第2話

 蒼い空はどこまでも澄んで、どこまでも続く。手を伸ばしても届かず、届かないからこそ清廉せいれんに佇む。神鳥を祭るために建てられた神殿の天窓は、空を円状に切り取り、あたかも限りあるものとして見立てているかのようだ。それでもネオス・シンフォレシアにとって、空は手の届かない天蓋だった。

 巨大な二枚扉に彫られた神の姿を、ネオスは拝見する。岩盤に両翼を勇猛果敢に広げ、旺盛な炎に身を包む。炎は青く、さらに深い群青で神鳥は丁寧に着色されていた。

 神鳥———初代シンフォレシア王とその同志らと共にこの地に舞い降り、王国の礎となった、今を生きる神。民からは絶えず崇められ、報いとして神鳥は彼らに恩恵を賜す。

 ネオスは、神殿の神鳥壁画を前にすると、不思議と四肢が虚脱して、動きが鈍った。

「ゆるしたまえ、我らが神鳥よ。ゆるしたまえ、我の罪を」

 そう言い放つと、ネオスはこの一瞬で見違えるほどやつれたように見えた。白髪が勝った青い毛髪はくすんで、彼が眉を顰めるほどに皺が深く染みついていく。過労と心労で、とても50歳には見えなかった。

 神殿の中央、円形に盛り上がった台座の四方には、篝火を保つ鉄具があった。

 ネオスは篝火を灯した。神の威光、恩恵をそのまま反照しているかのように、炎は熱く、青い。

「ファシア、君にはロクサーヌの警護を任じたはずだ」

「国王陛下、大変申し訳ございません」

 ファシアはじっと、台座に向かって深々と頭を下げていた。

「神を信じる限り、神は我々に力を授けてくださる。しかし、それは同じシンフォレシアの民である敵にも、分け隔てないこと」

 ネオスは篝火の中へ松明を押し込むと、老いて肉の落ちた前腕を露わにした。その内側に刻まれた片翼の青い模様をしっとりと撫でながら、また口を開く。

「これまでのシンフォレシアは健やかであった。この島は一つの家族同然に、限られた資源や土地を分かち合って生存してきた。だが、これからは動乱を迎えなければならない。霧が晴れる前のひと悶着……とはいかぬだろう。万が一、命に関わることがロクサーヌにあれば……」

 ネオスが振り向くと、ファシアは顔を上げないまま唇をきゅっと結んだ。

「ファシア。ロクサーヌ専属の使用人であるお前が守るしかない」

「この命に替えても、必ずお守りします」

 凛とした決意が石の壁を跳ね返り、何重にもこだまする。想いの深さを量ってネオスは満足したのか、ファシアに見えない横顔で口端を上げた。

「そうだ。君に、少し力を分けよう」

 手を差し出したネオスの意図を慮って、ファシアもすぐさま袖を捲る。二人は互いの前腕をすり合わせて深い握手を交すと、ファシアの腕に、熱が痛みとなって奔った。

「これは———」

 手を離すと、そこにはネオスと同じ片翼の薄い模様、シンフォレシアの紋呪が刻まれていた。

「一度限りの、ほんの僅かな力だ」

「そんな……これほどの大儀、私の身に余ります」

「重責と感じるか。ならば耐えて見せよ。屍となってもロクサーヌを守るのだ」

 ファシアは打ちのめされそうな心を押しとどめ、誠意を込めた礼をもって自分を奮い立たせた。ファシアにとって、ネオスの心配は察するに余りあることだった。

 その背後で、神殿の入り口が軋みながら開いた。

「ファシア?」と言いながら入ってきたのは、ロクサーヌだった。今朝の怪我のせいか、頭には白い包帯が巻かれている。彼女は二人を見ると、庇うようにファシアの傍らへ迫った。

「お父様、あまりファシアを責めないであげて。勝手に抜け出した私が悪いんだから」

「いいや、別の話だ。ファシア、下がりなさい」

 ファシアは神殿を後にする前に、眉を曇らせるロクサーヌへ微笑んだ。清々しい彼の笑顔に、無垢なロクサーヌは嬉しそうに手を振る。信頼するファシアが大丈夫と言うなら、ロクサーヌは安心できた。

「ロクサーヌ、どこに行っていたんだい?」

 ファシアが居なくなると、ネオスは一変してロクサーヌに駆け寄った。彼女の包帯が、ネオスの目にはさも痛ましげに映った。

「少し街に出ていたんです。ごめんなさい。でも傷はほんとうに大したことないの。ファシアがね、明日に大事な儀式があるから必ず治します、って大袈裟な手当てをしてくれたんです。お母様ったらこれを見て飛び上がってしまって。あまりにも唐突でしたから、私も驚いてしまいました」

 ロクサーヌはその光景を思い出して声を弾ませながら話した。一輪の花を思わせる可憐な彼女の姿に、ネオスは張り詰めていた何かが緩んでいく気分に浸った。

「お父様? もう私は20になるんですよ?」

 言われて、ロクサーヌの髪を無意識に撫でていたネオスは、にわかに手を離した。だが、なおも人差し指はロクサーヌの方へピクリと動いた。

 平然を取り繕って、ネオスはゆっくりとした足取りで岩盤の扉に向かう。「来なさい」と呼ばれてロクサーヌも歩き出すと、ふと視線を感じて空を見上げた。

 天井のガラスの縁に野鳥が一羽、止まっている。嘴を下に向け、黒い瞳が神殿を見下ろしていた。彼女は見られているような気がして目を細めるが、右手の方から割り込む太陽の光で、視界は眩い光に覆われた。ロクサーヌは片手で光を遮ると、野鳥の姿は消えていた。

「あの扉の向こうに何があるか、知っているな」

 ロクサーヌは父の声が聞こえて我に返った。彼は、神鳥の姿が描かれた重厚な扉を指差して、ロクサーヌの答えを待っている。

「もちろんです。初代シンフォレシア王が握った『無辜なる契約の剣シンフォレシア・カリバー』でしょう?」

 これくらい当然よ、と得意げにロクサーヌは答えた。

「ああ。神鳥の尾から落ちたとされる一振りの聖剣。神鳥とシンフォレシアの民との契約の証であり、シンフォレシアを害する巨悪を討つべきその時まで安置されている」

 ロクサーヌは幼い頃に受けた歴史の授業を思い出していた。今のシンフォレシアの人々のずっと昔の祖先は、はるか遠くの大陸からこの島へ移り住んできたという。家財も土地も歴史も風俗も、何もかもを捨てて、ただ命だけを神鳥に運ばれた。それがおおよそ1500年前のことで、神鳥は北部の土地で眠りにつく前に、力を一人の人間に託した。それが初代シンフォレシア王であると。

 ロクサーヌは、かの偉大な人物が祖先だ、と言われても到底実感できなかった。自分がそれほど強く、賢明だとは思わない。国の舵を取り、民の命運を握るという重責を自ら進んで背負おうとも思えない。きっとどこかで挫けてしまう。ロクサーヌの実感はたったそれだけだった。

「シンフォレシア王国が建立されてから、聖剣が我々に姿を見せることはなかった。おそらく、今生きている誰もが、聖剣がどのような形なのかさえ知らない。

 ……さらに言えば、本当に存在するかどうかすら定かではない」

「お父様……? 神鳥様がいらっしゃるなら必ず剣はあります。それは自明のことでしょう?」

 ロクサーヌはわざわざそんな発言をするネオスの意図がわからなかった。ロクサーヌにとって神鳥は当たり前に存在していて、この瞬間も国そのものを支えてくれているのは疑いようのない事実だった。

「神鳥をその目で見たことがなくてもか?」

「どういうおつもりですか? 民もお兄様もお父様でさえも、神鳥様は私たちを助けてくれていると教えてくださいました。ですから、今はお見えにならないとしても神鳥様はいらっしゃいます。それを疑うのはいくらお父様でも————」

 許されない。と言いかけて、ロクサーヌは言葉を呑んだ。

「私も神鳥は存在していると信じている。それは誤解しないでくれ、ロクサーヌ。

 しかし、皆が信じているから自分も信じる、という妄信は王に相応しくない。加えて、開国のこともある。外の世界の話は聞いたことはあるか?」

「詳しくはありませんが、噂程度には聞いています」

 シンフォレシアを囲う厚い霧の向こう側には大陸があり、人が住んでいる。先祖の話を聞いていたロクサーヌは言われなくともわかっていたことだ。ただ、『噂』の内容は奇天烈を極めていた。空を飛ぶ鉄の箱に極彩色の結晶、挙句の果てには何千里先の人とも会話できる板。どれも現実味がなく、ロクサーヌは未だに眉に唾を付けたままだ。

「その話が数十年前から徐々に広まって以降、民の関心は外へ向いている。加えて、神鳥の御力も弱まりつつある。苛烈を極めるだろうが、我々が生き残る道はもう開国しかない。明日は刻呪式だ。よく心構えしておきなさい」

 ネオスは青いマントを翻して立ち去る。青い篝火は風に揺れ、柔軟に姿を変えていた。

「神鳥様は存在する……」

 考えながら、ロクサーヌの歩みは岩盤の扉に吸い寄せられていった。ロクサーヌは華奢な指先を伸ばして、扉の、ほんのわずかな一点に触れる。ひんやりと熱が失われる心地良い感覚が……するはずだった。

 彼女は咄嗟に指を離し、眇めた視線を自身の指先に向けた。見る限りは至って正常、としか言いようがなかった。しかし、彼女が確かめている指先が捉えたのは「温かい」という感覚だった。もう何度か触れてみても、ついさっき裏切られた予想が反復されるだけで変化はない。彼女はそれを勘違いと断定しようとしても、なぜか沸き上がった寂しさが邪魔をした。

「まさか神鳥様……? そんなわけない……よね?」

 ロクサーヌは太陽が過ぎ去った天窓を見上げても、こちらを覗く野鳥は見えない。

 彼女は身体が勝手に感じ取った恐れを抑え、深呼吸をする。だが裏腹に、思考は明瞭だった。

「私は信じています。神鳥様は存在して、私たちを守ってくれている」

 誰もいない神殿で信念を確かめると、ロクサーヌには俄然気合が込み上げてきた。

 彼女は力強い足取りで神殿を、聖剣が眠る扉の先を後にした。


 夕食を終えたロクサーヌが自室に戻ると、間もなくファシアがやってきた。

「ロクサーヌ様、お話がございます」

 室内を照らす青火に、ファシアの頬は青く塗られている。

「なによファシア、改まってお堅い口調になって」

「先ほど、ネオス様から一切の外出を控えるようお達しがありました」

「え?」

 ロクサーヌは驚きを隠せなかった。外出禁止の文言もそうだが、そもそもネオスがロクサーヌの行動を厳しく縛ることが稀だった。

「公務が立て込んでおりますので、そのようなお暇があるわけでもないでしょうが、念のため忠告しておきます。『絶対に城から出てはいけませんよ』」

 彼の鋭い目に貫かれて、ロクサーヌは息を呑む。ファシアは今朝と違って、まるで別人にすり替わったように思えた。普段の優しさがどこへ鳴りを潜めたのか、ロクサーヌには見当もつかない。

「では、お休みなさいませ」

 扉が音もなく閉まると、ロクサーヌは城下町を一望できるバルコニーに出た。ここからの景色はいつもと変わらない。ぽつぽつと青い明かりの灯る家屋。それを取り囲む豊かな森林。そして、外の世界を塞ぐ巨大な霧の層。確かに、霧は以前よりも薄れている。

 ふと視線を戻すと、いつもより家屋から漏れ出る灯りが多い気がした。もしかしたら、明日の儀式を祝うために彼らは夜通し準備をしてくれているのかもしれない。ロクサーヌはそう思い至ると、緊張で鼓動が速くなっていった。

 シンフォレシアの紋呪を王位継承権と共に授かる。王族にとって誉れの多い事ではあるが、同時に背負うことになる王女としての義務が彼女にはひどく重く感じられた。

「フロネー……」

 ロクサーヌは柔和な風に吹かれながら、親友の名を口にした。唱えるだけで苦しさを肩代わりしてくれる魔法の言葉。フロネーもきっと応援してくれている。一人前の王族になる儀式を楽しみにしてくれている。確信に近い想像はロクサーヌの心拍を元に戻し、彼女の幼い頃の記憶を蘇らせていた。

 錬金術の神童と呼ばれていたフロネーと知り合った日。ロクサーヌは実験室に座り込んで、悔しさと情けなさを含んだ涙を流すばかりだった。そんな彼女を救ったのが、紅の髪をしたフロネーだった。彼女の手を借りてもロクサーヌの錬金下手は一向に改善しなかったが、理路整然と端的に説明するフロネーは、いつしかロクサーヌの憧れになっていた。

「明日、会えるよね……」

 不安げな顔がほころんだロクサーヌは、ずっと先の森を見つめていた。

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