第3話

 城から数十キロ離れた西部の海岸。一切の人気はなく、静寂よりも深い沈黙が辺りを満たしている。

 ここには何もない。砂浜を這う生物もなければ、海中を泳ぐ生物すらない。波とは言えないほど微かに揺れ動く海水があるだけで、生命の気配は断ち切られている。

 目線を上げれば、数十メートル上空まで登る霧が、内と外を隔てる境界として立ちはだかる。何人も通さない厚い壁。この場に訪れる誰もが閉塞感を覚え、だからこそ人の営みから遠い海岸は、日中でも人々の気に留められない。

 そこへ続く土道に、青い紋章を荷台の帆に掲げる馬車が走っていた。近づくにつれてじわじわと背丈を伸ばしていく霧を目指して、一頭の輓馬が先導する。馬車が土道の終わりを超えると、砂上に蹄と車輪の軌跡を敷きながら砂浜に入った。その真ん中で手綱が引かれ、馬は動きを止めた。

 乗っていたのは必要最低限の人員、御者と護衛の二人だった。どちらも剣を腰に携えて、甲冑代わりの厚い布に身を包んでいる。彼らの胸には、衣服と同じ青色の、近衛兵を示すバッヂが付けられていた。

 馬車を護衛していた若い近衛は、不安げに海岸を見渡していた。かねてから耳にしていた海岸は話の通りに不気味で、表情を曇らせざるを得ない。彼は肩を叩かれ、情けない声を上げた。振り返ると、老いたもう一人の近衛が腕に巻かれた装置で何かを調べていた。確認が済んだのか、老近衛はこの砂浜で唯一の人工物に脚を踏み入れ、霧の向こう側の何かを待ち始めた。

「これ、何の台なんですか?」

 小走りで追いかけてきた若い近衛は、砂浜から突き出る、細長い木製の床を踏みしめた。床は海の上で途切れており、橋ではないことは明らかだった。

「まあ見ておけ」

 時計にもう一度目を落とした老近衛は、時が来たと言わんばかりに気を引き締めた。

 海に面した霧が、半円状に青く煌めく。霧全体からすれば1パーセントにも満たない僅かな面積。しかし、人を乗せた「何か」が通るには十分だった。光がひとしお強くなったと思うと、大きな影がだんだん濃さを増していく。

 ブロロロロ———無遠慮な駆動音が、極端に物音の少ない海岸をかき乱す。音が大きくなるにつれて、影は実体あるものへ確立しようと蠢く。ついに割かれた霧から現れたのは、二つの浮船で海面を撫でる水上機だった。

 高速で風を切り、いやに高い音を立てるプロペラ。若い近衛は聞いたことのない轟音に耳を塞いで、隣の男に叫んだ。

「なんですかあれ!」

 迫ってくる得体のしれない物体に、若い近衛は足が竦んだ。あの回転している板に巻き込まれれば、きっと数秒もかからずに死んでしまうだろう。けれども同時に、彼は憧憬めいた目つきをしていたのも確かだった。生まれて初めて出会った、理解すら及ばない「アレ」に、心を奪われていたのだ。

 水上機は木の床、波止場を横にして止まった。老近衛は慣れた手つきで浮船から掴んだ縄を木の杭に固定する。

 海岸には先ほどの静寂が戻りつつある一方で、若い近衛の興奮は冷めやまない。

 彼には、この場に居合わせた本来の理由がある。ある人がシンフォレシアにいる間だけ、護衛限定の付添人をすることだ。周囲を見張り、脅威を排し、無事に外の世界へ送り返す。しかし今の彼は、個人的な感情を慎むことが出来なかった。感動を潜めようともしない彼に呼応したのか、コックピットのドアが開いた。

「吉田千月様、お待ちしておりました」老近衛に遅れて、若い近衛も頭を下げる。

 その女性は「あんがとさん」と言いながら、艶のある革靴で島に降り立った。

「霧を通るだけでも羽が生える。難儀な力やで」

 彼女がシャツごと緑のジャケットの裾をばたつかせると、赤と黄の煌びやかな細長い羽毛がはらはらと落ちる。緑と白の上着に黒いパンツの色彩は、その羽には不釣り合いだった。

 若い近衛は、初めて見る異国の服装に目を奪われつつも、足元の羽を一枚、拾った。

「なんや、あんた新人か?」言われて、彼は羽を握ったまま敬礼する。

「はい! シンフォレシア王国軍王室師団から命を受け、吉田千月様がお帰りになるまで護衛の任を担いました! アリオスです!」

「あーそういうかたっ苦しいのはナシナシ。もちっとフランクに頼むわ」

「では、呼び捨てが良いのでしょうか?」

「アホ、距離縮めすぎや。お友達やないねん」

 千月の指先がアリオスの胸を軽く叩く。千月がキャビンの鍵を開けに向かっても、アリオスは間の抜けた顔でそこを擦っていた。

「今回は少ないですなぁ」積まれている書物や物品をまさぐりながら、老衛兵は疑問を口にした。

「なに、4歳下のお姫様が20歳になるって言うからちょっと早めに来てあげたんよ。コネ作り。あの子はこれからの時代に似つかわしくない純朴さんやからね。女王様になったら楽さしてもらおと思うとるんですわ。……一番上の兄貴の即位が濃厚でも、王サマの娘には変わりないし」

「千月様は素直なお方だ」

「それがシンフォレシアの知恵、やろ? 倣ってるだけやて。騙し合ってたら、閉鎖された孤島で社会は成り立たん。でも、もちろんあたしも隠し事はするで。どっかに追放された錬金術師のおじさんみたいにな」

 老近衛は肩をすくめて、何も言わなかった。

 その間も、アリオスは千月の姿をまじまじと観察していた。エキゾチックな横顔は島のどの人よりもさっぱりしていて、とりわけ、顎辺りで切り揃えられた彼女の髪は感嘆に値した。シンフォレシアに黒髪の女性が居ないわけではないが、千月ほどの深い黒を、アリオスは見たことがなかった。

「どしたん、あたしばっか見つめて。そーいうの、こっぴどく叱られるんちゃう?」

 アリオスは魂が戻ったように、途切れていた呼吸を再開させた。

「申し訳ございません! あまりにも風変りで、つい」

「あたしは外の世界で生まれたから、風変りは当然」

「外の世界ですか……」

 アリオスは手中の羽を、千月と見比べるように眼前に掲げる。この羽はまさしく王族の血を継いでいる証明ではあるが、彼女の身なりは未知の異邦人に変わりない。

「混じった血じゃあ、神鳥サマから授かった権能はなかなか言うこと聞いてくれへんの。親族の癖して、こんな言い訳しょうもないけどな」

「そんなことありません!」と否定する彼に、千月は「お世辞はええよ」と手をひらひら振った。

「ほら、はよ荷物運び手伝ったげ! 馬車なんやから一日弱かかるやろ?」

 千月はアリオスを急かすと、老近衛が抱える荷物を少量取り上げて、馬車の荷台に乗り込んだ。


 日が落ち、闇に島が沈んでも、霧は見上げる者を威圧する。短い睡眠を数度挟む内に目が冴えてしまった千月は、けれども記憶に残る霧の姿より微妙に薄くなっていることが気がかりだった。彼女は写真で経過観察することも考えたが、記録が残るのはまずかった。あの霧は島の外から観測できない。日本はもちろん、様々な国とシンフォレシアとの外交の可能性を潰す絶壁だが、同時に防御壁として機能している一面も否定できない。蒸気期間すらない中世のヨーロッパを地で行くシンフォレシアがもし解放されてしまえば、文明レベルの差で島が蹂躙されるのは火を見るよりも明らかだ。

 千月はそれを望まない。だからこそ、他者から取り出されない「記憶」は絶対的な信頼を有していた。

「新人」

 千月は荷台から、はや遠くの霧を見やりつつ質問を投げかけた。

「あたしが留守の間、シンフォレシアはどうやった?」

 しばし思案したアリオスは、落ち着いた口調で事実を語る。

「もっぱら、神鳥過激派と呼ばれる暴力集団への対処に注力しています。彼らは主にネオス様の御子息様、メラク様とセリス様の領地で度重なる威嚇行為に及んでいますが、未だに足取りがつかめていません。しかし、シンフォレシア城周辺での活動は見られないため、城の兵が100人ほど、それぞれの警護にあたっています」

「100人……だいたい全兵力の8割弱か。あんたはどう思うん? この状況」

「城の兵力を減らすのは危険だと進言しましたが、ネオス様の指示だと……」

「ネオスおじさんの親バカも大概にしてくれな世話ないわな。でもあんた、なかなかできるやん。近衛のバッヂも伊達じゃないんやね」

 月明かりに照らされて、千月は艶やかな薄笑みを浮かべる。再度目を奪われそうになったアリオスは「恐縮です!」と下を向いた。

「気に入った。あたしの話し相手になり」

 彼の目線の先に白い書物が置かれた。アリオスはそれが外の世界から持ち込まれた大判の写真集だとわかると、堪らずに返してしまった。

「こんな機密情報、受け取れません!」

「気にせんでええ。どーせ文字読まれへんやろ? ちょっと写真見るくらいばち当たらんて」

 知るはずのなかった世界の情報にはアリオスも垂涎を隠せない。だが、高鳴る胸はどちらに見惚れようとしているのか、アリオスには判別できなかった。

 彼は腕を戻して、恐る恐る固い表紙をめくる。そこには———。

「それが外の世界。自然があって、たくさんの人間がおるのはここと変わらん。でも、ごっつ高い建物とか目がイカれる色に囲まれてんのはこことはちゃう。あんたの感想、聞かせてや?」

 アリオスは視界がパチパチと明滅するような幻が見えた。たとえ夢物語でも思いつかない遼遠の世界。彼の唇はひとりでに、純粋な胸中を紡いでいた。

「きっと、楽しい世界……なのでしょう———」

「半分正解……やね」

 感銘に水を差す不快感を奥歯ですり潰して、千月は言った。アリオスの目の輝きは本物だ。けれども、千月からすればシンフォレシアの方がよっぽど美しく見えた。

「はい、そこまで」

 次々とページをめくるアリオスの手を掴んで、千月は本を回収する。「あ」と声を漏らしたセリオスに背を向けて、千月は体を倒した。

「さ、あたしは寝るから番よろしく」

 鮮明な意識を混濁させようと千月は目を閉じる。なかなか休まらない頭は、いきおい考えを巡らせた。

 警戒を忘れて熱中するアリオスは未熟な兵士に違いなかった。もし彼がしくじっても、千月には危機から自分を守るだけの力がある。彼女が憂うことと言えば、アリオスをも登用するしかないシンフォレシアの緊迫した情況だった。

 輓馬は青い炎を手掛かりにして夜道を進む。アリオスは千月の気配にそわそわする心を、後方の闇の恐ろしさで中和させた。

 闇の中では何が喉を鳴らしているかわからない。しかし彼は、どんなに凶暴な獣に襲われようと、千月を守るために全力で対峙する覚悟があった。武器を押さえる逆の手に、黄赤の羽をつまみながら、アリオスは闇の番を続けた。

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