第3章

第19話

 夕焼けを今か今かと待ち望む太陽が西の空に弧を描く頃、千月は水上機の操縦桿に手汗を滲ませていた。凪の中、上空に飛び上がった機体が激しく揺れることはない。フロントガラスの下に犇めく電子計機を見ても、それが担保されているのは歴然だった。ベテランの飛行士からすれば千月は半人前にも達しない素人同然ではあるが、17歳から8年間のフライト経験による肌感覚でも、憂慮すべきことは一つもない。安全確認をおざなりに急発進したフライトは、しかし悲しいくらいに順調だ。

 ———島の南方にそびえ立つ土の巨人が、じっと北を向き続けたまま静止している。

『アレ』が存在し、対抗手段も皆無だ。たとえ黄金の鳥となって相対しても破壊までは叶わない。紋呪を持つ千月は、あの巨人はロクサーヌの紋呪の数百倍の力を内部に蓄えていることを知っている。せいぜい数分の足止めが精一杯で、命を賭したリスクには相応しくないリターンと言えよう。

 霧が迫るにつれ、島は遠のいていく。馬車とは比べ物にならないスピードでは、感傷に浸る暇もない。

「あんだけ死んで、手に入れたのがロクサーヌだけなんか」

 このままシンフォレシアを見捨てようとしている自分の薄情さに、千月は嫌気がさした。

「けど、こうするしかないんや……」

 情動のままに急旋回して、巨人と対峙する。無謀さを燃料にして巨人へ特攻しようとする両腕を、千月は窘めた。単なる私情に、後部の座席で眠るロクサーヌを巻き込むことはできない。もはや少数になってしまった貴人であるからこそ、なおさらだった。

 航行の隙を見て、千月はロクサーヌの寝顔を顧みた。小さく口を開いて、苦しみを知らないように安穏にしている。フロネーから聞いた情報が正しければ、彼女は知らない。家族が死んだことやフロネーを置いてきたこと、イポスティの企みが今まさに達成されようとして、シンフォレシアが乗っ取られてしまうことも。

 ロクサーヌの瞼が薄く開いた。

「貴女……その顔。……千月さん?」

「正解。なんや、もう起きたんかいな」

 名前も顔も覚えられていることに千月は驚いたが、彼女の高い身分を鑑みれば当然だった。ロクサーヌは王室に仕える形式上、千月の上司に当たる。その手前、垣間見るなり伝え聞くなり、知る機会はいくらでもあったのだろう。

「シンフォレシアにいらしていたんですか……」

 立ち上がろうとするロクサーヌを、シートベルトが阻んだ。彼女は朦朧とした焦点で自分のお腹辺りをまさぐって、縛り付ける帯を解除した。

「王女さん、寝ぼけとるやろ。ええよ、眠っとき。しばらくしたら安全なとこに着いとるから」

 それでもロクサーヌは彷徨うような足取りで副操縦席に座り込んだ。

「なんや、お話でもしたいんか?」

「ええ、シンフォレシアのために心身を尽くしてくださっている千月さんと、かねてからお話したいと思っていました」

「それは嬉しいな。けど、ほんまに大丈夫なんか?」

 千月に向かったまま背もたれにもたれかかるロクサーヌの瞳はとろんとして、腕にも力が入っていない。まだ夢の最中といったところだった。

「貴女はこの島の誰よりも外の世界を知っているんですよね。その一つまみを、どうかお聞かせください」

「ええけどな、その前にこれ受け取ってくれんか」

 千月は壁に掛けたショルダーバッグから「ほら、あんたのや」と、青い籠手をロクサーヌに手渡した。

「えっ」

 青の火球を模した防具を手に取ったロクサーヌは、それがひどく重く感じられた。彼女は既視感を覚えながらも半ば本能のままに袖を捲り上げ、金属の筒に腕を通そうとする。すると、籠手は両翼の形状に展開し、右腕を迎え入れると元の形に戻った。

 手首の水晶は千月が装着した際と違い、青い波が揺蕩っている。ロクサーヌはまるで皮膚が硬化したかのようにぴったり填まった籠手を眺めると、ぱちり、網膜に閃光のような親友の後ろ姿が瞬いた。その先には立ちはだかる巨人の影。

「フロネーは!?」

 ロクサーヌは機内の背後を見渡した。ベージュの革に包まれる座席に人影はない。彼女がこの乗り物に搭乗していないということは———。

「おいどないしたんや。さっきの淑やかさは嘘かいな」

「フロネーを置いてきたの!?」

 彼女の表情は柔和だった先程までは考えられないほどの苛立ちを含んでいた。千月は王女の豹変にものともせず「言わん」と頑なに拒否する。

「どうしてよ!」

 ロクサーヌは答えを求めたが、千月は口を閉ざしたままかぶりを振った。

「そう———見殺しにしたのね」

「王女さん、フロネーを助けようと逸る気持ちはあたしにもよくわかる。けどな、あんたはここに居らなあかんねん。大人しく座りなはれ」

 だがロクサーヌは「絶対に助けに行く」と譲らなかった。それどころか、彼女の眼は空を向いている。このままでは飛行機から飛び降りかねない。

 千月は焦燥の中、頭に浮かんだ言葉を口に出そうとして、眉を歪めた。できるならこんな事は言いたくない。自分たちの為に犠牲となったフロネーの後姿を侮辱するかのような言葉を、しかし、千月はロクサーヌを想って声にした。

「あいつはあんたを見捨てたんやで」

 ロクサーヌはぴたりと止まった。ボイソスの邪悪な表情が蘇る。フロネーは自分を疎ましく思っていたという、彼の言い分は筋が通っていた。だが、一つだけ、説明できないことがある。

「あの後ろ姿は、身を挺して守ってくれたあのフロネーは、私の知ってるフロネーだった。優しいフロネー。いつも私の隣に居てくれた、たった一人の親友」

 千月が巨人から遁走する直前の光景を、ロクサーヌは朧気ながらも目にしていた。千月とフロネーがどのような会話を交わしたのかはわからない。だが、一瞬だけ振り向いたフロネーは、慈愛の笑みでロクサーヌ達を見送っていた。それは昔日の、二人がスクールで過ごしたあの日々のように。

「だから、私はフロネーの所に行く!」

 ロクサーヌは諭そうとする千月を差し置いて、コックピットのドアを力任せに押し倒そうとした。だが、厳重なロックが掛けられたドアにどう力を加えてもびくともしない。そもそもこの壁はドアではないのかもしれない、と疑問が彼女の頭をよぎったが、ドアノブを想起させるハンドルが取り付けられていた。

 ロクサーヌが脱出口を見つけようと目を皿にする背後で、千月は彼女の首へ音もなく手を伸ばす。裸締めの要領でロクサーヌの首を捉え、天井から垂れるシートベルトで胴体を座席に固定する。瞬時に行えば、王女然としたロクサーヌは動転して、歯向かわれる前に方が付くだろう。千月は頭に描いた青写真で、無警戒なロクサーヌの隙を突こうとする。

 だが、ドアに体当たりするロクサーヌは突如として迸った直感で、ドアハンドルとは別の、装飾かのように赤く塗られたレバーを引き上げた。彼女は見事に正解を引き当てた。

「ちょ、待たんかい!」

 息を潜めていた千月は声を上げざるを得なかった。ロックを解除し、今にも逃げ出しそうなロクサーヌは自暴自棄になっている。しかし脱出の足掛けとなるドアは、千月の心配を慮るかのように僅かにしか開かない。

 それもそのはず、馬車とは比べ物にならない速度で空中を疾走する機体は、風圧を受け流す必要がある。ロクサーヌが行おうとしていることはその逆。猛烈な風圧に抗って、平らに近い障害物を風の中に打ち立てることだ。無論、ロクサーヌの華奢な膂力では開くはずもない。虚しくも、ロクサーヌは頬をサイドガラスに付けてまでドアをこじ開けようと、一心不乱に立ち向かっていた。

 無駄な足掻きを見せるロクサーヌに、千月は安堵しながら手を戻した。手荒な真似をするまでもなく、速度を上げるだけでロクサーヌの脱出を阻むことが出来る。ロクサーヌにとってここが鉄の鳥籠と化したのならば、都合が良い。このまま霧を超えようと千月が操縦桿を握りなおした矢先、微かに感じた力の波動に彼女は相好を険しくさせた。

 ロクサーヌへ目を向けようとした千月は、荒々しい突風に瞼を閉じた。手のひらで顔を覆ってやっと、薄目でロクサーヌの後ろ姿を黙視できる。彼女の先にあったのは———空。ロクサーヌを阻む檻のドアは、強引にも引きちぎられていた。

 千月は「もう堪忍してや……」と、心の中でか細く呟いた。

 ロクサーヌを止めなければならないことは千月もよくよく承知している。だが、飛び降りる寸前まで王手をかけられれば、もはや体術は危険行為だ。

「あんた自殺する気か!? ここは高度700メートル。落ちればひとたまりもないで!」

 千月は慌てて事実を羅列する。強烈な言葉で牽制すれば、純朴なロクサーヌは思い止まってくれるはずだ。

 その思惑が叶ったのか、大空を目前にするロクサーヌにはたちどころに不安がせり上げていた。生まれて初めて達した高度、その高さは現実味がなく、だからこそ未知からくる恐怖は底知れない。待つのは、おそらく死。親友よりもまず襲い掛かる死を憂うのは当然のことだった。

 キーン———。

 ロクサーヌに聞こえたのは、鉄を裂くようでありながら、清澄にして流麗。偉大なる玉音ぎょくいんだった。今、ロクサーヌの手にはかつて神殿で味わった温みの残滓が蘇っていた。それは彼女の背中を押すように、数多の不安を取り払う。

「行ける!」

 ロクサーヌは両脚に勇気を込めて、大空へ飛び立った。

 あるいは、剣山刀樹でも見えていれば彼女でも諦めがついたかもしれない。

 比喩ではなく、文字通りの落下。直下には波もなく水平を保ち続ける海面が広がっている。これでは緩衝材どころか、地面に追突するのと変わらない。命綱もパラシュートもない自由落下では、彼女は10秒後に悲惨な最期を迎えることは確実だった。しかし、ロクサーヌはそんな重大な事実さえも些事にすぎないと断じて、その双眸で島へ熱を向ける。彼女の意中にあるのは、フロネーただ一人のみであった。

「私だって、フロネーを守れるんだから!」

 紋呪を囲う青の籠手が、煌めいた。籠手を構成する極小単位の原子が紋呪から流れる力に励起を始め、エネルギーの塊として確立する。青の籠手は輝き、まさしく空を駆ける一筋の星となった。いまやその威力は火球にも劣らない。

 きっちり10秒が経つ、その直前。ロクサーヌの身体はふわりと上昇し、水面をかすめた。

 背中で羽ばたくは一対の翼。青の炎が絶え間なく出でて、架空の羽毛を現出させる。炎の両翼は見かけではなく、ロクサーヌに空を思うがままに闊歩できる力を与えていた。

「飛んでる……!」

 これなら絶対に、フロネーのもとへ行ける。確信を胸に、ロクサーヌは高度を上げた。

 千月は水上機の中で、予想外なロクサーヌの解決策にあっけに取られていた。ショルダーバッグを肩に掛け、ロクサーヌを助けるためにコックピットのドアを開けようとしていた千月は「んなアホな……」と感嘆を漏らす。

 あれは千月の持つ権能、『黄金の鳥クリソス・ファシアノス』ではない。異聞の神鳥はあくまでも神鳥とは異なる存在だが、ロクサーヌの翼は伝承通りの姿形を呈している。つまり、彼女はその血筋通り、神鳥に最も近いものとしての証左を打ち出した。

 千月はシンフォレシアが祀る神鳥の威容の一端に見惚れて、敬愛の念を感じた。だがそれも束の間、ロクサーヌの翼は瞬きの間に、まるで燃料が切れたかのように、消えていた。

 飛ぶ能力を失えばどうなるか。理性が回答を出力するよりも早く、千月は黄金の鳥に変身していた。

 破られたのとは反対側のドアを蹴り、得た推進力で機内から飛び出した千月は、ロクサーヌの落下速度を見極める。そして、疾風と形容するに値する飛行をもって、ロクサーヌへの最短距離をなぞった。

「千月さん……」

 千月は手抜かり無く、ロクサーヌの身体を趾で掴んでいた。

「んもう、こっちの事情も考えんとわやきよって……あとでどたまどついたるからな」

 彼女たちの傍らで、水上機は海岸から離れた水面に白波を立てて衝突した。

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