第20話 明かされる正体


 不思議な物音を察知して僕は目を覚ました。室内は未だ暗闇に閉ざされている。体感的にはいつもよりかなり早い時間。正確には分からないが日の出まではまだ時間がありそうだ。

 軽く伸びを行い体の調子を確認した後、僕はあくびをかみ殺しながら物音のする家の入り口に向かって歩みを進める。外に出て、辺りを見回してみればビチビチと何かが暴れているような異音は家の前に置かれた木の桶の中から聞こえてきた。


「食べ応えがありそうな山女魚やまめだなぁ。飯綱ちゃん。今日は忙しいんだから別にいいって言ったのに」


 この魚を用意してくれたのはきっと飯綱だろう。いつもと違い彼女は忙しいだろうに出発前に準備してくれたらしい。

 昨夜、珍しく興奮しながらはしゃでいた姿を思い出す。今日から初めて天狗達のの遠征に同行を許されると喜んでいた。周囲から色々遠慮されていた最年少の子天狗。英雄の子供故にやたら気を遣われ参加出来なくてずっと寂しがっていたのを僕は知っている。


(お礼言いたいけどもう間に合わない、か。確か往復で3日くらいの予定だっけ? よかったね。飯綱ちゃん)


 彼女は知らないだろうが今回の遠征参加は、影で僕が他の天狗に働きかけた成果がようやく形になった結果だった。

 『いくら英雄の一人娘とはいえ、気を使いすぎるのはどうでしょう? 分かりづらいですが、ああ見えて結構その辺気にしちゃってますよ?』そんな軽い感じで世間話を交えつつ長い時間をかけ地道に続けてきたロビー活動が身を結んだ訳である。里長である師匠や比良は今回参加しないようだが、それでも古参の実力者数名が今回同行する事になっていた。危険性は皆無だろう。


(遺伝なのかそこまで真剣に鍛練やってるわけじゃないのに、もの凄い強いしね。それに比良はもっと小さい時から参加してたって聞く。本人がやりたくないならまだしも……行きたがってるんだし。みんな過保護なんだよ)


 中に戻り魚を串焼きにする。最初は抵抗があったエラやワタを取り除く作業にも慣れたものだ。魚もすぐ食べられる状態や、まして切り身の姿で泳いでいるわけではない。食うために殺す事を知った。これも成長といえるものだろう。

 串にかじりつきながら家を出て、日課となった石版カレンダーに傷をつける。並んだ正の字の数は73。神隠しにあってから本日でちょうど1年が経つ。


「――――もう1年か。色々あったけど何だかあっという間だった……皆はどうしてるんだろなぁ………………さてっ。感傷終わりっ。今日も鍛練頑張りますか」

 


 天狗の道とは永遠の求道のなり。最近、僕なりの真理への道を見つけつつある。


 朝焼けの光を反射した天狗崖の頂き……その先端。今にも崩れそうな切り立った一角。とがった岩に片手で逆立ちした状態で僕は瞑想めいそうを行う。頭のおかしな場所で頭のおかしな行動を取りながらも心は静謐せいひつそのもの。体はまるで大地に突き立った刀のように小揺るぎもしていない。

 極限状態の中での精神統一はもちろん神通力の鍛練のひとつだ。

 漏尽通ろじんつう――――六通のひとつ。煩悩ぼんのうを捨てさり真理を得る道。感情に振り回される事なく、心はいで周囲から影響を受ける事もない……これは簡単に言えばを開くための鍛練だ。


(――――来てるな。キテる……この世に存在する万物のものはすべて宇宙の一部でしかない……つまりちっぽけな僕も世界の一部という事)


 瞑想の中で僕は――僕たり得る身体という殻を破り境界を曖昧にする。研ぎ澄まされた意識が肉体という枠を飛び越え、世界と同化し拡大していく。自分が伸びる。どこまでも、どこまでも。拡大した感覚はまさにこの惑星ほしと一心同体。

 極限の集中により知覚範囲は無限に広がる。空が目に、風が耳に、大地が肌に。しかし……僕がこの鍛練に最近はまっていた理由は悟りそれその物よりも副次的な効果の方だった。

 最初は抵抗があったが、個を消して世界と一体となるのはなんと気持ちが良いことだろうか。生きとし生けるものが抱える全てのストレスから解放され、母なる大地と一体になる感覚。あらゆる悩みが過去になる。多幸感に包まれたこの境地はまさに極楽浄土。全てが自己で完結した世界。


 (…………悟りって超気持ちいいんですけど……ヤバい。僕は未成年だからまだやった事ないけど、お酒? タバコ? 馬鹿馬鹿しい。瞑想しなよ。瞑想。この快感を知ってしまったら戻れないって。しかも無料ただだ。絶対流行る。瞑想トリップブームくるね。仏陀ぶっだも夢中になって人に勧めるわけだ。漏尽通、最高っ)


 悟りとは似て非なるものとして魔境という境地がある。性質は正反対で悟りとは真逆の極地。しかし煩悩ぼんのうと我欲丸出しの在り方は天狗としては正しい生き方だろう。そうやって彼は気づかない内に正反対の在り方であるエゴの境地に至りつつあった。


(――――この気配)


 しばらく脳内麻薬をドバドバだしてかなりキマってしまっていると、瞑目しながら逆立ちしている僕に意識を向けている個体に気づく。すべての感覚器を世界と同調させているからこそ、相手が気配を消していてもその存在が手に取るように分かった。


 空は目、風は耳、大地は肌。すべては惑星ほしが教えてくれる。


(……比良。崖の下にいるな。懲りもせず組打ちのお誘いか? やれやれ相変わらず困った奴だ。アイツはまるで成長していない。僕を見習え、僕を。少しは落ち着きというものを持たないとさぁ、まったく。くだらない事で至福の時を邪魔しやがって)


 このままでは鍛練にならないと判断した僕は目を開けて困った友人に対応する事を決める。


(よいしょ――――っと) 


 腕に力を込めて逆立ちの支えにしていた岩を全力で押す。助走なしのハンドスプリング。地獄の鍛練でみっちり鍛えられた筋肉によって体は勢いよく前方に飛ばされ……僕はそのままの勢いで崖下に落下した。


 ゴォォォォっと風を切りながら重力に従って落ちる。それは鋭い岩肌でのヒモ無しバンジーだ。端からみれば間違いなく狂気の沙汰さた。数秒後には岩にぶつかってミンチ間違いなし。投身自殺以外の何ものでもない。だが――――


「ほっ。よっ」


 瞬時に体をひねり頑丈な岩を見分け、適度な力で蹴りつけて勢いをそいでいく。岩から岩へ飛び移る様は、舟から舟へ飛び移った伝説を持つ源義経の八艘はっそう飛びのよう。死地にいるはずなのに見合った緊張はまるでなく、スリルのあるアスレチック感覚で淡々と地面に向かって跳躍する……そう。もはや僕にとってこの崖は既に脅威ではなかった。

 なぜなら何度も何度も鍛練で通った場所であり、感覚的には歩き慣れた通学路のような物だ。よほどの事が無い限り死ぬなんてありえない。

 

「ふぅ」


 最後にタンっと両足の下駄を揃えて崖下の地面に着地する。

 そしてなんとなく今飛び降りてきたばかりの崖を見上げた。以前は半日以上をかけても登り切るが出来なかった難易度ウルトラハードの難所。今ではものの数分で下りきる事が出来るようになっている。感慨深い。流石に成長を実感した。


(うんうん。無茶ぶりばっかだったけど人間やれば出来るもん――っ)


 崖に気を取られていた僕の死角からヒュンと飛んできた拳を紙一重でかわす。戦闘狂の友人はどうやら岩の影に身を潜め機会をうかがっていたらしい。どうやら一瞬で間合いを詰め、物騒な挨拶をしてくれたようだ。付き合っていられない。


「――待った」

「――おっ?」

 

 追撃を避けるため敢えて両手を前に出し相手に手のひらを見せる。興奮して言葉が通じない相手へのボディランゲージ。小さな子供でも分かるストップの姿勢だ。以前のように慌てふためく事なくこの毅然きぜんとした対応。少しは成長著しい僕の事を見習って大人になってもらいたいものである。


「何だよ?」

「何だよ、じゃないよっ。当分、組打ちはやらないって約束だったじゃん。僕たち、この前やり過ぎて師匠に滅茶苦茶怒られたばかりでしょ? もう忘れたの?」

「覚えてるに決まってるだろ? 楽しかったよなっ。オヤジもちょっとぶっ壊したくらいであんなに怒らなくていいのに」

「……僕は全然楽しくなかったよ。とにかくダメダメ。言っとくけど今日の僕は何されても反撃しないからね」

「はぁ。つまんねぇな」


 僕の態度に萎えた比良が拳を下ろすのを確認してようやく安堵のため息をつく。組打ちでヒートアップしてしまい、里の一部を破壊してしまった過ちを繰り返してはならない。本当に先日の話だ。次は間違いなく師匠の過剰な折檻せっかんが待っているだろう。僕の基本的人権を守ってくれる人権団体はこの里にいないんだ。やるならひとりでやってほしい。

 そんな事を思い返していると雑談モードに入った比良から声が掛かった。


「しかしお前よく俺に気づけたな。完全に気配を消したつもりだったのに。日に日に鋭くなってるんじゃないか?」

「うんうん。そうでしょ? 我流の漏尽通で超集中状態だったからね。今ではちょっとしたモンだよ。何なら比良にも教えてあげようか?」


 漏尽通の鍛練は方法は僕のオリジナルだ。最近はこれと神足通の鍛練ばっかりしている。かなり集中しないといけないので戦闘中はまだ使い物にならないのが玉にきずだが……こんな環境で日々色々なストレスに悩まされる現代人には精神衛生を保つために必要なのである――――と、僕は比良に力説するがバーサーカーの彼は顔をしかめるばかりだ。


「……あんなもん、よくやるよ」

「他の天狗の方もそうだったけどさ。みんなそう言うよね」


 マイブームの漏尽通だが率先して鍛練をしている天狗はあまり見かけない。それどころか漏尽通は何やら敬遠されている節もある。

 どうやら天狗にはこの良さが理解出来ないらしい。きっと脳筋の彼等は悩みなどなく、日々ストレスフリーで過ごしているのだ。羨ましい限りだがもったいない気もする。なぜならこんなに気持ちがいい。そう言えば師匠も触りだけの最低限度しか漏尽通についての説明はなかった。


「僕からしたらコレが流行らない事の方が理解出来ないね。確かに精神面の鍛練だから肉体はあまり鍛えられないけどさ」

「いやそりゃ里の連中は敬遠すんだろ」

「? なんで?」

伯父おじさん……石鎚いしづち様みたいには誰だってなりたくねぇだろ? いくら呪いのの影響もあったとはいえ漏尽通も関係あるんだしさ」

「うん? 呪い? それに石鎚って」


(まただ。どうして急に飯綱ちゃんのお父さんの話になる? 確か前にも似たような事があった。何かこっちが知ってる前提で話が進んでくやつ。何やら認識に齟齬そごがあるような。いい加減すり合わせしといた方がよさそうだ)


「えっとゴメン。石鎚さんって飯綱ちゃんのお父さんで里を守って亡くなった英雄でしょ?」

「翔。俺だから良いけど他の連中だったら流石に怒られるぞ。勝手に故人にすんな。失礼だろ?」

「は?」

「……おいおい。まさか本気で言ってんのか?」

「ちょ、ちょっと待って。え? 亡くなったんじゃないの? だってどこにもいないじゃん。身を挺して里を守ったって――」

「――――――――お前、時々妙な事をしていると思ってたが、そうか。知らなかったのか。てっきりオヤジから全部聞いていたものだと……」


 なんだろう。ザワザワと背筋に悪寒が走る。どこかで取り返しのつかない致命的な失敗をしてしまったような……とても、とても嫌な予感がした。経験上こういう予感はよく当たる。なぜなら僕は運が極めて悪いのだ……何だか耳鳴りまでしてきた。

 この先を聞いてはいけない。そう思い口を開きかける。が、比良はそんな僕よりほんの少しだけ早く無遠慮に言葉を重ねる。ああ。声が遠い。まるで夢うつつの出来事のよう。


――――――石鎚いしづち様は生きておられる。今はその姿を変えて、な


――――ほら、お前が住んでる家の隣に


――やたらとデカい木があるだろ?



 比良が語るのは今よりほんの少しだけ昔のお話。


 まだまだ平穏だったこの地に文字通りの影が差したのは、当時の比良がまだ飯綱くらいの小さい頃のよく晴れた日の事だった。

 平穏だったとはいえ神々との多少の小競り合いはあった。しかしそれは嫌がらせ程度の取るに足らないもの。プライドの高い神が、生まれも定かではない自分達相手に本気になる事はないと誰もが思っていた……侮っていた。完全に油断していたのだ。


『おいっ、空を見ろ! 星が――落ちるっ』


 声につられ見上げれば太陽をさえぎるように到来した破滅の凶星。もちろんただの自然現象ではない。こんな事が出来るのは神々をおいて他にいない。彼等の怒りを存分に吸ったその呪いの星は、赤黒いけがれを周囲にまき散らしながら天狗の里に狙いを定めて一直線に墜ちてくる。目障りで許しがたい天狗を滅ぼすために神々が送った断罪の星。裁きの隕石だった。

 「ああ、これは無理だ。逃げられない」あの日ソレを見た天狗は誰しもそう思った。


『我がいこう』

 

 皆が呆然と空を見上げ立ち尽くす中、そう言ってひとり立ち上がった男がいた。

 威風堂々、肩で風を切り白い髪をなびかせ現れたのは見る者の目を引く美麗な天狗。その者こそ当時、里の中でも別格の力を持っていた愛宕の兄であり飯綱の父、石鎚。

 

『――神足通』


 神足通は六神通の中でも特異で多様性を持つ神通力だ。そして彼の神足通は望むもの……思い通りの姿に己を変える力。現実をあざむき改変する超常の能力。

 自分の身体を目にする者すべてを圧倒する大樹に変え、真正面から断罪の隕石かみのつかいを迎え撃つ。


 そして激突の瞬間、世界が白く染まり音が消えた。


 遅れて星そのものが悲鳴をあげたような異様な轟音と、体だけでなく魂そのものを打ち抜くような衝撃が世界を揺らし大地を駆け抜ける。

 舞い上がった粉塵が晴れ、姿を現したのは激突を物ともせず悠然とたたずむ大樹。神々の凶星は打ち砕かれてバラバラになって辺りへ散らばった。

 これにて一件落着。里の平和は英雄の尽力により守られた――――とは残念ながらいかなかった。神々は姑息であり陰湿であると同時に天狗の力を正しく評価していたのだ。神々は天狗とは違い敵を侮ってなどおらず、万が一失敗した時に備えて保険を用意していた。

 

 それが……呪いであり祟り。打ち破られて尚、周囲に災いを振りまく星の破片は天狗に対して確実にダメージを与えるための二段の策。

 

 石鎚は瞬時に神々の真の狙いを看破した。大地に深く深く根を張って散らばった星の破片から呪いを吸い上げその身を犠牲にして受け止める。

 しかし、神々の呪いは強力で石鎚の予想を超えるほど凶悪なものだった。並の天狗であれば触れた瞬間に精神を壊され発狂してしまう神の祟り。素面では石鎚といえども受け止めきる事はできない。

 

 故に――――漏尽通。精神を涅槃寂静ねはんじゃくじょう、無我の境地に飛ばし致死の祟りの汚染から身を守る。かけ算はゼロに何を掛けてもゼロとなるように。無心という名の最強の精神防御、その結果……石鎚は心を閉ざして長い眠りにつく事になった。

 

 天狗の予想を裏切る神々の本気の攻撃と、神々の予想を超える天狗の個の力によって、この襲撃はお互いに高い代償だけを払うという痛み分けという結果に終わった。

 かくして里には木の姿で眠り続ける英雄が生まれ、神々は望んだ結果を得られず力を消耗するという結末を辿る。



「――――とまぁ、こんな感じか。石鎚おじさんのお陰でこっちの被害はなし。流石だよな。もう少ししたら呪いの影響も薄れて目が覚めると思うし、あの頃みたいにまた手合わせお願いし……? どうした? 顔が青いぞ」


「う、嘘でしょ? 今の話。いつもみたいに僕の事からかってるんだよねっ!?」

「いや。なんでこんな事で嘘つかなきゃいけないんだよ? それにどうしておじさんの事で翔をからかう話になるんだ? ……お前おかしいぞ。何か隠してるんじゃないだろうな?」

「えっ!? いっ、いや。な、なんでもないっ。何も隠してないよっ」


 比良の追求をかわしながら、僕は例の大木の姿を思い返していた。

 ……あれほど不器用だった飯綱は花かんむりを作るのがとても上手くなった。あれから1年の地道な練習の成果ともいえる。継続は力なり。地道にコツコツやる事は存外難しい。そういう意味では石鎚さんも娘の成長を親として素直に喜んでくれるはずだ――――とてつもなく大きな代償として木のてっぺんの一部がハゲあがってしまっている事実を除けば、だが。


(……ヤバい。ヤバすぎんだろ……いや無理。ほんとにマズいって……うっ。吐きそう)

 

 ダラダラと流れる冷や汗が止まらない。恐ろしい予感に震える心臓がバクバクと脈打っている。今になって考えてみればおかしな事はいくつもあった。

 突出して大きい異形の白い花をつけた大木だったのも。いくら霊域の大木とはいえ師匠を上回る程の不自然な霊力を内包していた事も。木を囲むように周囲に散乱したやたらツルツルした巨大な石の破片も――飯綱のおかしな態度も。すべて……すべて理由があったのだ。

 

(……なにが隠れスポットだよ。本当に馬鹿げてる。木に変化してる? ……しかも見る者を魅了するような白髪だって? ……あの白い花ってもしかしなくても……飯綱パパの髪なんじゃ? いや、もうてっぺん付近の花は摘みとり過ぎて残って無いんだけど……それってもし元に戻ったらその部分はハゲになるって事? 里でみんなに崇められてる天狗の英雄が? 無理だってそんなんっ。僕、間違いなく殺されるやつじゃんっ)


 「ツルツルにしてお日様いっぱい当てて元気にするっ」と無邪気に意気込む飯綱を全力で止めなかった過去の自分をぶん殴ってやりたい。

 おかげで英雄の樹は綺麗に太陽に当たるようピンポイントで、てっぺんだけハゲあがってしまった。いつか英雄が目覚めて元の姿に戻ってしまったら――カッパハゲの天狗が出来上がってしまう。

 みんなから畏敬を集める英雄の天狗を、よりによって僕が主導して河童かっぱに変えてしまったわけだ。


「……ははっ。はははっ。天狗が河童になった……マジで笑えないって」

「どうした急に?」


 怪訝な表情で僕を見る比良はこの際無視する。戦闘狂に構っている暇などない。今はこの窮地きゅうちを乗り切る方法を考える事に全力を尽くすべきだ。

 不幸中の幸いだったのは下から見た限りでは、ぱっと見で気づく者はいないだろう事。飛べる天狗も見下ろす事を嫌ってか石鎚が目に入る空域には近づかない。

 ……だからきっとバレるまで猶予がある。大丈夫、大丈夫だ。まだ完全に運に見放されていない。自分に言い聞かせ、そう信じる。


(まだだっ。まだ挽回できる。なにか。何か良い方法は――――――――そうだ。天狗温泉っ。霊域の地脈から沸き上がって怪我すら驚異的なスピードで治すあの霊湯なら、毎日マッサージしながら塗り込んでいけばもしかして白い花かみも復活するのでは? ……やっぱり僕って天才だっ。これしかないっ)


 そうなると次は毛生え薬を塗る共犯者が必要だ。いつバレるかも分からないで工作も必要だし、何より継続的に育毛に取り組む必要がある。流石にひとりでは無理だ。とりあえず遠征から帰ってきたら飯綱にも手伝わせるとして。


(――比良にも事情を話して手伝ってもらうか。なんだかんだ気心の知れたこいつであれば味方になってくれるはず。ちょっと頭おかしいけど今は猫の手も借りたいし、ここは四の五の言ってられない。持つべきものは友人だなっ。巻き込んでしまえ)


「ねぇ、比良。ちょっと相談があるんだけど……? 比良? どうしたの?」

「――――」


 そう思って声を掛けたはよかったものの、比良はなぜか僕の事を見ていなかった。目は見開かれ視線は虚空を彷徨さまよっている。


「……おぉ……今……開いた」


「は?」


(なんだ? 開いた? いったい何を――――――――え? うそ。まさかっ)


 反射的に目を閉じ意識を集中してみれば、確かに近くに何か異物がある事に気づいた。まさに世界の異物としか言い様がない――これは……


「この感じ間違いない。人間の世界に通じる門が開いたっ。ついに帰れるぞ。やったな翔っ」

「……」


 比良はそう言って笑いながら、僕がずっと待ち望んでいた古い社もんの出現を考え得る限り最悪なタイミングで告げた。


(なんてこった……そりゃ、こんな時じゃなきゃ飛び跳ねたいくらい嬉しいけどさぁ。何も今じゃなくても……どうしよう。飯綱パパの頭。あぁ、もう滅茶苦茶だよ……)


 師匠いわく、門が閉じるまでの時間はおよそ半日で固定されている。こそこそ育毛活動に費やすための時間はこれで完全に失われてしまった。タイムリミットは半日……人の世界に戻る僕に残された時間は少ない。




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