第16話 黒衣の男

 目にも止まらぬ速さで、繰り広げられる攻防。まるで二つの閃光が瞬くようなそれに、紗矢音は目を奪われていた。

 桜音の刀が風を斬ると、黒衣の男は翻って桜音の身を斬ろうと刃を走らせる。すんでのところで躱し、桜音は男と切っ先を向かい合わせた。

 更に男の刃は素早く桜音の袖を裂き、ぼろ布のようになったそれを桜音が引き千切った。短くなった袖から伸びた白い腕は、今や赤く染まり傷を受けている。

「凄い、二人共。……でも」

 二つの光は拮抗して見えた。しかし、紗矢音の表情の曇りは晴れない。戦いの素人である紗矢音にもわかるほど、黒衣の男が徐々にせり上がっているのだ。

 紙一重で男の斬撃を躱した桜音は、ズササッと地面を滑り足を踏み締める。そして、口の中に感じた血の味を飲み込む。

「くっ」

「はははっ。どうした? キレがないぞ!」

 高笑いをした黒衣の男の一閃が、桜音を襲う。それは桜音の右腕を直撃し、鮮血が舞った。

「──……っ」

「だいじょうぶ、だからっ」

 痛みに顔を歪める桜音だが、彼の名前を呼べない紗矢音の苦悶に笑って応じる。顔色が悪いが、おそらくそれは首にある『呪』と怪我のためだろう。

 桜音は歯を食い縛ると、立ち上がって刀を構え直す。痛み痺れる右手に左を添え、力強く地を蹴った。

「だあぁっ」

「ぐっ……ふんっ!」

 斬撃に息を詰め、黒衣の男は刀を振るう。それを弾かれると、左手で印を結んで指先を桜音へ向ける。

「……ざん!」

「いっ――かはっ」

「――とっ……!」

 刃が届いた訳でもないのに、桜音の肩に斬り傷が入った。思わず左肩を手で庇う桜音は、流れる血を横目にして眉間にしわを寄せる。

 紗矢音は桜音の名を叫びそうになり、慌てて口元を手で押さえ付けた。それでも指が震え、呼吸もままならない。胸の奥で、何度も絶えず桜音の名を叫び続ける。

「くそ……。お前は何者だ?」

「まだ痛め付け足りぬが……頃合いらしい」

 自身も腹部に裂傷を負いながら、男の表情は歪んだ笑みに彩られている。血を流す傷に触れながら、男は名乗りを上げた。

「我が名は真穂羅まほら。和ノ国を真に統べるべき方にお仕えする、ただ一人の術師。……次会う時は、千年桜──貴様は終わりを迎えよう」

「真穂羅。覚えておく」

 桜音は「終わりを迎える」と言い放つ真穂羅の言葉を無視した。そして、冷え冷えとした声色でそれだけを告げた。

「ふん……また会おう」

 真穂羅は鼻を鳴らして不満を露にすると、衣を翻すようにして姿を消した。地面に残った赤黒いしみが、真穂羅という存在がそこにいたことを示すのみだ。

 明確に敵を知ったことで、今後の方向性は定まった。真穂羅の気配が完全に遠ざかったことを感じ取り、桜音はようやく息をついた。そして、離れた所で口を押さえて震えている紗矢音に向かって微笑みかける。

「一先ず、いなくなってくれたようだ……っ、どうし……」

「本当に、死んでしまうかと思いましたッ」

「紗矢音……」

 紗矢音にしがみつかれ、桜音は困惑の表情を浮かべる。しかし胸にすがられ声を殺して泣く紗矢音を突き放すことはなく、優しく彼女の髪をく。

「怖い思いをさせてしまったね。もう大丈夫だから」

「――っ。そうじゃ、ない」

 桜音は、紗矢音に怖い思いをさせたことを先に案じる。しかし紗矢音自身は、そんなことよりも桜音自身をおもんぱかって欲しいと願った。

 震えてつっかえそうになる喉から、懸命に言葉を紡ぐ。

「わたしは、廃寺に行くと決めた時から、怖い思いをすることも怪我をするかも知れないという可能性に対しても、覚悟をして臨んでいます。だけど、わたしが護りたいと願うのは、あなたのことなんです!」

「……紗矢音」

 思いつく言葉の限りを尽くして訴える紗矢音。その勢いに圧されつつも、桜音は彼女の真っ直ぐな想いをぶつけられて呆気にとられていた。

 そんな桜音の心を知る由もなく、紗矢音は言葉を続ける。

「わたしはあなたが傷付くのを見たくないから、刀を手に取ったし、これからも兄上や明信どのと一緒に血を見る戦いであろうと飛び込んで行こうと思えるのです。……なのに、何故あなたはわたしのことを案じて下さるのですか? 呪を受けて苦しんでいるのは、あなたのはずなのに!」

「それは……っ、まだ、言えないよ」

「どうし……て?」

 傷のある場所には触れず、紗矢音は身を乗り出す。そうして迫っても、桜音は肝心なことは口にしない。それをもどかしく思い、もう一押ししようと思った瞬間、紗矢音は自分が何をしているのかということに気付いた。

 真穂羅との激しい戦いで傷つき、所々破れた狩衣を身に着けたままの桜音。彼の胸元の肌が露わになり、白く引き締まった体躯が垣間見える。自分がその体に直接手を置いて、しかも鼻先が触れそうな程近付いてしまったことに気付き、紗矢音は一気に赤面した。

「あ……ひゃぁっ! ご、ごめんなさいっ」

「え? あ……い、いや」

 一気に距離を取り、首元まで真っ赤に染め上げてしゃがみこむ紗矢音。頭を抱えて全速力で駆ける胸の奥を持て余し、ごめんなさいと繰り返した。

 兄と父以外の男性とここまで近付いたことがなく、紗矢音は混乱のただ中にいた。

 紗矢音と同じく赤面していた桜音は、彼女に手を差し伸べようとして思い留まる。

(僕は、紗矢音にまだ隠し事をしているままだ。そんな僕が……あなたの傍にいることは許されるのだろうか?)

 桜音は静かに息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。それから紗矢音の傍に立って彼女を促した。

「ほら、立って。守親たちも戻って来るだろうし、出迎えなければ」

「――はい。あの、手当てもしなければいけませんね。こちらへ」

 紗矢音はまだ赤みの残る顔でわずかに微笑み、邸へと階を上がって行く。彼女の後ろ姿を見詰め、桜音は誰にも聞こえない程小さな声で呟いた。

「……こんな僕を、桜を懸命に助けようとしてくれて、本当にありがとう」

「桜音どの、何かおっしゃいましたか?」

「いいや」

 桜音は首を横に振り、不思議そうにしている紗矢音のもとへと歩いて行った。

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