第9話

 王城のキッチンは休まらない。

 300を超える貴人や使用人、兵士の料理を賄い、貧しい人への喜捨も施す。その分量を直火で調理するため、天井は熱がこもらないように高い吹き抜けになっている。使用人は小窓から料理を受け取り、食堂や部屋に給仕する。彼らはまさに料理限定の運送業者になっていた。

 城を往復する彼らを一人ずつ捕まえて、ロクサーヌ専属の使用人であるファシアはあることを尋ね回っていた。

「ロクサーヌ様を見かけませんでしたか?」

「ロクサーヌ様……ですか? そういえば、今朝は見かけませんね」

 小一時間、彼は人をとっかえひっかえ、同じ問答を繰り返していた。一向に明るい報せを伝える者は現れず、気付けばファシアは王城の至るところへ足を運んでいた。

 今朝、彼はほとぼりも冷めたころだと思い、ロクサーヌを起こしに向かった。だが、寝室は既にもぬけの殻だと気付き、代りに付かせた使用人に行方を尋ねてもさっぱりだった。

 近隣の使用人にも訳を知る者はいなかった。ファシアはネオスの期待を無下にしないためにも、彼女を見つけて叱る必要があった。

 ファシアは廊下を進む。王城は中庭をぐるりと囲む通路が円環になっており、南の広場に面する神殿から北に弧を描き、再度神殿へと繋がる。ファシアはその流れに沿って、神殿の西から円環の内側の広間や寝室、外側のキッチンや洗濯室を調べていた。早朝から始めたはずが、早くも日は直上に差し掛かかっている。

 円環の終わり、神殿の東にある図書館を前にしたとき、ファシアは右の前腕に妙な感覚を覚えた。赤の他人が不躾に指を滑らせるような、こそばゆい動き。ファシアは袖をめくると、薄い紋呪が光を放っていた。

「これは……!」

 唐突にファシアの目は動転した。尋常でない速度で左にずれたかと思うと、視界はプツンと暗転した。

「敵襲だ!」

 耳鳴りに混じって、ファシアは誰かの警告を聞いた。しかし、彼の手足は切り落とされたように力が入らなかった。血液が失われるのとは裏腹に、なぜか体温は上昇する。人の最期は温かいのだろうか。そんなことを考えながら、ファシアはロクサーヌの面影を……。

 強い感情が芽生えた。守るべき誰かを想うと身体は羽のように軽く、青き炎のように柔軟になる。ファシアは瓦礫の中から立ち上がった。神殿があったはずの廊下の先には、外の景色が映っている。だが、ファシアはそれを背にする。そもそも彼には、ほとんど何も視えていない。壁に叩きつけられた彼は正常な人の形を崩し、平たくなった側頭部からは赤と薄橙の中身が垣間見える。圧迫されて左目は破裂し、右目の瞼はうまく開いていない。それでも彼は、まだ足を踏み入れていない、図書館のドアを開けた。


 凄烈な爆発。

 書物を漁り終え、さらに資料室の扉を開けようとした千月が感じたのはその衝撃だった。神殿の方角から到来したのは、図書館を土台から揺るがす振動と音。彼女は天変地異が起きたかのような激動にまともに踏ん張ることもできず、倒れていた。

「なんや今の……」

 書物が本棚ごとなだれ落ちる。千月が数分前まで血眼になって探し物をしていた場所は、大小さまざまな書物の津波に襲われて隠れてしまった。調査が少しでも長引いていれば、彼女は余分に力を使わざるを得なかっただろう。

 瞬時に「逃げんと」と千月は思った。同時に、「資料室を調べんと」とも思った。彼女の天秤はまだ平行だ。だが、先ほどの爆発が神鳥過激派によるものだと推測すると、片方の天秤皿は割れた。

 鍵のかかっていた扉を蹴破って、千月は資料室に侵入した。内部では千月が外の世界から運んできた書物や絵画、地図などが丁重に保管している。

 千月は得心した。最重要機密情報とされ、厳格な情報統制が施されている外の世界の情報があるのなら、ここにシンフォレシアの秘密があるのかもしれない。彼女がちらと見た先には、王城に動乱を巻き起こしたカタストの資料もあった。千月は歪に笑った。

 千月は見覚えのある物品を投げ捨てて、求める物を掘り起こそうとする。この部屋にあることは確かだが、どこに隠されているのかは見当がついていない。

「ロクサーヌ様!」

 男の声が聞こえた。辛うじて聞き取れたが、呂律ははっきりしていない。

 千月に手を止める理由は見当たらず、声の人物に顔を出そうかと思うことさえなかった。

 その男は、資料室のドアの縁を握った。

「ロクサーヌ様! 早く脱出を……千月様?」

 ファシアの困惑も当然だった。命に関わる逼迫した状況下にあっても、千月は火事場泥棒のごとく資料室を荒らしていた。

「早く逃げてください! あの爆発が聞こえなかったのですか?」

「んなもん聞こえとる! でもこっちの方が大事やねん!」

「私はロクサーヌ様も探さねばならないのです! しかし、王城に仕える使用人として、賓客のあなたを置いていくこともできない!」

 ロクサーヌと聞こえた千月は思い出した。最後に彼女の姿を見たのは———。

「———あの子なら、深夜に城を抜け出したわ。行き先はあの森やろうね。……あった!」

 千月は棚の奥から二つの本の束を取り出し、背中に回していたショルダーバッグに詰め込んだ。嬉々として振り返った彼女は、眼前の人物に血相を変えた。

「あんた……なんやそれ……」

 千月は爆発の衝撃とは異なるよろめきで足元が覚束なくなり、壁に凭れかかる。腹の底から上る嘔吐感に口を抑えて、逆流した胃液を飲み下した。

 千月には、ファシアがゾンビにしか見えなかった。人間を逸脱した頭部からとめどなく流れる血流は、スーツを赤黒く、てらてらさせている。顎は変形して口はうまく閉じれていない。はっきりと発声できなかったのはそのためだった。

「ちょっとした反則技です」

「反則技て……限度があるやろ」

 物理も科学も無視した延命。それは神鳥の力でしか成し得ない神の御業だと、千月はファシアを目の当たりにして、頷くしかなかった。

 ドン———。図書館の入り口が激しく叩かれた。恐怖の渦中にいた千月は思わず悲鳴を零してしまい、すぐに後悔した。その声は「まだ生き残りが居る」証拠だった。王城で暴れる過激派はそれを聞き逃さず、怒号は強さを増した。

「千月様、ここは私に任せて早く脱出を。棚の裏に廊下へ繋がる隠し通路があります。……その前に、一つ、頼みを聞いてくれますか?」

 ショルダーバッグのベルトを握って、千月は傾聴する。

「ロクサーヌ様を……誰かが守らねばなりません。ですがこの肉体では、その任を果たせそうにありません。国王陛下やメラク様、セリス様の安否も定かではない状況で、もし城が完全に墜ちてしまえば、シンフォレシアを継げるのはロクサーヌ様一人だけです。

 あなたはシンフォレシアを守ると誓った、そう聞いています。一人前の王女ではないロクサーヌ様には、紋呪の力を引き継いだ誰かが必要です。どうか……」

 ファシアは胸のバッヂを引きはがして、千月に渡す。

 血濡れの青いバッジに視線を落として、千月は考えた。ファシアの発言は理にかなっていた。王城が襲撃された以上、内部の人間が皆殺しに遭っていてもおかしくはない。加えて、王城にはまだメラクやセリスも滞在している。国王と、3人……いや、2人の紋呪継承者が揃っている今を狙ったのなら、高い計画性がある。なおのこと王族の生存確率は低い。なら、確実に生きている方に賭けるのは賢明な判断だ。

 千月は震える手で恐る恐る「わかった」と、バッジを受け取った。手のひらが血で汚れるとピリリ、と痛み、手の甲に数本の羽が生えた。彼女が羽を毟る頃には、もう冷静になっていた。

「ロクサーヌ様がご存命の限り、シンフォレシアは健在です。ご武運を」

 千月は棚を動かして、隙間を這っていった。

 ファシアは折れた両足で図書館に戻る。彼は呼吸もしていなければ、心臓も止まっている。熱が失われた肉塊だが、冷めきらない意志だけで動いていた。

 多数の屈強なゴーレムと錬金術師が図書館になだれ込んだ。一人につき一体のゴーレムが三組、殺意を充満させてファシアを睨みつける。

 きっと隠し通路は露見されるだろう、だが千月が王城から逃げきるまでは戦わなければならない。それは、ファシアにとって人生最大の大仕事だった。


 千月はむせるような空気を出来るだけ吸わないように、全力で廊下を走っていた。この、花火を数十倍に濃くした悪臭が火薬の匂いだと気付くまでに、さして時間はかからなかった。テロリズムかと思案した千月は、すぐさまそれを訂正した。爆発の規模からして、数人が短時間で運べる火薬量ではない。

「敵はとっくに、王城に入り込んでいたってワケね」

 やはり王城に生存圏はない。すると、彼女の本能はいち早く脱出手段を導き出していた。しかし、どんな手段であっても、ある一つの工程を経なければならなかった。

「アホやなぁ、ホンマ。肝心な時に限って忘れもんは笑えんやろ」

 蹴破られたドアを踏んで、千月は中に入る。彼女の部屋はあたかも獣に荒らされたのか、家財道具が散乱して、金目のものは盗まれていた。だが、価値がないと判断されたのか、ベッドは部屋で唯一、元の形状を保っている。千月はベッド下の隙間に手を入れて、フレームの底面に貼り付けておいた鍵を回収した。彼女の忘れ物は、水上機の鍵だった。これが無くては島から出ることが能わず、出られたとしても数百海里を泳いで渡らなければならない。

 危険が迫る中でもひとまずの安心を手に入れた千月は、ベッドを飛び超えて窓を開けようとした。

「チヅキ……サマ……?」

 呆気にとられた千月は着地に失敗し、床に滑り込む。なぜ今まで認識できなかったのだろうか。彼を放置してまで確保しなければならない鍵だったのだろうか。千月は、窓の下でぐったりと横たわるアリオスと目が合って、自分が許せなくなった。

「新人! どないしたんや!」

「僕……図書館に行こうとしたんですけど、ゴーレムと戦った事なんてなくて……」

「静かにせぇ! 手当てしたるから黙っとけ! ああでもこんな傷、どうすればええねん!」

 ゴーレムの仕業には間違いない。彼の腹部には大きな穴が開いている。手の施しようがないはずなのに、千月は合理性もなく必死に頭を絞っていた。

「よかったぁ。僕、見ての通り負けたんです……。千月様を守れなかったって、思ってた」

 満面の笑みは、されど苦しさを感じさせない。ほとんどの器官が死に至った証左だった。

「新人! おいアリオス!」

「まだ誰かいるぞ!」———敵に気付かれた。そう千月は理解していても、未練がましく頭を抱える。

「ああ、よかったなぁ」

 千月は窓ガラスに殴りかかった。格子ごと落下した窓は、青い空の脱出口を作った。その意地悪な青さを目に入れて、千月はアリオスは助からない事を受け入れた。

「なんで……。なんであたしのために二人も犠牲になんねん! そんな殺生なこと、勘弁してくれや……」

 千月はむせび泣きながら、鍵をショルダーバッグにしっかりと封入する。

「絶対にあんたらの仇を討ったる……!」

 室内に突風が巻き起こった。吹きすさぶ風には無数の羽が入り乱れる。部屋まで到達したゴーレムは、強烈な風圧に進行を止め、飛ばされないように地面に手をついた。

 千月の腕にみるみる異物が生える。赤と黄の合わさった高貴な羽が折り重なり、翼を形成する。伸びた両手足は黄色に変色しながら三本の趾に作り替えられ、獰猛なかぎ爪を装備する。

 彼女は人間でもなく、鳥でもない。二つが融合したその姿は、異聞の神鳥、『黄金の鳥クリソス・ファシアノス』だった。

 風圧に負けそうなゴーレム達には手も足も出ない。まるで彼女の尊さにひれ伏して降伏しているように見えた。

 そして、千月は窓の縁に爪を立てかけて、

「お綺麗です」

 掠れた声に振り返らず、ただ聞き届けて、王城を発った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る