置き土産

第36話 力を合わせて

 赤いたてがみの獅子の化生が、塀を破壊して大路を駆ける。追っているのは、化生からすれば片手でひねることの出来そうな程細い体の人間二人。

「オオオッ」

 真夜中の都に響き渡る咆哮は、都人たちを目覚めさせた上に震え上がらせた。子どもが泣き叫び、母親や父親が慌ててその口を手で塞ぐ。そして我が子を抱き締め、嵐が去るのをじっと待つのだ。

 地響きを鳴らし、獅子は走る。流石に化生であるから疲れも知らず、守親から一歩遅れた紗矢音の身を捕えようと飛びかかった。

「紗矢音ッ!」

 それに気付いた守親が、振り向き様に秘伝を放とうとするが間に合わない。

 獅子から放たれる威圧感は、狐の比ではない。吠え声を聞いて畏縮した紗矢音は、大路に転がっていた石につまずいて倒れてしまう。そしてぎゅっと目をつむり、きたる衝撃を受け止めようとした。

「──っ、大丈夫か!?」

「……? おと、どのっ」

 聞き慣れた声がして紗矢音が瞼を上げると、目の前で白銀の髪が揺れた。一つに結わえられた白髪と、紅色の単の上に重ねられた狩衣。それを見ただけで、紗矢音は心からほっとした自分を自覚した。

 泣き出しそうに歪んだ視界を拭い、紗矢音はしっかりと目を開けた。

 桜音はそんな紗矢音に微笑むと、両手で創り出した結界を更に広く展開させる。範囲は守親の前まで及び、獅子の猛攻を防ぐ。

 透明な壁に跳ね返される獅子を唖然と見ていた守親は、自分たちを呼ぶ声に気付く。振り返ると、友の姿が見えた。

「守親、大姫!」

「明信、お前までどうして……」

 大路の途中、夜中は人通りの絶えた人家のほとんどない区画。息を切らせてそこまでたどり着いていた守親たちは、突然現れた援軍に目を丸くした。

「どうして、なんてご挨拶だな。友の危機に手を差し伸べないなんて、そんな人でなしじゃないからな」

 キッと守親を睨んだ明信は、身をこわばらせる守親に「無事なら良いよ」と笑みを見せた。そして自分を見詰めているもう一人、紗矢音の前に片膝をつき、彼女の顔色や怪我の程度などを確かめる。

「怪我はそれほど酷くないようだね。よかった」

「あの、明信どのはどうして……」

「それは……あいつを倒してからにしようか」

 明信の言葉に反応してか、化生がその力をためていく。それは黒煙のようで、徐々に深く濃く色を変える。

「グルル……」

 太く鋭い爪を上げ、勢いよく振り下ろす。

「あ、まずいかもしれない」

 ――ピシッ

 桜音の冷汗を含んだ声色。それを聞いた化生は口を歪め、笑ったように見えた。ぐっと前足に力を入れると、結界に小さなひびが入る。

 小さなひずみは少しずつ大きくなり、やがて結界全体へと及ぶ。

「くっ……ごめん、みんな。このまま諦めさせるつもりだったけど無理みたい……だ」

 両手を挙げ、手のひらで押し返すように結界を保持しようと踏ん張っていた桜音だが、徐々に外側からの圧力に耐え切れなくなっていく。それが千年桜にかけられた呪のせいなのか、それとも長年使わずにいて鈍ってしまった己の霊力のためかはわからないが。

 霊力を使っているはずなのに、震えが止まらない。桜音は喉からせり上がる悔しさと息苦しさを感じながら、気を抜けば咳き込みそうな自分を律した。

 しかし、そんな彼の手に細く小さな手が重ねられる。背丈の差で届かないが、手首に添えられた指が温かい。この手の主を、桜音は知っている。

「紗矢音……」

「謝らないで下さい。桜音どのは、誰よりもわたしたちを守って下さっています。だからわたしたちもあなたを守りたいんです」

「幸い、無力ではないですから。俺たちにもあなたを守るために戦わせて下さいよ」

「こいつを倒せなければ、一晴たちには遠く及ばないでしょう。……ならば、全力で共に戦うのみです」

「守親、明信……」

 桜音と紗矢音の両隣に、守親と明信がそれぞれ立つ。彼らの手には刀と式が握られ、化生を迎え撃つ支度は整っていた。

「……僕は、本当に幸せ者だな」

 今まで、これほどの頼もしさを他人に感じたことはない。ずっと共にいたいと願った存在は過去に一人だけいたが、二百年前も半分以上眠った状態で誰がかかわったのかは知らない。

 桜音が呟くと、それに気付いた紗矢音が仄かに微笑んだ。桜音がどきりとするほど優しいその笑みは、確かに彼をここに繋ぎ止めた。

「もう、独りじゃないですよ」

「……ああ」

 ひびは今や結界全てに広がり、わずかに前足で押されている場所が凹んでいるようにも見える。桜音は結界を自ら解除することを決め、懸命に伸ばして来る紗矢音の手を掴み、そっと指を絡ませた。

 その瞬間、紗矢音の顔が真っ赤に染まる。指に力を入れると、彼女はより焦燥を見せた。

「――っ、あのっ」

「離れないで」

 抗議の声を上げようとした紗矢音を遮り、桜音は左右に立つ守親と明信と頷き合った。そして、上げたままの方の人差し指と中指を立てて命じる。

「――結界解除」

 ――パリンッ

 透明な結界が自爆したかのように砕け散る。その破片は月明かりでキラキラと輝き、最も近くで結界を破壊しようとしていた化生の目を刺激した。化生があまりの眩しさに悲鳴を上げて顔を背けたのと同時に、守親が飛び出す。

「桜花秘伝――繋桜捕縛けいおうほばくっ」

 振り上げた手を振り下ろして放たれた霊力が桜の枝に変わり、太い枝に変化して化生の足を縛り付ける。前後の足をそれぞれぐるぐる巻きにされ、転倒した化生は呻き声を上げた。

 更に枝葉は伸び、胴体へも枝を伸ばしていく。

「これで、動きは封じた。――今だ」

 守親の言葉に、紗矢音と明信が頷いてみせた。

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