に戻った。




 契約に向けての打ち合わせを控えて,いつもより早めに出社した。正直,仕事をする気持ちにはなれないが,お客様の人生を左右する大切なことだし,仕事自体は好きだ。余計なことは考えないようにしようと,資料の準備に取り掛かったところで,守田がやってきた。



「すさまじい集中力ですね。それでこそエースです」

「すさまじい集中力を,わざわざ削ぎに来たのか? お前はいっつも,間が悪いんだよなあ」



 いつもの軽口を言ったつもりだったが,守田の反応は薄い。作業する手を止めて守田を見ると,浮かない顔をしていた。

 何かあるな。それも良くないことが。

 できれば,大切な打ち合わせの前にメンタルに影響を及ぼすようなことは耳に入れたくなかったが,守田も遠慮しているのだろう。そんな気配りをしなくていいんだよ,と感謝しながら用件を尋ねた。



「課長が呼んでいます。出る前に寄ってほしいって。込み入った話だから,時間に余裕を持って来るようにって言ってました」

「ややこしい上司に込み入った話をされるんだ,心穏やかにはなれそうにないな。ご立腹の様子で?」

「山下課長,気分屋ですからね。いつものように適当に流したらすむでしょ」



 ファイトです,と言って守田は社内にある自販機で買ったらしき缶コーヒーを差し出してきた。



「なんだよ,気持ち悪いな」

「コーヒーでも飲んで,交感神経をなだめてください」

「こんなの飲んだら,ハリーポッターぐらい長編の課長の演説中に,尿漏れするだろ」



 ありがとな,と礼を言ってコーヒーを一気に飲み干し,襟を正して課長のところへと向かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る