第22話

「——————」

 辺りが静まり返ったその時、二人の耳に入ったのは人の声のような音だった。

「今、声聞こえんかったか?」

「うん。誰か居るのかな?」

 波止場の南、川の方で発生した声のもとへ近寄ろうとするロクサーヌを、千月は制止する。

「危ないから下がっとき」

 瞬時に黄金の鳥に変身できるように構えたまま、時間が過ぎて行く。茫洋と視認できる人影は何やら帽子のようなものを被り、手を振っている。

「おうい、大丈夫かーい?」

 やがて声がはっきりと聞こえるようになると、ロクサーヌは警戒を強めたままの千月を差し置いて、駆けだしていた。

「おじさま!」

「おい! 王女さん!」

 千月も慌てて追いかけるが、彼の者に敵意は感じられないどころか、ただの老境に差し掛かった市民であった。この時間、このタイミングで訪れた珍客にしては、いささか拍子抜けに千月は思えた。

「ロクサーヌ様! このような海岸で、一体どうされたのですか」

 息も絶え絶えに悲愴を顔に滲ませて嘆く男は、ロクサーヌを舟で運んだ船頭だった。

「少々込み入った事情がございまして……。ですが、私は何ともありません。ご心労、ありがたく思います」

 それを聴いた船頭は膝をついて、まるで神を拝むかのように涙を滂沱としている。

「ああ、真っ青に光り輝く樹が見えましたから来てみれば、ロクサーヌ様がご無事で何よりです。わたくし共は貴女様が生きているだけで万幸この上ないのです。珠玉のような御尊体に傷の一つでも付くだけで、私たちは悲しみに涙を河とするのです」

 仰々しい物言いの船頭にロクサーヌは苦笑を隠せなかったが、しかし船頭は本心を語っていた。

「ごめんなさい。それほど気に掛けて頂いていたとは露知らず……」

「なして謝られるのですか。ロクサーヌ様がお生まれになった時分から、国民一丸となって我が子のように見守っておりましたのです。親が子を大事に思うのは当然のことですよ」

 思えば、ロクサーヌは施されてばかりの人生だった。彼女はこの世に生を受けたその時から万人に笑顔を向けられ、認められ、甘やかされた環境の中に居た。台風の目の中では嵐の猛威を実感できない。だが、国の動乱という嵐に巻き込まれて、初めて日常の尊さにロクサーヌは気が付いた。王女としての務めは王家の義務だけではなく、国民への御恩でもあるのだ。だからこそロクサーヌは恥じ入った。フロネーと同じくらい恩返しをしなければならない人々を見失っていたのだと。

「私、親友のことばかり考えていました。でも、大切に思ってくれる人が他にもいたんですよね。ありがとうございます。貴方のおかげで、王女としてすべきことがわかりました」

「なんと御心魂の崇高なるお方でしょうか……」

 感極まった船頭は平伏しそうになったが、さすがのロクサーヌも押しとどめる。

 が、さらなる困難の前兆が彼女たちの鼓膜を波立たせた。

「ugggggrrr———shhhhh」

 巨人の咆哮。それと蒸気が排泄されるような歯擦音が森の中から轟く。

 何事かと唖然とする二人をそのままに、変身した千月は瞬く間に飛翔する。彼女が滞空しながら見届けたのは、目を疑う光景だった。

 南東から昇る月の光を独り占めにせんとばかりに、巨体は森林に大きな影を落とす。それだけでも圧巻だが、あろうことか影は動き始めていた。巨人の膝まで届く樹々は、音こそ減衰し聞こえないものの、その歩みに為すすべなく次々となぎ倒されていく。北の祭壇を見つめたまま動かさない視線は、まるで夢遊病患者のように虚ろでもあった。

 千月は同時に襲ってきた違和感と悪寒を持て余し、身震いした。

「一回り大きくなっとらんか……?」

 千月は脳裏に焼き付いた数時間前の巨人の体と比べた。見間違いであって欲しいが、土の肉体の厚みが増していることは否定できなかった。

 千月は羽を広げたままゆっくりと降下する間、電光石火のように思考を一巡させる。

 北部の祭壇は初代シンフォレシア王の治世から存在する、神鳥を祀るための特別な施設だ。国家転覆を狙うイポスティが目指す以上、何か目的があるに違いないが、具体的な理由が千月にはわからなかった。けれども、彼女に刻まれた紋呪は危機を告げるかのように疼いている。おそらくは神鳥の警告、とりわけシンフォレシアの存亡がかかっていると憂慮すべき事態なのだろう、と千月は思い至ったが、依然、巨人への対抗手段がない。このまま傍観していても反撃の機会は訪れない上、もしイポスティがさらなる力を持ってしまえば、対抗はおろか、逃げる事さえ不可能に近くなる。しかし、どうやってシンフォレシアを救うべきなのだろうか。

 砂を踏みしめた千月は不安を隠し、ロクサーヌに一部の状況を伝えた。

「王女さん、巨人が祭壇に向かってる。何をしでかすか知らんけど、背中がむず痒くて仕方ないねん」

「私も、右腕が叫んでるみたいに痛いの」

「祭壇に何があるか知っとるか?」

「うーん……。巡礼はしたことあるけど、お祈りをしただけだから……。あ、でも、あそこは神鳥様への祈りが一番良く届くところなの。フロネーの師匠はそれを利用するのかも」

 ここが分水嶺なのだろう。千月は決断を迫られて、思案に集中した。

 シンフォレシアを守るためには、やはり死力を尽くして決戦を仕掛けるしかない。船頭と言葉を交わしているロクサーヌが、その身に秘める紋呪の力を解放できれば一縷の望みはある。無謀で分の悪い賭けでも、最後のチャンスだ。

 その前に、千月はロクサーヌに確認すべきことを持ち出した。

「さっきも言ったけど、あたしにはシンフォレシアを守る使命がある。フロネーのためやなしにシンフォレシアのために戦うんなら、協力はやぶさかやない」

 籠手を抱えて自身の紋呪を覗くロクサーヌの瞳には、固い決意が表れていた。

「これまで皆には助けてもらってばかりで私、王女らしいことなんて一つもやってない。だから行きます。フロネーもきっと喜んでくれると思うから」

「アホ、本音が駄々洩れやないか。けど、よく言った」

 ぽんぽん、と千月はロクサーヌの細い肩を叩く。護衛を必要とする華奢な身体でも、なぜだか頼もしく思えた。

 翻ったロクサーヌは船頭の手を取って、諭すように語り掛ける。

「私たちはこれから戦場に赴きます。どうか嘆かずに勝利を祈ってください。それだけで励みになります」

「ぜひ……ぜひ祈らせてください。そして必ず、私たちにまた元気な姿を見せてください」

 深く一礼したロクサーヌは黄金の鳥に変身した千月に掴まり、感慨にふける船頭を残して飛び去った。

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