鏡の国

@_naranuhoka_

鏡の国



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 十七歳の誕生日を迎えたとき、みんなには言えなかったけれどひそかに恥ずかしかった。

「ハッピーバースデー、蘭」「華のセブンティーンだね」「これ、わたしたちからの合同のプレゼント」仲間から、ひそやかに、でも目一杯心を込めて祝福された。登校して席に着くなり、プレゼントで不恰好にふくらんだ大きな紙袋を渡される。うれしさに胸が温かく充ちたけれど、背中がくすぐったくて、こそばゆくて、どこかで早くこれが済んでほしいと思っている自分がいた。

「ありがとう」

 紙袋を机のフックにかける。クラスメイトがこちらをちらちら盗み見ている。へえ、あの子今日誕生日なんだ、と興味深げにわたしの机を囲むちいさな輪に視線を送る。注目されることがいたたまれなくて、思わず目をふせた。ポッキーやアルフォートがちいさな小山をなしている机は、陽射しを受けて半分だけ斜めに照っている。仲間内の誰かが誕生日の日は、主役が登校する前に席にお菓子を並べ立てて迎えるのがわたしたちの祝い方のひとつだった。

「いま見てよ、プレゼント」

 あっさりしまわれたことが不服なのか、里穂がくちびるをとがらせる。もちろん、わたしだって肝心のなかみが気になっている。でも、こんなに大きなものを広げていたらますます好奇の目が集まるのがわかっていたからお礼だけ言って片付けたのだった。贈り手としてはおもしろくないのは当然か、と思い、素直に「そうだね」と言って紙袋を膝の上に載せた。思ったよりもずっしりと持ち重りする。梱包材はできるだけ紙袋のなかではずして、こわごわとなかみを取り出した。

「すごい」

 人気のイラストレーターが手掛けたデザインの薄桃色のファイル、同じ表紙のノート、ピアノの鍵盤をモチーフにした柄のスケジュール帳、シャープペンシル、消しゴム、付箋セット、最後にト音記号をかたどった小ぶりのイヤリングがすべり落ちてきたときはさすがに歓声を漏らしてしまった。やったね、と言いたげに里穂たちがうれしそうに頬を持ち上げる。

「ぜんぶピアノ関連だね。ありがとう、ファイル、いま持ってきてるからさっそくこれに楽譜移すね」

「蘭はプレゼント選ぶの悩まなくていいから楽だったよ。かぶらないようにみんなで回ったから、一つにまとめちゃった」

 確かに、ほかの三人の誕生日のときはいちいちプレゼント選びには一苦労した。でも、わたしなら選びやすいだろうな、というのは自覚がある。ピアノにまつわる文房具やアクセサリーに目がないのは、わたしの持ちものをみればすぐにわかる。いまだって、ペンケースはピアノの鍵盤をかたどったプリントのされた黒いものを使っている。

 もらったものを丁寧に梱包しなおして紙袋に戻し入れる。机に広げていたものを一つひとつ片付けると、周囲の目がすこしずつ、縫い目がほどかれるみたいにわたしからはがれていくような気がして、やっと心が休まった。普段、注目されるような立場にいないのに、誕生日だからと言って教室でめだつのはやはりどこかきまり悪い。あんまりめだちたくない、と言うと盛り上がった空気に水を差してしまうし、なにより、せっかく祝ってくれた友だちに申し訳ないから、にこにこ微笑むだけにとどめる。

「十七歳かぁ。これで全員だね」

 瀬尾ちゃんが顔を見回した。この四人グループのなかでは十月生まれのわたしの誕生日が一番遅かった。「確かに」「ほかみんな誕生日来てるもんね」とうなずき合う。視線がやっと自分からそれたせいか、ふ、とくちびるがゆるんだ。

「十七歳ってほんとうになるんだね」

 なんでもないつもりの呟きだったのに、ボケだと思ったのかみんな一斉にふきだして笑った。「そりゃそうでしょ」「蘭、幻想見すぎ」「子供みたい」とさんざんちゃかされる。えへへ、と笑って流したけれど、そんなふうに言われたのはすこしだけ心外だった。

 十七歳なんて、アイドルとかモデルとか歌手とか、テレビのなかの女の人だけの年齢だと思っていた。十七歳、だって。九歳、十一歳、十五歳、十七歳。十六歳になった去年もなんだかこんな、上等だけれどぶかぶかで派手なセーターをすっぽりとかぶせられたような気持ちを抱いたような気がする。こんな自分が十六歳、あるいは十七歳を名乗るなんて、なんだか身分不相応な気がして恥ずかしかった。こんなにきらきらした響きの年齢はほかにないような気がする。

 わたしが十七歳。こんな自分が。照れくささと気恥ずかしさで、うつむいてしまいそうになる。あんたになんか似合わない、と誰かに指さされて笑われる前に、一刻も早く十八歳になってしまいたい。せっかく一年にいちどの誕生日を仲のいい気の置けない友だちに祝われているのに、そんな焦燥にも似た思いが胸を巣食って、陽射しに目をほそめているふりをしてまぶたに力を込めた。


 秋の教室は陽射しがやわらかいせいか、喧騒もやわらいで見える、気がする。冬服になって教室の彩度が落ちたせいもあるだろうか。

 でも、それだけじゃない。

〈来月の模試はセンター式だから鉛筆を用意してくること〉

 黒板に貼られたさりげないプリントに、クラスメイトがざわめいていた。マーク模試ってこと? 記述より楽じゃんラッキー。ばか、いつもより科目多いってことに気づけよ。あーもうそんな時期? さいあくー。さざなみが水面に伝播するように教室に愚痴が広がる。高校二年の秋だ。夏休みにオープンキャンパスに出かけた子もちらほらいるし、いままではただ置いてあるだけだった『蛍雪時代』を熱心に読んでいる子も見かける。友だちと話す内容にも、さりげない探り合いが混じり始めた。

 入りたい学部はおろか、志望大学なんてまだ決めていない。成績は中の下。進学校だから仕方がないとはいえ、それではさして、クラスメイトが威嚇のように口にする有名な難関大学は到底ねらえないという自覚はあった。わたしたちが暮らす県は本州の真ん中に位置していて、どこに行くにもそれなりに等間隔の距離がある。つまりは田舎で、東に行くにしろ西に行くにしろ、みんな都会に出たがっていた。

 いままでの模試で志望大学を埋めるとき、とりあえず自分の暮らす県、隣県の国立大学で埋めていたけれど、心の底から行きたい、と思えるような大学じゃなかった。自分の身の丈に合った偏差値の大学で、身近な名前だからその場しのぎに埋めているだけにすぎない。

 この、海も娯楽もない街は絶対出て行きたい。だけど、私立大学を志願できる家計状況でもない。わたし来年からどうするのかな、と不安に思わなくもないけれど、いまはただふわふわと漂う考えごとの一つでしかない。だってまだ高校二年だし、未来をしっかり見据えて定めすぎても、どうせ意味のない推測でしかないのだから。

 熱された鰹節みたいにきゃらきゃらと無意味に騒ぐクラスメイトから視線をはずし、イヤフォンを耳に挿してショパンを流す。ピアノの旋律がそうろりと、新雪に一歩足を踏みだすような慎重さで流れ始める。思わずひくりと背中が身震いした。十月に聴くクラシックはいつもよりずっと染み渡る気がする。自分だけが世界を切り取られて、神聖な場所に守られているような、深い快感。

鞄から楽譜を取り出す。さっそく朝もらった新しいファイルに入れ替えていると、誰かの視線を感じた。顔をもたげると、五十嵐さんと目が合った。まなじりの切れ上がった目としっかりと見つめ合ってしまい、お互いに困惑しているのが伝わって、身じろぎもできなくなった。けれど二秒後には、手からふいと猫が逃れてしまうように、くるりと背を向けて立ち去ってしまった。ほんのちいさな、できごととも呼べない瞬間のことに、すこしだけ心がめげているのに気づかないふりをして作業に戻った。曲が入れ替わる。

五十嵐さんとは去年も同じクラスだった。彼女も文系とは思わなくて、同じ教室で見かけたとき、意外に思ったのを憶えている。おとなびた雰囲気のきれいな人だ。バレリーナのようにすっと背が高く、黒髪はいつもアイロンをあてたみたいにまっすぐでつやめいている。垢抜けた女の子たちに周りを固められていて、一年半同じ教室で過ごしているとはいえほとんど交流はない。下の名前が舞子だから、仲間内には「まいまい」と呼ばれていて、見た目と綽名のギャップがあるな、と初めて耳にしたときびっくりした。モデルのようなスタイル、派手ではないけれどすっと鼻すじの通ったお人形のような顔立ち、優秀な成績。口をきいたことは数えるほどしかないけれど、ああいう人が「いい大学」にすんなり行くんだろうなと漠然と思う。

「あ、さっそく使ってる」とトイレから戻ってきたらしい里穂がわたしのもとに寄ってくる。「うん、これすごいかわいいし使いやすそう」とイヤフォンをはずしながらこたえた。ポケットに収めた楽譜は、ひかりの反射でほとんど音符が読めなくなっている。


 *


「まいまい、スカーフよれてる」

 襟元をくっと引っぱられる感覚にふと視線を落とすと、可奈がわたしのスカーフを直してくれていた。「ごめん」と言ってされるがままにしていると、あっというまにきれいな結び目が生まれた。中学がブレザーだったせいなのか、いつまでたってもセーラーのスカーフをうまく結べない。

「来月入ったらすぐ模試だって。結果見せろ見せろってママがうるさいからほんとやだ」

「来月のいつ? 土日」

「そうだよ。休日が台無しだわ」

 ここでスケジュール帳をひらくのはなんとなくためらいがあって、必死に記憶を手繰り寄せる。十一月の第一週の土日は東京に遠征のレッスンが入っているんじゃなかったっけ。ひとりだけ別日で受けることになるのかそれとも宿題になるのかわからないけれど、よけいな荷物を自分だけが背負わされるみたいで気が重い。

「休むかも」

 告げるつもりはなかったけれど、思わず口をついて出た。思ったどおり、「えーっ」と可奈がぱっちりとした二重をみひらいて悲鳴のような声を上げる。何人かがこっちを振り向いた。

「え⁉ さぼり? あたしがならわかるけどなんでまいまいが」

「さぼりじゃなくて、その日ちょうどこっちにいないから」

 くわしく説明をする気はなかった。なんで? と根掘り葉掘り訊かれたら親戚の結婚式に出ると嘘をつくつもりだったけれど、えー、そうなんだ、と可奈はそれ以上突っ込んでこなかった。「英語の予習見して」と手を差し出される。はいはい、と渡して、器用に自分の膝の上で写している可奈から目をはずして、窓際に目をやった。遠嶋さんはイヤフォンをはずし、仲間とおしゃべりしていた。先程通りかかったときに見えた楽譜はまだ机の上に残されている。いったい何の曲かすこし興味をそそられはしたけれど、そこまで深入りしてもびっくりされるだけだろうな、と思って遠目で眺めるだけにした。合唱部の伴奏かもしれない、と思いつくと、とたんにどうでもよくなってしまったのもある。彼女自身が合唱部だったかは自信がないけれど、ときどき伴奏を引き受けているようだ。

「ありがとー。いいよねまいまいは頭よくて」

 脈絡のない言葉をかわしてノートを受け取る。受け流したことでかえってむきになったのか、可奈はなおもつづけた。

「あたしみたいにバカだと行ける大学なんてほーんとかぎられてるのにさ。まいまいなら選び放題じゃん? ね、どこ行くか決めてるの? 東大? 京大?」

 つまんない冗談、とうんざりしたけれど、「どっちも無理無理」と笑ってこたえ、辞書と教科書を出して五限の準備を始めた。可奈はなにか察したのか、もうからんでくるのをやめて「んじゃあ」とひらりと自分の席に戻っていった。予習写したいだけだったのかな、とも思った。可奈はちょうちょに似ている。アゲハチョウみたいな野生を感じさせる派手なチョウじゃなく、春先によく飛んでいる白や薄黄色の、ティッシュペーパーみたいにひらひらと薄くて、風ですぐ飛ばされそうに軽そうなちょうちょ。かわいくて身軽で、ちょっぴり移り気に波がある。


 ショーツに鮮血がぽちりと何かのしるしのように染みていて、思わず身をのけぞらせた。初潮を迎えたのはもう七年も前のことなのに、いつまでたっても独特の匂いとはつらつとした鮮血の色には慣れることがない。応急処置として、とりあえずトイレットペーパーで汚れを拭き取り、新しく巻き取って何重にも折りたたんだトイレットペーパーをクロッチ部分に押し当て、ショーツを引き上げる。さっきまではそんなことなかったのに、下腹部が鉛をたくわえているみたいにずしりと重く、気だるかった。

 一応、鞄に用意がある。教室に戻ると、タイミング悪くチャイムが鳴った。音にまぎらわせて舌打ちしてしまいたい衝動を抑える。このまま一時間過ごすのはあまりにも心もとない。かといっていま断りを入れて教室を出てまた戻ってくるのは気が引ける。

五時間目は地学だ。どうせ受験科目には入らない。そう思ってしまうと、もうこの授業に出る意味がない気がしてきて、そっと手を挙げた。

「体調が悪いので保健室に行きます」

 初老の先生はそう、とだけ言って板書を始めた。ポーチをさりげなく手にして教室を出る。しんと静まり返った廊下は、リノリウムの床が濡れたように蛍光灯を映していた。たかがナプキンを取りつけるためだけに授業を一時間つぶしてしまうのはどうかな、とわれながら思いはしたけれど、罪悪感じたいはなかった。教室にいたらいたで内職の時間でしかない。

 トイレに寄ったあと、どこにも行きようがないので保健室に向かった。ベッドの空きがないとのことだったので、保健室と隣接している教室に通される。生理のときに横になるとかえって気持ち悪くなるので、内心ほっとした。窓際のソファーに腰を下ろす。こんな部屋があるなんて知らなかった。誰が折ったのか、ミニチュアサイズの折鶴や紙風船が飾り棚に並べられていた。先生が毛布を貸してくれたけれど、誰が使ったかわからないものを身体にかけるのは抵抗があって、まるめてソファーのすみに押しやった。することが何もない。視線の置き場所がないのが落ち着かず、いっそ目をつむった。

 ――いいよねまいまいは頭よくて。

 ふっと昨日の昼休みに可奈に言われたことがよみがえる。可奈とは今年から同じクラスになって、共通の友だちを介して仲良くなった。ひとなつっこくてしゃべりやすいからよく一緒にいるけれど、ときどきちくりと棘を刺してくる。天然なのかいじわるなのか、判断がつかない。

仲良くなってからわかったけれど、可奈は勉強ができない。本人はそれなりに頑張っているようだけれど、数学の試験なんかは開始十五分であっさり机に伏せて眠っていたりする。いちど頼まれて勉強を見てあげたけれど、わたしの教え方が悪かったのか可奈が思ったよりも理解度が低いのか、可奈の方がすぐに白旗を上げた。わたしの方が満足が行かず、「え、まだ全然途中じゃん」と食い下がると、「まいまいが頭いいのはすげーわかったから」と疲れたような声でシャーペンをノートに放りだしたのだった。そのとき、申し訳ないけれど、勉強にも一定の能というものがあるんだな、という感想を抱いた。わたしはそこまで勉強において挫折を感じたことがない。文理も正直、どっちだってよかった。そういうことを言えば場の雰囲気が悪くなるから、可奈やほかの友だちの前では口にできないけれど。

 だからこそ、自分の目指している進路を明かせば可奈たちがわたしの成績に関してとやかく言うこともなくなるだろうな、とは思うのだけれど、何となく、言えないでいた。

 楽譜を教室で堂々とひらいていた遠嶋さんがうらやましい。ピアノがよっぽど好きなのか、ペンケースも確か鍵盤がモチーフのものだ。わたしは学校ではひた隠しにしているから、楽譜を持ち込んだり、教室でipodを聴くことすらためらわれる。ピアノ曲しかほとんど入れていないプレイリストを仲間に見られたら、「何これ」と仰天されるのは目に見えている。恥ずかしいわけじゃないけれど、いちから説明するのは億劫だし、どうして隠していたのかを詮索されたら余計めんどくさい事態になる。

 頭を壁にもたげる。鈍痛から意識をそらすために、頭のなかで旋律をなぞった。頭のなかだったらどれだけでも音楽を響かせることができる。それはとても素晴らしいことのような気がした。



 駅から自転車を走らせているときはそうでもなかったのに、いざ家に着くと泥のような疲れが全身におぶさってきた。「ごはんまだー?」と台所に向かって訊くと「あと三十分。間食しないでよ」と母の声が返ってくる。肉じゃがのあまい匂いが居間にも漂ってきて、身体がほとびるように唾がたまる。

荷物を二階に持って上がるのもしんどくて、隣の部屋に移ってピアノの蓋を開けた。どうせ暗譜したものを弾くので明かりはつけなかった。子供の頃はピアノの蓋なんてめったに閉めず、常に開きっ放しだったのに、「埃がたまっちゃうでしょ」と最近母は開け閉めにうるさい。毎日弾いていたあの頃と違い、いまは休日に重点的に練習している。

 重たい蓋を持ち上げると、閉じ込めていたつめたい空気を吐き出すみたいに鍵盤がひたりと闇のなかで青白く輝く。指の股をしっかりと広げて鍵盤を押すようにして弾く。『ノクターン』。同じショパンなら走りだしたくなるような勢いとエネルギーが充ちた『軍隊ポロネーズ』や『華麗なる大円舞曲』の方が弾いていて気持ちがいいけれど、秋の夜はしっとりと気品にあふれた『ノクターン』の気分だ。「蘭、ピアノ弾いてないでお茶でも汲んでちょうだいよ」と母が声を張るのがうっすら聴こえたけれど、聴こえないふりをして弾きつづける。夜のピアノの鍵盤は冷蔵庫にしまっておいたみたいにひんやりと冷えきっている。

 四歳のときから習っているから、今年で十三年つづけている。暗譜している曲は三十曲をざっと越える。具体的な数字を出すと、友だちはみんなわかりやすく驚いてくれる。それを明かすときが一番、胸がすっとする。そんなにちいさいときからつづけているものなんてないよ、とみんな口をそろえて言う。

 自分の指から大好きな美しい旋律が贅沢にあふれだす。ああなんて楽しいんだろう。子供の頃は、毎日の練習が面倒で、やめたいと思ったことはなんどかある。でも、高校生になったいまは、ピアノをやめないでよかったと思う。ピアノをつづけたせいで遊ぶ時間が減ったり、休日がつぶれて友だちとの遊びにあぶれたりつらい思いをしたことも多いけれど、でも好きだ、と思う。長い時間つづけてきただけの力が身に着いた自負がある。

 母は中学三年に上がった時点で「もうやめたら」とうながした。そんなに長いことつづけてきたんだから、もう十分でしょう、と。

冗談じゃない、と思い「受験前半年になったら休む」と言ったら、「まだつづけるの」とびっくりされた。もちろんいまのピアノ教室ではわたしが最年長だし、高校生を持つことじたい、ひさしぶりだと先生が言っていた。それはべつに、わたしが高校生になっても通いつづけることをよろこんでいるようには聞こえなくて、きっと大よろこびで感激されるものとばかり思っていたわたしは肩透かしを食らった。招かれていない場所にうっかり腰を下ろして席についてしまったような、そんな居心地悪い思いを抱いた。けれどそれも最初だけで、いまでは先生はわたしが来ると張り切っている。やるなら徹底的にね、と難しい曲を課題曲にして、練習を怠っていると子供の頃と同じように叱った。多忙を言い訳にしていた時期もあるけれど、いまは必死に食らいついている。いつだったか、「この曲を生徒に教える日が来るとは思ってなかった」と先生が感慨深げに漏らしたときは、こっちまで胸がいっぱいになって泣きそうになった。

 部活では合唱部に入った。最初は、ただでさえ忙しい高校生活にくわえて習いごとをつづけるのだから部活は諦めようと帰宅部でいたのだけれど、ピアノをいまでも習っていることを知った瀬尾ちゃんが声をかけてきたのだ。うちの部で伴奏を務めてみない? と。

 合唱部はほとんど毎日練習している。さすがに毎日は参加できないので、休日やコンクール前の時期だけ重点的に参加している。正式な部員というよりは助っ人用員に近いけれど、準部員として合唱部の子とはそこそこ仲がいい。瀬尾ちゃんともそれがきっかけで仲良くなって一緒にいるようになった。

 合唱の伴奏曲はいままでさらってきたクラシックとはまったく種類が異なるし、コンクールにも駆り出されるからプレッシャーもあるけれど、わたしのピアノを頼りにされるのは単純にすごくうれしい。中学の合唱コンクールなんかは、学年に何人も弾ける子がいるから抽選で当てられていたけれど、高校だとピアノをつづけている子はまずいないから、誰も引き受ける人がおらず毎年苦労していたのだという。「来年はさすがに違う子探さなきゃやばいっていま一年が同級生で探しまくってるよ」と瀬尾ちゃんが苦笑していたけれど、夏前までなら来年も協力したいなと思う。その頃にわたしたちの学年の合唱部員は引退しているかもしれないにもかかわらず。

「ごはんって言ってるでしょ。聞こえないの」

 とつぜん、母がドアを開けた。気持ちよく弾いていたのに踏みこまれ、すっかり興が醒めてしまう。大声にうんざりしつつ、ピアノの蓋をしめる。「電気もつけないで弾いてたの」と暗闇のなかでも母の眉間に皺が寄るのがわかった。わたしは黙ってわきをすり抜け、ダイニングに向かう。

 高校に上がってから、母はわたしがピアノを弾いていると不機嫌になることが増えた。子供の頃は一日でもさぼると「ピアノに鍵かけるわよ」と言って脅したのに、いまは長い時間弾いているときほど小言を言う。言動の矛盾にいらだちもするけれど、へたに何か言って「じゃあピアノやめさせるわよ」とでも言われれば元も子もない。いまでも何かあるたびに、「ねえ、もうピアノやめたら?」となだめすかしたり、怒ってみせたり、躍起になっているのだから。

「もう合唱部のコンクール終わったんでしょ。もう、ピアノ教室やめてその月謝で塾でも行ったら?」

 母があきらめたような声で背中に声をかけてくる。「肉じゃがおいしそーう」と呟きながらするりと食卓に着くと、ため息をぶつけられた。


 ――P124問7は遠嶋、じゃあこの三名は始業前に板書しておくこと。

 数学で自分が当てられた問題があることを思いだし、跳ね起きた。時計を見やると、十二時になる五分前だった。電気をともすと、目がしょぼしょぼした。眼鏡をかけ、視界が鮮明になるとようやく脳内が目覚め始める。

寝入りばなだったので気分は最悪だ。眠気に任せてもういちどあたたかいうふとんに潜り込んだらすぐにでも眠れそうだった。でも、明日の朝に急いで解いてやっつけられる自信はない。グループの誰かに見せてもらおうにも、みんなわたしと同じくらい数学は苦手だ。自力で何とかするほかない。

 当たった問題を確認する。ぐふ、と自分の喉から潰れた蛙のような声が出た。よりによって、まとめの章の最後の問題だった。難しいのは解く前からわかる。チャート式の三角関数のページを急いで開きながら、ほとんど泣きそうだった。寒い。厚手の靴下を履き、カーディガンを羽織った。問題をノートに写し、類似問題が載っていないか必死にページを繰る。飛び込んでくる図や数字がまるで頭に入ってこず、つるつると上滑りするだけだ。 

無理だよこんなん、と早くも投げだしたい気持ちが口をついた。頭がいい人しかきっと解けない。放課後のうちに数学の先生にヒントをもらいに行くんだった。

 一時間近く粘ってあれこれ試行錯誤したけれど、自分が何をしているのかよくわからない数式ばかり並んだ。答えにたどり着けるはずがないのに必死に自分の知識でこねくり回しているのがふいにばからしくなった。明日誰かに訊こう。眠気に負けて、ベッドにもぐりこんだ。罪悪感を憶える間もないほどすぐに眠りについてしまった。


 せめて早起きするんだった――。朝起きてすぐ、そう後悔した。起きたら当たり前のようにいつもの時間で、自分で解き直す時間はほとんどなさそうだった。

 教室につくなり、順番に友だちにこの問題解いてきた? とたずねてみたけれど全員だめだった。そもそも予習にとりかかってきていたのはまじめなめいちゃんだけだった。わかっていたことではあるけれど、がっかりする。いままではできるだけ自力で解いたりグループ内で教えてもらったりして解決してきた。仲が良いわけでもないクラスメイトに頼るのは気が引ける。一応、出席番号順で同じく当たった子に「わたしの問題、解いてきてる?」と訊いてみたけれど、みんな自分の問題で手一杯だったようで、ひとりもいなかった。八つ当たりにすぎないのはわかっていたけれど、こうも当てがはずれてしまうと、だんだんがっかりがいらだちにすり替わってしまう。

 でも、数学は二時間目だ。そうそう時間がない。教室を見回し、見定める。

「ごめん、ちょっといい?」

廊下側の席の五十嵐さんに声をかけた。顔を上げ、二、三度まなじりの切れ上がった目でまばたきする。間近で見るとあらためてモデルみたいにきれいなんだな、とどきりとした。肌は曇りもなく、思わずふれたくなるほどつるりとしている。

「おはよう。何?」

「ごめんだけど、数学って解いてきてる? まとめの章、最後の問題」

 あせって早口になる。五十嵐さんは間を置いた後、「解いてない」と言った。途端、落胆してよけいあせりがつのる。でも、五十嵐さんはわざわざ数学の教科書を出してひらいた。

「あ。これ難しそう」

「そうそう、そうなんだよね、だからいま解いてきた人探してて」

 思ったより話しやすいことに安堵して気安く相槌を打ちつつも、内心ではもうほかの子を当たりたくてそわそわしていた。五十嵐さん越しに頭のいい、予習を解いてくるような真面目な子を探したけれど、「ねえ」と五十嵐さんのアルトの声に引っ張られた。

「これ、解けるかも。いまやってみる」

 あっけにとられているとルーズリーフを出してシャーペンを走らせる。思いもかけない申し出にびっくりしつつ、慌てて「ほんと! ごめん、助かる!」とお礼を言った。助かった、と胸を撫で下ろす。さすが、頭がいい人は違う、何も見ずにすぐに数式を並べ始めた。問題を見ただけでどうして解法がわかるんだろう。

 チャイムが鳴る。「あ」とすがる思いで五十嵐さんを見つめると、思っていることが伝わったのか「朝の会のうちに解いちゃうから、あとで渡すよ」と言ってくれた。「ごめん、じゃあそうしてくれる? ほんとごめん」と手を合わせて急いで自分の席に向かった。電車で向かってくる間じゅう胸をふさいでいた大きな岩が一気に取り除かれたみたいにすっきりした。いままでほとんど口をきいたこともないような間柄なのに、意外と親切な人なんだな、と思う。隙がないほどきれいな見た目だから、仲のいい女子以外にはつめたいんだろうな、なんて勝手に思い込んで敬遠していた。クラスで一番めだたない女子グループのひとりでしかないわたしにも、あんなにやさしくしてくれるなんて。

 盗み見ると、五十嵐さんは背すじをぴんと伸ばしたまま、目線を下に落としてシャーペンを走らせていた。精巧な彫刻のような骨格の横顔は、朝日に輪郭をふちどられ、同級生とは思えないくらいきれいだった。



 この子、つむじがふたつあるんだな。

「ありがとう! ほんと助かった、ごめんねほんと」

 数学の答えを書いたルーズリーフを渡しに行くと、遠嶋さんはぱあっと顔を輝かせた。じっとわたしが書いた文字を追う。解いているときは気にも留めなかったけれど、走り書きの自分の字は思っていたより乱雑で、まじまじと見られて恥ずかしかった。伏せたまつげはまばらだけれど、だからこそピアノの鍵盤を思わせる。つるのほそい眼鏡のフレームがにぶく陽射しを反射していた。

「じゃあ、それあげるよ」

「ごめんね、いいの? 助かる……じゃあこれ板書してくる」

 ルーズリーフを持って黒板に向かう。謝られてばかりだ。くちぐせなんだろうか。

 わたしが解いた問題はとくに何事もなく先生によって解説され、問題番号に赤いチョークで丸がついた。教科書の章問題は後ろのページに答えが載っている。出てきた数字が一致していたから正解なのはわかっていたけれど、人の代わりに解いたので責任感がある。先生がその問題を解説しているあいだじゅうひそかにどきどきしていた。

 昼休み、お弁当を食べていると「ごめん、ちょっといい?」と遠嶋さんにしゃべりかけられた。また「ごめん」か。いやじゃないけど、くちぐせにいちど気づいてしまうと、いちいち耳についてすんなり流せなくなる。

「何?」

 遠嶋さんは赤い顔をしてわたしに手を差し出した。白い手のひらには、ピンクのパッケージのキットカットが二つ載っていた。

「キットカットのいちご味。さっきのお礼。おやつにお母さんがつけてたから、あげる」

「え、いいのに」

 せっかく母親がつけてくれたのなら遠嶋さんが食べた方がいいと思い顔の前で手を振ると、黒板消しでこすったみたいに遠嶋さんの表情がさっと失くなった。持ち上がっていた頬がすとんと落ちている。

「ううん、あげる。だってわたし、ほんとに助かったから。ぜんぶ解かせてごめん、せめてものお礼。ね、受け取って」

 ここでまた断ったらかえって遠嶋さんを傷つける気がして、「じゃあもらう」と一つだけ取ると、「だめ、二つ」となぜか意地になってもう一つを机の上に置いた。「いいなー」と一緒にお弁当を食べていた可奈が余計な口を挟んだので、二つともわたしのもの、みたいになってしまった。遠嶋さんは可奈のひと言にかえってほっとしたらしく、表情をゆるませて「じゃあ、ほんとにありがと」と言って、たたっと小走りで戻っていった。

「何? 何してあげたの?」

 好奇心をむきだしにして可奈が訊いてくる。黙って成り行きを見ていた陽菜と香も興味津々といった顔でわたしを見る。「数学、代わりに解いた」とこたえると「あー。だからか、朝なんか話しかけに来てたよね」と可奈が冷静に呟く。見てたのか、と内心ぎょっとした。

「なんだろなーとは思ってたんだけど、なるほどね。確かに板書してたもんね、あの人」

 そこからどうにも話題を広げようがないので黙っていると、可奈はうふふ、と可愛らしく笑って頬にえくぼを浮かべた。

「あの人さ、いますっげーテンパってたよね。声ひっくり返りそうになって笑いそうになったもん」

「そうかな」

「そうだよ。まあ、うちらみたいなのに話しかけるとき、なんかびくびくしてるもん。媚びてるっていうか」

 うんざりして黙り込む。「ごめんごめん、まいまいこういう陰口的なノリ嫌いだもんね」とへらへらして可奈が肩をすくませた。でも陽菜と香はにやにやして「それな、低姿勢」「よけい気ぃ遣うからああいうのやだわ」と相槌を打った。同意を得た可奈が「でしょ! 思うでしょ!」とうれしそうに手を叩く。

 ――うちらみたいなの、って。何その選民意識。

 ちらりと窓際に目をやる。遠嶋さんはわたしたちと同じように四人で輪を囲んでいた。どの子ともほとんど話したことはないけれど、いつもあの四人で固まって行動している。力の抜けた笑みが浮かんでいて、楽しげだ。確かに、さっきは緊張してたのかもな、と思う。

 ふと、気づく。わたしと遠嶋さんはいちどもお互いの名前を呼んでいない。それどころか、二年連続同じクラスなのに、名前を呼んだ記憶もないかもしれない


 誰もいない放課後の教室は、ここだけが世界に取り残された場所みたいに無防備にすべてを夕陽にひたされていた。

 走り寄り、机のなかに手を入れてまさぐる。英和辞典とカズオイシグロの文庫本が一冊入っているだけだ。空を掴んで、手を机から出して茫然と立ち尽くす。ここに入っていなかったら、じゃあどこにあるんだろう。もういちど鞄の底に手を突っ込む。教科書やノートで思うように探せない。いっそ床になかみをすべてぶちまけてしまいたい衝動にかられる。どうしよう。もういちど職員室前のロッカーを見てこようか。それとも先生に落し物について訊いてみようか。それにしてもどうしてあんなにだいじなものを失くしてしまったんだろう。誰かが拾って、ごみだと思って捨てていたり、風に吹き飛ばされていたりしたら、もうわたしの手には戻ってこない。ああ、困った――。

 途方に暮れてぼんやりと自分の机を見下ろす。今日まで確かにあったのに。

「……どうしたの?」

 声がした。自分にかけられたものとは思わず反応せずにいたけれど、人が戸口に立っている気配を感じて振り向いた。

 遠嶋さんだった。「どうしたの? なんか、困ってる?」

 さして仲が良いわけでもない遠嶋さんに察せられるくらいいまのわたしは茫然自失して見えただろうか。苦笑して、「ちょっと、もの失くしちゃって」と答えた。遠嶋さんが目を丸くする。

「うそ、大変。何失くしたの?」

「……楽譜」

「え」

 遠嶋さんが訝しげに顔を曇らせた。わたしと楽譜のイメージがつながらないのだろう。

「えっと、吹部、だっけ。あれ?」

「ううん、違う。ピアノの楽譜」

「え……ピアノやってるの?」

 遠嶋さんの目がますます見ひらかれる。気まり悪くて思わず視線をそらした。

「探そうよ。大事なんでしょ。楽譜、って本? それともコピー」

 思ったよりもずっと凛とした声にはっとする。「コピー」とこたえつつも、真剣なまなざしで教室を見回す遠嶋さんを意外に思った。こんなふうに、クラスメイトの事情に深入りして世話を焼くタイプには見えない。それに、確かこの子は電車通学だ。わたしに付き合って電車を逃したりしたら申し訳ない。いいよ、帰りなよと言おうとして、ふと、思い当たる。

 昨日、わたしに数学を解くのを頼んだから、借りを返そうとしている。

 すでに「お礼」としてキットカットをもらったのだからもう十分だと思うのだけれど、それだけではもしかしたら気が済まないのかもしれない。申し訳なくはあるけれど、やはり助かるのであまえることにした。

「ごみ箱あさる?」

 遠嶋さんの目が教室のすみに向いていた。確かにくず紙があふれているごみ箱はそのなかにぐしゃぐしゃの楽譜が混じっていてもおかしくないけれど、さすがにあれを一つずつ広げたりかき分けるのには辟易した。「ううん、それはやめとく」と首を振ると、提案した張本人の遠嶋さんもほっとしたようだった。こんなことを思っている場合ではないけれど、素直な反応がなんだかかわいく思えた。

「楽譜って、何の曲?」

 教卓のなかを覗きながら遠嶋さんが訊く。わかるのかな、と思いつつ「ドビュッシーの『水の反映』」とこたえると、「えーっ」と弾かれたように大声を出して遠嶋さんが教卓から顔を上げた。

「そんな難しいの弾けるの」

 通じたことに驚きと感慨を抱きつつ「まだ練習中だけど」とこたえると、遠嶋さんはぽかんと口を開けてわたしを見ていた。そんなにびっくりするかな、と苦笑してしまう。でも、びっくりするということはクラシック曲の難易度をある程度知っているということだ。それもすごいな、と思ったけれど、それをわたしが口にするとなんだか偉そうに聞こえる気がして口をつぐんだ。

 そうなんだ……と遠嶋さんはまだぼうとした顔でふらふらと歩きだす。誰かにピアノの話をしたことなんてないので、こんな反応をされるのか、と思い内心戸惑った。

「遠嶋さんも弾いてるよね? ピアノ」

 うっそりとこちらを振り向く。あ、蘭ちゃん、って呼んだ方が友だちっぽかったかな、と一瞬頭をかすめたけれど、どっちでもいいか、と思い直す。「今年も合唱部の伴奏してたよね」

「うん……わたし、瀬尾ちゃんに一年のとき、頼まれたから」

 へえ、と驚いてしまう。反応が意外だったのか、遠嶋さんがわたしを見つめてわずかに首を傾げた。弁明するように言葉をつなぐ。

「部員も探してたんだ、ってびっくりして。てっきり顧問が探すものかと思ってた……」

「それ、どういう意味?」

 心なしか、訊き返す遠嶋さんの声が張り詰めている気がする。こんな些細なこと気になるのかな、と思いつつ「わたしも入学してすぐ森原先生に伴奏を務めないかって入部を頼まれたから」とこたえた。遠嶋さんは白い顔をして床に目を落としている。急にどうしたのだろう。変化の理由がわからず、沈黙になるのが厭でおずおずと説明を重ねた。

「わたしのピアノの先生が、森原先生と音大の同期で。それでわたしのこと話したみたいなの。それで、伴奏をしないかって」

「そっか」

 さきほどよりは声と表情がやわらいだ気がする。ほっとして、教室じゅうにくまなく視線を走らせる。

わたしが第一希望じゃなかったんだ。

 ぽつりと遠嶋さんが漏らした。不可解な発言に「え?」と訊き返すと、「何でもない。それより、職員室で落としもの届いてないか訊いたりした?」と言った。こちらを見ているはずなのに、わたしと目が合わなかった。



 静まり返った夜明けに薄氷の上をヒールの高い靴でダンスしているみたいだ。

「水の反映」をYouTubeから探して流して、そう思った。音符が一つひとつ、すばやいタッチで過ぎ去るのに、ガラスの破片のようにきらきらと儚くうつくしい。まるで天からふるえながら舞い降りる雪の結晶のような繊細さで、音の一つひとつが透き通って一つの曲をなしている。聴きなじみの薄い、けれどかなり難解なピアノ曲であることがすぐにわかる。楽譜の後ろについている、曲の難易度表をしょっちゅう見ているから知っていただけで、聴くのはこれが初めてだった。ピアノの難易度の最高峰、Fランク。ついぞわたしが弾くことはないだろう。頭をかすめたこともない。

 このレベルの曲をさらっているということは、五十嵐さんはどれほどの腕前なんだろう。顧問の先生から直々に伴奏を頼まれていた、というのも衝撃だった。瀬尾ちゃんに連れられて森村先生の元へ行ったとき、握手を求めんばかりによろこばれて、自分が救世主にでもなったような気分になったけれど、それは大間違いだったのかもしれない。わたしなんて第一希望のまがいものとしてあてがわれただけだ。

 ふっとむなしくなって演奏再生を途中で止めた。

 結局、楽譜は見つからなかった。「仕方ないからもう一回先生に楽譜コピーしてもらう。ごめんね、こんなたいしたことないこと手伝わせて」と五十嵐さんはすまなそうに手を合わせた。ううん、とだけこたえて、電車に乗った。時間をつぶしていつもより遅い時間に乗った電車は、運動部の同級生がたくさんいた。普段、ほとんど口をきくことのない人たち。わたしのことなんて視界に入っていないかのようにふるまう集団。五十嵐さんは運動部じゃないけど、この人たちと同じ種類の人だ。二両編成の電車は息が詰まりそうなくらいぎゅうぎゅうに身体を押して、肋骨が狭まりそうだった。

 その日、母親が炊飯器の予約ボタンを押し忘れていたとかで帰宅後も時間が合ったけれど、ピアノを弾こうとは思わなかった。制服を脱いで、さきにお風呂に入った。いつもより長風呂になった。ぼんやりしていたせいか頭を洗うのを忘れていて、上がる直前に慌ててシャンプーした。

音大、目指してるのかな。

髪を乾かしながら、ふと思う。あんな難しい曲を習っているのなら、充分ありうる。むしろ、音大を狙っているからあんな難曲をさらっているんじゃないんだろうか。いちど思いつくと、身体の中心がざわざわと揺れ始めた。普段はほとんど波立たない、風も起こらない平地だと思っていた場所に、激しい感情が雨あられのように降ってきて、たちまち昏い色に染まり始める。

音大――。ピアノの先生に、あのとき、訊かれたのだった。「蘭ちゃん、高校までつづけたいってことは音大受験を考えてるの?」と。思ってもみない発言にびっくりして、反射的にすぐさま打ち消したけれど、高校に上がってもつづける、と言われたら真っ先にそう考えるのはしごく当然の発想だ。高校も、音楽科のある附属高校が県内にあるのは知っていたけれど、自分がそこを受けることはほとんど考えなかった。ほかのクラスメイトと同じように、自分の偏差値にあった高校の普通科しか見ていなかった。

じっと鏡のなかを見つめる。長い時間お湯に浸かっていたせいか、一重まぶたがいつもより腫れぼったく、逆まつげが重くうつむいていた。

もし――もし、わたしも音大を視野に入れて、進路の手段として、ピアノをつづけていたら。苦労して入った高校では、取るに足らない劣等生でしかない自分なんて存在せず、華やかな未来が待っていたのではないか。もちろん、ピアニストや音楽家になれる人は世の中にほんの一握りしかいないことはわかっているけれど、だとしても、音楽の道を選んでいたら、もっとわたしはかがやいた、陽あたりのいい道を進めていたんじゃないか。勉強なんて、全然好きでも得意でもない。中学ではたまたま上位に食い込めたからそれがうれしくてがんばれたけれど、いざ自分が劣等生の場ではこのありさまだ。ピアノなら、どれだけしんどくても好きなことだからきっと頑張れたはずだ。

髪を櫛で梳かす。いいかげんなトリートメントをしたせいか、いつもよりごわごわときしんで絡まりやすい。いらいらしながら、だま状にこんがらがった髪を指で力まかせにほどく。

心がざわざわと落ち着かない。胸が肋骨ごと狭まったみたいにきしんでいる。こんなふうな気持ちになるのはほとんど初めてかもしれない。正体が掴みきれないから、どう扱っていいかわからない。わからないものは、どこかおそろしい。早く通り去ってほしい。

よく乾ききらないうちにドライヤーを切った。わたしの髪質は広がりやすいから、丁寧にブローしないと朝苦労することになるのはわかっていたけれど、何となく最後まで乾かす気力がなかった。「ごはん、炊けたよ」と母が顔を覗かせる。

鱈の煮付けと大根と蕗の煮物、ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁。父が単身赴任で大阪に行ってから、最近は和食ばかりだ。舌に絡みつくような、こってりと味の濃いごはんが恋しい。ビールを嗜む父の嗜好に合わせてからあげや角煮といった肉料理や辛いおかずばかり食卓に並んでいたのに、本当は和食の方が自分の好みだったのだと言って味の薄いものばかり作るようになった。その方が健康にいいのは確かだし、揚げものばかり食べていた頃より肌の調子がいいのも認めるけれど、つまらない思いで鱈の身をほぐした。

ピアノの先生にでもなったら? 中学生のとき、母はときどきそう言った。そのたび、適当に流したりして否定していたけれど、母の口調は案外熱っぽく、冗談で言っていたわけではなかった気がする。

「ねえお母さん、わたし、音楽科に行けばよかったかな」

何となしに口にしただけなのに、母は箸を空で止め、異物でも見るようなぎょっとした目でわたしを見つめ返した。そして、不快そうに眉を寄せた。

「ばかなこと考えてるんじゃないでしょうね。普通の、国立大学に行ってくださいよ」

関係のないところで進路に釘を刺され、むっとする。それとこれと何が関係あるの、と言おうとしてやめる。母はきっと、わたしが音大受験の希望をほのめかしたと勘違いしているのだ。そんな大それたこと、わたしだって考えていないのに、勝手な邪推をしないでほしい。いらいらし気持ちと一緒に大根を咀嚼する。

音大に行きたいとかピアノで食べていこうだなんて小学生の夢物語みたいなこと、考えていない。いないけれど、五十嵐さんが音大に行くのだと想像しただけで、胸の底がぐらぐらと揺れた。嫉妬。思いついて、まさか、とすぐさま打ち消したけれど、胸のざわめきは増すばかりだった。くだらない。ほんの推測でしかない。わたしと同じで、単なる趣味かもしれないのに。

同じ教室のなかで、わたしと同じように長いあいだピアノをやっていた女の子が存在することが、想定外で、くやしかったのだ。しかもその相手が。それ以外のもちものはどうしたってすべて敗北している五十嵐さんだったことに、おののき、傷ついている。


模試があったから、ピアノ教室に来るのは二週間ぶりだった。練習がどうしても滞ってしまっていたので、「指が転がってる」「音の強弱が雑、もうちょっと丁寧に、クレッシェンドを意識しなさい」と先生の指導もいつもより叱責が多い。

シューマンの「飛翔」。中学生の頃は弾いてみたくて仕方なかった憧れの曲の一つだけれど、所詮は難易度Dランク程度だし、複雑な技巧が織り込まれているわけでもないし、誰もが知る名曲というわけでもない。以前は憧れの曲をまた一つ習得できることに誇らしさを感じていたのに、同い年の子が「水の反映」を弾いていることを知ったいまは、ちっとも心が湧き立たない。何の感慨も昂ぶりもなく、先生の指示を拾いながら、楽譜の音符をただなぞっているだけだ。くだらない。そんなせせこましいことで、どうして落ち込んでいるんだろう。

「先生、ドビュッシーの『水の反映』って、どのくらい難しいですか」

帰りがけに話題に出してみた。先生は困ったように笑い、「素人の高校生には無理よ。先生も音大に入ってから弾いたもの」と言った。純粋な興味で訊いてみただけで、弾きたくて口にしたわけでもないのに勘違いをされ、頬が赤くなるのがわかった。このあいだの母といい先生といい、わたしのピアノの才能は、この時点で頭打ちで、底があるものだと知らしめて何かをあきらめさせようとしているとしか思えない。まるでわたしが自分の能に酔って夢を見ているみたいに思われている。

そんなわけじゃ、ないのに。わたしはきちんと、自分の大きさをわかっている。身の丈に合わせた努力と選択をしているつもりなのに。

「そんなことより、そろそろ大学受験ね。どこ行くか、候補はある? 教室はいつまで通う?」

先生はにこにこしている。だけど、世間話として訊いているわけではないのは探るような真剣なまなざしでわかってしまう。

長年通っている生徒として、ほんとうは高校生のわたしを持て余しているんじゃないかと思うことがある。やるなら本気で、と言ったわりに、進路にピアノがないことを知ると、先生はわたしにあまくなった。確かにわたしがしていることはもはや習いごとというよりも趣味、娯楽でしかかない。見切りをつけて自分の将来のために受験勉強を本格化させた方がいいのはわかっている。どれだけ月謝や練習の時間を投資しても、本人にその意志がない以上、ものにならないのはもうわかりきったことなのだから。

それなのに、なぜなかなかやめられずにいるのだろう。合唱部の大きなコンクールも、先月に終わっている。ずるずるとたいした意味も持たせないまま長引かせてきたピアノも、もう終わらせるべきなんだろうか。

す、と息を吸い込む。

「先生、わたし今月でピアノ教室やめます」

初めてここに連れてこられたときは、大きなグランドピアノがでんと真ん中に据えられ、ヨーロッパの宮殿を連想させるアールデコ調の家具や装飾品であちこちつくりこまれたこの部屋をとても素敵な空間だと思った。まるでお姫さまの御殿のようだと、来るたびにうっとりと眺めまわしていたけれど、高校生になって見回してみると、この空間は子供に忘れさられた古い玩具箱のなかみによく似ていると思った。わたしはもう、大きくなりすぎたのだ。



付き合ってる人とかいる? もしいなければ俺と付き合わない。

隣のクラスのバスケ部の男子。一年生のとき同じクラスだったけれど、さして交流していたという印象は残っていない。早口でよくしゃべる、派手なクラスメイト、それくらいの認識だろうか。そういえば可奈が、何とかという俳優に似ているなどと言って、名前を出して騒いでいた気がする。

中庭につれられ、そう告げられた。高校の中庭は、木ばかり生えて、普段生徒は踏み入らない。足元の悪さとローファーに着いた泥の汚ればかり気にしていたら、告白されたのだった。クラスは違うのにたびたびメールが来たり、駅で出くわすと必ず声をかけてきたり、近しい人なのかな、と思っていた。それ以外、とくに考えることはなかった。

「ごめんなさい」

直球で断るほかない、と思い、頭をすこし下げた。途端、照れてはいたものの、自信ありげだった表情から笑みが消え失せる。派手な造作の顔だ。女の子からもてるんだろうなぁ、とは思うけど、自分がぜひよろこんで付き合いたいとは思えなかった。

「好きな人とか、いんの」

あからさまに傷ついた顔で、なおもたずねる。そうじゃないけど、と言うと、ますます表情が硬くこわばるのがわかった。わかりやすい理由もなしに断られたことでプライドが傷つけられたのだと、あとから気づく。

「ごめんね。もう、行かなきゃ」

実際、レッスンの時間が迫っていたのだけれど、この場を去る方便だと思ったのだろう、彼はぎこちなく「あ、うん」とひらがなをそのままなぞっただけのような低い声を転がし、道を譲った。早足で歩く。中庭を出かかったところで、盛大なため息をつくのが聞こえた。申し訳なさよりも、言外に責められているような気がしてうんざりした。急いでバス停に向かう。

好意を持たれること。それ自体、嬉しいことのはずなのに、いざ現実に起こるとどうしてこう、やっかいで面倒なものでしかないのだろう。ただ道を歩いているだけなのに、押し付けられるような格好で一緒に重い荷物を背負わされるような息苦しさ。どれだけスマートにアプローチされても、心踊ったことはほとんどない。好きでもなんでもない異性ばかり、蛍光灯にふらふらと寄ってくる小虫みたいに言い寄ってくる。いったい、わたしの何がそうさせているのだろう。ほかの女の子にはない、いやしく劣ったなにか、隙のような汚点が彼らを惹きつけているのだとしたらと思うと足元がふるえる。告白を受けるたび、自信がばらばらと剥がれて、失われていく気がする。

バスに乗る。小さい頃からこういう場所で痴漢に遭うことが多かった。高校生に上がり、どうすればできるだけ被害に遭わないか、彼らに見つからないか、すこしずつわかってきた。気弱そうな顔をしてうつむかないこと。できるだけ運転席に近い、バスの前方に立つこと。咳払いはしても無駄だから、余裕さえあれば携帯の着信音を大きな音で流すこと。それが無理なら我慢しているよりかはさっさと降りてしまうこと。

下着が見えそうなくらいスカート丈を詰めている同級生もたくさんいるのに、どうしてかいつもわたしだけが被害に遭った。中学のとき、思いきって友だちに相談したら、舞子だからじゃないの、と誰かに言われた。舞子だからしょうがないよ。

――わたしだからしょうがない?

頭が真っ白になった。思ってもみない発言に、頭のなかにあったものがすべてはじけ飛んだ。自分が何を期待してみんなに相談を持ちかけたのか、わからなくなった。わかる、最悪だよね、という共感。ひどい、許せない、という憤り。今度からはこうしたら、という具体的な助言。舞子だからじゃないの、という言葉はそれらのどれでもなかった。しょうがない、と言いきった女の子は、あきれたように、得意そうに、くちびるを曲げて笑っていた。どう反応するのが正しいのかわからずに、疑問を込めてじっと目を見つめたら「え、何?」と不機嫌そうに眉をひそめた。どこか、目の端におびえのようなものが映り、そわそわしているようにも見えた。ううん、何でもない、と首を振った。深く考えまい、と無意識のうちに本能がはたらいたのか、自分から違う話題に移した。誰ももう痴漢の話を蒸し返さず、ほっとして別れた。――それなのに。

さっきの、自慢だよね。わたしは可愛いから痴漢されちゃうんですー、って。あたしもあのバスよく使うけど、痴漢なんて一回も遭ったことないよ。美人なのは認めるけど、あそこまでしてアピールする?

 耳に入ってくる声が言葉に変換された瞬間、かっと、頭全体が火照った。

放課後に陰口を言われているのを聞いてしまったのだった。自慢だと決めつけられたことに怒りを感じるよりも、猛烈な恥の意識が強く心を貫いた。そんなつもりは毛頭なかったけれど、ほかの子たちにはそう聞こえていた、と事実だけで充分だった。血管がぱんぱんに膨張して、うわあああっとさけびながら身悶えしてしゃがみこみたくなる衝動を必死に抑える。

――恥ずかしい。

足音を立てないように、すばやく廊下を走り去った。身体じゅうの血液が乱暴にかき集められ、顔が燃えるように火照ってしかたなかった。足をどれだけ早く早く進めても、恥ずかしさは影のようにぴたりとわたしに張りついて、振り払えなかった。

わたしは二度と、痴漢の話をほかの人の前でしなかった。あとから、同じ場に居合わせた友だちに「あれからどう? だいじょうぶ?」とたずねられ、全身の毛がばりばりと毛穴ごとそそけ立つような羞恥心に襲われた。だいじょうぶだいじょうぶ、とうなずいてすぐさま話題を変えた。親切心で声をかけてくれたのだといくら言い聞かせても、どうしようもない恥ずかしさは拭えず、いますぐにでも忘れてほしかった。

自分で気づかないうちに、誰かに嗤われているんじゃないか。あきれられているんじゃないか。いまではそんなことがいつも意識の底に忍び込んでいる。そんなことにばかり気を取られていたら何もできなくなるというのはわかっているつもりなのだけれど。

レッスンはいつもより長引いた。コンクールが近い。今度は京都で行われる。交通費もばかにならないけれど、成績によっては大学受験にも左右してくるから気は抜けない。

結局コンクールで弾く「水の反映」の楽譜は新たにもらった。すでに先生や自分の書き込みで埋まっていたから、失くしてしまったことにしょげていたけれど、さして大したことじゃなかったな、とあとから思った。大げさな言い方をして心配させてしまい、一緒に探してくれた遠嶋さんには申し訳ない。

「そろそろ筆記対策も始めた方がいいかもしれない。本屋で参考書を探しておきなさい」

 はい、とうなずく。この教室は高校一年のときから通い始めた。音大受験をするならあなたに紹介したい先生がいる、と子供の頃からお世話になった先生からの伝手で、教室を代わったのだった。真っ白いひげをたくわえ、山羊を思わせる初老の先生は、見た目通りの厳格さで指導する。私語はほとんどしないし、褒めてくれることもすくない。淡々と、受験までにこなすべきことをわたしに教え込むだけで、無駄がない。先生によって膚に刺青を彫られているみたいに、丁寧に、丹念に知識や技巧がじかにずりこまれているような感覚を覚える。

「トリルをもっと繊細に。わからないくらいのディクレッシェンドをかけて、そう」

 窪まったちいさな目が鋭くわたしの指運びを見据える。レッスンは格段に厳しいけれど、つらいとは思ったことはない。情けをかけられて容赦されるよりずっといい。

 五十嵐さんのことが――

 奥二重の切れ長の目がじっとふたつ、媚びをはらみつつもどこか自信ありげにわたしをとらえる。つい先ほどのできごとがふいによみがえり、楽譜をきっとにらみつける。案の定、先生に「ぶれるな。音が走っとる」とぴしゃりと言われた。

 ピアノは、好きだ。音大進学も、自分のなかではごく自然な選択肢のように思えた。進路面談のとき、担任の先生は、意外そうに目を見張った。五十嵐の成績なら東大京大も視野に入れたっていいんだけどな、でも芸大も素晴らしい大学には違いないから、と苦笑いした。わたしは笑わなかった。

 ピアニストになるのか、ピアノ教室でも開くのか、音楽教諭になるのか、ちっともまだわからない。音楽を実際の職の手段にする人は、音大を出た人のなかでもすくないだろう、それくらいわたしにでも想像がつく。

 でも、もっと音楽をやりたい。いまはそれだけだ。

 そう言えばあの男子って下の名前なんだっけ、とよぎり思考がひっぱられたところで「ぼうっとせんとしゃんと弾け」と先生が針を突き通すようにぴしゃりと言い放った。



 予備校の授業がこんなにハードなものだとは思わなかった。

 講師が言っていることが半分以上理解できないのだ。途中から入ったのだから、ほかの生徒に比べたらいろんな前提がすっぽり抜けているのはしょうがないかもしれない。だけど、なにも習っていない範囲を扱っているのではないのだ。すでに習った分野の問題のはずなのに、知らない言語を聞いているようで途方に暮れた。隣の席のわたしが身に着けているのと同じセーラー服を着た女の子が一心不乱にノートに数式を書き連ねていくのを、できのいい手品でも見るみたいな気持ちで盗み見る。

 ピアノやめてきた、と告げると、母は驚いたのち「よかった、蘭もやっと本気になったのね」とうれしそうに言った。いつのまに調べていたのか、パソコンの「お気に入り」のなかにあった予備校のホームページをいくつか見せて「どこにしたい? すぐにでも行きなさい」と言った。反論が無駄であることは、母の用意周到さを目の当たりにしてすぐに理解した。

 よくわからないまま、クラスメイトがよく口にする、駅にほど近い予備校を選んだ。次の週に訪れると、難関コース、標準コース、基礎コースがありますけど、と言われ、標準コースを選ぼうとして、ふと、いろんな高校の生徒がこの予備校にたむろしているのに気づいた。ここは高校じゃないんだ、とはっとした。自分より格下の高校の生徒たちがあんなにいるんだ、と思い、気づけば「難関コースで」と口走っていた。そして、すぐさま授業を体験することになったのだ。

 数学と英語を受講することにして、どちらも難関コースを選択してしまった。教室に入ると、自分と同じ高校の子たちばかりで「これでよかったんだ」とほっとしたけれど、始まってから授業の高度さに仰天した。このレベルでは到底ついていけない。かえって、自分の実にならない無駄な時間を過ごす羽目になるだけだ。授業が終わり次第、コースの変更を願い出るしかない。さっき申し込んだばかりなのに、たった一回でコースをランクダウンするのはいかにも見栄を張ったみたいで恥ずかしいけれどしょうがない。講師の説明する声にまぎらわすようにちいさくため息を漏らした。

 高校では劣等生にくくられる自分だけれど、ほかの高校の子たちもいる空間では優等生に返り咲く立場にいるのかもしれない――そう思ったのもつかの間だった。この場所でも高校での立ち位置となんら大差ない。世界をすこし広げてみたところで、わたしは結局勉強ができない側に振り分けられるのだ。

 何も作業していないわけにもいかず、ほとんど理解していないままとりあえず板書をルーズリーフに写す。いったい何をしているのだろう。これじゃあ、気分転換になるだけピアノを弾いて「遊んで」いる方がよっぽど有意義だ。いったいわたしは何のためにこの場所に二時間半も座っていなければならないのだろう。シャーペンを必死に走らせながらますます自分がみじめになって、わけもわからず泣きたくなった。高校一年の春に感じた絶望感をひさしぶりに味わった。

 あのときも、すぐについていけなくなったのだ。学年のトップ一割の生徒しか受からないと言われている優秀な高校に受かったときは誇らしさで胸がぱんぱんにふくらんだけれど、よろこびもつかのま、すぐさま現実に振り落とされた。高校の勉強は難しい、特に進学校は課題も多いしやっていることも難易度が高い、と入学前からさんざん脅されていたけれど、予想以上だった。古典も英語も世界史も、もともと苦手意識の強い数学も、最初から内容が難しい。わからないことをそのままにしてまた新たにわからないものが増えていく。わたしのように勉強についていけない子が周りにちらほらいたので、なんだ、これが普通なのかとほっとしたけれど、模試の順位表を見て、実際にクラスの知っている名前がいくつも載っていることに気づいてがんと頭を大きな手で押さえ込まれたようなショックを受けた。みんなが平均して勉強に苦戦しているのではなく、苦労せず授業についていって、きちんと理解を深めている生徒も一定数いるのだとやっと気づいたのだった。

中学では優等生だったのに、ここでは落ちこぼれでしかない。自分では精一杯の努力をしているつもりでも試験結果は振るわず、順位はいつも、学年の半分を行ったり来たりして落ち着かない。二年に上がってからは下回ることの方がずっと多い。赤点を取っても、前ほど傷つかなくなった。

 一年生のときは成績表をもらうたび落ち込み、絶望していたけれど、いまはもう、それをあたりまえのこととして受け止めるようになっていた。母がつまらなさそうに成績表を眺めてため息を吐くのを見るのは苦痛だけれど、わたし自身はさして思い詰めていなかった。自分の学力へのコンプレックスと闘争するのをやめて、苦労して頭のいい高校に入るとはこういうことなのだと自分を納得させていたから。

 それでも、予備校で自分の頭の不出来さを痛感させられ、周囲との差を再確認し、しっかりと落ち込ませられたのだった。わたしはどうあがいても、こちら側にとどまってられるような人間じゃないのだ。

 授業は言われていた時間より早く切り上げられた。内心ほっとしていたら、紙を配られた。

「来週模試をやるから、名前と志望大学を記入しておくこと。大学のコード表はいまから配る」

 ついこのあいだ高校で受けたばかりなのに、とうんざりした。五つ書く場所がある、おなじみの四角い枠。

「そろそろ真剣に自分の志望大学を絞っておくこと。三年になってもまったく決まってないようだと困るぞ」

 いつものように自分の住む県の国立大学から名前を埋めようとコード表をめくっていたら、講師がそう言ったのでぎくりとした。適当に済ませようとしている心のうちを読まれた気がした。

 行きたいわけでもない大学。でも、それすらAランクを取れない自分。憧れの大学はいくつでも思いつくけれど、判定は目も当てられない結果になるのは目に見えている。浪人なんてまっぴらごめんだ。ひとりっ子とはいえ家庭状況も芳しくない。となると私立はできるだけ避けなければならない――。

 うんざりする。現実とすり合わせていったら、どんどん自分の選択肢は狭まっていく。大学受験なんて、自分の持っているものの威力のなさ、自分という人間の不出来具合をあらためて確認していくだけのみじめな作業だ。高校受験のときは、県内有数の難関高校を目指しているというだけで誇らしかったし、周りの子たちにも尊敬された。一方で、大学進学の実績も就職先も全然大したことのない、わたしなら滑り止めにもしたくないような底辺の私立高校を専願受験している同級生を見て、「あんなところに行ってどうするんだろう」と心のなかで思っていた。いまのわたしは、彼らと変わらない――。ここにいる優秀な子たちは二年前のわたしと同じように、わたしの進路を嗤い、憐れむだろう。稚拙な被害妄想だとはわかっていても、実際にそうされたみたいに悔しさといたたまれなさで胃のうらがわがじりじりと焦げるように痛んだ。

「あと五分で回収するぞ」

 講師が声を張る。まだ名前しか埋めていない。慌ててコード表をふたたび眺めた。

 ――希望なら、べつになんだって。

 やけっぱちになって、思いついた順に名のある難関大学で埋めた。最後の一つ個くらいは現実的な大学名を記入しようと思ったけれど、「やめ」と講師が手を挙げ、後ろから集められた。手元を離れたとたん、なんだか恥ずかしいことをしてしまったような気がして急に心もとなくなってしまった。却ってきたらさぞ落ち込むだろうなと思う。

 わたしは、わたしが思うようなわたしじゃない。ここ数年、ずっとそうだ。そしてこれからもそうでありつづけるのだ。

 みんなが立ち上がり、急に騒がしくなる。のろのろと荷物を持って後をついていき、予備校を出る。母の白いノートが駐車場に停まっていた。乗り込んだ途端「どうだった? 合いそう?」としゃべりかけてくる。わたしは返事をせず、窓ガラスに額をぴったりくっつけ、流れていく街灯をじっと見つめた。こんな、この程度のわたしだ。これからも、ずっと。



 見られた、と可奈の目の動きと表情のこわばりでわかった。色つきリップを塗ったさくらんぼのようなくちびるは、停止ボタンを押したみたいに「は」のかたちで止まっている。

「え~……」

 可奈は目をうろうろさせ、視線を落とす。「えと、なんかごめん」

 模試の結果を見ていたら、可奈が「やだーまだ見てる、どんだけよかったの」と後ろから抱きついてきたのだ。冗談にしろたちが悪い。隠す間もなく、しっかりと成績表をひらいたままだった。

「見たんなら仕方ないよ」

 ため息をつくのも厭味かと思い、つとめてさばさばと言って成績表をファイルにしまう。放課後にまたひらいていたわたしも悪い。どうせ学力は最低限しか求められていないのだから、どれだけ分析しようが大した意味はない。

「あれだよね、芸術系? の大学だよね。知らなかった、全然」

 可奈はまだうろたえている。悪意はなくても、事故的な格好でわたしの進路を把握してしまい、どう反応していいかとまどっているのだろう。

「ピアノ科。わたし、ピアノやってるの、ずっと」

 中途半端に知られて噂が流れても困る、と思い、つとめて声を落として白状した。案の定、可奈は「ええーっ」と大きな声を上げた。慌てて手を口元に持っていく。

「知らなかった。うそ、いままで黙ってたの? なんで?」

「……ごめん。言うタイミングわかんなくて」

 そっかあ、と可奈が呟く。まだ呑み込めていない様子だった。

「すごいねえ。まいまい、頭いいから普通にすっごい大学行くんだと思ってた。そっか、ゲイダイか」

「うん。香たちにも言った方がいいかな」

「言ったらびっくりするよ、うそおおお、って」

 だからこそあんまり言いたくないんだけどな、と思い、呑み込む。過剰反応されて大騒ぎされるのは、あまり好きじゃない。

「でもちょっと納得。まいまい、余裕あるもんね」

「余裕?」

 思いがけない言葉に、思わずおうむ返しに訊き返す。「うん」と可奈は無邪気にうなずく。

「うちらと違ってあくせくしてないで涼しげって感じ。頭いい人は違うな、って思ってたけど、音大に行くんなら納得って感じ。えー、知らなかったぁ。ね、今度ピアノ聴かせてよぉ」

 腕を掴んで揺さぶられる。釈然とせず、うん、いつか、と曖昧にうなずく。音大だろうが普通の大学だろうが、同じ重さの選択肢であることには変わりないはずなのに、なんでこんな扱いをされるのだろう。可奈だけじゃない、担任だってそうだった。芸大受験を考えていることをいうと、そそくさと推薦の資料をしまいこみ、さばけたような口調で「がんばれよ」と言って解放された。専門外のことを訊かれても困るのだろう。

「可奈はもう決めてるの、志望大学」

 本気で知りたいわけではなかったけれど、事故のような格好で自分だけが手のうちを知られてしまったのはどうにも損をしているような気がして、一応訊いてみた。案の定、可奈は本気で厭そうに「ええー」と身をよじらせた。

「言いたくないー。めっちゃ恥ずかしいもん」

「わたしのは見たのに?」

 いじわるかな、と思いつつそう切り返すと、きまり悪そうに視線をそらす。そして「誰にも言わないで。香とか陽菜にも言ってないから」と声をひそめた。なんだかんだごまかしてはぐらかされると思っていたから、意外な展開に心臓の位置がすこし高くなる。

「うん、わかった」

 ちいさくうなずくと、可奈は耳元に口を寄せてごくちいさな声で大学名を口にした。東京の、名門と呼ばれる女子大学だった。正直驚いたけれど、あんまり過剰に反応すると失礼だと思い、そっか、とうなずくにとどめた。可奈は赤い顔をしてじっとわたしを見ていた。

「がんばろうね、お互い」

 うん、と可奈のちいさな手を右手で掴んで握る。乾いてさらさらしていたけれど、いつもよりぬくい気がした。


 考えがよぎらなかったわけじゃない。でも、まさかこんなに早くこんな事態になるとは誰が思うだろう。

「ごめんってまいまい。あたしだって、こんなに広がるとは思わなかったんだよ……」

 薄く茶色で描かれた可奈の眉がハの字に下がる。つるりとした桃のような狭いおでこがにくたらしいと感じたのは初めてのことだった。

「何で話したの?」

 気をつけていてもどうしても声に険が混じる。われながら冷徹な声だと思った。可奈がおどおどと目をそらした。

「だって、うちら友だちじゃん、香と陽菜も知りたいかなって、気ぃ遣ったんだよ」

 朝、教室に入ったとき、違和感があった。登校してきただけなのに一挙一動をみんなが息を呑んで見守っているような息苦しさと、何か言いたげな空気がもやりとまとわりつく、居心地の悪さ。もちろんみんながみんなではないから、自意識過剰かもしれない。でも断片的に見られている感覚は確実にあって、具体的に誰かがはたらきかけてくるわけじゃないのに、みんながどことなくわたしに注目しているのがわかる。なんなんだろう、ときまり悪く思っていると、「まいまいー! 聞いたよ!」と窓際で陽菜が大声でしゃべりかけてきたのだった。

「聞いたって、何を?」

 身に覚えのないことで何か自分にまつわる話をされていた気配を感じ、怖気づく。いっそ聞きたくない気すらしたけれど、陽菜は固まっているわたしに気づかずに大声でつづけた。

「音大受験するんでしょ? さっき可奈に聞いてびっくりした! すごいじゃん、音大なんてさ」

 クラスじゅうが、わたしたちのやりとりを聞いているのは明らかだった。男子の一部からはあからさまにどよめきが起こり「すげえ」「音大とかマジ?」と声が投げかけられる。それにこたえる余裕もなく、わたしはだらりと腕を下げた。心が急速に曇っていくのがわかる。それとは裏腹に、陽菜や香やまわりの女子たちはきゃあきゃあと過剰なくらい色めき立っていた。わたしはつとめて静かな声で制した。

「ごめん。用事あるから職員室行かなきゃ」

「え~? 話聞きたかったわ」

 陽菜たちは不服そうだったけれど、足早に教室を出た。可奈もあの場にいたけれど、表情を確かめる余裕はなかった。行くあてもなく、職員室前の簡易ソファーに腰かけた。そうして、受験の資料を見るふりをして、チャイムが鳴るまで時間をつぶした。

 十分休みに、可奈のところへ行くと、何も言わないうちに「ごめーん」と手を合わせられた。きょとんとした顔で「何?」と言われたら、勝手に進路を暴露したことをきびしく責め立てようと思っていたのに、先手を打たれて言葉に詰まった。軽い謝罪にかえっていらだちが募り、顔がこわばった。

「……言わないでほしかった?」

 うかがうように可奈がそろりとたずねる。うなずくと、可奈のちいさな顔がくしゃりと顔が歪んで、泣きだしそうになった。

「だって……」

「可奈が自分の志望大学言いふらされたら怒るでしょ。それと一緒だよ」

 しょげると思ったら、可奈は不服そうに「そうかな」と呟いた。「音大はべつっていうか、次元が違うじゃん、うちらとは」

「だからってしゃべっていいと思ったの? 何それひどくない?」

 あまりの怒りに声がふるえた。さすがに気まずそうに、可奈がまぶたをふせる。種類が違うとかみんなとは違うとか、そういうことじゃない、自分の秘密を明かされたことを怒っているのだ。それがどうして伝わらないのだろう。けれどこれ以上怒っていてもきりがないし、これでまた注目される種になったら面倒だ。ため息をついて、「まあ、いずれ言おうと思ってたから、もういいけど」と言った。可奈がちいさく、ごめんね、と言った。

 席を離れる。ほんとうはもっと腹が立ってしかたがない。今後一緒に行動するのだってすこし控えたいくらいだ。きっと可奈は、わたしが思いきって進路を明かしたとは思っていない。明かしたというよりかは偶然知られてしまったというのもあるけれど、そうだとしてもわたしには勇気のいる話だった。可奈が耳元で志望大学を告げたのと重みは何ら変わりないのに、可奈にとってはわたしの目指している進路は変わり種だという理由だけで、仲間内の話題の一つでしかないんだろうか。言うにしても、どうしてあんなに大々的に広まっているのか――軽い気持ちで話したいい証拠じゃないか。

 本人にぶつけきれなかった苛立ちがじうじうと体のなかをせめぎたてる。その日のうちに何人かが音大受験のことを訊いてきた。彼女らに怒るわけにも行かずに、しかたなく肯定するとそのたびに軽く騒がれた。もしかしたらサービスのつもりもあるのかもしれない、とも思うけれど、いちいちうんざりした。

可奈は可奈で、しおらしくしているならまだ溜飲も下がって、水に流す気にもなっただろうけれど、わたしが強くなじったのが納得いかないのか、目が合うとふいと視線をそらされた。わたしからはしゃべりかけることもなく、お昼は学食でひとりでごはんを食べた。三人でどんな話をしているかは想像がつくから、ぎりぎりまで教室に戻らなかった。これじゃわたしが迫害されてるみたい、と自嘲でくちびるが歪んだ。

 その日は可奈と口を利くこともなく、帰った。陽菜と香が何か言いたそうにこちらを見ているのはわかったけれど、ひとりで帰った。剥きだしの膝小僧が寒風にさらされ、水に浸った川の石のようにつめたくなった。冬が目前だった。


  3

 

 冬を迎えるのはこれが十七回目なのに、どうして季節の始まりにはいつも慣れないままなのだろう。

 最低気温が一桁台になって久しい。最近は、電車に乗るだけで眼鏡が曇る。飽和水蒸気が関係しているんだっけ、どうだっけ。中学の理科で習ったような気もするけれど、原理はよくわからない。片手で無理やりはずして、スカーフで曇りをぬぐう。狭い電車内ではすこしの動きでも他人に肘が当たりそうだった。私立の制服の女子高生に迷惑そうににらまれ、肩を小さくする。

 教室に行き、目を走らせる。やはり五十嵐さんはひとりで文庫本を席でひらいていた。不安が命中して心が痛むような、それでいてどこか安堵して胸を撫でおろしているような、いろんな気持ちがないまぜになって境界線が揺れながら入り混じる。

「蘭、おはよう」

 いつものように仲間たちが迎えてくれる。おはよう、と返しながらも、五十嵐さんのことが気になって仕方がない。里穂とめいちゃんが昨日のバラエティについて話を始めたけれど、うまく入っていけなかった。

 五十嵐さんがグループを抜けてひとりで行動するようになって五日経つ。いつもクラス内でもめだつ四人で一緒にいたのに、口を利くこともお弁当を一緒に食べることもなく、距離を置いている。ほかの三人は、五十嵐さんのことをあからさまに無視したり避けているわけではないようだけれど、やはり教室のなかで女子がひとりでいるとめだつ。もともと華のある五十嵐さんなら、なおのことだ。

「どうしたの? げんきなくない?」

 瀬尾ちゃんが気を遣って顔を覗き込んだ。ううん、とごまかそうとしたけれど、「あんまり見てると悪いよ。かわいそうじゃん?」とつづいたので、びっくりしてくちびるをつぐむ。図星でしょ、と得意げに瀬尾ちゃんが目を三日月みたいに細めた。今日みたいに寒い日は、にきびの多い赤ら顔がよけい際立つ。

のんびり屋で四人のなかでは天然で通っている瀬尾ちゃんに自分の視線の矛先を見抜かれたことに内心ぎょっとした。かわいそう、という言葉の、ぬめるようなすこし跳ねた響き。すっくと立つ一輪のあやめのような、凛とした佇まいの五十嵐さんにはそぐわないのに。

「ずっとだねー。何で喧嘩したんだろうね」

「喧嘩なの?」

 瀬尾ちゃんは肩をすくめた。

「知らない。でも片平さんが五十嵐さんのこと怒って、仲間内で揉めたらしいってゆきりんが言ってた。戻んないのかなあ。もう長いよね、抜けてから」

 ゆきりん、というのは合唱部の部長で、クラスメイトでもある。わたしも伴奏でかかわりがあるから口を利かない仲ではないけれど、ミーハーで一緒にいる子たちが派手だから、教室ではあんまり話したりつるんだりはしない。

「五十嵐さん、人と喧嘩とかしなさそう」

 単純に自分の感想として述べたつもりだったけれど、瀬尾ちゃんはすこしむくれて「噂だから知らないよ、ゆきりんが言ってたことだし」と言った。どうやら自分の情報が嘘っぽい、と言われたように感じたらしい。「ま、でも片平さんってちょっときつそうだもんね。ずっとこうなのかな、そしたらすごいよね」

 何がすごいのかわからないままうなずいた。里穂とめいちゃんはまだテレビの話をしている。それを目で確認して、すこし安堵した。こういう話をあんまり友だちとしたくなかった。

 五十嵐さんがひとりになる前、彼女の音大受験のことが一時期話題になった。グループの子たちは「へえ」「そんな人うちの高校にいるんだ」ときわめて薄い反応だったけれど、推測が事実に変わり、わたしだけは内心打ちのめされていた。「そうかもしれない」と「やはりそうだった」では、重みが違うんだな、と落ち込みながら思った。どうしてわたしが落ち込むのか、われながら意味がわからない。でも、傷ついたのは否定しようもない現実だった。相手が五十嵐さんだからかどうなのかは、わからない。

 予備校は相変わらず通っている。「標準コース」に落としたら格段にわかりやすくなって、情けなさもある反面やはりほっとした。でも、自分の高校より格下の高校の子たちも混じって講義を受けているのが、すこししんどかった。こんなことで落ち込むのはばかばかしいことこのうえない。わかっていても、心がすさむのはどうにも抑えられなかった。

 ピアノから遠ざかって十日ほど経つ。そんな程度でも、わたしにとっては大きな変化だった。蓋を下ろしたっきりのピアノは、ひっそりと、誰にも見つからないようにうずくまっているようにも見えた。人生の半分以上、ほとんど毎日ふれてきたけれど、使わなくなるとただやみくもに大きいだけの古い楽器でしかなく、ずっしりとした存在感がかえって悲しかった。ピアノのある部屋はピアノを弾かなくなれば使うこともない。自宅なのにひっそりと淋しく息をしていない部屋は、埃をかぶった、運動会の大道具をしまう体育館倉庫のようにも思えた。

 せっかく誕生日にもらったファイルも、楽譜を全部出して授業でもらったプリントを整理する用に替えた。ピアノやめたんだ、と言うと仲間たちは驚きはしたものの、「へえ、そうなんだ」「受験あるもんね」とだけコメントした。それだけだった。もっと大きな反応を予想していたから肩透かしを食らったけれど、かと言って自分が何を言ってほしいのかわからず、話をそれ以上広げられなかった。

 ふと思う。高校までピアノをつづけてきたことを、どこか誇らしく、自分のアイデンティティのように思っていたけれど、そんなの大した個性ではなかったのかもしれない。だからみんな、さして反応しなかったのかもしれない。

 気づいてしまうと、生ぬるい微風のようなうすら寒さが背すじをつうとすべり落ちた。もったいないね、とか思いきったね、とか、そういう言葉や、どうして? と背景を掘り下げる言葉を欲していたのかもしれない。自惚れていた。みんな、ピアノにまつわるものをプレゼントしてくれたくらいだから、わたしとピアノという結びつきにもっと関心があると思っていた。なんて幼い思い上がりだろう。聴いたことがあるのは合唱部の瀬尾ちゃんくらいだというのに、それだってわたしが普段好んで弾くようなクラシックではなく、難易度が高いわけでもない合唱曲の伴奏でしかない。

 急に恥ずかしくなった。もらってひと月の真新しいペンケース、下敷き、シャープペンシル、ピアノをモチーフにしたそれらを持ってアピールしていることが、とんでもなく自意識過剰な行為に思えて、いたたまれなかった。このクラスにはもう「本物」がいるというのに。


「舞子、メンタル強すぎない?」

 日誌を書いていると、高い声が響いた。すぐさま、「可奈。声のボリュームでかすぎ」と諌める声がつづく。背中が緊張でこわばった。それを悟られまいと、素知らぬ表情で意味もなく消しゴムをかけた。前方の席だから教室の全体を把握できないけれど、確か、わたしと片平さんたち――五十嵐さんと以前行動を共にしていた、クラスの上位にいる女の子たち数人が残っているだけだった。

「いやー普通よわるっしょ。あたしなら耐えらんない。教室でぼっちとかつらすぎでしょ」

 ふんと鼻を鳴らす。片平さんの声だ。いつもより声が低い。声量を落としてはいたけれど、わたしの存在を気にかけているわけではないことは明白だった。

「まあもともとうちらと一緒にいたくていたって感じじゃないじゃん。あの子クールだし」

 違う女の子が相槌を打つ。女子バレー部の安西さんだ。「わかる、ちょっと冷めてるっていうか、一歩退いててノッてこないんだよね」これは、バスケ部の峯崎さん。

「なーんか、戻りたいって感じでもないしさ。そんなに怒ってんのかね、あたしに。しつこくない? ちゃんと謝ったし自分も『もういいよ』的なこと言ってたくせにさあ」

「いやー、あれは正直あんたが悪いよ可奈」

「えー? そうかもしんないけどぉ」

 話の内容に意識がひっぱられて全然文章が出てこない。半分埋まっているのだからもうこれで出してもいいのだけれど、立ち去るのが惜しい。下品だとはわかっていても、片平さんたちの話が聞きたい。権力のある女子グループの内情を知りたいと思う自分がいる。

「舞子、もううちらと一緒になる気ないんじゃない?」

 安西さんが呟く。「えええ」と片平さんが大声を上げた。「まあ、あんまり執着なさそ~。どうぞご勝手に、みたいなね、スタンスね」

「っていうか音大とかマジびっくりしたわ」

「それ。なんか、本人とその話できてないから消化不良だけど、すごいよね、ぶっとんでるよ」

「頭いンだから普通に良い大学目指せばいいのに。音大って学力関係ないんでしょ、もったいな。あたしなら京大とか阪大行くわ。んでエリートイケメンと出会う」

 音大でもいいところだったら学力だってそれなりに必要になりますけど、と口を挟んでやりたいのをこらえる。普段かかわりもないのにいきなり内輪の話に入っていったらおかしな人間だと思われるし、盗み聞きされていたことに気を悪くするに違いない。先生とも男子とも気軽に口を聞き、教室内でおおきな声で騒ぐ彼女たちを敵に回すのは恐ろしいことだった。

「舞子、顔可愛いんだけどどっか変わってるんだよね。音大行くような人なら納得って感じ」

「ってかもう四時電出るよ。行こ」

 席を立つ椅子の音の後、足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなってから、おそるおそる後ろを振り返った。無口な男子がひとり、机につっぷして寝ているだけだった。誰もいないと思っていたからすこしびっくりする。寝ている男子と日誌を書いているわたししかいないとはいえ、あんなふうな話をするなんて、明け透けすぎる。聞かれてもいいや、と見くびられてるんだろうか。くちびるを少し噛んだ。グループが違うから? 普段口を利くこともないから? 

 日誌を最後まで埋めるのを諦め、閉じて席を立った。たったいま耳にしたことを、明日瀬尾ちゃんに話そうかとも思ったけれど、やめた。


 *


 黒板から視線を離せない。虫ピンで固定されたみたいに、顔を動かすことがままならない。

「えー酔いやすい人は前方に座ること! それ以外は特に備考は無し」

 担任の声はざわめきによって完全にかき消されている。教室内は栓を開けた炭酸みたいに騒がしい。立ち上がって友だちのところに行く人が数人いた。早くもチョークを持って名前を書く男子がいる。

 朝の会で来週の大学見学のバス席を決めることを担任が予告した瞬間、わたしを含めて何人が凍りついたのだろう。普段そういうクラスメイトのことなんて思いをはせたことなどないに等しいけれど、自分も一人になってみて、ようやく見えることもある。

まあ最悪ひとりでもしかたないな、とひらきなおることにして、ぴんと伸ばしていた背すじをすこし丸めた。「えーうちら絶対一番後ろがいい!」と可奈の甲高い声が響く。

 可奈たちは最近、六人グループで行動している。もともと仲が良かった三人の女子が加わった格好になる。どちらも奇数グループで何かと面倒が起りやすかったから好都合だったのだろう。だから、可奈、陽菜、香のいずれかと隣に座ることはありえないことははなからわかっていた。

 気づけば席についているのは少数で、ほとんどが立ち上がり、だんだんと教室が左右で男子と女子で分離し始めていた。窓際の女子のかたまりに自分も加わった方がいいのだろう、とは思うけど、億劫だった。すこしずつ名前が埋まる表を見つめる。男子は普段グループなんてものは意識していないみたいに見えるのに、こういうときは女子よりスムーズに決まっているように見える。

「まいまいもこっち来たらー」

 名前を呼ばれてはっとする。女子の集まりの真ん中で、由紀乃がこちらに手招きしていた。可奈たちは、気づいてはいるのだろうけれどこちらを見ることはない。断るのも気まずい気がして、素直に窓際に移動した。

「どうする? 席」

「うーん、余ったところでいいかな」

 何気ない会話だけれど、みんなが好奇心をたぎらせて聞いているのが肌でわかる。浮いているのはわたしのせいもあるから仕方がないし、ひとりであることもそれがみんなの前で露頭するのも構わない。だけど、いかにも同情するみたいに視線を投げかけられると、さすがにうんざりととする。

「えー、誰と隣になる?」

 親切で言ってくれているのだろうけれど、苦笑いするほかなかった。まわりの子たちも、何とも言えない表情をしている。あ、わたしが空気を固めてしまっているのだな、と気づいて、口のなかがだんだんと苦くなってきた。

「あの」

 ふいに肩を叩かれた。遠嶋さんがじっとわたしを見ている。そんな場合ではないのに、案外と背が低いことに驚く。

「よかったらだけどわたしと席隣になんない? 余っちゃって」

「いいよ」

 考える間もなくうなずく。遠嶋さんはすこし頬をゆるませ、「じゃあ、書いてくる」と黒板に向かった。あれ、全員決まったっぽい? と由紀乃が意外そうに首を傾げた。席に戻る。たすかった、と遠嶋さんが苦労して高い場所に名前を書き込んでいるのを見て胸を撫でおろした。

 でもなぜなのだろう。遠嶋さんは普段四人で行動しているから余りはでないはずだ。けれど、できあがった表を見て納得した。

 最後のシートは宣言通り可奈たちを含める七人の女子の名前があり、そのなかに遠嶋さんと仲がいい瀬尾さんの名前があった。わたしはほとんど話したことはないけれど、可奈たちと仲よかったんだっけ、とぼんやり思いをはせてみる。でも、そんな記憶がない。不可解に思いはしたけれど、先生が「じゃあ各自覚えておくこと」と言って板書が消される頃には忘れてしまった。


 その日の帰り、久しぶりに可奈と玄関でかちあった。無視される、と一瞬身構えたけれど、「あ」と無防備に声を漏らしたのは向こうだった。

 どう反応すればいいかわからず、妙な間が生まれた。突っ立っているわけにもいかないのでローファーを取り出す。可奈が意地をはるみたいにわたしの動作をじっと見つめていた。きまり悪く思いつつ、「じゃあ、帰るから」と脇をすり抜けようとしたら、ぼそりと呟いた。

「なんかムカつく」

 何だそれ、とすぐさま思う。思うけれど言い返しはしなかった。つっかかるのもおとなげないな、と思っての沈黙だったのだけれど、可奈は無視と捉えたようだ。自慢のぱっちりした二重をぎらぎらとみひらいてわたしを見据える。

「なんで? なんでそうなの?」

 問いの意義がわからず、たじろぐ。「なんでって、そっちこそ何」と言い返したけれど、可奈は何も言わなかった。ふいと顔をそらし、自分もローファーを履いて早足で去っていく。乱暴に開閉したドアから寒風が容赦なく吹きつけてきて、思わず顔をしかめる。目をほそめた視界のなかで、可奈の短いプリーツスカートが揺れているのが見えた。すぐに視界からいなくなる。

 ムカつく、と面と向かって言われ、むっとしたことはむっとしたけれど、どこか気が地ゆるんだのも確かだった。可奈と直接的なコミュニケーションを取るのはずいぶん久しぶりだった。懐かしさがあとになってじんわりと濡れたスポンジに指をしずめるみたいに染み出てくる。

 もしかしたら仲直りするチャンスだったのかもしれない。可奈なりの歩み寄りとも捉えられないこともない。悪態をつかれて好意的に解釈しようとする自分の間抜けさを自覚しつつも、久々の会話に胸がほんのり灯っているのは事実だった。

いますぐ走って追いかけることも思いついたけれど、実行はしなかった。ただ、深く仲間との復縁について考えていなかった自分が、可奈ともういちどばかみたいなことで笑いたいな、と思っていることにすこし、びっくりした。



 どきどきしながらD―12を探し出す。まだ来ていないだろう、と思っていたけれど五十嵐さんがさきに窓際に座っていた。

「おはよう」

 わたしを捉える目がやわらかく弧を描く。「窓際の方がいい?」と立ち上がりかけたのを制して、隣に座った。シャンプーのいい香りがすぐ近くから漂って、美人ってすごいんだなあ、と男子中学生みたいな観点でどきどきした。

 大学まではバスで約一時間かかる。出発まであと二十分あった。バスの後方の席がやたらにぎやかで騒がしい。ポッキーあるよ、食べる? あとグミも、といういつもより一オクターブ高い瀬尾ちゃんの声が聞こえて、振り返りたい衝動を抑えるために背もたれに深く寄りかかった。

 誰が予想していただろう。瀬尾ちゃんが昼休みに言いだしたのだ。「六時間目のバス席決め、わたしゆきりんたちと組むことになったから」と。

 思わず瀬尾ちゃんの顔を凝視した。ほかのふたりもぎょっとした顔で手を止めていた。瀬尾ちゃんはわたしたちのリアクションを淡々と流し、「そういうことだから、あとひとり確保しておいた方がいいよ」と的確なアドバイスをする塾講師みたいにさらっとつづけたのだった。あくまで自然な口調だったけれど、どこかで「言ってやった」という得意げな爽快感がありありと目に映っていた。

「は……いきなり言われても意味わかんないんですけど。どういうこと?」

 里穂があせったように畳みかける。瀬尾ちゃんはことさらゆっくりと卵焼きを口に運んだ。咀嚼して、呑み込んでから口をひらく。芝居がかった仕草だな、と思った。

「ごめん。ゆきりん昨日話してて、盛り上がってさ~。じゃあ明日のバス決め一緒に座んない? ってことになって。ちょうど人数一人足りてないらしくてさ。うちら、一番後ろに座るから」

「……じゃあ一番後ろを取れなかったらひとり余るじゃん」

 わたしが口を挟むと、むっとしたように顔を赤らめた。「もう確定事項だもん、うちら以外で座りたがる人なんていないって。可奈さんが男子にも頼んでおくって言ってたし」

 カナサン、という聞きなれない響きに一瞬耳が蹴つまづく。ああ片平さんのことか、とすこし逡巡してから気づいた。

 めいちゃんと里穂と顔を見合わせる。ふたりとも不快そうに顔に翳りが浮かんでいた。きっと自分もそんな顔をしているのだろう、と思った。

「じゃあ、そういうことで」

 てきぱきとお弁当をナプキンで包み、席を立つ。いつもなら残っておしゃべりをするのに、と思って見上げたら、「ゆきりんにCD貸す約束してたの。行ってくるね」と晴れやかな表情を浮かべて去って行った。まるで未練がましくて見つめてしまったみたいに思われたのかもしれない。そう思うと、すこし腹立たしかった。

「どうしたんだろう」

 めいちゃんが泣きだしそうな声で呟いた。里穂は怒ったように「知らね」とそっけなく言った。実際、困るのだった。三人だけだと、ペアは一組しかつくれない。いつもは里穂とわたし、めいちゃんと瀬尾ちゃんというコンビにわかれることが多い。めいちゃんは「誰と組もう。困ったな」と本心からおそろしそうに教室をこわごわと見渡した。三人のなかでも、彼女は一番人見知りが激しく、めったなことではほかのクラスメイトに話しかけることはない。「ばかにされてる気がするから、仲いいくない人たちの視界に入れられたくないんだよね」――いつだったかぽそりと漏らした呟きは、胸の深いところを突き刺したけれど、その意味を深堀りするのが怖くて聞こえなかったふりをした。

「……めいちゃんは里穂と座りなよ。わたし、誰か見つけるから」

 そう提案すると、めいちゃんの顔がぱっと明るくなった。けれどその変化をごまかすみたいにすぐに顔を曇らせ、「え、いいよ、蘭~」と取り繕うように言ったけれど、わたしに頼りたそうなのは明らかだった。「いいよ。でも一緒に学食とか回るのは三人で行こう」と言うと、「ごめんね! ありがとう!」と腕にしがみつくジェスチャーをした。

「蘭、どうするの?」

 里穂がわたしに視線を送る。「まあ何とかなるよ。バス席くらい」と言って、話題を次の生物の小テストに変えた。

 五十嵐さんが誰と座るのか、朝の会でバス席決めの話を聞いたときからそわそわと考えていた。下世話な興味だとは思ったけれど、予想もつかなかった。いまはひとりで行動しているとはいえ、もともとはなやかで人に囲まれているタイプだった五十嵐さんにはもとのグループ三人以外にも仲のいい子はクラスに何人もいる。でも、いま女子のなかでひっそりと浮いている彼女にわざわざ声をかけるだろうか。

 もし自分が誘ったら、承諾してもらえるだろうか。

 いちど思いついてしまうと、それ以外わたしにも、五十嵐さんにも選択肢なんてないような気がしてしまった。生物の小テストに向けて三人で単語チェックをしながらも、意識は六時間目に向いていた。

 結果、五十嵐さんとわたしは隣に座ることになった。声をかけると、さすがにびっくりした様子だったけれど、ひとつ返事で快諾してもらってほっとした。みんなの前で断られて恥をかくのはわたしだって厭だった。へえ、このふたり、接点なんてあったっけ、とどこかみんなが不思議そうに視線を走らせるのが気恥ずかしいような誇らしいような気持ちが半々だった。

めいちゃんと里穂がバスに乗り込んできて、わたしたちを見つけて笑った。「おはよー」「よーっす」と言いながらわたしたちの席の後ろに座る。気を遣ってそばに席を見繕ってくれたのだろうけれど、何となく、自分たちをそっとしておいてほしいような気がして、表を見て疎ましく思う自分がいた。親の干渉をうっとうしく思う気持ちにも似ていた。いつもの仲間がそばにいることにほっとしたのもうそじゃない、けれど――五十嵐さんとしゃべったり仲良くなるところを仲間に聞かれたくなかったし、話に入ってきたりされたらすこしやだな、とこっそり思った。

「ねえ、大学、行ったことある?」

 話しかけてみる。五十嵐さんはまばたきしてから、「ない。オープンキャンパスにも行ってないしね」とこたえた。

「そっか。音大だしね」

「……うん」

 五十嵐さんの相槌が一瞬ぎこちなく止まった。友だちでもないのに進路のことを口にしたのはまずかっただろうか。でも、せっかくバスで隣になれたのだから、訊きたいことを訊いてみようと昨日からずっとわくわくしていた。あれを訊こう、これをしゃべろう、そんなことばかりシミュレーションしていたせいですこし睡眠不足なくらいだ。

「いつから目指してたの?」

 さりげなく、あくまで世間話のひとつとして口にする。「高校に上がってから、かな」と五十嵐さんがこたえた。

「そうなんだ。ずっとピアノやってたんだね」

「うん。子供のときから」

「誰が好き? 作曲家で」

「特定の誰が好き、ってのはあんまりないけど、聴くのはショパンとか、有名な曲が多いかな」

「わたしもショパン好きでよく弾いたり聴いたりする! いいよね、やっぱり」

 一見滞りなく会話ができている。でも、五十嵐さんはけっしてわたしに話を振らない。ついこのあいだ、わたしもピアノを弾いていることを話したばかりなのだから、こちらにも訊いて話を広げさせてくれればいいのに。

 ふっと気づく。わたしはこの子の話を聞きたかったのではなく、わたしの話を聞いてほしかっただけなんじゃないか。「そうなんだ、音大目指してるわけでもないのにすごいね」と感嘆の言葉を引き出したかったんじゃないだろうか。

 内臓がもぞもぞと蠢いているような感覚がある。直接内臓を素手で撫でまわされているみたいに気持ちが悪い。

「……どうかした?」

 急に黙り込んだわたしをいぶかしむように五十嵐さんが覗き込む。ううん、とうなずいて、黙ってうつむいた。ああわたし、したしくなりたかったっていうよりかは結局この子のこと羨ましいんだな、と気づいてしまった。


 大学に着いてバスを降りる。学校と言うよりも近未来のミュージアムのようなシンプルな建物だ。里穂とめいちゃんが自然と合流してきた。

 振り返ると、一緒に出たはずなのに、五十嵐さんはずいぶんゆっくり歩いているのか、後ろのほうをひとりで歩いていた。一緒に回ろうとまでは思っていなかったけれど、そういう可能性があることは一応頭の片隅にあった。あったけれど、誘わなかった。誘えなかったのだ。まだ、口をきくようになって久しい。人見知りではないのだろうけれど、五十嵐さんはなかなか踏みこませてくれなかった。マイペースなのだろう。

「こんな地方の公立大なんて大したことないって思ってたけど、キャンパスってやっぱ広いんだねぇ、お金かかってるって感じ」

 このなかでは比較的成績のいいめいちゃんがそう呟いた。確かにねー、と同調しながら、列になって講堂へ向かう。確かに立派だし思っていたよりも素敵な場所ですこしときめいている自分がいたけれど、かと言ってここを志望しようとは思えなかった。

職員室前に掲示されている偏差値早見表は60台を生徒の目線に合わせて貼っているから、この大学はすこしかがまないと視界に入らない。それを成績優良者の子たちが皮肉って嗤っていた。成績のいい人たちと、教室で大きな声をあげて笑っている人たちは、数学で習った集合のベン図で言えば、ほとんど顔ぶれが重なっている。

「わたし、第二志望、いつもここの大学書いてる。模試とかの」

 ふいに里穂がそう言ったのでびっくりした。めいちゃんがぎょっとした表情で里穂を振り向き、「え、ごめん、地方とかってディスって」と手を合わせた。ふ、と里穂が息を吐く。

「べつにいいよ。実際、わたしでもB判定は絶対出る程度の大学だしね。……でも、わたしみんなみたいにがむしゃらに頑張っていい大学行こう、とはあんまり思えないんだわ。親も県内の大学に行ってほしいみたいだし」

 めいちゃんが前を向き直って黙り込んだ。めいちゃんは私立志願で、関西で一番偏差値のいい私立大学のフランス文学科に行くのだといつもわたしたちに話していた。里穂はいままで「へえ」「頭いいな~」などと反応していたけれど、ほんとうはどんなふうに思っていたのだろう。

「わたしもとうきょーとかおおさか? とか行ってみたいとは思うけどさ。まあ地元に死ぬまでいるのが自分に合ってるような気ぃするからさ、それはそれでいいよね」

「じゃあ大学生なったら京都に泊まりにきてよ」

 めいちゃんがおちゃらけた。里穂はほっとしたように眉を大仰にしかめ、「もう受かった気かよ」と笑った。わたしも合わせて笑った。

 グループ内で一番勉強ができない里穂のことをどこかで下に見ていて、大雑把でがさつな子だと思っていた自分が恥ずかしかった。このなかで一番おとななのはこの子なのかもしれない。



 キャンパス内を制服の高校生があちこち歩いているのをガラス越しに見ていると、なんだか水族館の水槽でも覗いているような気分になる。こうしてみると、あらためて高校生なんて子供だな、と自分のことを差し置いてそう思った。

 大学探訪の午後のスケジュールは個人で好きなところを回っていい、とのことだったけれど、どこにも行く気が湧かず、ラウンジに座っていた。大学はどの校舎にもこうして休憩できる場所があるから楽だ。高校は案外、ひとりでいてもおかしくない場所というものがすくない気がする。

「きみは回らないの」

 ふいに話しかけられ、教師かと思ってあせって振り向く。若い男の人が立っていた。明るすぎる髪がつんつんに立っていて、ハリネズミを思わせた。なんだここの学生か、と内心ほっとしていたら、「あげる。寒くね? ここ。暖房弱いんだよね」と缶コーヒーをぐいと手渡される。戸惑いつつも受け取った。温かい。確かにカイロがわりにはなるだろう。

「そのセーラー、**高校でしょ。この大学にはあんまり出身者いないけど、探訪には来るもんなんだね」

 あっさりと高校名を当てられ、ためらいつつもうなずく。ということは県内出身の人なんだろうか。

「みんな、楽しそうじゃん。行きたい場所とかないの? 案内するよ」

「……ここ、受験しないと思うんで」

 だからいいです、と言い切る前に、男は「あっはっは」とぐんと頭をのけぞらせて笑った。音大を志望しているからとか県外の大学に行くからとかそういう意味で言ったのだけれど、ここに通っている学生にしたら侮辱に取られてもしかたない発言だったとあとから気づき、「すいません、失礼な意味ではないです」とつけ加えた。男はわたしのフォローなど聞いていないのか、目を見ひらいてわたしを見つめ、「面白いね。可愛いだけじゃなくて」とスマイルを浮かべる。

「名前なんて言うの?」

「……五十嵐」さすがにフルネームを言う気にはならなかった。「五十嵐ちゃんね」と男がなれなれしく復唱する。先生が来てくれればいいのに、と思うけれど、わざわざみんなが来なさそうなところを選んできたのだから誰も来るはずがない。

「俺は伊藤祐。経済学部の二年ね。文系? 理系?」

「文系です」

「行きたい大学とか決まってんの」

「いえ、全然」

「ふうん。五十嵐ちゃんの高校頭いいもんなあ。ねえ、彼氏とかいんの」

 なんでいきなりそんな俗っぽい個人的な話に移るのだろう。年上で大学生だから敬意を払おうとしていたのに、一気にうんざりした。

「いません」

「えっマジ? ぜってーいると思った。マジかよ~こんなに美人なのに? うちの大学のミスコン出たらイイ線ねらえると思うけどな~」

 意味もなくにやにやされ、いよいよわたしは舌打ちしたくなってきた。早く解放されたくてたまらない。こんな軽薄そうな大学生とこれ以上話していてもしょうがない。時間がもったいない。譜面を読む勉強をしようと道具も持ってきているのに。

「すみません、友だちと約束してるんでもう行きますね」

 わざとらしく腕時計を見て、席を立つ。「え、そうなの」と男は不服そうに口元を尖らせる。名残惜しそうなふるまいがかえって鼻につき、うっとうしかった。

「ライン教えてよ」

 そう言ってしたしげに携帯を突き出され、ぎょっとした。「あれ? ラインしてないの?」と意外そうに訊かれ、とっさに嘘をつけずに黙っていると間でばれた。「してるんじゃん? ね、交換しよう」と歯を剥きだして笑う。いつもどこかかっこうをつけているクラスの男子とはまるで異なる距離の近しさに息が詰まる。

「……いや、そういうのは」

「えー? カタすぎね? 交換するだけ。ね? 友だち待ってるんでしょ、待たせたら困るんじゃないの、さっさとやっちゃおうぜ」

 頼みごとをしているのは向こうのはずなのに主導権を握られ、しぶしぶ携帯を出してQRコードを表示した。悪用されることはまさかないだろう、それよりも一刻も早くここを去りたい、そう判断したからだった。すばやく読み取られ、わたしの名前が向こうの画面に浮かび上がった瞬間、何か大切なものを奪われたような気がした。

「へえ、舞子ちゃんっていうんだ。お嬢さまっぽい。ぴったりじゃん」と楽しげに笑いかけられる。不要に自分の無防備な姿を見られたようで不愉快だった。「じゃあ、行くんで」とそっけなく言って立ち去る。

「舞子ちゃん! 気ぃつけてねー」

 大げさに手を振って見送られたけれど無視してガラス戸を押して外に出た。向こうの視界に入っているのが厭で、すぐに角を曲がった。ひとりでいたくない――。本能的にそう感じて、経済学部棟から出てきた遠嶋さんたちを見つけて、すぐさま走り寄った。

「舞子ちゃん? どうしたの?」

 きょとんとした顔の遠嶋さんに声をかけられ、途方もない安堵に包まれた。「ううん、あの、わたしも一緒に回っていい?」と三人にたずねると、おどおどと顔を合わせながら「べつにいいよ」「いま図書館行ってきたところ」と口々にこたえてくれる。ほとんど交流のなかった子たちだけれど、みんな遠嶋さんと似た、温和で落ち着いた雰囲気をまとっていた。ほっとして、一緒に歩きだす。

当たり障りのない会話をしながら図書館まで向かう。途中ですれ違った可奈たちがわたしに目を留めて意外そうに目を見張った。目があったけれど、すぐに去っていく。気をまぎらわせたくて、話題を振る。

「そういえば、さっきの建物って遠嶋さんたち、経済学部志望?」

 三人がめくばせし合って誰がこたえるか迷う間があった。すると「ねえ」と遠嶋さんがいくらか強い口調で言った。

「わたしのこと、下の名前で呼んで」

 沈みつつある夕陽とは背を向けているのに、わたしを見据える遠嶋さんの目が心なしか赤くなっているように見えた。



 教室に入る。席替えをしたから、わたしは暖房から離れた席の、廊下側の席に移った。寒いし前方だからチョークの粉がときどき舞ってくるけれど、そんなことまるで気にならない。

「おはよう、蘭」

 後ろの席になった舞子が文庫本から顔を上げて挨拶した。とくべつ高い声というわけでもなく、むしろ女子にしては低いほうに入るのに、舞子の薄い桜色のくちびるから発されると、まるで繊細な飴細工でも口にするような透き通った響きに聞こえる。「おはよう」と返しつつ、どきどきしていた。けれどこれが現実なのだ。

 舞子がわたしと同じグループと行動するようになって三日経つ。大学探訪の終わり、したしげにたわむれるわたしたちを見て同じクラスの女子が意外そうに目を瞠るのを見るのがなんと愉快だったことだろう。ことさら「舞子ちゃん、舞子ちゃん」と里穂とめいちゃんが舞い上がった気持ちを前面にして、頬を弛緩させて声高に口にするたびに、なんだか身内の不相応なふるまいを目の当たりにするみたいでどこか苦々しく思ったものの、仲間の気持ちはわかるし、わたしだってたぶん、似たようなものでずいぶん浮かれた振る舞いをしてしまっていただろう。

 その入れ替わりのように、瀬尾ちゃんは、もうわたしたちとお弁当を一緒に食べることはない。それどころか、すれ違ってもふいと顔をそむけ、あからさまにわたしや里穂、めいちゃんを避けている。クラスで一番大きな女子のグループのひとりとして、輪をつくって大きな声を上げてはしゃぎ、大げさに手をたたいて笑っている。舞子がもといた片平さんたち三人グループが、合唱部の派手やかな女の子と一緒につるむようになり、そこに瀬尾ちゃんも加わっているかたちだ。里穂に言わせれば、「ぜってー無理して一緒にいるんじゃん、媚び媚びで見てて痒くなる」らしい。確かに、向こう側にいる瀬尾ちゃんの笑い方は、笑っていてもどこか目に力が入っていて、全然楽しそうには思えなかった。

 交換留学生みたいだな、と男子が陰で揶揄しているらしい。「上」から堕落した舞子と、「下」から駆け上がった瀬尾ちゃんのことを言っているようだ。男子の目から見てもわかるものなんだ、とすこしびっくりするような、みじめで恥ずかしいような、複雑な気持ちになった。すくなくとも舞子には聞かれたくなかった。

 舞子がわたしの話に笑い、舞子のボケに里穂が突っ込みを入れる。そんなさりげないことにもいちいち感動してしまう。舞子が笑ってくれる、真剣に相槌を打ってくれる、オチのない雑談に付き合ってくれる――。いままで付き合ってきた友だちが全員やってきたことを舞子がこなすだけで、胸が高鳴るみたいにうれしかった。こんなの、舞子に片思いしている冴えない男子そのものみたいだ、と自分で赤面してしまう。でも、きれいな子が自分の近くで心をゆるしてくれているだけでこんなに胸躍るだなんて思わなかった。大学探訪以来、わたしたちはすっかり打ち解けた。わたしたちが口にする「舞子」もとても自然な響きだ。

 まいまいって呼んでもいい? どきどきしながら帰りのバスで尋ねたとき、舞子はうなずきかけて、「ううん」と首を横に振った。「舞子、って普通に呼んで。その綽名、幼くて恥ずかしいんだ」

 クラスでもかぎられた、一部のきれいで華やかな女の子しか許されていない、とくべつな呼び方に憧れがなかったわけじゃない。断られてすこしだけがっかりしたけれど、新たな呼び方をゆるされたことの方がうれしかった。舞子の新たな友人である自分たちだけの、特権。

 教室じゅうに見せびらかしたい気持ちでいっぱいだった。おとなしい子があつまったグループだからか、どこか下に見られ、見くびられているようにも感じていたけれど、もうそんな卑屈な思いを抱かなくても済む。

 瀬尾ちゃん、もう戻ってこられないね。

 里穂がふと、漏らした。放課後、四人で教室に居残って勉強し、舞子はレッスンがあると言って先に抜けた時のことだった。どこかせせら笑うような響きが、鼻から抜けた半笑いで伝わった。

「舞子はもうこんなになじんでるしさ。背水の陣? って感じじゃん。もしいまさらすり寄ってきても無視しようね、絶対ね」

 強い言葉に、気の弱いめいちゃんが目をおろおろさせている。でも、わたしは里穂の言いぶんもわかるような気がしていた。てのひらを返したようなあのつめたい態度には、わたしたちもほとほと傷つけられていた。一年生のときから仲良くしてきた仲間だというのに、いったいなんだってあんな、見下したようなまなざしを寄越されなければならないのだろう。

「トイレで会ったから、こっちだって無視したいのにおはよー、って一応挨拶しただけなのに『は?』みたいな顔してそのまんま。ちょっと派手な人たちに気に入られたからって、なんであんなに偉そうなんだろ、マジむかつく」

「わたしも、駅で電車待ってるときに瀬尾ちゃん見つけたから、おーい、って手振ったのにぱっと目そらして見なかったことにされたことあるよ。ほかの人にも見られててしにたくなった」

 憤る里穂よりも、どんよりと暗いめいちゃんの声の方が切実で、聞いていてぞくりとした。めいちゃんは、わたしたち三人以外で唯一去年違うクラスにいた子だった。身体が弱いらしく、体育をいつも休んでいるのは一年生のときから知っていた。二年上がって、最初はめいちゃん抜きの三人で行動することが多かった。学年が上がってひと月経つのにいまだに一緒にいる子がいないのか、おどおどと不安げに視線をおぼつかせているめいちゃんを見て、「あの子、お昼誘ってあげようよ」と提案したのは瀬尾ちゃんで、「え、でも」と知らない三人に呼ばれていっそう顔を赤らめて人見知りするめいちゃんに「いいからいいから」と人懐っこくデザートのさくらんぼを差し出したのも、瀬尾ちゃんだったのだ。

 ムードメーカー気質で、ボケてわたしたちを笑わせることが多かった。いまは片平さんたちのグループでその役を担っているんだろうか。うまく想像できない。

「絶対話合わないと思うけどな。あの人たちちゃらいしうるさいし、どーせ頭のゆるい、彼氏彼女の話して下品にぴーぴー騒いでるだけだよ。わたしなら耐えられないね」

 里穂がまくしたてるように言って肩をすくめる。「どうなんだろうね」とわたしは呟いた。

「っていうか、舞子ちゃんっていつまでわたしたちと一緒にいてくれるんだろうね」

 めいちゃんの何気ないひと言が、ふっと思考を遮った。露骨なまでに卑屈な言い方が、無意識によるものだとわかっているから、よけい恥ずかしくて、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。「そんなこと言わないでよ」と口走ってしまい、わたしが一番、彼女に対して卑屈なのだと思った。

 もはやわたしたちは、対等な友だちになったはずなのに。



 音大? と伊藤祐が目を見ひらいた。そんな反応は飽き飽きしている、と言ってやりたいけれど、うなずくだけにとどめる。

「へえー。雰囲気あると思ったら、音大。なるほどねえ。うん、想像つくよ、舞子ちゃんが華麗にピアノを弾いているところを」

 そう言ってテーブルの上でピアノを弾くしぐさをしてみせる。もう勝手にピアノ科だと決めつけている。実際にその通りではあるけれど、安直な発想だな、と冷めた目で思った。おごってもらったコーヒーを啜る。苦い。ミルクティーにするんだった。

「っていうかやばいよな。セーラー服の女子高生とデート、って犯罪の匂いしかしないよな。やべー、知り合いが通りかかったら俺社会的にしぬわー」

 嘘ばっかり――。本当に体裁を気にしていたら、一面ガラス張りになっているスターバックスの窓際の席など選ばないし、そもそも平日に呼び出されたら高校生が制服を着ているのはあたりまえのことだ。やばい、困る、とうわずった声で連呼するわりに、伊藤祐の頬はやに下がっている。目鼻立ちがはっきりしているから顔立ちは悪くないし、ほんのわずかに突き出た二本の前歯はりすのようで愛嬌もある。面食いの可奈なんかが見たら即刻食いつきそうなタイプではある。いったい何が面白くてわたしなんかを呼び出したのだろう。わたしが無愛想だったのは連絡交換のときにすでにわかっていたはずなのに。

 火曜か木曜の五時、**駅のスタバに来れない? そんなメッセージが来たのは日曜日の夜のことだった。それまで時折「いまなにしてんの?」「バカ盛りラーメン食った! 腹破けそう!」などとなかみのないラインがぽつりぽつりと来ることがあったけれど、どれも無視していた。よほどブロックしてしまおうかとも考えたけれど、そこまで害というわけでもないのにブロックまでするのはやりすぎなんじゃないか、自意識過剰なんじゃないか、と思うとそれも出来なかった。既読だけつけて、トーク履歴を非表示にするだけがささやかな抵抗だった。

 初めて具体的な誘いのラインが来た時、もちろん行くつもりなどなかった。「無理です。すみません。」とだけ返事して電源を落として眠った。次の日に見たら、「お願い! 一時間だけでいいから、舞子ちゃんに会いたい。大学で会って話したときからずっとわすれられない。」とあった。大仰な言い方にうんざりしたけれど、率直な申し込みに好感を抱いたのも否定できなかった。さっさとブロックした方がいい、それができないとしても無視すべきだ、とはわかっていたけれど、できなかった。結局、「木曜の四時半からならいいですけど五時半の電車で帰るのでそれまでには帰してください。」と返信を打ってしまったのだった。打ち終えてから、ずいぶんお人よしだな、と自分を憐れに思った。すぐさま「りょうかい! 四時半ね」と返ってきて、やっぱりやめておけばよかった、と後悔した。けれど、すっぽかす度胸もなく、スタバに約束より五分前に着いてしまっていた。「待たせた?」と時刻より数分遅れて笑顔で近づいてきた彼に声をかけられ、腹立たしい気持ちになった。

「いま学校はなにしてんの。部活って二年はもうこの時期ないんだっけ?」

「もともと部活には入ってないです。周りの文化部も、ほとんど引退してます」

「そう。二年経つとほんと記憶飛ぶんだよね。まったく違う場所に身を置くと三年間の記憶なんて一瞬でぱあよ」

 苦笑した笑顔がどこかさみしげな印象を与える。なんだか置いてきぼりを食らったイヌみたいだ、と思っていたら「ん?」ともとの軽薄な笑みを浮かべて笑った。「なに、かっこいいなって見惚れてた?」

 ばかばかしい。「違います」とこたえたら「即答すんなよ、俺だってへこむよ?」とくしゃりと目元に皺を寄せて笑った。その笑顔は案外悪くなかった。


 冬の夕陽はどこか、遠く感じる。あたりまえのことなのかもしれないけれど、陽に照らされてもさしてまぶしく感じなかった。

 話は思ったよりも、はずんだ。会ってまもなくは予想と予感しかしていなかったのに、誤算だった。盛り上がった、と言っていい瞬間もいくつかあったかもしれない。わかるまい、と思ってクラシックの話をひけらかすように話したら、思いがけず伊藤祐が食らいついてきたのだ。

 思わず驚いていたら、「意外って顔してるね。俺じつは中一までピアノ習ってたから音楽にはそこそこくわしいよ。普通にいまでも聴いたりするしね」とさらりと言った。最初からそのことを聞いていたらもっと違った反応をしていたかもしれない、と思ったけれど、口にはしなかった。

 思っていた以上に話術が巧みだった。あの、最悪な第一印象はいったいなんだったんだろう、とたちの悪い手品でも見せられていたような気持ちになった。年齢のせいなのかもともとの才能なのかわからないけれど、早く帰りたい、と腕時計に目をやったのはいちどもなかった。むしろ、「もう十分前だから出ようか」と時計を見上げた伊藤祐の方が冷静だった。わたしのぶんまで勘定を済ませる伊藤祐のかたわら、コートを着込んでマフラーを巻いて出る準備をした。どこかで、もう終わりか、と思っている自分がいるのは認めざるを得なかった。悔しいけれど、少なくとも時間の浪費だったとは思えなかった。受験勉強のやりかたやマーク式の解き方のコツなんかもユーモア混じりに教わり、定型のまじめくさったことしか言わない高校の先生の話よりよほど腑に落ちた。

 ぼんやりと電車に揺られていたら、携帯の画面がふわりと明るくなった。「また会おうな」というメッセージの通知が浮かんでいる。臆面のない居丈高な口調に、むっとしたけれど、かたちだけの反感でしかないのは自分でもわかっていた。口元がゆるむのをマフラーで覆う。自分の匂いと柔軟剤の匂いがして、ほっとする。

 返事はせず、画面を落としてポケットにしまった。

 わたしは誰かを好きになったことがない。

 小三のことだっただろうか、「ねえ、りなって太一のこと好きらしいよ! やばくない?」と友だちに噂話を囁かれた。半信半疑に顔をあげたら、後ろにいて恥ずかしそうにもじもじするりながいて、度肝を抜かれた。

 ――恥ずかしがるってことはほんとうなんだ。

九歳のわたしにとって、「恋」とか「好き」とかいうものは、テレビやマンガのなかの、それもおとなの特権だと思っていた。それなのに身近な同級生が、自分のすぐそばで男子のことを好きになっている。「嵐の大野君が好き」とかいうのとは全然別ものなのだ。

 恋バナはそれ以降、学年が上がるにつれてあちこちで聞くようになった。放課後、男子のいない教室で、好きな人誰? と友だち同士で尋問が始まったり、宿泊学習の夜はとくにそんな話題で盛り上がった。「好きな人」をばらした女子は、ぎゃあぎゃあ騒がれる真ん中に立ち尽くして恥ずかしそうなのに、どこかうれしそうでもあるのが不思議だった。へんなの、みんなに知られてよろこぶなんて。

 高学年にもなれば告白をする子や実際に付き合うませた子も出てきた。中学生になると、「あいつら中庭でキスしてたらしい」「昨日手をつないで帰ってるのを見た」などとなまなましい、ほんとうかどうかもわからない下卑た噂が流れることもあった。正直、聞きたくない、と思った。

 可奈と仲良くなってすぐの頃、「ねえまいまいって彼氏いるの」と訊かれた。あまりにストレートな質問に思わず「いない」と即答すると、可奈は大げさに驚き矢継ぎ早につづけた。

「うそ! 何で? まいまいなら絶対いると思った。え、去年とかも? 好きな人は?」

 いない、と言い張ったけれど、可奈は疑わしそうな目をしていた。六月ごろまで本気でわたしが彼氏の存在を隠していると思っていたらしい。彼氏も好きな人もいないことがわかると、可奈は眉をひそめて「ありえない」を連呼した。

「好きな人いなかったら学校とかマジ楽しくなくない? わたし好きな人いなかった時期、小六からとぎれてない自信あるよ」

 そのときは可奈の大げさな言い方に笑ってしまったけれど、思いだすたびじわじわとくるしさのようなものが発作のように胸を狭める。自他ともに認める恋愛体質の可奈の極端さにあきれたり苦笑したりしているけれど、一般的には可奈の方が常識的なんじゃないか。初恋がまだだなんて、いくらなんでも異常なんじゃないか。可奈だけじゃない、中学の時の友だちも、陽菜や香もみんな熱に浮かされたように恋愛の話ばかりしている。子供の頃通っていたピアノ教室においてある少女マンガはほとんど恋愛ものだった。

 告白されたことはなんどか中高であるし、されればほんのり嬉しかった。でもそれはいつも、他人の好意の重さに困惑する気持ちと半分だった。告白されたことによって女子の揉めごとに巻き込まれて、まるで非情な敵扱いされて白い目で見られたことも、二度ほどある。

 みんな、どうして他人を好きになったり、ましてや他人同士で気持ちを確かめ合って付き合ったりできるんだろう。わたしには、「恋」そのものが、いまだに何なのか、まるでわからない。無味無臭の、乾いた白い箱。ふれれば糸をひきそうな、粘度も濃度もある感情がみっちりと詰まっている、いまは空っぽの箱。



 舞子が市村君に告白されたことを認めた瞬間、心臓が大きく跳ね、そのまま地べたでつぶれ、ぶざまにひしゃげるのを感じた。ほかの友だちがいないときでよかった、と心から思った。

「そう、なんだ。えー、ちょっとショック。好きな人とかいるんだろうなとは思ってたけど、そっか、舞子か、へえ」

 落ち込んだ表情を見せると舞子が傷つく。そう思ってへらへらと笑ってみせた。舞子は悲痛そうに表情を暗くして、「ごめんね」と言った。そこには優越感など一滴も含まれていないからこそ、烙印が強く胸に押しつけられたような気がして、思わずうめきそうになった。

 わたし、好きな人いるんだよね。

 放課後、たまたまふたりだけで教室に残ったとき、そう切りだししたのはわたしの方だ。「え、そうなの」と舞子は戸惑いの表情を浮かべた。突然の打ち明け話に驚いているのだろうか、と思い、すこし誇らしいような気持ちが頭をもたげた。恋の話を誰かに打ち明けるのは、恥ずかしいのにいつもどこかうれしい。とっておきの秘密を差し出す時の甘美な陶酔があるからだろうか。

「これ、ほかのみんなは知ってるんだ。一年のときから片思い、っていうか、まあ、気になってるっていうか。いまはクラス離れちゃったんだけど」

「へぇ」

 舞子は微笑んで、まるで母親のような慈愛に満ちたやさしい目をしてわたしの話に耳を傾ける。もともと、ゴシップや噂話にはあまり興味がなさそうな舞子に話を掘り下げさせるのは難しい判断し、自分から「あのね、内緒ね」と明かしていった。

「市村君。わかるよね? だって去年うちらと同じクラスだったし。ほら、バスケ部の」

 舞子の表情が一拍おいてこわばった。それは、見逃すのは無理があるほどの明らかな困惑だった。なんで恋バナしてるのにこんなおかしな空気になるんだろう、と一瞬あせった。まさか彼氏――思いつくやいなや全身の血がぴたりと止んだ気がした。いやいや、舞子は彼氏はいたことがないとこのあいだ聞いたばかりだ。隠しているようには見えなかった。

「なあに?」

 ぎこちなく笑みをつくって、固まった舞子をつつく。「なんでもない」と言ったけれど、そんなにあからさまにごまかされて、ああそう、と流せるほどお人よしでも寛大でもなかった。不安と好奇心がコーヒーのミルクを乱暴にかき混ぜたみたいにぐしゃぐしゃになる。

「え、怒んないから言ってよ。え、まさか付き合ってるとかじゃ」

「ない。違う。……この前告白されただけ」

 舞子は言ったっきり、くちびるを真一文字に結んだ。わたしはずいぶん間抜けな顔をさらしていただろう。最悪な想定ははずれたものの、胸を真ん中からびりびりに引き裂かれるような衝撃に、言葉が出てこなかった。舞子の端正な顔が、こらえきれないようにぐしゃりと歪む。

「ごめん。余計なこと言ったね。べつに断ったし、忘れて」

「いや、そんな。舞子が謝ることないよ」

 とっさに笑みを取り繕って即座に言い返す。舞子をこれ以上傷つけまい、という気遣いというより、自分がいまどれほど大きなショックを受けているかを知られないための自己防衛でしかなかった。くちびるが勝手に早回しでせわしなく動く。

「ってか怒ってないしさ。ちょっとびっくりしただけ。やー、すごい偶然だね、そんなことあるんだね」

 舞子は恥じ入るようにますます深くうつむいた。この子、嘘をつけないんだな、と思う。もしこれが里穂とわたしとで、わたしが舞子の立ち位置だったら、適当な作り話をでっちあげてでもごまかしただろう。もちろん、正直さは舞子の美徳だとは思うけれど、いまはただ、突きつけられた現実がつらかった。心がばらばらになって、息をいつもの半分しか吸いこめていないような気がする。

とにかくこの時間を一刻も早く終わらせたい――。それでも、好奇心をおさえることができない。聞けば聞くだけ傷つくのはわかっていても、いっそとことん把握しておきたかった。

「いつ告白されたの? ってか市村君と舞子って交流あったんだね、意外だな」

「……十一月になってすぐだったかな。べつに仲いいわけじゃないよ。ときどきメールとかするくらいだったしいまは全然」

 遠慮がちに語られる事実が一つひとつするどい錐になって内臓をえぐりとるかのようだ。わたしは市村君のメールアドレスなんて知らない。話したことも、去年、ほとんどなかった。

 でも好きだった。するどすぎる目つきはちょっと人を遠ざける凄みがあるのに、笑うとくしゃっと線になってあどけない表情になる。派手な男子と教室の中央で騒いでいることが多いのに、ふっと仲間のおしゃべりからそれて遠いところに視線をやっているのを見つけると、心臓が水に沈められたように苦しくなった。共感、に近かったかもしれない。その表情は、その場にそぐわないほど、さびしく見えたから。

 話したこともなければ、もしかすると名前を呼ばれたことすらないかもしれない。自分がかかわるようなタイプの男子ではないことははなからわかっていた。でも、だからと言って目で追わなくなるわけじゃなかった。たとえ目が合って微笑みかけられることはないとしても、目が離せなかった。好きだと思った。

 春にクラスが分かれたときはがっかりしたけれど、ほっとしている自分もいた。これで、実のない想像に胸をふくらませることもなくなる、そう思ったのだ。期待する自分が怖かった。いままでも、なんどか片思いの経験はある。同じ教室に気になる男子がいるのは心躍ることではあるけれど、ほかのきれいな女の子と楽しげにしゃべっているところなんかも見なければならないのだ。それはとてもしんどかった。自分はとうていあんなところへは行けないんだ、と思った。でも市村君は女子とつるんだり話したりすることはあまりなかった。愛想笑いをせず、ぶっきらぼうな物言いをすることから、怖そう、と敬遠する女子もすくなくなかった。だから、いままでみたいにほかの女の子へのやっかみに心をつぶすこともなく、ガラスケースに守られたとっておきのガラス細工でも見守るみたいに、息を呑んでただただ眺めているだけで幸せだった。

 だからこそ、怖かったのだ。自分の期待がどんどんふくらんでしまうことが。もし告白されたらどうしよう。もし自分が告白して、付き合うことになったらどうしよう。派手だけれど浮いた話を聞いたことのない市村君は、もしかすると案外うぶだったりするかもしれない。それであっさりと自分の思いを受け止められたら――。幼稚でひとりよがりな妄想だな、という自覚はあるものの、誰にも分かち合わない夢をたっぷりと広げるのはとても気持ちがよかった。頭がふわふわした。

 でも、それは自分の都合のいい解釈でしかなかった。わたしは所詮表面上の市村君しか知らない。硬派そうな市村君も、正統派美人の舞子のことが好きで、アプローチのためにメールなんかもやりとりしていたのだ。わたしはなんてばかみたいな妄想を繰り広げていたんだろう。顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった。

「舞子、市村君と何で付き合わなかったの」

 困ったようにわたしから視線をはずし、舞子は淡々と言った。

「好きじゃないから。なんとも思っていなかった」

 しばらく沈黙があった。わたしは単に何のコメントもなかったから黙っていたのだけれど、舞子があせったように「ごめんなんとも思ってないとか言うの、失礼だよね」とつけ加えた。市村君にではない。片思いしていたわたしに対する発言だ。

「ううん」

 もっと何か言わなくちゃ、と思ったけれど、自分の失恋の傷や羞恥をフォローするための言葉はもう思いつかなかった。ほんとうはもう一つさきの電車に乗ろうと思っていたけれど、耐え切れずに「ごめん。もう電車の時間」と言って勉強道具を片付けると、舞子がほっとした顔で「そっか」と言った。

 そんな正直な表情、わたしの前であからさまにしないでよ――。友だちになって初めて、舞子に対して本気でいらだちを感じた。やつあたりだ、とはわかっていたけれど、抑えられなかった。

けっして悪い子じゃない。深い付き合いをするようになって、それはよく伝わってくる。人より恵まれているのに性格が歪まずにまっすぐな心のまま高校生になったのはすごいなと素直に感心する。あかちゃんがそのままおとなになったような、まだ誰も足跡をつけていない雪野原のように潔癖な、純真で無垢な内面にふれるたび、神聖な気持ちになったりもした。

けれど、この子はいささか無防備すぎる。その正直さが刀になって、すいかわりのように目隠しをした舞子がわたしたちに向かってぶんぶんと振り回している、そんな光景がふっと浮かんだ。



「電車の時間だから」と言って蘭が教室を出て行って三十分もせず、陽菜が教室に入ってきた。目が合ってしまい、気まずく思ったけれど、「まいまい、まだいたんだ。何してんの?」と気にしたそぶりもなく近づいてきたので、緊張がゆるんだ。べつに、喧嘩をしているわけではない。

「明日の予習。陽菜は? どこかにいたの?」

「んー、勉強かったるくて二組にいた。可奈たちいま向こうにいるよ」

「そう」

 すぐに戻ると思ったのに、予想に反して陽菜はわたしの前の席に腰を下ろした。しばらく居座るつもりらしい。べつにいやではないけれど、可奈がこれを見たら嫌がるだろう、と思い、内心ひやひやした。わたしが心配することでもないのに。

「さっきまで遠嶋さんといたね。トイレ行くとき見えた」

「あ、うん。一緒に勉強してた」

「いつまであの人たちといるつもり?」

 あの人たち、という響きが突き放して聞こえた。自分もそのなかに入っているはずなのに、陽菜は明らかにわたしと蘭たちを引き離して見ている。それにすこし面食らった。ずいぶん親しく溶け合っている、と自分では思っていたから。

「あんまりべたべたするのもどうかと思うよ。期待させちゃうじゃん」

「……期待って」

「地味子ちゃんたちにとってまいまいは救世主なわけだけどさ、あんまりなじんじゃうと向こうもみじめっしょ。いつかは離れるんだから」

「どういう意味」

 自分がうまく笑えていないのがわかった。陽菜はにこりともせずに、出来の悪い生徒に教えるように淡々と言った。

「どう考えても、まいまいがずっとあのグループにいるのは無理があると思うよ。瀬尾も正直一緒にいるのきつくなってきた。由紀乃が連れてきたからとりあえず一緒にいるみたいな空気になってるけど、可奈とかは最初から瀬尾の悪口言ってるしね。あきらかに媚びてくるのがうっとうしいっていうか、あー無理してるな、ってばればれなの見てて痛々しいし、笑えないし。話合わせてくるけど、全然合わないの、丸わかりだしさ。いいかげんまいまいと交代してほしいんだよね」

「交代」

 ぽろりと単語が口からもれる。

 人と人が交代する、って何なんだろう。駒として扱われているとまでは思わない。ただ、陽菜の冷静すぎる視線が恐ろしくて仕方なかった。わたしのことなど見ていないような顔でけらけらと楽しげにはしゃいでいるように見えていたのに、ずっとそんなことを考えていたのだろうかすべてを見通していると言わんばかりの冷血なまなざしにさらされているのだと思うと、着替えをくまなくチェックされていたことに気づいたような、寒々しさが背すじをすっと横切った。

「可奈はもうまいまいのこと怒ってないよ。まあもともとあいつが悪いんだけどさ。いじっぱりだからうちらには言わないけど、さびしいんだと思う。また四人に戻ろうよ」

 わたしは黙り込んだ。

 いつかは戻るんだろうな、と漠然とした予想はあったけれど、いざそれが現実になりそうになったいま、まったく心が弾まなかった。むしろ、心が追いつかないまま身体だけいまある場所から引き剥がされるような思いがした。

 陽菜を軽蔑しているとか絶対に蘭たちのもとから離れたくないとか、そういう感情ではなかった。もともとグループなんてどうでもよかった。ただ、気の許しあえる誰かと仲良くなって、居心地のいい場所にいられたらいいかな、それくらいにしか考えていない。でも、何がこんなに心を凍りつかせているのだろう。

「まいまいがいなくなったら遠嶋さんたちもまあショックだろうけどさ。瀬尾を戻して、向こうももとの四人でやるべきだよ。まいまいと入れ替えられるのは不服かもしれないけど、それが相応ってものじゃない」

「……わたしがあの三人から浮いてるってこと? ほんとうは友だちって思われてないってこと?」

 とがめる目つきになる。陽菜は二、三度まばたきして、「え?」と言った。「いや、浮いてはいない……というか。歓迎されてるのはすごいわかるけど、そういうことじゃないよ」

「どういうこと」

 問い詰めると、陽菜は困惑したように眉をひそめた。

「まいまい。もうちょっとさ、自分のこと見つめなよ」

「……話し、ずれてる」

 目つきがすさむのを止められなかった。いまの自分はかなりきつい顔をしているだろうな、と思ったけれど、陽菜はひるまなかった。「ずれていない。同じことを話してる」と静かに言った。

「まいまい、なんでそんなに自分が見えてないの? あの子たちとあんたが同じなわけないじゃん。なんでそんなこともわからないの? 善意でやってんのかもしんないけど、そんなふうにふるまって傷つくのはあの子たちだよ。かわいそうだよ」

「善意? どういうこと?」

「夢を見せるのもほどほどにしときなよってこと。所詮種類が違うんだよ。まいまいってさ、純粋で謙虚なのはいいことだって思ってるかもしれないけど、傷つけてる可能性も考えたほういいよ」

 陽菜は役目を終えたと言わんばかりに肩をすくめ、席を立った。わたしは引き止めなかった。


 その夜、陽菜に言われたことを反芻して考えをめぐらせつづけた。いくら考えても、うまく理解できなかった。陽菜はわたしが違う友だちと一緒にいてうまくいっていることをひがんであんなことを言ったのだろうか。まさか。蘭たちのことを下に見ていたのは明白だ。悪口というよりも、もはやその意識もないだろう、さげすみの響きのない自然な言い方だった。つまらないこと言われたな、と気持ちがくさくさした。蘭たちに相談するわけにもいかず、めずらしく携帯をいじってばかりいた。予習も受験勉強も進まなかった。あとひと月半で年明けなのに。

 誰かにラインでもしようか。そんな思いつきがよぎったのは、魔が差したとしか思えない。用事がない限り、なかみのないラインを自分から送るようなことをしたことはほとんどない。雑談したい時がないわけじゃないけど、自分から誰かに発信するのはすこし勇気が要る。それに、たいていは可奈が勉強に飽きた頃グループラインで発言する。いまも四人のグループラインはあるけれど、可奈と仲たがいして以来動いていない。きっと三人だけのグループで話しているのだろう。想像すると、急に寂しい気持ちがひたひたとさざなみのように押し寄せて、胸を濡らした。

【いまなにしてるんですか】

 トーク画面に自分の打ったメッセージが浮かんだ途端、羞恥心が襲った。何してるんだろう。電源を落とそうとしたところで、既読がついた。ひ、と声が出た。

【めずらしいね。バイト終わって家で夜食食ってた。なんかあった?】

 すぐさま返信が浮かぶ。既読をつけてしまった以上、なんと答えるべきかおろおろしていると、画面が変わった。

 伊藤祐から着信があった。最初からこうなることを予想していたような気がしてくる。期待していた? まさか。そうじゃない。ただ、気をまぎらわせたいだけだ。

海辺で笑ってピースを向けているアイコンを数秒見つめて、通話ボタンにそっとふれた。つながった瞬間、部屋がふっと広くなったように感じた。



 結露した窓が、ただれたようにだらだらと露を垂らして濡れている。ストーブを焚いた足元だけが火照るようにかっかと熱を持っていて、分厚い靴下に包まれた足の指の間が痒いほどだ。

 図形のあっちこっちに走る矢印をにらみつけるようにしてベクトルを二問ばかり解いていたけれど、我慢できずにシャープペンシルをとうとう手放した。集中が途切れたのではない。集中できないのに勉強をつづけることに限界を感じたのだった。

ぐうるりと肩を回す。ずるりと眼鏡が落ちてきたのを指で支える。付け根が痛み、気休めではあるけれど目薬を点した。凍ってなかみが結晶化しているのではないかと思うほどつめたかったけれど、頭はちっとも冴えわたらない。二度ほどまばたきしてみる。液体が眼球に染み渡った。それだけだった。

 期末試験は終わったものの、次の土日は記述模試が控えている。先週却ってきた試験結果についてはもう思いだしたくない。必死に勉強していたつもりなのに、順位は中間試験から二十位ほど落としてしまった。みんなもそろそろ勉強に本腰を入れているのだろう。授業中内職したり居眠りしているクラスメイトの方が自分より成績が良い。認めたくないけれど、現実はいつもそうだ。

進学校にはそんな人間はごろごろいる。要領がいいのだろう。受験になれば全国規模の同級生を相手にしなければならないのかと思うと、いったい自分は何のために勉強しているのか、意識が白く曇ったようにふっとわからなくなることがある。

 中学の頃はよかったな、と思う。ブラスバンド部に所属していたから友だちはそれなりにいたし、何より、あの頃はまだ自分も優等生として通っていた。勉強がわからなくて泣いたことなんて想像もしていなかった。運動もできないし容姿も人並みでめだつような人種ではないと自覚していたけれど、成績が良いというだけで、みんなどこか敬意を払ってくれた。もし頭の取り柄がなかったら、いじめを受けたり、まわりから見くびられてつらい中学時代を送っていたかもしれない。いまになって思う。

 高校に受かった時は親も親戚も教師も級友も、みんな驚いたり喜んだり尊敬してくれたっけ。部活のなかでも一番きつく、活動期間も中三の秋まであるブラスバンド部のなかで同じレベルの高校に受かった子は誰もおらず、ふだんなついてこなかった後輩までもが尊敬のまなざしを向けてくれるのが誇らしくて仕方なかった。春休みの半月間がわたしの人生のピークだ。入ってしまえば劣等生として埋もれて勉強のできなさに苦労することも想像せず、遊びまわっていた。選ばれた人間だけが行ける場所に自分は行けたのだと、そんなふうにうっとりしていた。

 学歴が高校までだったら、自分はエリートのままだったのに――。ありえない妄想がよぎる。小学生のように短絡的で、くだらない現実逃避だ。わかっている。でも、もしそうだったらどんなによかっただろう。肩身の狭い思いをせずに、つまらない葛藤に心をアスファルトにこすりつけるようにぐじぐじと擦り減らすようなこともなかったのだ。

 高望みせずに、ワンランク下の高校に行くべきだっただろうか。なかなか第一志望の高校のA判定を取れないわたしに、母の方が不安がって受験を反対していた。入ってから苦労する、と気持ちがめげるようなことを言われ、意地になって第一志望を変えずに受験した。そのときはかたき討ちしたような晴れ晴れしさでいっぱいだったけれど、母の言うことも一理あったのだ。無理せずに一つ下の高校に落としていれば、そこではトップとは言えなくても上位には入っていた自信がある。その方がずっと良かった。ブラスバンド部の友だちも多いから、きっと楽しかっただろう。クラスの打ち上げに参加するのしないのにびくびくしたり、クラスメイトの華やかな女の子に一年間名字さんづけで呼ばれつづけることに傷ついたりもしなかっただろう。受かる大学のレベルはたぶんほとんど変わらなかったし、ひょっとすると推薦を取れて実力以上のところに受かる、という未来もありえたかもしれない。そう思いつくと、頭がかぁっと古い電球のように熱くなり始めた。悔しい。単なる想像、いや妄想でしかないのに、自分が選ばなかった選択肢の正当な未来を目の当たりにしたみたいに後悔が全身にかけめぐる。

中学時代の友だちと電車で会うと、進学校にいることをいまでもちやほやしてくれるけれど、彼女たちの方がずっと楽しそうに見えた。うらやましがってこちらを立てる余裕があることが、それを如実に表している気がした。

 おなかが空いていたわけではないけれど、口寂しくなってキッチンに降り、ココアを温めた。ついでに母が買い置きしていたクッキーも二枚ぶんおやつに持っていく。リビングでテレビを見ていた母がちらりとこちらを見た。何かとがめられるかと思って身構えたけれど、目が合っただけで何も言わなかった。

 最近太ったんじゃない?

 夕食の時、母にそう言われた。冗談の口調ではなく、ぽつりと素の感想が漏れたような無邪気な呟きだった。母の目がわたしの二の腕に向いていた。暖房が効いているから七分丈の薄手のTシャツを着ていたわたしは、思わず袖を引っぱった。

「べつに。変わらないよ」

「体重計載ってみたら? 成長期っていってももう身長は伸びてないのにね、どうしたのかしら」

 太い脚、とか顔ぱんぱん、などと冗談の延長で憎まれ口を叩かれるのはしょっちゅうあるし、いらっとしつつもいつも流していた。けれど、その時の母の口調はあくまでも事実を指摘するような冷静さがあった。自分が気づいていない欠点を指摘されたみたいで猛烈に腹が立った。腹いせにごはんを半分残したまま流しに運んだ。母は何も言わなかった。

 母の言うことをきくのはしゃくだったけれど、不安に駆られてお風呂から上がったあと体重計に載った。確かに、自分が思っていたよりも二キロ重かった。ぎょっとした。お風呂上りで汗をかいたあとなのに。

 鏡を見た。じっと顔を見つめる。太ったんだろうか。こうして見ると自分が想定していたよりも顔がまるいような気がする。顎の下の肉がいつもよりある気がして指でつまんだ。しっとりとやわらかい肉がにくたらしかった。引きちぎってしまいたかった。その夜は夜食を食べずに、お風呂から上がってすぐ歯を磨いた。

 でも、すっかり習慣になったものを取り払うことはできなかった。しばらくはおやつを我慢したり、ごはんをすこし残したりしていたけれど、いつのまにか元通りの食生活に戻っている。すぐに成果が出るならともかく、こんなことをしたところですぐに痩せるはずがない。何より――どこにエネルギーを使っているのか、運動をしていなくてもおなかが空くのだから仕方がない。多めに粉を溶いたココアを啜るとあまみがふわりとやさしく広がった。

 痩せたくないわけじゃない。里穂は元剣道部だから引き締まった身体をしているし、舞子は運動部でもないのに小鹿のように華奢で、長い手足には無駄な肉が何もついていない。ほっそりとした長身はモデルさながらだ。美人は何から何まで恵まれている、と彼女のきゅるりと締まった足首を見るたびにため息が出る。一方めいちゃんは腎臓が弱いらしく、水分調節がすこし難しく、水太りしやすい体質のようだ。どちらかといえばやはりぽっちゃりとしている。本人は「ほんとおデブだから痩せなきゃ」としょっちゅう言うけれど、百五十センチほどのちいさなめいちゃんがころころとまるっこいのはなんだかマスコットみたいで、グループのなかでも可愛がられている。ダイエットしたがるわりに、体質のこともあってか本人はそこまで気にしていないようだ。お母さんお手製らしいパウンドケーキやらクッキーを持ってきてはいつも分けてくれる。そして、標準体形の自分。どちらかと言えば痩せている方に入るとひそかに自負していたのに、いつのまにかどちらかと言えば太っている、に足を踏みだしかけている。

「舞子って食事に何か気を遣ってる?」

 さりげなく質問したけれど、欲しかった回答は得られなかった。予想はしていたものの、舞子は困ったように小首をかしげ、「ううん。母親が作るものを食べてるだけ」と言うだけだった。献立まで聞き出したけれど、肉料理がメインの洋食が多いようで、和食が多いうちの方がよほど健康志向のようだ。いったい何がわたしたちを隔てているのだろう。舞子を知れば知るほど、自分の努力ではどうにもできない生まれ持った能というものに打ちのめされて、口が勝手にへの字に曲がりそうだ。

思いきって「わたし太ったっぽいんだよね」と言ってみたけれど、「え? 変わらないよ」とやさしく微笑むだけだった。気を遣ってそう言っているというより、もともとわたしの容姿の変化など気に留めていないのだろう、と思った。これほどちかしくなっても、舞子は根本のところで他人に興味がないのだ。本人は否定するかもしれないけれど、一か月以上付き合いをしてみて、なんとなく透けて見える。学校を出たあともわたしや里穂のことを思いだして考えているところなど想像もできなかった。

 クッキーを開けて咀嚼する。あぶらが指紋の溝に染みる。バターの味をする指を舐めとりながら、ふっと学習机の脇の姿見のなかの自分と目が合った。

 のっそりとした風貌の女がクッキーを大口開けて食らっている。

みにくい、と反射的に思った。顔の造作も、蛍光灯に照らされた荒れた肌も、ぼわぼわとふくらんだひっつめ髪も、野蛮な仕草も。

びくっとした。これがわたし? そしていま、自分に対して「みにくい」とまるで街ですれ違う赤の他人を瞬時に判断するみたいに思わなかったか。とても素直に、正直に、自分のことをそう思ったのだ。それが他人だったら、どうだろう。もっと残酷に、せせら笑いとともに切り捨てられるに決まっている。

目をそらして残りをすべて口におさめた。味わう余裕もなかった。ティッシュで指の油分を拭い取る。胃の底に、カロリーを確実に摂取した重みがずっしりと加わる。

二枚目に手を伸ばす。もう鏡のほうは見ないようにして、ゆっくりと噛みしめた。



いつもと風が違う。そんなことを思って、なんだか子供のポエムみたいだと自分で笑った。

 うなじをすっきりと出したのは小学校の低学年以来かもしれない。家を出ると、冬の風が切り傷のようにむきだしの肌に容赦なく吹きつけてきた。髪が短いということは、そのぶん首回りの防寒を失うということなのか、と新鮮な発見をする。それでも、あまり後悔はなかった。

学校に行くと、知り合いが何人かこちらを見てびっくりしたような顔になるので気恥ずかしかった。いいじゃん、と何人かに話しかけられる。ふと、靴を履きかえて顔を上げると市川君がわたしを見ていて、真正面から目が合った。おたがい固まっていると、「あ、似合うッす」とはにかみながら声をかけてくれた。素直に「ありがとう」とこたえると、そばにいた仲間に肩をどつかれながら階段を登っていった。

「えーうそ。まいまい髪切ったの? 似合うじゃーん」

教室に入るなり、そう叫んだのはなんと可奈だった。面食らいつつも「おはよ」と言うと、それにはこたえずわたしの周りをくるくるまわりながら「へえー、めっちゃ思いきったね。でも似合うよ、可愛い」と褒めてくれる。目が合うと、拗ねたようにつうっと視線をそらす。でも、尖らせたくちびるがわずかに笑みをふくんでいた。

「おはよー、切ったね」「一瞬誰かと思ったわー、いいね、ショートヘア」香と陽菜が声をかけてくる。いつもの四人、のなかに自分がいることがなんだか変な感じがした。腑に落ちないような気持ちがないわけじゃないけれど、それでもほっとした気持ちが大きかった。

「そんでー中学のときの友だちとカラオケ行ったら元彼いてさー。向こうは彼女連れでマジ気まずかった! だから地元のカラオケってやなんだよ」

「可奈ならどこ行っても元彼と遭遇しそう」

「うっさいな~。んでその彼女がすんげーブサイクだったの! 顔なんかもうぱんぱんで――」

 昨日もそうしていたかのように四人で教室を移動し、お弁当を食べた。蘭たちのことが気にならないわけじゃなかったけれど、いつものように三人で集まっておしゃべりしていた。瀬尾さんが戻るのかな、と思ったけれど、そうではないようだ。

 可奈がわたしに謝ることはなかった。わたしも、せっかく元に戻った空気を壊してまで話を蒸し返す気にはならなかった。可奈からしゃべりかけてきたことが、彼女なりの精一杯の譲歩なのだろう。なんだかなあ、とも思うけれど、それを台無しにしようとは思えなかった。なんだかんだ、ひさしぶりにみんなと仲よく一緒にいられるのがうれしいのだ。

「由希乃が可奈の彼氏とラインしてたのがばれて、可奈がキレたの。だから由希乃の話はふらないでね」

 可奈と陽菜がトイレに行った隙に、香がちいさな声で言った。わたしと入れ替わりに仲良くなっていたらしいけれど、もともと恋愛沙汰で一年生のときに揉めたことがあったらしい。

だから今朝、長い無視をやめてわたしに声をかけたのだろうか。新しいヘアスタイルが可奈の琴線に触れたのかと思ってうれしかった気持ちがうっすらと曇る。まあ、ある意味嘘のつけない率直な可奈らしいといえば可奈らしい。

「そういえばなんで髪切ったの? 天然であそこまできれいなストレートロング、めったにないのにもったいないね」

 切り落としたかつての長い髪を惜しむようにわたしの肩を手で撫でながら香が問う。「気分転換かな」と言うと「失恋かと思った」とけろりとした表情で肩をすくめた。

嘘じゃない。たまには見た目をすっぱり変えてみるのもいいかな、と思ったのだ。だから美容院に行った時も躊躇いはなかった。いつもは長さを切りそろえてもらうだけだった担当の美容師さんに「もったいないなあ」となんどもぼやかれながら鋏をうんと高い位置からいれてもらった。思い入れがあって伸ばしていたわけでもない。可奈たちみたいに日替わりで髪型を変えるほど凝った髪アレンジも知らないし、シュシュも髪ゴムも簡素なものしかもっていない。むしろ冬はなかなか髪が乾かないので面倒だった。

「こんだけばっさり見た目が変わったら、ショートヘアフェチの男子に騒がれるかもねえ。ついにまいまいに彼氏ができるかも」

「まさか。髪切っただけでできるわけないよ」

 軽くいなす。それでも、髪の軽やかさにうっとりして、何度も風に揺らしてしまった。


「髪、切ったんだね」

 図書室で偶然蘭と出くわした。「二十センチは切ったよね」もっとかな、とわずかに首を傾げる。両手で村上春樹の小説を二冊抱いていた。

「うん。ありがと」

 ついくせで礼を言ってから、褒められたわけじゃないのにお礼を言うのは変かな、と思った。蘭もすこしだけ笑った。

「そうだ。里穂んちの猫、昨日の夜中にあかちゃん生んだって。写真見せてもらったけど可愛かった」

「そうなんだ。もう生まれたんだね」

 先週里穂ちゃんから猫の話を聞いていた。もうすぐ生まれるかもしれない、といまから里親のことを心配していて、「一応知り合いに猫飼いたい人いないか探してみるよ」と言ったのに、すっかり忘れていた。里親候補を探すことも。

「あと、今度『三月のライオン』の七巻と八巻貸すよ」

「あ。ごめん、ありがと」

 ごく普通の会話をかわしながら、蘭はどこか探るような目でわたしを見ていた。視線をはずし、低い声で早口に言った。

「……一緒にいようとは言わないけど、これからも仲良くしてね」

「え」

 どういう意味? と訊き返そうとしたけれど、蘭が腕時計に目をやる方が先だった。

「あ、わたしもう電車乗らなきゃ。今日予備校なの」

 蘭のスカートがちいさくひるがえる。「またね」と声をかけたけれど、聞こえなかったのか急いでいるのか、振り返ることなく図書室を小走りで出て行った。

 次の日、学校に行くと紙袋がわたしの机の上に置いてあった。覗き込むと、「三月のライオン」が二冊入っていた。思わず蘭の方を見やったけれど、登校してきたわたしに視線をくれることもなく、三人でささやかなさざなみのように笑い合っているのを見たら、声をかけるのをためらってしまった。

 入っていたスヌーピーのメモ帳には、「読み終わったら机のフックにでもかけておいてください」と丁寧な文字で書かれていた。それは、わざわざ話しかけにこなくていい、と静かに拒んでいるようにも思えた。



 片平可奈さんが髪を切った舞子にまっさきに声をかけた瞬間、わたしたちにかかっていた魔法は溶けた。里穂は「期限が切れた保険」と評した。そっちの方があっているのかもしれない。

 もう舞子がわたしたちのグループとともに行動することはない。もとの四人組に戻った舞子は、切った髪のぶん、軽やかで楽しそうに見えた。というよりも、そっちの方が自然に思えた。クラスメイトもそう思っているに違いない。そう思ったら、三人だけで過ごしているのが余計心もとなかった。

 だからといって瀬尾ちゃんがわたしたちのところに戻ってくることはなかった。わたしたちもそれを拒んでいたし、瀬尾ちゃんは合唱部の女の子たちといるようだ。ときおり、「ゆきりんほんとやばいってー」と甲高い声が聞こえた。わたしたちと離れてから、そんなふうに呼ぶようになったんだろうか。

以前の瀬尾ちゃんは、教室や合唱部の場で彼女を呼ぶときは「由紀乃ちゃん」としか呼ばなかった。でも、いないところでは「ゆきりん」と口にする。使い慣れない流行り言葉みたいに不自然な響きだと思っていたけれど、派手で片平さんたちとも仲のいい彼女を綽名で呼ぶとき、どこか瀬尾ちゃんはうれしそうだった。合唱部では彼女に「瀬尾ちゃん」と呼ばれているのに、教室では「瀬尾さん」と呼ばれていることは、ふれちゃいけないんだろうな、と思って口にしたことはない。合唱部に出入りしているわたしだけが仲間内で知っている秘密だった。「ゆきりん」がいまでも教室では「瀬尾さん」と呼んでいるのかどうかは、知らない。

 舞子を失ったわたしたちは、また教室の隅にゆるやかに押し戻された。舞子がいない三人でいるのは心もとないけれど、元々階級の違う舞子を受け入れて友だちでいるなんて不自然だったのだ。

「蘭、次の数学当たってるんだ。教えてくれない?」

 里穂があせったように教科書を持って机にやってくる。面倒くさくて思わず「え~…

…」ともらすと、里穂がむくれた。くちびるが不格好に歪んでいる。

「そんな嫌そうな顔すんなって。いいじゃん、蘭、わたしより頭いいんだから」

 褒められているのにまったくうれしくない。数学で追試を受けないことの方がめずらしい里穂と、予備校に通い始めてわずかに成績が改善され始めた自分が比較対象にされているなんて、なんだか失礼だ。

 断る方がいろいろと面倒だろう、と判断してしぶしぶルーズリーフに問題を写して解き始めた。なんだ、大した難度じゃないじゃないか、と拍子抜けする。公式をふたつ使うだけの基本問題だ。たぶん、自分でよく解きもせずに投げだしてわたしかめいちゃんにやらせようと思ったのだろう。解き終え、教科書の付録についている答えと見直し、出てきた数字が一致していたので「はい」と里穂に渡した。「助かる、さんきゅー」と里穂が軽く受け取り、自分の席に戻っていった。問題を解いて友だちを助けることができた、のに胸がなんだかもやもやする。咳をなんどしても痰が切れないみたいに。

舞子は楽しそうに片平さんたちとたわむれていた。今日はめずらしく前髪をピンで上げているから、かたちのいい、つるりとまるみを帯びた額がむき出しになっている。意外と手入れをしていない自然な眉毛が隙のない端正な美貌に愛嬌をあたえて、いつもより幼い印象で、したしみやすい雰囲気だ。

ふっと胸の真ん中で風が起こった気がした。席を立ち、こころもち早足で舞子のところに行って、「ねえ」と話しかける。

「『三月のライオン』、いつ返してくれてもいいからね」

「あ、うん。ありがとう」

 突然話しかけたからか、舞子が戸惑ったように慌ててうなずく。片平さんたちがわたしに話しかけることはなく、わたしたちのやりとりが終わるのを沈黙で待っていた。わたしが立ち去ると「んでね――」と再生ボタンを押したみたいに話し始める。わたしたちのささやかな交流に、なにも興味を示していない。わたしを仲間だと思っていないからにほかならない。

この教室に属していない人が、舞子や片平さんのグループと里穂とめいちゃんのグループを見たら、わたしはどちらのグループに属していると思われるのだろう。わたしはなぜ、教室の隅の隅にいて、うっすらとした笑い声しかあげることがゆるされないのだろう。舞子がいたときはもっと肺をいっぱいに使って笑っていたかもしれない。楽しくてしかたがなかったというよりも、舞子と自分が一緒にいることを周りにアピールしたかったから。

グループを抜けた瀬尾ちゃんのことを、里穂やめいちゃんは「うらぎり者」として怒っているけれど、わたしはあまり怒りを抱かなかった。ショックはショックでも、湧き上がったのはまったく異質の感情だった。

やられた――そう思ったのだ。最初に抜けるのはわたしのはずだったのに、と愕然とした。

だから、舞子がいなくなっても戻ってこようとしない瀬尾ちゃんのことを、里穂たちと同じように憤慨しようとは思わなかった。わかるよ、とどこか乾いたかなしい共感がゆるやかにあるだけだ。

トイレから戻ってきためいちゃんと里穂がしゃべりながら教室に入ってくる。膝頭を隠したスカート、何のワンポイントのない無地のハイソックス、垢抜けない髪形。わたしはどうしたって彼女たちの同士なのだ。それはもう、理屈じゃない。そうとしかいいようがない。箸で油膜をつなげるみたいに、誰が見ても同じ輪に属する人間として見定められている。そのことが受け入れがたくて、思わず目をそらした。



 伊藤君はわたしを見るなり、目をまるくみひらいた。思った通りの反応を得られて、こらえきれずに表情をくずしてしまった。

「マジか、切ったんだ。え、びっくりしたー誰かと思ったわ一瞬」

 大学近くに洒落たカフェがあるというので、午後のレッスンが終わったあと最寄り駅まで車で迎えに来てくれた。母親と兼用だという赤いマーチを運転する伊藤君はわずかに決まり悪そうだけれど、もいだミニトマトのようなコンパクトな車を運転する伊藤君はなんだか可愛らしい。

「似合うよ」

 信号待ちで、助手席のわたしをきちんと横を向いて見て言ってくれた。まじめな顔をして褒められたのが恥ずかしくて、前を向いたまま「ありがとう」とこたえた。

 舞子はショートも似合うんじゃない? 顔小さいし、うなじ出してる方が女の人っておとなっぽいしさ。この間ファミレスで会ったときに言われたのだった。「そうかな」と呟くと、「まあ、冬だしうなじ出すと寒いだろうけどさ」と例の仔犬のようなひとなつっこい笑みを浮かべたのだった。

 話はすぐにいま流行っているドラマの話に移ったけれど、なんとなく心にひっかかりを残した。冬だから寒くなる、というのは、髪を短く切ることはないだろうな、と期待をしていないことを示す方便のように聞こえた。そのあと伊藤君が熱心に話していたドラマのヒロインをつとめる若手女優は、首を出した短いショートヘアで、伊藤君はずいぶんそれを褒めていたから。

 切る、と決めたのはそのときだったかもしれない。

 次の日の土曜日、わたしは朝一番に予約を取って、その日のうちに髪を短くした。ラインで美容院に行くことや髪を切ったという報告をしようかとも思ったけれど、どうせなら次に会うときに何食わぬ顔をして行った方がおもしろい。そう思って、今日会うまで何も言わないでいた。

「え、でもなんで髪切ったの? もったいない」

 車が発信する。伊藤君ののんびりした言葉に思わず「えっ」と言ってしまった。あんなことを言っておいて、そんな白々しいことを訊くとは。もしかしてわざとなんだろうか。だとしたらいやらしいやりくちだ。

「なんでって……まあ、気分転換」

 伊藤君が似合いそうって言ったから、というのはなんだか、向こうがほしいこたえをあげているみたいでくやしくて、ついそっけなくそう言ってしまった。「へえー」と伊藤君が生返事をする。なぜわたしの答え方が妙にそっけないのか、わかりあぐねているみたいだ。

「そういえばあのドラマ、最終回見た? ラスト良かったー」

「見てない。途中から見てもわかんないし」

「やー、あれはストーリーを楽しむっつうか、ヒロインが可愛いだけでひっぱってたドラマだしな。そういやその髪型、ヒロインの鹿嶋沙耶っぽいね。もしかして意識してる? あ、観てなかったんなら偶然か、あはは」

 伊藤君がほがらかに笑う。その隣で、わたしは返事をできなかった。シートベルトがむき出しの鎖骨に当たって、痛い。

 なんてことだろう。伊藤君は、自分が言った言葉が引き金になってわたしがショートヘアにしたのだということにまったく気づいていない。

それどころか、あの日わたしに言った言葉を、覚えていないのだ。


 伊藤君とふたりで会うのは、これが四回目だ。たいてい、平日の放課後の時間にカフェかファミレスで会っていた。今日は初めて休日のデートだ。伊藤君、舞子、と呼び合うようになったのは前回だったっけ。

「迎えに行くから、適当にドライブしようか」――昨日のラインではそう言って、どこに行くかは教えてくれなかった。ドライブをしてどこかで軽くごはんを食べる、というデートも悪くはないのだけれど、たまには水族館や映画館なんかに行ってみたかった。そうだ、アウトレットまで足を運ぶのもいい。時々可奈たちと駅ビルをひやかすけれど、男の人と洋服を見るのも楽しいかもしれない。

「ねえ、どこ行くか決めてる?」

 もし「決めてない」と言われたらアウトレット行かない? と誘ってみるつもりだった。けれど伊藤君は「大戸屋」とひと言こたえた。びっくりして「えっ」と大きな声を出してしまう。たいていの駅のすぐ近くにあるチェーン店だ。おいしいしきらいじゃないけれど、いくらなんでもくだけすぎている。家族で買いもののついでに寄るわけじゃあるまいし、もっと気張ったお店がふさわしいに決まっている。

「あれ、おなかすいてない? 十二時半だよ」

「空いてないわけじゃないけど、でも大戸屋だったらガストとかサイゼリヤと変わらないし……」

 ごはんを食べるのはかまわないけれど、家族でごはんを食べに行くわけじゃないのだから、もっとロマンチックなところがいい。伊藤君はミラーでわたしの顔をちらりと見やって、困ったように「大戸屋、だめ?」と言った。

「もっとデートっぽいところに行きたいな」

 思いきって口にしてみる。切り札のつもりで使った「デート」という単語を聞いても、伊藤君の表情は変わらなかった。まっすぐ前を見据えたまま言う。

「じゃあ適当に店見つかるまで運転つづけるから遅くなるよ。あとスマホで近くのお店探して」

「うん」

 どうしてだか、不機嫌そうだった。「怒ってる?」と訊くと、「ここらへん、運転荒いからあんまり話しかけないで。危ない」とそっけなく返された。明らかに気が立っている。

 わたしはグーグルの検索候補の四角い枠を見下ろしながら、なんと検索すればいいかわからず、〈ランチ デート〉と打ったっきり、指を動かせなかった。



 くちびるの横にピンク色のできものがぽこりと浮かび上がっている。つやつやしていて、いかにもその下に皮脂をたくわえていそうだ。生理前だからだろうか、額にも大小にきびができて、毎晩軟膏を塗っているのにでこぼこが憎たらしく薄い陰をつくっている。爪でつぷりと薄い膜を破いてしまいたい衝動を懸命に抑える。瀬尾ちゃんはよく、中学時代にきびをつぶしてしまっていたことをくやんでため息をついていたっけ。

母が言うには、前髪が当たるから眉間やおでこのあたりにニキビができるらしい。「ピンかバレッタで前髪上げたらいいじゃない。あんたの髪型、いまどきなのか知らないけど重苦しいよ」そう言ってピンを差し出され、思わず顔をしかめてしまった。にきびがあったらおでこを見せる髪型になんてできるわけがない。それならずっと前髪で隠している方がずっとましだ。

舞子みたいに前髪を上げておでこをむきだしにするなんてヘアスタイルは、わたしには死んでも無理だ。舞子は最小限の髪しか顔にかかっていないのに、お人形みたいに顔が小さい。わたしも含めて、たいていの女子はサイドの髪をわざと垂らして少しでも顔の面積を減らそうと画策しているのに、舞子は潔くすっきりと髪を耳にかけている。古風なのに清楚で涼やかだ。あの美貌じゃないととうてい似合わないだろう。そして、自分の容姿に自信があるからそうしているのではなく、ほんとうに無頓着だからそうしているのだから、なんだか自分が試みている小細工がすべてばかばかしくなってくる。

 もうすぐ二学期が終わる。次は受験生ゼロ学期だそうだ。くだらない。中三の時にも同じことを言われたような気がする。みんな同じことしか考えつかないのだろうか? と聞いた時は思わず鼻白んだけれど、学校の学習室や予備校の自習室は期末試験が終わったにもかかわらず、試験期間と同じように混み合うようになった。教室の真ん中で大きな声を上げて騒いでいるような子たちほど熱心に場所取りをして勉強している。片平さんが耳にイヤフォンを挿して問題集を広げているのを見たときはすこしびっくりしてしまった。正直、勉強ができる方ではないと思っていた。彼女も高い志望大学を見据えているのだろうか。

 放課後、掃除を済ませた学習室に早足で向かう同級生たちの姿に後ろ髪を引かれつつ、予備校の面談に行った。親同伴でもいいとのことだったけれど、はなから母に言うつもりはなかった。

 ところが、予備校の駐車場に見覚えのありすぎる白いノートが停まっている。まさか、と思いつつなかに入ると、母が講師室から顔を出したので、ぎょっとして足を止めた。「やっぱりあんただった」と口を歪めて笑う。よそいきの顔だった。

「なんでいるの」

 とたん、母は笑みをくずした。

「こっちが聞きたいわよ。今日面談なんでしょう。なんで言わないのよ」

 驚いて声も出ない。講師も顔を出し「お母さんが電話をくれたんだよ」と言った。

講師によると、入校の手続きの際に学期末の面談があることを言われていたのに、わたしが何も言わないので不思議に思った母が電話で問い合わせたらしい。幸か不幸か、今日がわたしの面談日だったのだ。慌てて来たわよ、と講師の視界に入らない角度で母が険しい形相でわたしをにらむ。黙って肩をすくめた。信じられないほど最悪なタイミングだ。

「じゃあ遠嶋は三者面談と言うことで。お母さん、三十分ほどですがお時間大丈夫でしょうか」

「はい、時間いっぱいお願いします」

 母が冗談めかして言ったけれど、たぶん本気だろう。カーテンで仕切られた簡易な応接間のソファーに座った瞬間にはもう腰を浮かせたくなった。予備校に入ってから二度受けた模試の結果のコピーがテーブルの上に置いてあったからだ。小言を言われるのが目に見えていたから、母には模試を受けたことも伝えず、結果も見せていなかった。隣の母がまあっ、という顔で目を瞠っているのが気配で伝わってきてうっとうしい。

「こちらが遠嶋の成績になります。まあ、もう見たと思いますが、ご覧になりますか」

「ええ、もちろん」

 母のくちびるの端がひくりと痙攣している。わたしは手を腿の間に押し込めてうつむいた。

「あんた、こんな大学書いてるの」

 驚きのあまりか、声が半分笑っている。「具体的な志望大学はまだ決めてないんだったよな」と講師に問われ、うなずく。

「この子の頭でこういう……名のある国立大学に行けますかねえ」

 母があまりに明け透けな問いを投げるのでぎょっとした。思わず赤面したけれど、講師はまじめな顔をして「うーん……」と模試の結果を見下ろした。

「今後の伸びしろにも寄りますが、けして、無理ではないと思います。ただ、私立専願という選択肢も考えてみてもいいと思います」

 しりつせんがん、と母がおうむ返しに呟く。百貨店のおねえさんに、割高な化粧水をにこやかにおすすめされたときと同じ顔をしている。

「もちろん、ご家庭の事情もありますし、遠嶋の意思が一番大事ですので。県内に残るか、県外に行くか、あるいは学部、それによってもまた違ってきますし……」

 はあ、と母がうなずく。さりげなく模試の紙を自分の方にたぐりよせ、目を落とした。

【神戸大学文学部 E判定】

【名古屋大学文学部 E判定】

【北海道大学文学部 E判定】

【横浜国立大学文学部 D判定】

 住んでみたい憧れの街をそのまま並べた志望大学の合格判定が、烙印のようにしっかりと印字され、わたしを冷静に見つめ返していた。お洒落で見栄えのする、いまいる場所より数段も高い場所にあるそれらは、ちっともしたしみがなく、わたしを静かに拒んでいるような気さえしてくる。


 このまま自習で残る、と言い張ったけれど、「同じガソリン代ならふたりで帰った方がいいでしょう、家でやりなさい」と一緒に帰るはめになった。車内で母は、講師の前では抑えていた感情を爆発させた。

「あんた、なんで面談のこと黙ってたの。もし終わってたらどうしてた気? お母さんに余計な恥かかせないで」

「……ごめんて」

「模試も、受けてたなら毎度結果を見せるのはあたりまえじゃないの? 誰のお金で模試の受験費払ってると思ってるの。月に一回受けるそうだから、今後は必ず毎月見せなさい。わかったね」

「……はい」ほかにどう言えばいいだろう。こうなるのがわかっていたから、ばらばらに帰宅したかったのに。

「それにしても、あんな名だたる大学ばっかりいっちょまえに並べて……門前払いに決まってるじゃない。今度からは自分の身の丈にあったレベルの大学を書いてくださいよ。お母さん恥ずかしくて顔から火が出そうだった」

 クリスマスに合わせて申し訳程度に彩られたイルミネーションがひかりのリボンになって窓に映りこみながら流れていく。母のとがった声もするする後ろに流れていけばいいのに。

「もう三年に上がるんだから、夢ばっかり見てないで身の程を知りなさい。自分の分ってものがあるのよ、人間には」

 身の程、という単語に反応してかっと顔にめがけて全身の血が流れ込む。なんてせせこましい響きだろう。そんなもの一生知りたくない。直視すればたちまち、わたしは何のために心を精一杯張りつめて躍起になっているのかわからなくなって、床にへたりとくずれこんでしまうだろう。

 教室なんて閉鎖的な空間にいれば、否応なしに自分の分なんて浮かび上がる。濃い影みたいにはっきりと浮かびあがって、突きつけてくる。あんたはこの程度なんだから、ふるまいには気をつけなよ、と。

 名の知れた、有名な難関大学を志望すること。それは、その卑小な影をすこしでも補助しているのに、母にはわからないのだ。わかるはずがない。誰にも。



 雪は天からの手紙である――地学の教科書の内表紙にそんなロマンティックな言葉が書かれていたけれど、いったい誰が言ったのだろう。便箋の破片に見えなくもないけれど、それよりかはほこりやちりのような、雪の結晶がゆるくくっつきあった雪の欠片がたえまなく降ってくる。雨と違って重さがないから、風で下から容赦なく吹き上げてきて、まつげや頬にとどまっている。

 冬休みになり、平日にもレッスンが入るようになった。午前中はバスの便がすくないから、運が悪いと最寄り駅から三十分ほどかけて先生の教室まで向かうことになる。今日がそうだった。雪だから遅れているだろう、とあせらずに歩いていたら、定刻通りにバスは着いていて、あと十歩というところでドアが閉まるのが見えた。楽譜が濡れないようにしっかりとトートバッグを抱え込む。革は水に弱いはずなのに、雪が溶けてもほとんど濡れているようには見えない。内に染みているのだろうか。

 ようやく先生の自宅についた。ピアノ教室も兼ねているのに外装は日本家屋そのものだ。「遅れました」と雪を落としてから玄関を開けて声をかけると、「お茶飲んでから始めろ」と和室に通された。

手袋をはずしても、かじかんでもはやどこまでが自分の身体なのかわからなくなっている。こんな指で冷えた鍵盤をさわったらひたりとひっついて剥がれなくなりそうだ。先生は湿気を嫌ってピアノの置いてある部屋の暖房はどんなときも最低温度にしか設定しない。このごろはいつも、レッスンが終わる頃には足先の感覚がなくなって、ペダルと足の指が同じつめたさになっている。

 先生が淹れてくださった日本茶は舌の感覚がなくなるんじゃないかと思うくらい熱かった。すぐ卓に戻し、ふれるかふれないかくらいに手で湯呑みを包む。

すっとふすまが開く。先生が音もなくわたしの前に正座した。対峙すると、自然とすっと背すじが伸びる。

「舞子」

「はい」

「おまえ、音大以外の学校は受けないつもりか」

「え」いきなり進路のことを言われ、動揺する。いままで正面切って先生と進路や受験について話し合ったことなどほとんどなかった。わたしが決めたことを報告するのを「そうか」と最小限の相槌を打って黙って聞いている、それだけだったのに。

 先生はじっとわたしを見据えた。皺の奥に窪まった小さな目は動かない。ごまかしやへつらいは通じない、ととっさに思った。首をすこしかたげて逡巡してみせることすら、ゆるされそうになかった。

「いまのところそのつもりです」

 ほんとうだった。ほかの――たとえば文学部とか法学部とか、考えたこともなかった。文理選択だって、勉強が難しくない方がピアノに支障がでないだろう、と計算したからにすぎない。科目だけで言えばわたしの一番得意な教科は地学と数学だ。

「親御さんが言うにはおまえ、成績は悪くないらしいじゃないか。そんなに自分の進路をいまから狭めることはないんじゃないか」

 思ってもみない言葉に、思わず目を見ひらいた。担任ならまだしも、まさか先生にこういうことを言われるとは思わなかった。

「良い大学に行くっていうのは自分の選択肢を広げるための手札だ。まだ間に合う。舞子、いまいちどほんとうにこれでいいのか考えなさい。これから一年は後戻りができないということだ」

「……はい」

 氷がゆっくりと汗をかきながら溶けるように、指が体温を取り戻しつつある。それでも、付け根の方は糊で固められたみたいにこわばったままだった。


 レッスンはいつも通り一時間半で終わった。あまりつづけて弾いていても指をだめにしてしまうというのが先生の教えだ。音大進学を決めてからも、練習時間が二時間を連続して越えることはない。

 楽譜をしまいながら、ふと「先生」と呼びかけた。うん? と振り向く。

「先生はいつ音大に行くことを決められたんですか?」

 訊きながら、無意味な質問かもしれない、と思った。先生のご両親はお父さんがピアニストでお母さんがチェリストという音楽一家だ。お兄さんも音大を出て高校の音楽教諭を勤めている。先生は苦笑いした。

「大昔のことだからなあ。まあ、私は家全体が音楽をしていたから、それ以外の選択肢は考えたこともなかった」

「ですよね」

「でも、なりたいものはいろいろあった。航海士とか、弁護士とか、あと、家が好きだったから不動産にも興味があった。まあ、自分は音楽をするものだと思い込んでいたからな」

 黙り込む。わたしだってそうです、だからこうしてレッスンに通っているんです、そう言いたかった。

「後悔はしていないつもりだが、あまりにまっすぐ道を決め込むとあとからつらい思いをすることも多い。舞子、おまえはよく考えて決めろ。おまえの能は何もピアノだけじゃないんだからな」

 雪がしんしんと降っているのか、外の音はなにも聞こえない。はい、とうなずいたきり、顎を持ち上げられなかった。

わたしの能。わたしは自分の才能、などというあるのかないのかもよくわからないものにだけ取りすがっていまここに立っているのだろうか。そう思うと、心細くて、いますぐ高校の進路相談室に飛び込みたくなった。普段は素通りして、なにかおためごかしを言われて気持ちを慰めたつもりになるだけなんじゃないかなあ、と心のうちで首をかしげてすらいたのに、誰かに「その道でだいじょうぶ」「あなたにはこの選択肢が最適です」と明確な道しるべを説いて背中を押してほしかった。

でも――他人の言葉で説得してほしがっている時点で、わたしの道は陽炎のようにふらふらとあやういものなんじゃないだろうか。

 初めて、音大以外の選択肢が自分にも同等にあるのだと気づいた気がした。選ばない道も、選ばないからと言って初めから存在しないわけではないのだ。



 年が明けるとより寒さが加速したようだ。短い冬休みは早足で駆け抜けてしまった。三学期が明け、着ぶくれてみっともないのを承知の上で黒いダウンコートを着て登校するようになった。ほんとうは、垢抜けた女の子たちのようにベージュのピーコートやファーが袖口にあしらわれたダッフルコートなんかを着たいけれど、彼女たちがこの田舎のどこでそういったものを手に入れているのかまるでわからない。

「おはよう」「よっす」

 さりげなくリュックの雪を床にはらっていると、里穂とめいちゃんがわたしの席まで来た。暖房側なのはわたしの席だけだ。いつもの友だち。いつものわたしたち。あまりの変わり映えのなさに、吐き気にも似たゆるやかな怒りと途方に暮れた気持ちが喉元までせり上がる。ふたりは昨日の深夜のお笑いの特番について盛り上がっている。わたしも観ていたけれど、あんまり相槌を打たないでいた。程度が低い感じがする。舞子ならこんな浅い話題を選ばないだろう。

 来年のクラス替えではどうなるだろうか。わたしたちの学年に文系クラスはふたつしかないからまたこの子たちと同じクラスになる可能性は高い。もし、わたしと舞子だけが同じクラスになって、里穂たち、片平さんたちとへだてられたら、と都合の良いことを思う。わたしは舞子とずっと行動する。四月のクラス替えで「三年間同じだねえ」とすばやく声をかけ、ほかの、スカート丈の短い、長いまつげが武器みたいに尖った女の子たちから舞子を取られないようにする。そんなことを夢想する。

 同じグループにいて近しかったときは、舞子のまばゆさや純粋さが疎ましくもあったのに、離れるとそんな矛盾したことを思ってしまう。わたしは舞子のことをなんだと思っているのだろう。そんなの友だちじゃなくて、盾だ。舞子といれば、教室の視線はやわらぐ。わたしは最下層の人間ではなくなる。

 ふと、思う。それはつまり、現在わたしは里穂やめいちゃんたちと友だちだから、こんな場所を自分にあてられている、そんな被害者意識があるということだ。瀬尾ちゃんもわたしと同じことを考えて、わたしたちから自分の意思で離れたのだろう。

 笑顔がこわばる。わたしは里穂やめいちゃんたちが好きだ。しゃべっていて楽しいし、なごむ。心拍数が上がることもなく、笑わなきゃ、盛り上げなきゃ、次の話題を探しあぐねる沈黙が気まずい、などと考えることもない。ほかのクラスメイトの女の子たちとしゃべるとき、わたしはいつもどきどきして気を張ってしまう。地味でつまらない、コミュニケーション能力に欠けた女子、というレッテルを貼られないように必死に立ち振る舞う――そこまで考えて、自分という人間のくだらなさに溜息をつきたくなった。

 わたしはいったい自分を何様だと思っているのだろう。友だちをクラスで下に見られてしまう要因だと疎んだり、この子を自分のそばに引き寄せれば教室での立ち位置は守られるとか、そんな浅ましいことを考えたりしていては純粋な人間関係など築くことができるはずがない。でも、そうだとしてもわたしは、三学期明けに自分に挨拶してくれるのはこの子たちだけであることに嘆息し、三学期が終わればクラスがまたいちから作り直されることに一縷の望みをかけている。

 舞子がわたしたちのグループに来て、考え方が変わった。違う、もっと正直に言えば、舞子とバス席で隣になることを期待して、そのとおりになってから、わたしは味をしめたのだ。舞子と隣に並んで、わたしはほんとうは、ここにいたかったんだと、気づいてしまったのだ。

 それまでは、自分の意思で里穂やめいちゃん、瀬尾ちゃんといるのだと思っていた。でも。わたしたちは隅に追いやられてあつまった友だちなんじゃないだろうか。ほんとうはこんなところにいる自分じゃないと思って、瀬尾ちゃんは抜け出してしまったのだろう。

 こんなところが居心地がいいと思っている自分をゆるせない。わたしはもっと上に行ける。そんな傲慢な思い。認めたくはないけれど、わたしはもう、里穂やめいちゃんたちといるとそんな思いがどうしたって付随してくるのだ。

 いまはもうすっかり疎遠になって、口をきくどころか視線をかわすことすらなくなった瀬尾ちゃんと、打ち解けて最近感じている後ろ暗いやつあたりを思う存分聞いて欲しいような気がする。瀬尾ちゃんがどんな気持ちで自分たちから離れ、合唱部の「ゆきりん」のところへすり寄ったのか、じっくり聞いてみたい。

 里穂。――筋肉質でほっそりしているのは好ましいけれど、浅黒い肌で、三白眼気味のするどい一重まぶたで目つきが悪いのに相まって、もともとの性格がぶっきらぼうで男の子っぽいから、初見で同級生に距離を置かれてしまう。笑うととがった犬歯が乱暴に覗いて、粗野な印象を与える。笑い方に気をつけたらいいのにな、とときどき思うけれど、本人は、見えないのだから治しようがないだろう。成績が悪いのを居直っているのが、かえって鼻につくことがある。

 めいちゃん。――ぽっちゃりと水太りして、蒼白い肌にうっすらとそばかすが散って、いかにも病人めいている。色白で、ぱっちりとした二重だから顔自体はかわいい方なのに、長い前髪の両側をピンで留め、こしのないぺたんとした髪をうしろっかわで無造作に結んでいるだけだから、高校生なのにどうにもおばさんくさく見える。むっちりとした足首はいかにもにくにくしい。

 わたし。――一重まぶたでなおかつまぶたがぽってりと厚く、小学生の頃、普通にしているのに「にらんでるの?」と怖がられたり、悪口をたたかれたりした。銀縁のめがねを、高校入学で赤い、大きめのふちのフレームに替えてレンズも薄くしてもらった。にきびができやすい肌質で、代謝がいいのか汗もかきやすい。気を抜くとすぐに顔周りに肉がつく。いまは、すこし落ち着いてきた。けれどお正月にあった親戚から「お母さんそっくりね」と言われてぞっとした。きれいとかうつくしいとか、そういう形容からほど遠い母に似てきたということをどうしても認めたくなかった。母は年老いて、わたしはまだもてあますほど若く、これからという年齢なのに、どうして「似ている」と言われなければならないのだろう。

 離れたかった。三人で行動するということは、同じ仲間だと認識してくれと周りに言っているようなものなのだと、なぜ、いまのいままで思いもかけなかったのだろう。大好きな友だちだったはずが、もはや自分の足枷のようにしか感じられない。

 とうてい言葉に起こせないような後ろ暗い、どす黒い感情が内臓の隙間を縫ってかけめぐり、四肢いっぱいに満たされる。むっちりとにくたらしいほど肉のついた二の腕あたりに詰まっていそうで、思わず自分を抱きしめた。

 舞子はわたしの存在なんて壁のしみほどにしか気にしていないのだろうか、片平さんの席でノートを広げ、何やら教えてあげていた。わたしが行きたいのは、あの場所なのに。



 手元に携帯があると一秒ごとにひらいてラインしてしまいそうで、リビングに置いてきた。一気に心細くなる。いまにも伊藤君から返信が来ていないか、確認したいくらいだ。自分は異常ではないだろうか。これではまるっきりスマホ依存だ。可奈はしょっちゅう通信料を使いすぎて親に取り上げられていると嘆いているけれど、いっそわたしもそうした方がいいのかもしれない。

できるわけがない――。ぐるりと肩を回し、首をそらして天井を向いた。いまは一時避難でしかなく、たとえば一週間手元に携帯がなかったら、頭がおかしくなりそうだ。パソコンからも一応ラインはできると可奈が言っていたけれど、もしかしたら方法を聞いてパソコンにインストールしかねない。

 どうにか、英語の参考書を開いて解こうとする。単語と単語がばらばらにほどけて、頭のなかで何の意味もなさずにちらばってしまいそうになるのを、懸命にかき集めて和訳する。買ったばかりの参考書は、開きぐせがついていないから、しっかりと手で押さえていないとすぐに閉じてしまいそうになって、使いづらい。ピアノの先生に、音大以外の進路についてもういちど熟考した方がいい、と言われたその日の足で買いに行ったものだった。

「いまさら進路に悩んでる(>_<)普通の学科も受験するかもしれない。助言ください。できれば直接……ダメかな(;.;)」

 自分が送った、未読のままであろうメッセージがぽかんと脳裏に浮かぶ。顔文字なんてめったに遣わなかった頃の自分が信じられない。伊藤君相手に限ったことではあるけれど、いちいち送る前に誤字脱字がないか確認して、入れる顔文字をいそいそと選択して、ようやくメッセージを送る。メールやラインの駆け引きのテクニックについていちど可奈が熱弁していたときは、そんなことにわざわざ時間と労力をかけているのか、と内心ぎょっとしたけれど、いまとなってはそんな自分に驚きとあきれをおぼえる。いままでわたしは、人とのやりとりにあまりに無頓着すぎたのだ。

 気づけば参考書は自身の重みに耐えきれず閉じてしまっていた。開き直そうとして、手を止める。こんなに落ち着きのない精神状態でまともな勉強ができるはずがない。返事が来るまでは待とう。部屋を出てリビングに向かい、充電器につないでいたスマホを手にした。

 ホーム画面には何の通知も浮かんでいない。バイトは火曜と日曜で、サークルは金曜日に集まって遊ぶことが多いと言っていたから、今日は何の予定もないはずなのに――。もしや、大学の女の子とでも飲んでいるのではないか。思いつくやいなや、電話してしまいたい衝動に駆られる。自宅で寝ているだけ、とかなら一番いいのに。

 伊藤君と初めて会ってから三ヶ月半が経つ。キャンパスで出くわしたときはあんなに熱っぽい目でわたしを見ていたのに、最近では高校生のわたしを気遣ってかデートの誘いもままならない。こちらからそれとなく言ってみても、「いいね」と同意はしてくれるけれど、具体的な約束はなかなか取りつけてくれない。大学にも期末試験というものはあるのだろうか。もしかしたら試験期間なのかもしれない。その思いつきは心をいくらか軽くしてくれたけれど、その安堵はたちまち「ではなぜそれを自分にことわっておいてくれないのか」という猜疑心にすり替わってしまう。忙しいのであればこちらも無駄にやきもきと胸をさわがせる必要もないのに。

 ラインでくだらないやりとりでもできればすこしは気をまぎらわせられるのに、こういうときにかぎって可奈たちがグループラインでメッセージを発することはない。自分から送ってみようか。いやいや、それでもし三人ともに無視されてしまったら、今度こそ自分の心はぽっきり折れてしまう――。

 伊藤君ははたしてわたしのことを何だと思っているのだろう。たくさんいるガールフレンドのひとりでしかないんだろうか。酒も交わせない、八時までには家に送らないといけない、ましてや部屋にあげるなどとうてい無理な話であるわたしでは、大学生には物足りないに違いない。大学生は平日でも朝までだらだらと飲んだり、カラオケにいたり、ひとりのアパートに数人が泊まって雑魚寝をするなどということは日常茶飯事らしい。伊藤君から聞きかじった話は飲んだこともないシャンパンの炭酸よりも刺激的で、雑多な色にあふれて賑やかしい。彼から聞く話は自由な世界そのもので、閉塞的な狭い年齢に残されている自分にはまばゆすぎてかなわない。

その一方で、面倒なことになっていた。秋に告白を受けてからはさすがに止まっていたのに、髪を切った後また口をきいたことが後押ししたのか、それとも振られてひらきなおったのか、市村君からまたメールが届くようになった。いろいろこねくり回したのが透けて見える長ったらしいメールは、伊藤君との卓球のラリーのような小気味いいやりとりに慣れてしまっているせいで、なんだかうっとうしく、生身でもたれかかってこられるようで重く感じてしまう。同級生ではあるけれど、幼く見えて仕方がない。斜にかまえたような保険をかけた言い回しから、恥をかきたくない、傷つきたくない、という自己防衛の意図を感じ取ってしまって、なんだかこちらがいたたまれない気持ちになる。

 携帯の電源をつけたり消したりする。そのたびに、ドガの名画がほわんと青白いひかりのなかで浮かび上がる。短くした髪が、うなじにあたってじんわりと痒い。これなら結んでいたときの方がすっきりしていたかもしれない。そう思ってしまってうんざりする。わたしがいったい何のために髪を短くしたと思っているのだろう、なんて、そういうことを考えてしまう自分が情けない。命じられたわけでもなければ提案されたわけでもない。「似合うんじゃない?」と言われただけだ。しかも本人はまるで覚えていない。世辞くらいにとっておくべきだったのだろうか。でも。

 ふがいない気持ちになって、自分が送ったラインの画面をおそるおそるひらいた。いたって真面目な進路相談、それがかえって優等生じみてつまらないのだろうか。頼られてうれしく思うとばかり思っていたのに。すくなくとも、出会った当初はそうだったはずなのに、なぜ。

 もうすぐ模試がある。それまでにはどんな大学を書くか、考え直さなければ。旧帝国大学といわれる難関を自分が受けていいのかよくわからないけれど、初めて志望大学相談をしたときに、担任はずいぶん熱心に薦めてきたっけ。行くなら名古屋あたり、欲を言うなら京都という響きにも憧れる。旧帝ではないけれど、可奈が繊細な飴細工でも運ぶみたいにそうっと口にしていた女子大学も、いかにもお嬢様という雰囲気で悪くはない――。

 ふわふわと胸が弾む。取りもしないピザのちらしでもわくわくと眺める子供のように夢想してしまう。ふと、そのなかに伊藤君がいる大学など一瞬も浮かばなかったことにいま、気づいた。だったら相談なんて、まるっきり口実でしかない。〈真面目な進路相談〉、なんて、くだらない。見え透いた皮をかぶって、その実、彼にかまってほしいだけなのだ。

 そこまで考えて、くちびるがだらしなくゆるんだ。口実も何も、いまさらではないか。 

わたしは伊藤祐にまるっきり恋をしている。犬のように。



「蘭、生物の試験範囲の紙持ってる? ちょっとみして」

 里穂がわたしの席に寄ってきて、擦り寄るように言う。面倒くさいな、と思いつつ生物のファイルを出し、プリントを探した。里穂はずぼらで、忘れものも多い。もしかしたら持っているのかも知れないけれど、自分のを探す方がかったるいとでも思っているのだろう。

「はい」

「あ、さんきゅー」

 それでも邪険にできない理由がある。わたしたちはいまは、お互いにもたれ合っていないとどうしようもないのだ。

 めいちゃんはいま、クラスでめだつポジションの――文化祭の出しものに意見を言ったり、授業中先生にちかしく話しかけたりしてもゆるされるような、つまりはわたしたちが普段かかわるべくもない種類の男子と付き合っている。

「きんきゅうじたい やばい、 まじ たすけて たすけて」

 一昨日の夜中、突然グループラインにめいちゃんがそんなメッセージをあげた。漢字変換もできないくらいに動転しているのか。いったい彼女の身になにが起こったのか、わたしも里穂もパニックになり、すぐにメッセージを飛ばした。

「めいちゃんどうした? だいじょうぶ?」

「もしよかったら電話するけど、どうしたの」

 次にめいちゃんが送ったのは画像だった。それを見て思わず目をみひらいてしまった。それはクラスでわたしたちがかかわることもない、トップ層にいる端野君とめいちゃんとのラインのトーク画面を撮った、スクリーンショットだったのだ。

めいちゃん、端野君と個人ラインなんかするんだ――そんな衝撃を受けながらメッセージを読んだ。妙にお互いなれなれしいような、それでいて微妙に距離をはかろうとしているようななんともいえない距離感でやりとりをしていて、最後に端野君が、「茅野さん、良ければ俺と付き合いませんか」と告白している。ぎょっとして「えええっ」と口に出して叫んでしまった。

「どうしよう! なんであたしが端野くんに!」「おわあああああ」「だまされてんのかな 一種のいじめだったらどうしよう」めいちゃんが次々に短いメッセージをぴょこんぴょこんと打ってグループラインのトーク画面を埋め尽くしている。

「っていうかこのあとどうしたの? まさかこのままじゃないよね」と里補が言い、「このままとまってるに決まってるじゃあああん」とめいちゃんが文字で絶叫し、いますぐ返事を打つようにふたりで説得したのだった。

そしてその日から、めいちゃんと端野君は付き合っている。いまも端野君がめいちゃんの席に来て、机に寄りかかるようにしてしゃべっている。めいちゃんの透き通るような肌は内側からランプで照らされているみたいに煌々と赤い。「浮かれてんねえ」と里穂がわたしの視線のさきを追って呟いたけれど、端野君がめいちゃんの相手じゃ、厭味というよりも負け惜しみにしか聞こえない。

 端野君がめいちゃんに告白してふたりが付き合い始めたということは初日にはもう教室中に知れ渡ることとなった。端野君が隠そうともしなかったのだ。「めい」と呼び捨て、目じりを下げて話しかける。端野君のひらきなおった積極性に、めいちゃんの方が気おされているようだった。

「ハッシーってぽっちゃり系が好きなんだあ、まじかあ」と片平可奈さんがそれを眺めて言っていたのも、いじわるな気持ちもすこし吐いたのだろうけれど、悔しい気持ちも十分にあったに違いない。自分は理系クラスのバレー部のキャプテンと付き合っているのに、めだって顔もかっこいい端野君をにくからず思っていたのはさして仲良くないわたしでも、傍目から見ていて明白だった。一年生のときに、面食いの片平さんが端野君にアプローチをかけたもののあっさり袖にされた、という噂をちらりと聞いたことがあるけれど、案外ほんとうだったのかもしれない。片平さんはずっと否定しているけれど。

 めいちゃんが端野君の彼女となったことで、クラスメイトたちの態度も変わった。「めいちゃんってちっちゃくて白くて、守ってあげたいって感じだもんね」「いかにも女子! つうか妹系だよな」と彼女の評価が上がり、おとなしい下層の女の子を選んだ端野君もまた、「見る目がある」と女の子たちの評価が上がった。お互いにお互いの価値を引き上げているのだ。すくなくとも表面上は教室全体から応援されているカップルで、嫉妬の対象からうまくはずれていた。

 自分の友だちが教室の〈上〉の女の子を押さえて〈上〉の男の子に選ばれたことは「よくやった」とよろこぶべきことなんだろうけれど、なんとなく、もやもやしていた。クラスメイトたちがてのひらを返してめいちゃんのことをちやほやするのもなんだか腹立たしいし、かっこいい男の子に選ばれためいちゃんのことは、羨ましくて、やはり、悔しさを認めざるを得ない。里穂も同じなんだろう、あまりふたりのことを話題に出さなかった。

 瀬尾ちゃんにつづいて、めいちゃんも仲間からほんのりはずれそうになっている。もちろん喧嘩をしているわけではないし、移動教室はいつもの通り三人で行く。でも、地位がへだてられたのは明白だ。高校生にとって、付き合っている相手がいるというプロフィールはものすごく大きい。相手が端野君みたいな、わかりやすくめだつタイプならなおのことだ。

 ずるい。わたしたちと同じだったのに、めいちゃんだけ高みに引っ張り上げてもらうなんて、うらぎりだ。そんなふうに思っている自分がいる。表ではめいちゃんの交際を誰よりも祝福し、のろけを辛抱強く聞いてあげて「いい親友」の役割を果たそうとしているけれど、それはクラスで地位の上がっためいちゃんに執着して媚びているにすぎない。ばかばかしい。

 ひがんでいるだけだ。かっこいい男の子に告白されたことも、いままでめいちゃんのことを空気のようにふるまっていたクラスメイトにちやほやされて応援されていることも、クラスで大きな顔をしている女の子たちにやっかまれていることも、みっともないくらいうらやましかった。なんでわたしじゃないの! と叫びだしたいくらいだった。

 会話は終わったらしい。端野君に手を振り、ふいに教室を出ようとしためいちゃんが、戸口で足を止めた。瀬尾ちゃんがふさいでいた格好で立っていたのだ。無視し合うだろう、と思って見ていたのに、なんと瀬尾ちゃんがめいちゃんに二言三言話しかけた。めいちゃんの顔はふわっと表情をくずし、笑いかけた。そして笑顔でなにか答え、ふたりはにこやかに別れた。その光景に、胃がうらがえりそうなくらい、わたしは衝撃を受け、打ちひしがれていた。

 なぜ――。駅やトイレで鉢合わせてもあからさまに無視を決め込んでいる瀬尾ちゃんを、誰よりも嫌悪し、傷つき、静かに怒りを募らせていたのはめいちゃんだったのに。どうしてあんなにあっさりと、笑顔をかわしてしまうのだろう。瀬尾ちゃんが態度を豹変させたのは端野君との交際があったからでしかないのに、その卑屈さにどうしてにこやかに応じてしまうのだ。いらだちがぶくぶくと胃の底で沸き立つ。いったいもう、何に対して自分がやつあたりしているのかわからなくなっている。

 どうして友だちの幸せを素直によろこべないのか。他人のもちものをひがんでしまうのか。クラスメイトに比べて自分の精神が何十倍もどす黒く濁っているように思えて、内臓がもぞもぞと蠢いている気さえしてくる。海に垂れ流されたオイルのように、ぎらぎらと不快にねばついて、やがて海全体を汚染していく。そんな映像が思い浮かんで、立ち眩みがした。

「ごめん、保健室に行くね」と自分で言ったのか、「保健室に行った方がいいよ」と里穂に心配そうに言われたのかももう思いだせない。気がついたら、五時間目の英語表現の時間、わたしはベッドの上に横たわっていた。

天井のシミがやけに近く見えた。手を伸ばせば届きそうに見えて、そんなものが届いてどうするんだろう、とそんなどうでもいいことを思った。

 しにた、とくちびるから乾いた声が勝手に零れ落ちる。自分の言葉が床に落ちて、埃にまとわりつかれて本棚の隙間に転がっていくような気がした。



 どこに行ってもバレンタインソングが流れている。いっそイヤフォンを挿して耳をふさぎたい。

 百均の店頭で売っているカラフルなハート型のボックスや、チョコレートの型や毒々しいほどポップな色をした砂糖菓子。食品売り場ではすぐ入り口にチョコレートの箱がつまれて、ラメ入りのきらきらひかるハートのかたちをした風船がふわふわと浮いている。朝のニュースではデパートでショコラフェスが始まったことを特集している。目や耳に入ってくるものすべてが自分を追い詰めているようにしか思えない。

 想像力が足りないんじゃないかな、舞子ちゃんは。

 一週間前に伊藤君から発された台詞が、勝手に頭のなかで再送される。子供のとき父がよくクラシックを聴かせてくれるときに使用していたテープならもうとっくに擦り切れているだろうに、頭のなかで発される伊藤君の声は、日が経つごとに冴えて、もはや銃声のように自分の心を撃ち抜く。

 伊藤君と最後に会ったのは、わたしの最寄り駅のカフェだった。いまはバイトが忙しいから進路相談ならラインで済ませたい、と言われたのを、「直接会いたい」となんどもお願いしたところ、申し出がやっと承諾され、約束を取りつけてもらえたのだった。レッスンが終わったあとの、夕食までの短い時間しかなかったけれど、うれしくてならなかった。

 会うのは二週間ぶりだった。色つきのリップを薬局で買い、テスターを使って頬にさっと桃色のチークを載せた。すこしでもおとなっぽく見せたかったので、黒いタートルネックのニットと、ワインレッドのフレアスカートを合わせ、母のパンプスまで借りた。

 けれど、待ち合わせ場所に現れた伊藤君は、わたしを見ても目をみひらくことも、頬を赤くすることも、「いいね」とひと言褒めることすらなかった。あまり落ち着きがないように見え、「時間ないから、早く入っちゃおうぜ」とドアを押した。わたしの全身像をきちんと目視したかすら怪しかった。

 その時点で、厭な予感がしなかった、といえばもちろん嘘になる。けれどそれは、最近バイト先の居酒屋から四年生が卒業を理由にいなくなり、シフトが急に立て込んだせいだとばかり思っていた。そう思いこもうと、した。

入店してからも普段と違っていた。いつもならじっくりメニューを眺めてから注文を決めるわたしを、仔犬を見守る親犬みたいに目をほそめて楽しそうに待ってくれたのに、「ミルクティーでいいよね?」と言って、わたしがうなずくのもろくに確認もせず――もっと言えばわたしはココアの方が飲みたかったから「待って」とさえぎろうとしていたのに、「ミルクティーとコーヒーで」とさっさと注文してしまい、向き直ったら向き直ったで、「手身近にお願い」とさばさばと言った。「このあとまた大学に行くんだ。再試があるから」

再試、と言われてすこし心がひるんだ。もしかしたらわたしが「直接会って話したいから時間をつくって」としつこく頼んだことは、彼にとってとても大きな負担となって、無理やりひねりだした時間だったのかもしれない。そう思うと、悠長にカフェの一番奥のソファー席を選んでふかぶかと座っていることが急に居心地悪くなってきた。急かされ、言葉をつなぎながら同時進行で口にした。早く話しださないと、席を立って帰ってしまいそうな、意識がここではなく違うところに向かっているようなうわの空な雰囲気があって、伊藤君自身、それを隠そうとしているように見えなかった。

「ピアノの先生に、音大以外の道も考えた方がいい、って言われて。それで、急に自分の進路に自信がなくなったっていうか」

「うん」

「いままであたりまえみたいに音大を志望して受験する気でいたけど、ほんとにそれでいいのか、怖くなって。周りの子はみんな、伊藤君みたいに普通の科を受けるだろうし、そのなかで自分だけ、特殊な道を志すことが心細くなって、いったんいまは白紙に戻してる。今日もレッスンだったけど、もしかしたら音大以外の大学の可能性もあるのかもしれない、って思ったら身も入らないし」

 伊藤君はにこりともせず頬杖をついてわたしの言葉を聞いている。いつもなら「そうだよなあ」「わかるよ、舞子ちゃんの気持ち」とやさしく同調したり話をうながしてくれるのに、その相槌がないと、なんだか話をせかされているようで気持ちがあせる。沈黙になると伊藤君をいらだたせてしまいそうで、考えるよりさきにくちびるが早回しに動いた。

「それで、現役大学生の伊藤君に、アドバイスもらえたらな、って。だって、実際大学受験したわけだし、高校の先生は通りいっぺんのことしか言わないからあてにならないし」

 彼の時間を自分のわがままで食いつぶしている罪悪感でつい言い訳がましい口調になる。「だから、今日お願いしたんだ。ごめん、迷惑だったよね」でも伊藤君と会えないの、寂しくて――そうつづけるよりさきに「あのさー、思ったこと、ばーっと言うね」と伊藤君が口火を切る方がさきだった。あ、うん、と慌ててうなずくまもなく、伊藤君がはきはきと話し始めた。

「現役大学生、ね。まあそらそうだけど、俺は音大のことなんて知らないし、いまの大学部も学科も、正直選んだっていうより俺を選んでくれそうなところを選んだ結果でしかないからまったくあてにならないと思うよ。俺の出身高言ったとき、舞子ちゃんだって『あー』みたいな顔してたんじゃん」

 思いもよらないことを指摘されて顔に血液がわっとあつまった。確かに出会ってすぐの頃、さりげなく出身高校を聞いたおぼえはある。そのとき自分がどんな感想を抱いて、それを伊藤君のまえで隠さなかったであろうことも。

「べつにそんな、ばかにしてたわけじゃ、」

「いや、べつに怒ってないし、あたりまえの反応じゃない? きみの高校は県内でトップなわけだし、実際すげーなとは思うし。それに、うちの大学の時点で俺の偏差値なんて察しでしょ。俺の高校から行ける公立ってここくらいだし、大学にそっちの高校出身のやつなんて全然いねえよ、実際」

 卑屈な言い方ではなく、淡々と事実を述べているような冷静な口調がかえって罪悪感を煽った。否定しなければ――そう思って頭はぐるぐるとフル回転するのに、何もいい論が浮かんでこない。伊藤君の言うとおりだった。大学訪問のときも、「あの大学なんてうちの高校からはほとんど受験しないのに行く意味あるのかね」と何人もが笑っていた。正直なところ、わたしも思っていた。センター試験を受けるとき以外はとくに縁のない大学だな、と。でもそれは、わたしが音大受験をするつもりだったからだ。そう反論しようと顔を上げたら伊藤君は妙に冷めた目でわたしを見ていた。怖い、ととっさに思った。こちらが全力で身をもたれかけたら、うんざりとした顔で押しのけされそうな、そんな気がした。

「だからさ、高校の先生より大学生の俺に聞いた方がいい、ってな理屈は通らないんだよ。ちょっと考えたらわかることじゃん。――頭いいんだから」

 カッと頬の一番高い部分が熱く火照る。最後につけくわえられた皮肉は、強く肩を突き放すような響きを持っていた。

「その『進路相談』、俺になんて言ってほしいの? 音大受験した方がいいよ、って背中押してほしいの? どっちかっといえば逆に聞こえたけど。舞子ちゃん、ほんとは音大受験降りたいんでしょ」

 思いもよらない言葉に、心臓が土足で蹴られたみたいにびくりと跳ねた。

「じゃなかったらピアノの先生だかに言われたくらいじゃ揺らがないんじゃない? 言われて不安になるってことは自信ないんだよ、自分の選択肢に」

「でも、音大受験は親とか先生に言われたから決めたんじゃなくて、自分で言いだしたことだよ。自信がないわけじゃない」

 やっとのことで口を挟む。何も言わなければ、するすると口から国旗を出す手品みたいに論を展開する伊藤君に圧倒されて、自分の意見など容易に拭き飛んでいきそうだった。けれど伊藤君はわたしの必死な反論などどうでもいいかのようだった。ふうん、と薄い笑いを浮かべて流してしまう。

「ほんとにそうかな。舞子ちゃんみたいなタイプが自分だけの意思で音大受験なんて特殊な選択肢を選ぶとは思えないけど。ピアノをやってて、そこそこ認められる力があるのはわかってたから、その道を選んだだけじゃない? そら、ピアノの先生も反対しないよ。うれしいと思うよ、自分の生徒が音大に行きたがったら。絶対に賛成される選択肢だから選んだんじゃない? 無意識にかもしれないけどね」

 伊藤君の言い方は、もはや高いところから見下ろしているような距離感があった。したしみを持ってこちらの心に寄り添っていたひとなつっこい目をした伊藤君はもうおらず、二重の目をほんのりほそめ、気を違えた患者を淡々と分析するような、他人行儀な冷静さにあふれた男の人が目の前に座ってわたしを見据えている。

「……どういう意味」

「舞子ちゃんてじつは自信ないでしょ」

 どん、と胸の真ん中を長い棒で突かれたような気がした。

「自覚ないんだ、やっぱり」とわかったふうに口をゆがめて伊藤君が笑うのがすこしにくたらしかった。

「美人で頭良くて、いい高校にいて、ピアノっていうほかの高校生とは違う才能もある。でも、すこしも鼻にかけてないし、ナルシストでもないよね。それって性格がいいっていうよりかは、そもそも自分が恵まれている人間であるっていう自覚がない証拠だし、根本的に自信がないんだよ。卑屈っていうかさ」

 とても目を合わせてはいられなかった。もうほとんど湯気を立てていないミルクティーをじっと見下ろす。心をひゅっと片手で掴まれて宙づりにされているような心もとなさに胸が落ち着かない。

「そう、卑屈。まあもともと人より恵まれてるから、マイナスというよりゼロなんだな、きみの場合は。世間知らずで擦れてないのかな~って最初は思ってたけど、それだけじゃないよね。美人だからいままで誰かにつっつかれたりしたことなかったんだろうけどさ、」

 もうやめてほしかった。手を伸ばせば口をふさぐことができるのに、こんなに間近にいて、したしくしてきたつもりなのに、そんなこともできない。伊藤君に向かって手を伸ばしただけですげなく振り払われそうな気がした。いったいどうして? 伊藤君は、わたしのことが好きではなかったの――?

「想像力が足りないんじゃないかな、要するに。勘弁してよ。なんで**高校の才女に田舎のFラン公立大の俺が進路相談受けなきゃなんないの? おかしいでしょ。ちょっとは考えろよ、自分の頭で。想像しろよ、他人の気持ちを」

 伊藤君はもはや薄笑いすら消し去って、いらだたしげに眉間に皺を寄せていた。自分はほんとうに、目の前の不機嫌そのもののおとなの男に恋慕して、打ち解けていたつもりだったんだろうか。三歳しか変わらないのに、彼は三月生まれだからまだ自分と同じ未成年のはずなのに、徹底的に下に見られて、蔑まれて、拒絶されている。あきれなどというかわいらしい程度ではなく、心から自分のことを気味悪そうな目でうかがっている。いったいどうして、こんなふうになったのだ。そうだ、試験期間なのに、バイトのシフトが増えて大変なのに、サークルの追いコンの準備に追われているのに自分が無理に時間を割かせて予定をねじまげさせたからだ――。自分の幼稚なわがままのせいで伊藤君は不機嫌になったのだ。そう思い、謝ろうと口をひらいたら、それよりさきに「あのさ」という伊藤君のひらたく潰したような声が頭上から降ってきた。彼はもう伝票を持って、立ち上がっていた。冷たく目をひからせ、わたしを見下ろす。顔に濃い翳が落ちて、照明の薄いカフェのなかで、死刑宣告をする死神みたいに恐ろしく見えた。

「っていうかさ。俺大学二年だよ? 高校生のおままごとみたいな恋愛ごっこに付き合うメリット、こっちにあると思って引き受けてるってほんとに思ってんの? 運転だって毎回らくらくやってると思ってるんでしょ。確かに舞子ちゃん、美人だけどさ、そんなにもたれかかってこられたらたまんねえよ、こっちだって」

 そう言ってさっさと支払いを済ませて帰ってしまった。いつもなら送ってくれるのに、と思ったら涙がぽろりと頬をころげおちた。

 その日の帰り道に月が出ていたことだけは覚えている。いつだったか伊藤君が運転をしながら、「悲しいときに限って月ってめちゃくちゃきれいにかがやいてるんだよなあ、たいてい満月で。よけいみじめになる、そういうとき」とぽつりと呟いていたことを思いだしたから。



 保健室のシーツはいったいどれくらいの頻度で洗濯したり日干しされているのだろう。もしかしたら月にいっぺん、なんて頻度かもしれない。そう想像することで、勢いよくがばりと身を起こし、ふとんを跳ね上げ、自分を布団の外に飛びださせようと試みる。けれど実際は、鼻まで掛布団をひっかぶっているままだった。布団から漂ってくる、古い繊維のような、他人の垢くさいような、やけにしたしみやすい匂いをあまり深く嗅がないように、口で呼吸をする。こっちの方が身体に悪いかもしれない。

 どちらにせよ、高二の二月半ばにこうしてまっぴるまから保健室の布団に寝ていることじたい、いいわけがないのだ。こうして寝返りを打っているいまも、あの教室ではベクトルについて先生が説明をしていて、クラスメイトたちはまじめにノートに板書を書き写している。そのことについて思いをはせると、とたんに胃のなかみがぐるぐると渦を巻き始め、しくしくと下腹が痛みだす。授業をさぼっている罪悪感がかえって具合を悪くし、自分を授業から遠ざけているという皮肉な事実に、悲しさや情けなさを通り越して笑ってしまう。

 具合が悪いわけでもないのに保健室で授業の時間を潰すのは、これで四度目だ。これで最後にしなければ、と三度目に来てベッドにもぐり込みながら思ったのはついおとといのことだ。間隔が狭くなっている。いまは週に二、三時間を潰す程度に済んでいるけれど、それが一日、二日、と単位が変わってくるかもしれない。そう思うと心の底からぞっとする。いまのうちに自分の人生の堕落を食い止めなければ、どうしようもなくなってしまう。そう言い聞かせても、どうしても身体を起こして二階まで上がって自分の席に戻る気にはなれない。

 里穂は最近あからさまにわたしに対して執着している。教室でつるむ相手が消えるのが怖いのだろう。めいちゃんは端野君の彼女というゆるぎない地位を得て、その自信のせいか、最近髪をボブにして、一気に垢抜けた。ひっつめ髪にしていた頃とは比べものにならないくらい可愛かった。一年間ずっとそばにいて、仲良くしていた自分ですら驚いたのだ、クラスメイトたちの驚きようとてのひらの返しようったらなかった。端野君経由でその周囲の運動部の女の子たちとも交流するようになって、春ごろの彼女からは考えられないくらい社交的になった。四月からそうしていたら、つまり、見た目を垢抜けたものにして、端野君に早くから告白されていたら、はたして彼女はわたしたちのグループにいただろうか――そんなことまでよぎってしまった。

 保健室にいるとほっとする。教室にいたくなかった。里穂から離れたかった。里穂とふたりだけで朝のホームルームまでの時間を、授業の合間の十分の休み時間を、三十分の昼休みを過ごすのは苦痛だった。里穂が厭なわけではなく、ほかのクラスメイトたちにそれを見られ、把握されているのがつらかった。里穂にそんなことを言えるわけもなく、テレビやマンガや受験について雑談し、相槌を打ちつづけた。ふいにクラスメイトの視線がすみっこでごくちいさな輪をつくるわたしたちふたりに向くたび、羞恥で顔が腫れ上がりそうなくらい、恥ずかしかった。だからといってひとりでいる勇気なんてないのに、里穂に対してひどい感情を抱いてしまう自分がゆるせなかった。けれど、この程度の友だちしか持っていない自分のことは、もっとゆるせなかった。

だからこうして保健室に来て息継ぎしているのかもしれない。授業中は教室のなかで誰がえらいとか、自分はうっすらみんなにばかにされているんじゃないかとか、考えなくて済む時間であるにもかかわらず。 

 来週から期末試験が始まる。こんなところで人生の時間を寝つぶしている場合ではない。予備校では年明けから講師が私語をしなくなり、なかみがぎゅうぎゅうに詰まった講義をぎっちり受けている。標準コースといえど、油断はできない。気を抜けばコース内トップファイブからたやすく落ちてしまう。みんな真剣なのだ。

 勉強をしっかりやって、成績をこつこつ押し上げ、高校での順位をなんとか上位三割まで上げたい。無理だろうけれど、できれば二割。うちの高校では成績上位者は名前を貼り出されるから、それも大きな教室での雰囲気の変動にかかわっていた。地味な子でも、名前が載っていれば一目置かれる。そうなれば、もう教室で些細なことにぎすぎすと心を擦り減らさずに済む。クラスメイトに名前ではなく「おい」「ねえ」と呼ばれることとか、駅のホームで目が合っても笑ってもらえず、戸惑ったように携帯に目を落とされることとか、体育の球技でへまをしてもなかなか「ドンマイ!」の声が上がらず、しんと静まり返るなか「ごめん」と自分のかぼそい声が誰にも拾ってもらえないままコートにぽつりと浮かび上がることとか。ほんとうにくだらない。自意識過剰の被害妄想かもしれない。いじめでもいやがらせでもないことは自分でもわかっている。それでも、だめだ。みんなにうっすらと下に見られているというどうしようもない事実が横たわっている教室で、呼吸をして朝八時から午後四時半まで過ごさなければならないのは、苦痛以外のなにものでもなかった。自分が、「みんな」のなかの「下」であることが。

 それが原因で保健室にいる。明日の放課後、担任とカウンセリングをしなければならない。養護の先生はとうにわたしが身体の具合を悪くして保健室に来ているわけではないことを見抜いて、それでもここで休ませてくれている。

ほんとうのことなんて言えるわけもない。受験のストレスで体調不良になることが増えました、とでもごまかすほかない。でも、もしほんとうのことを吐けば来年のクラス替えのときに配慮してもらえるのだろうか――。だとしてもさしてしたしいわけでも心をひらいてきたわけでもない担任教師に、自分のみじめな高校生活について打ち明けていることなど想像もできなかった。

 あと二十五分もある。制服のポケットにしのばせていた携帯を取りだし、眺めてみても見たいインターネットなどなく、誰からもメッセージが来ていることもなく、すぐに画面が暗くなった。考えることがなにもなくなると、余白を埋めるみたいに「しにたい」という言葉がぽかんと浮かんだ。しにたいな、うん、しにたい。仕方なく、英単語のアプリをひらいて淡々と問題を解くことに集中した。こんなことをしていったい何が身につくのか、ちっとも信用していないけれど、いまは視線の向けるさきが必要だった。

 何が原因で、誰のせいで、わたしはこんなところに追いやられた? 

 十七歳の誕生日を迎えた、すべてのものを透きとおらせるような澄んだ陽射しにあふれていた秋の午前が懐かしい。わたしはあのときまで、確かに満たされていたはずだったのに。いまは教室から抜けだして、洗いざらしの古い布団のなかで、自分がしんでもいいと思っている。かなしくてしょうがなかった。いったい自分はどうしてこんなふうに変わってしまったのだろうか。自分が思春期まっただなかだから? 十代だから? 若く幼いから?

小説の惹句では、十代の日々はまるで神聖なたからもののようにあがめられ、美化されているというのに、自分の実際の日々といったらどうだ。不安定で未完成で脆くあぶなっかしく、それは世間で言われている形容と一致しているものの、うつくしさやかけがえのなさなどかけらもない。早く過ぎ去ってしまえとしか思えない。性急に歳を取りたい。自分みたいな女の子が若くたって、何の価値もないのだ。それならいっそあと十歳くらい歳を取って、十代の土俵からいち抜けしてしまいたかった。

ストーブがごうごうと焚かれている。暖まった熱気が薄いカーテンで隔てられているこちらまで流れてきて、鼻も口もふさいで、意識がしゃぼんだまの膜にでも包まれたみたいにゆらゆらとさだまらず、ぼんやりしている。いっそこのまま意識を手放せたら、と思った。もはや自分のための涙も出なかった。



 生理でもないのに下腹部がしくしくと痛い。もしかしたらほんとうに来るかもしれない、と思ってお手洗いでナプキンを当てたけれど、経血が下りてくる気配はない。単なる生理痛だったらどんなにいいだろう、とほとんどよごれていないナプキンを見下ろして溜息をついた。きれいなまま剥がして丸め、サニタリーボックスに入れた。

 失恋がこれほどまでに生活に入り込むものだとは思わなかった。その日ふられたあとも、失恋はつづくのだ。

 朝目覚めれば、「ああ伊藤君にはもう会えないんだっけ」と焼きごてを押されるように思いだす。携帯の電源をつけるたび、メッセージの通知が浮かんでないかはらはらと見守ってしまう。眠るときは「伊藤君はいまごろ誰かと一緒なんだろうな」と想像して勝手に傷つき、メッセージがいまにもこないか、日付が替わるぎりぎりまで携帯の画面を布団のなかでひからせながら見据えてしまう。距離を置いたことで、かえって考えごとの隅の隅まで伊藤君に支配されてしまった。敬虔な信者みたいに、と思うのはあまりに美化しすぎているだろうか。

 片思い。失恋。それがどんなにつらいものなのか、十七歳で知ったのが早いのか遅いのかわからないけれど、自分にとって初めての経験であることは間違いなかった。ほろ苦い、せつないどころの騒ぎじゃない。この痛みはまるで皮膚を生身からひっぺがされみたいだ。起きて眠りにつく間じゅうずっと、常に心臓が剥きだしになって鉄砲風が始終びょうびょうと吹きつけてくるような、猛烈な痛み。授業中ふっと思考がとまると、考えごとと考えごとの行間を埋めるみたいに伊藤君のことを否応なく思いだしてしまう。可奈や、ほかの女の子たちはわたしよりずっと幼い頃からこんな思いを経験していたのだろうか。そう思うと尊敬すらしてしまう。そんな気配をみじんも感じさせずに淡々と暮らし、学校に来ている彼女たちはわたしよりずっとおとなだ。

 蘭のことを思った。彼女はわたしのせいで市村君に対して失恋してしまったも同然だった。あの日以来いちどもそのことについて蒸し返したり蒸し返されることもないけれど、あのとき彼女は多少なりとも傷ついていたに違いない。自分のことばかり気にして、ちっとも思いやれなかった。そんなふうに想像力がないから、蘭とも疎遠になってしまったのだろうか。

 想像力。

 引き金を引いてしまったみたいに、抑制していた伊藤君の言葉がなめらかに脳内で再生される。想像力が足りないんじゃないかな。要するに。舞子ちゃんは。伊藤君のことを思いだすことじたいはあまやかで気持ちが落ち着くのに、そのあとにやってくるとめどない苦々しさとむなしさ。心臓を太く錆びついた針でぐいぐいと刺し貫かれて傷口に挿し入れされているかのようだ。これが失恋か。蘭も、市村君に対してそんなふうに心を痛めたのだろうか。

 彼女の席は無人だった。最近、ときどき授業にいないことがあった。気づいたのは一昨日の数学の授業だ。もしかしたら気づかなかっただけで、そのまえから授業にいないことはあったのかもしれない。

 あらためて謝りたかった。そして、自分も失恋したのだと、打ち明けたかった。可奈にも誰にも、伊藤君の存在を話したことはなかった。大学二年生の男の人と定期的に会う仲なのだと、浮かれて口走りそうになったことはなんどもあったけれど、結局自分のなかだけに秘めて押しとどめていた。その方が恋として、価値が上がるような気がした。そんな乙女めいた迷信のような自分の考えに、いまとなっては笑うほかない。

 伊藤君とはあれ以来、連絡を取っていない。いちどだけ、あまりに思い詰めて、これ以上自分だけで考えていたら頭が破裂しそうになり、時間をかけて打った長いメッセージを飛び降りるような気持ちで送ったけれど、既読がついただけで、何も音沙汰なかった。

今度こそ、しにたい、と声に出して思った。思わずトーク履歴を発作的に削除してしまったけれど、いまになって公開している。これでは自分から、もう連絡しないでとそっぽを向いてしまったのと同じだ。彼から連絡が来る可能性を自分の手で断ち切ってしまった。もともとそんな可能性など無に等しく、その方がわたしにとっていいのだと言い聞かせて見ても、どうしようもなくつらかった。いまはラインをひらくのも心がずんと重力でもかかったみたいに地にひっぱられ、しんどかった。いっそアンインストールする潔さがあったらどれだけいいだろう。失恋したところでわたしの暮らしは止まらないし、日々は過ぎる。わたしはあの日の夕方に魂が抜かれて、カフェで立ち尽くしているままなのに。

いったい――いったい全体、世間の人たちはどうやって乗り越えて生きているのだろう。素知らぬ顔をして平坦に生きているようにしか見えない。つまらない授業をぼそぼそと繰り返している先生や、楽しそうに騒いでいるクラスメイトたちも、そう考えると違って見える。自分はいままでなんて平和な世界でぬくぬくと暮らしていたのだろう。失恋をしていなかった頃の自分のことを思うと、遠い前世のように視界が白く眩む。伊藤君と知り合う前のわたしはいったいどんなふうに生活して、何を考えて生きていたのか、もう思いだすことができない。

 忘れなければいけないのだろうけれど、とうてい自分には無理だと思った。明日も一週間後も一か月後も、もしかすれば一年後も、ずっと彼の記憶に恋焦がれ、縛られつづけるだろう。充分ありえるのだ。自分が伊藤君のことを忘れてすこやかに、心を鈍くして生きている日々など想像もできない。ふっきれた、あんな男の人に執着してたのがばかみたい、とあっけらかんと笑う日なんて一生くるはずがない。来たとしてもそんなのは自分を守るための嘘だ。

初めての恋で、初めての失恋だった。むしろ、あの日を境に伊藤君のことが心のなかに、まるで刺青のように克明に刻まれている気さえする。なんどもなんども反芻して、自分の都合の良いように台詞をつくりかえて、頭のなかで再現してしまう。麻薬みたいにあまく心がしびれ、さえざえと冷えていた胸の底が、湯をかけた氷のようにやさしくほとびていく。我に返った瞬間の空虚さと自己嫌悪に目をつぶりさえすれば、何時間でも繰り返していたい。見たい夢を選んで見ている自覚はあるけれど、そんな自覚は何の歯止めにもならない。

 ――ほんとは音大受験、降りたいんでしょ。

 そうなんだろうか。伊藤君がそう言い放った瞬間、沸き上がってきたのは「そんなこと言わないでほしい」という怒りとも懇願ともつかない強い反発の感情だった。そんなふうに自信満々に指摘されたら、そうかもしれない、と簡単に傾いてしまう。もうわかっている。あのとき感じた反発心は自分という人間の浅はかさに図星をさされたことへの羞恥心でしかない。ああそうだ、まるっきり伊藤君の言うとおりなのだ。わたしは自分の意見などない。わたしはわたしが選ぶことに、考えに、わたし自身に、自信がないのだ。いまでは自宅でピアノを練習していても、こんなことをしている場合なんだろうか、大学について調べた方がいいんじゃないか、それよりもいまからでも進路を変更できるように勉強した方がいいんじゃないかとか、雑念があぶくのようにいくつも湧いてきて、とても集中できない。こんないいかげんな気持ちでいままでピアノに向き合っていたのか、と気づかされて、顔が不恰好にゆがんだ。子供の頃から一所懸命、好きなものに取り組んできたつもりだったのに、知り合ってまもない男の人に、ついと人差し指でやじろべえを揺らすみたいに自分の考えのあまさを、軸のなさを指摘されて、たやすくすべてが揺らいでしまう。

いったいこんな自分の何を信じて進めばいいんだろう。一か月もすればわたしは高校三年になる。進路を変えるなら、文理だって考え直さなければならない。考え直したところで、はたして変更なんてきくんだろうか。だったらこのまま音大のピアノ科に進んだ方がましだ。いや、「まし」なんて思ってしまう時点で、自分は音大に行くことをもはやかろんじている証拠でしかない。必死にしがみついて、振り落とされまいと歯を食いしばってつづけてきたものはいったいなんだったんだろうか。ほんとうに自分がピアノを好きなのか、このさきもつづけていきたいのかどうかすら、いまは即答することができない。

 誰かに話を聞いてほしい。こわばった背中をさするように、髪を梳いて眠りにつかせるように、やさしく言い聞かせてほしい。わかるわかる、そうだよね、でも舞子はこうするのが一番いいんだよ、正しいんだよ、と道しるべとなって導いてほしい。

 市村君からは相変わらずメールがぽつぽつと届いていたけれど、いまは目を通す気力もなかった。替えがきかないものを自分は失ったのだと思った。幼さが透けて見える同級生を見ていると、ますます伊藤君が自分の目の前に現れるなかで一番素晴らしい男の人であったように思えた。日に灼けた肌、狭い額、くいと突き出た喉仏、くしゃりとやわらかい弧を描く笑くぼ。そのくせ、笑うとどこか翳りが入り混じってさびしげに見える、わずかな隙。あのときどう行動していたら。何を口にしていたら。自分がどこで違う選択肢をとっていれば、伊藤君をつなぎとめることができていたのか、毎日毎日考えてしまう。

 失恋して余計その人を好きになってしまうだなんて、自分はなんて非効率的ないきものなんだろう。けれどそれこそ、自分がほんものの恋と出会ってしまったことの証拠のような気がして、おろかだなあ、と思いつつもいつもすこしだけ、胸が熱くなってしまう。背中から突き落とされるような恋に、ふたたび容易には這い上がれないほどすっぽりと嵌まり込んでしまっているということに、自嘲とともに誇らしさすら感じている。



さきに気づいたのは、わたしの方だった。

 聞き覚えのある声がする、とはなんとなく思っていた。保健室に併設されているちいさな教室で補習プリントを解いていた。

わたしはもはや半保健室登校生として担任にも養護の先生にも認識されている。もしかすると、クラスメイトもうすうす勘づいているのかもしれない。怖くて里穂にも訊けない。

里穂にだけは、教室にいることがしんどいことと、二年が終わるまで保健室で過ごしながら学校に通うだろうことを打ち明けていたけれど、気を遣ってかあまり突っ込んだことは聞いてこず、「お昼は教室来てよね」というだけだった。めいちゃんは最近、端野君と一緒に学食に行くことが多い。わたしたちの高校のカップルはたいていそうしている。それを始めたということは、クラスどころか学年を問わずいろんな人たちに自分たちが付き合っていることを知られてもいい、と思っている証拠で、仲がいいことの証明でもある。

めいちゃんは最初にわたしたちにことわってから端野君についていって学食に行っていたけれど、「ごめんね、向こうが一緒にごはん食べたがってて、休日はまあ勉強もあるしあの人は部活もあるから、お昼が貴重な時間なんだよね」と言うめいちゃんは、申し訳なさげに手を拝んでいても、どこか優越感と自慢げな気持ちがにじんでいた。そう思ってしまうのは単にひがんでいるだけなのだとはわかっているけれど、あとで里穂と「そんなんうちらだって休日会わないのにね」「カップルはみんな学食行くから、自分たちもはやりに乗りたいんじゃね」とぐちってしまった。

 ふたりだけで輪をつくる子たちは教室のなかでは少数派だ。いるにはいるけれど、大きなグループに「一緒どう?」と呼ばれて机をくっつけていることの方が多い。わたしたちに声をかけてくる子たちはいない。大きな笑い声をたてている片平さんのグループの方をあまり視界に入れないようにして、ちまちまと里穂と食べた。ふたりなら机をくっつける必要もない。一つの机におさまってしまう。そのことが何か、自分たちを覆う大きな比喩に見えて恐ろしかった。わたしたちの居場所は、この程度におさめなければならないのかもしれない、なんて卑屈なことを思いついてしまい、味気なくなったお弁当を半分ほど残すことが増えた。

 保健室登校者であることは授業を担当する先生たちにも伝えられているらしく、授業を休むと担任の先生から「英語の平野先生から、今週中までに出しておけって」などと補習の課題を受け取るようになった。そして、わたしは授業に出ても指されることが減った。巧妙に避けられているのを感じる。大概その日の日付の出席番号の子から始まるけれど、わたしを通らないように横にずらしたり縦にあてたりしてそれていく。ほかの人が気づくのも時間の問題だろう。

「すみません、ベッドいっぱいみたいなんですけど」

 声がした。舞子の声に聞こえて、思わず背すじがすっと伸びた。「え、ほんと」と先生の焦った声がする。冬だから人気なのかねえ、とのんきそうな声がつづく。

 足音がこちらに近づいてくる気配がした。開く、と思っていたらドアが細く開けられた。先生のちいさな白い顔が覗いていた。

「遠嶋さん。悪いんだけど、ひとりここに通すわね。ベッドの空きがないの」

 そう言って、「しょうがないからこの部屋で休んでて。毛布貸すから」と振り向いて手招きするのが見えた。おどおどと入ってきたのは、やはり舞子だった。なかにわたしがいるのを見て、目をぱっちりと見ひらく。

「蘭」

 わたしはとっさに声が出ず、軽く会釈してみせた。

 あら、お友だちだった? と先生が驚いたふうを装う。きっとわたしたちがクラスメイトであることをわかっていたはずなのに、気を遣えば保健室登校児のわたしが傷つくだろうと思ってあえて何も言わなかったのだろう。クラスの人間関係に疲れて、と最初に保健室登校の理由について問われたとき、先生にはそう説明していた。

「じゃあ、何かあったら言ってね」

 戸が閉まる。舞子が戸口で立ち尽くしたままなので、「ソファーで休んだらいいよ」とシャープペンで指さした。こくりとうなずいて、ゆっくりと近づき、腰を下ろす。わたしの部屋じゃないんだからそんなに緊張しなくていいのに、と冗談まじりに言おうとして、口をつぐむ。ほとんど毎日この部屋を利用しているのだから、ちっとも笑えないジョークだ。

「前にいちど、ここで寝たことがある。秋だったかな。そのときもベッドが埋まってたんだよね」

 先生からもらった毛布を膝にかけながらうっすらと笑う。そうなんだ、とうなずいた。

「何してたの。それ、数学?」

「授業出てないから、そのぶん補填するプリント。単位のためにやってる」

 気をほぐそうとわざとはすっぱに言ったけれど、舞子は慎重にうなずいて、笑わなかった。話題を変える。

「具合、悪いの?」

 保健室に来ているのだから体調が悪いに決まっているし、無理に話しかけない方がいいというのはわかっていたけれど、つい聞いてしまった。「うーん。生理痛。我慢できないほどじゃないけど、休みたくて」と舞子が静かにとこたえる。陶器のようになめらかな肌は、にきびなどひとつもなく、透けそうにほの白い。

「そっか。寝る?」

「ううん、だいじょうぶ。こっちこそ、勉強の邪魔してごめん」

 何と言えばいいかわからず曖昧に笑う。かつてはあんなに近かったのに、お互いどこまで踏み込んでいいかわからないのが白々しいほど手に取るようにわかる、おずおずとした探り合いがじれったい。舞子はぼんやりとわたしの手元を見ていた。

「そういえば、髪、すこし伸びたね」

 黙ったままでいるのが気詰まりで、そう口にした。そう、かな、と舞子がいくらか動揺したようにたどたどしく呟いた。伸びたといっても切ってから二か月ほど経っただけだから、本人としては不自然なコメントに聞こえたのかもしれない。ごまかそうと視線をうろうろさせていると、「はやく伸びてほしい」とはっきりと舞子が言い放った。苦々しい表情でもあった。

「切ったこと後悔してるの?」

「うん」

 きっぱりとうなずいて、それ以上は何も言わない。もしかして、もっとふれてほしいのかな、と思って「何で?」とたずねると、舞子はきっと顔を上げた。

「思いだしちゃうから」

 含みのある言い方がつづく。いままで舞子はこんなもったいぶったしゃべり方をするタイプじゃなかった気がする。明らかに「何を?」とわたしに訊いてほしそうな、すこし鼻につく切りだし方だった。相手が里穂なら、ちょっとむっとして「ふうん」と興味をないふりをして流してやるけれど、いろいろな意味を込めて「なんで?」ともういちどたずねてしまった。舞子は長いまつげをふせて、ほのかに笑った。

「好きな人に、髪、短い方が似合うよって言われたから切ったんだけど、もう、ふられちゃったから」

「ええっ」

 思わず大きな声を上げてしまう。すかさず、「寝ている人もいるから静かに」と先生の尖った声が壁越しにぴしゃりと響く。思わず手で口をふさいだ。舞子に目でたずねると、ちいさくうなずく。

「失恋したんだ。生理痛ってのも嘘。今月まだ来てないんだ。たぶんストレスだと思う。いま日本史だったんだけど、つい思いだしちゃって、涙が止まらなくなったから、」

 言い終わらないうちに舞子の大きな目からぽろぽろと涙が零れた。ぎょっとしてかたまってしまう。友だちが目の前で号泣するのを見るのは、高校に上がってからは初めてだった。いつもおっとりしている冷静な舞子が自分の前で取り乱していることが信じられず、ただただ茫然とした。そして、舞子がこれほど動揺するほどの失恋をしたという事実にも、驚いていた。

「同じクラスの人?」

「ううん。高校の人じゃない。大学生。大学訪問で知りあって」

 経済学部の二年生で、三か月ほど定期的にふたりで会う仲だったらしい。舞子から静かに語られる話に、すくなからず打ちのめされた。大学生との恋愛だなんて、自分の人生には起こりえっこないファンタジーでしかない。やはり、舞子は自分とは違う世界の人間なのだ。「やっぱり」という奇妙な納得と、まるでドラマの脚本のような恋の話への衝撃がぐるぐると渦巻く。

 わたしが押し黙っているあいだ、舞子は堰を切ったように話しだした。ナンパ同然で声をかけられ、軽率な雰囲気に悪い第一印象しか持たなかったこと。けれど、初めてのデートでは彼は案外おとなで、巧みな話術とひとなつっこい笑みに惹かれたこと。レッスンのあと車で迎えにきてくれて、そのままごはんを食べに行ったこと。どちらかが眠るまで電話をしたこと。しかし、あるときからふたりで会うことを遠回しに断られたり、なかなか約束を取りつけてもらえなかったこと。ピアノの先生に音大以外の進路をもういちど考え直してみろ、と言われ自分の進路に自信がなくなったこと。けれど、進路相談を名目に彼と会ってもらったものの、「他人の気持ちをもっと想像しろ」と怒られ、そのまま別れていまも連絡を取っていないこと。あれよあれよと話は進み、「でも、忘れられなくて」と舞子は目を赤くして洟を啜った。

「ふられたんだってことくらい、わかってるんだけど。認めてるのに、でも、また会えないのかなとか、声聞きたいなとか、思っちゃうんだよね。ばかみたいなんだけど、わたし、いままで人を好きになったこと、なかったから。だから余計、しんどくて」

 そっか、とうなずいた。「つらかったね」とそばにいき、しゃがんで肩をさすると、舞子は眉間にきゅうと皺を寄せて顔を手で覆った。

「いまもぜんっぜん好きだし、忘れられそうにない。ちゃんと進路のこと考えたり勉強したりコンクールの曲やらなきゃいけないのに」

「うん」

「わたしの何がだめだったんだろう。未成年で高校生だからなのかな。あと二歳早く生まれてたら、違ったのかな。ああもうあんなにうまくいってたのに、なんでこんなことになっちゃうんだろ」

 話がどうどうめぐりになる気配がした。「進路、迷ってるままなの?」とためらいながらたずねると、なんでそんなことをいま訊くのか、と心外そうな顔で、「それどころじゃない」となげやりに呟いた。「進路のこと考えると、ふられた日のこと思いだして、すぐ泣いちゃうから」

 そっか、とうなずく。さっきから同じ相槌しか打ってないな、と気づき、気まずく思ったけれど、舞子はそんなこと気にも留めていなそうだった。というよりも、わたしが相槌を打って話を聞いていることじたい、どうでもいいようだった。

「みんなどうしてるんだろう。こんな、付き合ったともいえないのに、でもこんなにつらいんだから、別れたりしたらしぬほどしんどいんだろうな。わたし、全然知らなかった」

 ふと、わたしを見やり、「蘭にも謝りたかったんだ」とちいさく言った。意外な言葉に「え?」と訊き返す。

「市村君のこと。あのときわたしのせいで失恋したんだよね。もっと気遣ってやさしくするんだったっていまさら思って……」

 市村君の名前がはなびらのようなくちびるから飛びだしたとたん、心臓が大きくせりだして、どん、と波打った。

「ごめんね」

 目を見て謝られ、思わず視線を床に流した。よりにもよって舞子に蒸し返される方がよほど傷つくのに、と内心困惑していたけれど、あまりにまっすぐに言われると、怒ることもできない。わたしは敗者で舞子が勝者、という構図がもういちどあらわになって、もういちど失恋と屈辱を味わうはめになることになるのだと、気づいていないのだろうか。

「べつにいいよ」

 そう言うと、舞子がこわばらせていた頬をゆるめるのが気配で伝わった。謝ってすっきりしたのかもしれないけど、こっちの身にもなってほしい。ああそうだ、この子はこういう子なんだ――。懐かしさと苦々しさを同時に噛みしめて思いだす。自分のことしか見えていない。純粋で、無邪気で、それ以上に子供なのだ。他人の気持ちやプライドにまで思いをはせていない。「想像力がない」と指摘した伊藤とやらいう大学生の言う通りではないか。

「市村君、まだメールくれるんだよね。それがまた、幼稚さが見えるというか、ああ伊藤君とは全然違うな、って比べちゃって、あらためて彼はおとなだったんだなあ、って思いだしちゃうんだよね」

 ほんとうに幼稚なのはあなた自身でしょう――あきれて横を見やってしまう。相変わらず精巧な彫刻のように整った横顔だったけれど、頬をほんのりばら色に染めて、どこかうっとりと窓の外に目を向ける様子は幼い少女そのものに見えて、いじわるく目をほそめてしまった。



 失恋をいちから話し終えると、妙に胸の通りがよくなってすっきりとした。詳細を思いだす過程は、やはり、それが楽しかった思い出であればあるほどこの手で失ったものの大きさを再度突きつけられ、つらかったけれど、こうして話してみると、あらためて伊藤君との出会いは、まるで小説のようなできごとだったのだとあらためて思った。そして、素敵な男の人だったなあ、と初めからなぞって、再度確認することとなってしまった。

「四限、体育か。蘭って何選択してるの?」

「……卓球。でも、前回休んじゃったから行きづらいな。卓球のメンバーでトーナメント始めたらしいだよね。途中から割り込んでも仕方ないし」

「え、一昨日だよね? あれ、休んでたんだ」

 蘭は肩をすくめた。「気づかなかった? まあ種目違うもんね。最近は授業の半分くらい出てないよ、わたし」

 ぎょっとして隣の蘭をまじまじと見つめてしまう。それではまるっきり、保健室登校だ。さっき解いていたプリントについてさりげなく単位の補填だと説明していたけれど、それはかなり彼女が深刻な状況に陥っている証拠なんじゃないだろうか――。急に蘭が遠くの存在に思えて、無意識のうちに背すじを伸ばしてしまった。

「そんなにいなかったんだ。気づかなかった。先生、何も言わないし」

「中学じゃあるまいし、高校って結構個人主義だからそんなもんじゃない? お昼は教室で食べてるしね。むしろ、言われてなくてよかったよ、みんなにあれこれ言われてたらますます戻りづらいもん。何も言われてないよね? わたしのこと」

 蘭がすこしだけ不安そうにわたしをうかがう。とっさに嘘をつけず、うつむくようにうなずくと、蘭は「よかったー」と心底ほっとした顔で胸に手を当てた。後ろめたさに下を向いていたわたしは、蘭の曇りのない明るさにぎょっとした。なんで安堵してるんだろう。自分が教室にいないことをクラスメイトたちが気にしていなかったらつらいだろうに。

「……寂しくないの? みんなにその、言われてないの」

 おそるおそるたずねると、蘭は「え?」と笑顔のままぽかんと固まった。

「え? さ、寂しくなんてないよぉ。何か言われてるの想像するだけで恐ろしい」

 あなたとわたしは違うよ、「みんな」の意味が。そう蘭がつづけた。意味が取れず、「どういうこと?」と訊いても、こたえようとしない。

「大学探訪のとき、バス、隣にすわったね」

「あ、うん」また伊藤君のことを思いだして、目の奥がゆるゆるとうるみだす。いちど泣いてしまったせいで、涙腺がすっかりゆるんでしまったようだ。

「わたし、舞子と仲良くなりたかったんだよ。一年のときから、ずっと」

 部屋は暖房で充分温かいのに、心なしか、蘭の声がふるえている。うれしいけれど、なんでいまそんなことを言いだすんだろう、と思っていたら、つづいた言葉にびっくりした。

「でも、舞子、わたしにあんまり興味、なさそう」

 えっ、と驚きと非難の声が出る。反射的に「そんなことないよ!」と言い返した。

蘭はゆらりと煙のようにうすく微笑む。けれど、自分が言ったことを取り消さない。

「数学の問題解いてもらったこととか、一緒に楽譜探したこととか、バス席に誘ったこととか、結構わたし、うれしかった。舞子みたいな子に近づけて、仲良くなれたみたいで、何回も思いだしてた」

「あったね、そんなこと。懐かしいね」

 自分では忘れかけていた様々なできことを並べられ、ほほえましい気持ちになったのに、わたしの相槌に、蘭の目に翳りが走った。それを隠すように、目をふせる。

「懐かしいんだ。そっか、やっぱりわたしの片思いだったんだね」

「……え?」

 どうして蘭が悲しそうなのかわからず、困って顔を覗きこんでしまう。わたしの視線を振り切るように、蘭はぐいと笑顔で顔を上げた。いかにも、頬を持ち上げてつくったような笑みだった。

「舞子は悪くないよ。わたしが……自分のこと美化しすぎて、自意識過剰だっただけ。わたしなんかが舞子とすこしのあいだだけでも友だちでいれただけ、ラッキーだったんだと思う」

 わたしなんか、という響きの、地面に縮こまるような卑屈さに、まるで自分が恥をかかされたみたいにかっと耳が熱くなった。

「どういう意味? もうわたしとは仲良くできないってこと?」

「そんなことない、けど……わたしの意思よりも舞子の意思次第、ってことかな。来年ももし同じクラスになれたらいいね」

 話が噛みあっていない。わたしの言葉などどうでもよく、本心をこたえる気などないのかもしれない。はなから自分の心の奥にある部分をわたしに差し出す気なんてないみたいに、耳触りのいい言葉だけを選んで口にしている感じがする。

ああそうだ、伊藤君のときもそうだった。わたしを目の前にしていながら、わたしと対峙してくれていなかった。深い核心部分にふれようとしても、うすい笑みを浮かべてのらりくらりとかわされてしまう、底が見えない手ごたえのなさ。あのときに抱いた疎外感と漠然とした不安がよみがえり、胸の高い位置がきゅっと紐でしばられたみたいに狭まる。

「蘭。こわい」

「怖い?」蘭は心からおかしい、というふうに苦笑いして、幼子をあやす母親のようにやさしく顔を傾げた。「なんで? 怖くないよ。わたしは舞子のことが好きだし、できればこれからも仲良くしてもらえたらいいなって思ってる。でも、それってすごく難しいことなんだよ」

「……どうして? わたしたちあんなに仲良くしてたのに。いまだって、こうしてしゃべってるのも難しいことなの? 全然簡単なことだよ」

 泣きそうな思いですがりつくように呟く。ふ、と蘭が息を吐いた。同意やしたしみではなく、突き放すような気配を感じて、心がこわばる。

「そうだね。でもそれってここが保健室だからだよ。ほかの人がいない。現に教室だと全然しゃべんなかったじゃん」

 言い返すことができない。

蘭の目をこわごわと見つめ返す。まつげの上にふんわりと乗ったまぶたの脂肪は、指でふれたら溶けてしまいそうに白くやわい。

「わたしが教室に行けてないの、そういう意味だから。教室だと舞子と話さないこととか、里穂しかお弁当一緒に食べる相手いないこととか、そういうことなの。それがつらいの。舞子には意味不明だろうしわれながらどうかしてるとも思うけど、仕方ないの」

 蘭がわたしから視線をはずし、時計を見やった。つられてわたしも見上げる。あと五分でチャイムが鳴るところだった。

「次体育だからもう行こうか。次は出るから」

 そう言って立ち上がり、簡単に荷物を片付ける。プリントをしまい、それを入れたファイルをそのまま持っていくのだと思ったら、壁際の本棚にあるブックスタンドに立てかけた。「なんで? 持っていかないの?」と思ったままにたずねると、「七限の総合、学級会じゃん。出たくないから」と淡々とこたえが返ってきた。まだ休むのか――。驚いたけれど、余計なことを言うとますます蘭に心を閉ざされてしまいそうで、黙り込む。こちらの沈黙など気にも留めていないのか、てきぱきとペンケースにシャーペンをしまい、「行こ」とわたしを振り向いた。

 一緒に廊下に出て、教室まで並んで歩いて帰った。こんなに近くにいるのに、頭半分ほど下にある彼女の頭のてっぺんが、とても遠くにあるように見えて悲しかった。何より、蘭はわたしが自分の話を半分も理解できていないと思っているであろうことがみじめで寂しかった。

 そのとおりだったからだ。



 三月の空は水みたいに薄い。もう春が近いのだと、風にまじる濡れた土の匂いを嗅いで気づいた。

 わたしは三年に上がる。十八歳になる年になるのだ。まだまださきとは言え、十七歳という響きとの違いにびっくりする。どっしりと両足を地にかまえるように安定感のある響き。秋に誕生日を迎えたときは、早く十七歳なんて終えてしまいたい、とあんなに気恥ずかしく思っていたのに、いざ、その年齢が過ぎ去ることをリアルに感じられると、途端に惜しく思っている。そんな自分に苦笑いした。

 先週終わった期末試験は、五日間ずっと保健室で受けた。すっかり保健室のぬくさに慣れてしまった。誰の視線も含み笑いも気にしなくて済む空間というのがこれほど楽に呼吸ができるところだと知ってしまったいま、三年に上がったらすっぱり保健室登校をやめ、教室に復帰する気でいたけれど、それもクラス替えの結果しだいだ。どうなっているかはわからない。

 意外だったのは、里穂は保健室を頼ることはいちどもなかったことだった。気が強そうに見えて、わたしよりも小心者で臆病なたちだ。自意識も強い。わたしが教室からいなくなれば、ひとりでいることに耐えられず、風を受けたたんぽぽのわたげみたいに保健室に流れてくるだろう、とたかをくくり、どこか疎ましく思いながら予想していた。けれど、里穂が保健室を訪れることはついぞなかった。わたしがいない間、教室でどんなふうに過ごしているかわからないけれど、あんなにわたしに依存しているようにみえたのに平気なんだ、とどこか拍子抜けして、物足りなく思う自分がいた。心が弱いのは結局わたしだけだったのだ、と思い知らされたから。

 風邪のシーズンが過ぎたからなのか、あれ以来見知った人と保健室でかちあうことはない。淡々と、アンネ・フランクの隠し部屋のようなちいさな教室で、学年に上がるための課題を黙々とこなす。

 保健室登校について初めて母の耳に入った日のことは、あまり思いだしたくない。

 電話で担任に知らされ、その夜「ちょっと来なさい」と居間にわたしを座らせた。親に連絡がいっていることなどつゆほども想像していなかったわたしは、母が妙に落ち着きがなく、せかせかしていることに気づくこともなく、「勉強したいんだけど」と悪態をついた。途端、母がまずひとつめの風船をぱんと爆発させた。

「教室にもろくに行ってないくせに、何が勉強よ! この嘘つき! だったら授業くらい出なさいよ! 座って聞くだけでしょうが!」

 ばれている――いったいどうして。目の前が真っ白になった。どうして。なぜ、そのことを母が知っているのだろう。母の剣幕にふるえあがるのも忘れ、わたしは茫然とした。そんな反応をしり目に、「いま先生から電話かかってきて、全部教えてくれたわよ」と母が吐き捨てるように言った。じわじわと耳のふちから羞恥で赤くなっていくのを感じる。

「ねえ、教室に行ってない、ってどういうこと? 怖くて全然先生に聞けなかったわよ。いじめがあるわけでもないんでしょう? お母さんにもちゃんとわかるように、ちゃんと説明しなさい」

 母の、縦皺がめだつくちびるが怒りでわなわなと激しくふるえている。自分の口元も緊張でおかしな具合にひきつっているのを感じながら、わたしは目をそらした。説明など、できるはずがない。自分自身でさえ、自分の中身をよく把握できずに振り回され、毎日困惑しているのだから。

「明確な理由がないのなら、明日からちゃんと教室に行きなさい。わかった?」

 よっぽどうなずいてしまおうかと思った。けれど、嘘をついたことがばれれば、想像もしたくないほど面倒な事態になることはあきらかだ。

勇気を振り絞って、「できない」と言った。母の目がみるみる大きくふくれあがる。血走った白目が、蛙の腹を思わせた。金切り声が口からほとばしって浴びせられ、予想していたとはいえ思わず身をすくませた。

「どうしてよ! お母さんにこれ以上恥かかせないで」

「……ごめん」

「謝ってもだめ。教室に行きなさい。里補ちゃんとか瀬尾さんとか、仲良い子いるんでしょ? 何が不満なの? 厭な子がいるんだったら言いなさい、先生に言ってあげるから」

「そんなんじゃない」

 見当違いなことを言う母に心の底からうんざりして、つい声が大きくなる。母は頬をこわばらせ、腹の中身を出しきるような長い溜息をついた。

「じゃあなんなの。いままで行けてて、そんな、いきなり、納得できるわけないでしょう」

「保健室でちゃんともらったプリント解いて提出してるから単位は取れてる」

「そういうことを言ってるんじゃないわ。そんなもので帳尻合わせした気になってんじゃないわよ。あなた来年から三年生なのに、授業に出てなくて良いわけないでしょう、ねえ、お願いだから普通にしててよ。それにいまのクラスなんてあと二ヶ月もないじゃない」

 だったらいいじゃん、たった二ヶ月くらい、教室に行かなくても――。口から飛びだしそうになったのを、思うだけにとどめた。いまは担任から思いも寄らないことを報告され、頭に血が上っているだけだ。いじらしく落ち込んでいるふりをして、母の神経をこれ以上逆撫でしないように徹するのがベターだろう。そう判断し、母が金切り声で怒鳴ったりわめいたり、猫なで声を出して自分をどうにか丸め込もうとするのに耐えつづけた。どれだけ「教室に戻れ」と言われても、しおらしい表情をくずさないままうなずかなかった。「ごめんなさい」の一点張りで、けっして首を縦には振らなかった。

 わかってもらう気などなかったし、わかってもらえるともはなから思っていなかった。わたしにことわりもないまま電話をかけてきた担任のことはすこしうらみがましかったけれど、それも自分の責任だ。うるさいな! と大きな声で怒鳴って、自分の部屋に戻ってしまいたい衝動に耐えてうつむいていた。根負けしたのは母の方で、「もういい」と部屋に上がるように手をだらりと振った。

 そのあとで担任に母から電話があったのだろう、翌日の放課後に職員室に呼びだされた。

「お母さんから連絡があったよ。悪かった。俺の伝え方にも問題があったと思う」

 そう言ってわたしに頭を下げた。言わないでほしかったです、と言いたかったけれど、そこまでものわかりの悪い子供じゃなかった。黙ってうなずくだけに留める。

「大学進学に影響が出ないかすごく心配してらしたから、それだけは大丈夫ですってちゃんと言っておいたよ。まあ、まだ不安がってらしたけど、昨日ほどじゃないと思う」

「……ありがとうございます」

「まあ、遠嶋にしたら、親に連絡すること自体余計なお世話だって感じだろうけど、言わないわけにはいかなかったから、ゆるしてくれ。ま、気が向いたら教室に来いよ。お母さんもおまえのことが心配なだけなんだよ」

 それだけ言われて解放された。父とあまり年齢が変わらない、さばけた体育教員である担任とはあまりしたしくもないし、打ち解けようという気もないけれど、クラスで唯一の問題児となったいま、ほとんど踏みこんでこず、見守るというスタンスでいてくれるのはありがたかった。母もこうだったらどれだけ楽だろうと思う。父が不在だから、余計気を張っているのだとはわかっていても、それだからといって教室に戻れるほど簡単なことではない。世界一おそろしいことは母に目一杯怒られて食事の用意をしてもらえないことだった小学生の頃とはもう違うのだ。そんなのは時間が過ぎるのを待ってやりすごし、自分でコンビニに行って菓子パンでも買ってこれば済む。教室という自分と同い年の人間が四十人もぎゅうぎゅうに詰められた閉鎖的な空間に身を置いて生活することの残酷さなど、母は想像もしていないだろう。かつて自分もそのなかで心を擦り減らしたことはあるはずなのに、どうしてすっぽりと忘れて「大学受験に響いたらどうするのか」などと的外れなことを平気で口にできるのだろう。

 結局期末試験はすべて保健室で受け、母はもう何も言ってこない。あきらめたのかもしれないし、わたしと口論して消耗するのに疲れたのかもしれない。それか、藪をつついて蛇を出すのが怖いのだろう。母に対してそこまで透けて見えてしまうことが悲しかった。自分がおとなになったのか、母が老いたのかはわからない。両方かもしれない。

 その代わりに休日も予備校に通うことを強いられた。別にそれは苦じゃなかった。どちらにしろ、期末対策と受験勉強をかねてこもるつもりだったから。それに、さいわいなことに、クラスメイトは誰も通っていなかったから、余計な神経を擦り減らさずに済んだ。

 わたしだって何も考えていないわけではない。いま勉強からも背を向ければ人生が後戻りがきかないほどころげ落ちていくことくらい自覚していた。むしろ、みんなに追いつかなければ、という焦りが勉強への意欲を前よりも駆り立てているくらいだ。そんなことを母に言ったところで、「居直るな」と口論のもとになってしまうのは明らかだから、言わないけれど。

 わたしのしていることは母の言うとおり、「逃げ」なんだろう。

 でも、逃げたさきでもわたしの人生は進めなければならない。わたしがきちんと自分のさきについて見つめていることを想像さえしていない母や、冷笑をふくんだ好奇心がぎたぎたに詰まった視線を投げかけてくるクラスメイトに、いまはあれこれ言われたくなかった。

 彼らは結局、わたしの人生を代わりに動かしてくれるわけではないのだ。だったらせめて、自分がらくに呼吸ができるところに居場所をつくることくらい、ゆるしてほしかった。

わたしを下の名前で呼ぼうとしない女の子たちや、名前すらろくに覚えようとしない男の子たちとの関係をひっくり返してくれるわけでもない。わたしのみじめったらしい生活に革命を起こしてくれるわけではないのだから。



「うっわここの大学のカフェテリア超きれー。ホテルみたい」

 可奈が広げていた雑誌を脇から覗きこんでくる。高い位置でツインテールに結った髪から、アメリカのシャンプーのような、ナチュラルではない香りがした。

「でもここ私立だからなあ。お金かかってるんだろうね」

「私立の方が就職のとき有利らしいけどね? ほらOBOGが多いからコネとかあるんだって。パパが言ってた」

 可奈が何げなく言った言葉にすくなからず衝撃を受けつつ、次のページをめくる。「オープンキャンパスに言ってみよう!」と題打たれている企画は、ページがたくさん割かれているわりには私立大学に偏りがある。国立大学は見栄えが悪いのだろうか。秋に大学訪問で行った伊藤君の通う公立大は、建物はきれいだったけれど、地味といえば地味だった。

 日々はゆるやかに過ぎた。一生自分は打ちひしがれた気持ちのまま生きていくのだろうと思い込んでいた時期もあったけれど、一時よりは痣は薄くなっている。ふとしたときに泣かなくなった。伊藤君の名字を見かけても、すいと視線を逃して冷静なままでいられるようになった。ずっと不幸でいるのもそれはそれで体力がいるんだな、と気づいて、寂しいようなほっとするような、気持ちは半分半分だった。それでも、ふとんに就いてから眠りに落ちるまでの時間は、伊藤君のことを思いださずにはいられず、自分の首をしめるような想像ばかりしている。

「ってかほんとに音大行くのやめるの? もったいないなー。かっこいくて親が金持ちの男の子いっぱいいそうなのに」

 可奈があっけらかんと言うので、つい笑ってしまう。「音大の男の子はかっこいい、ってそんな偏見聞いたことないよ」と突っ込むと、「まあね」と肩をすくめる。可奈のわかりやすく軽いものさしに、いまはすくわれていた。

 両親に「音大受験をやめたい」とおそるおそる告げると、ふたりは揃って顔を見合わせた。「ごめんなさい」と頭を下げ、じっと自分の膝小僧を見つめた。

「……謝ることではないけど、いまピアノをやめたらもう音大を進路に入れることはできなくなる。それはいいのか」

 父が硬い声で言った。「はい」とこたえると、「じゃあ、気を引き締めて勉学を頑張れ」と厚い手が肩に乗った。母は「ここまできたのにもったいないけど、取り返しがつかないときに音大をやめたい、って言いだすよりかはいいかもね」と苦笑いした。小言も咎めも嘆きも、何一つなかった。

こんなにあっさりと自分のわがままが通るとは思わなかった。ひとりっ子とはいえ、いままで投資してもらった額はけっして少額ではない。母が銀行でパートをしている給与をほとんどそのままピアノのレッスンやコンクールでの遠征に注ぎ込んでもらっていたことは、言われなくとも、察していた。それをすべてふいにする、それがどんなにひどいうらぎりか、わかっているつもりで切りだしたから、両親のあまりのものわかりの良さに拍子抜けした。

「ピアノ、やめるのか。趣味としてつづけたいとも思わないのか」

 父が静かに問うた。一瞬迷ったけれど、「やめる」と言った。母が息を呑んだ。けれど、ふたりとも何も訊かないでくれた。

「塾に行きたければ、言いなさい」とだけ父が言い、わたしは素晴らしい両親を持ったことを、心から感謝した。

 担任にも報告した。意外そうな顔をされたけれど、ここでも深掘りはされなかった。「ほかの受験生より多少ブランクがあるけど、五十嵐なら一年で巻き返せるだろ。早いうちにほんとうの希望進路に気づいてよかったな」とほがらかに励まされ、素直に笑い返すことができた。

 普通の国立大学を目指すことにしたのは、期末試験が終わったあとすぐのことだ。いや、ほんとうは期末試験が始まる位週間前ほどからほとんど決心はついていたのかもしれない。

ひさしぶりに、きちんと地学や社会二科目、実技科目を勉強した。いままで、どうせ自分には必要がないから、と力を入れてこなかったけれど、いざしっかりと向き合うと思いのほか手ごたえを感じた。ひるむかと思ったけれど、むしろやる気が出て毎夜遅くまでがつがつと勉強した。ピアノと違って、夜遅くまで取り組んでいても誰にも怒られないし、やりすぎて指をだめにする、なんて危惧もしなくていい。気が済むまで努力することができるということが楽しかった。いや、むしろやればやるほど、「気が済む」なんて境地は勉学においてないのだと気づかされて、ますます時間を割いた。乾いた砂が水をあたえられてぐんぐん吸水しているようなものかもしれない。

 期末試験期間は、ピアノの練習時間さえ削って机にかじりついた。あっさりとライフワークだと思っていたものをないがしろにしている自分に気づき、寝る直前に愕然としたけれど、そのとき思ったのだった。わたしは、ピアノじゃなくてもいいのかもしれない、と。

 わかってしまうと、なーんだ、と気が抜けた。ピアノほど人生で時間を割いてしがみついてきたものはないのに、実際にはそこまで人生に根を張っているものではなかったのかもしれない。だったらやめよう。――より選択肢の多い方、つまり、勉強しよう。

 最初は、伊藤君の言うとおりになってしまっていることに罪悪感と恥の意識があった。でも、もし、会うことがあればこう言ってやりたい。

「わたし、自信がないわけじゃないよ。思い込んでのめりこんでいただけ」あなたにも、そう。想像のなかではそうつけくわえる。

 もう恋はいいや、と思った。男の人にもたれかかって、自分のことをあれこれ決めたり決めてもらうのは、温かい湯に身をゆだねるみたいに楽だったけれど、自分という人間がずるずると他人にもたれかかるとたちまちだめになってしまうのだとよくわかった。

市村君にもきっぱりと「付き合う気はないので、もう用事がないならメールはしないでおたがい勉強に集中しよう」とメールを送った。「わかった。いままでごめん。」という返信にほんのわずかに胸が痛んだけれど、高校で見かけるかぎり市村君は楽しそうに過ごしている。もう目が合うことはない。惜しいことをしたとは思わなかった。

いままで自分には縁がないと思ってひらいたことのなかった「蛍雪時代」を片っ端から読むのが勉強の息抜きになった。学部は法学部か文学部がいいな、と思っている。社会学部、というのも興味深い。いままで自分はなんて狭い視野で自分の人生を見ていたのだろう、とあらためて自分の無知さにおそろしくなった。もし伊藤君やピアノの先生の意見がなかったら、自分が手放した選択肢の、目が眩むほどの豊かさに気づくこともないまま音大への道をひとりで走っていたに違いない。

「志望大学ってどうやって決めればいいの?」と可奈に訊いたら、「え、わりと適当だけど」と返ってきたのでびっくりした。香や陽菜さえ、「うーん、正直イメージとかネーミングバリューがでかいかも」「そんなしっかり調べてたらきりないもん、日本って大学だらけだし」とあっけらかんと言うので肩透かしを食らった気分だった。「だってセンター試験受けてみなきゃ自分がどこの大学行受けられるかなんてわかんないらしいし? だったらモチベーション上がるところ目指してた方が頑張れんじゃん」とけろりと可奈に言われ、素直に目からうろこが出た。可奈の軽薄さは良くも悪くも人にとっつかれる原因となって本人もときどき気にしているけれど、わたしはこの子と仲直りできてよかったんだ、と思った。最近は四人で学習室に行って同じ時間まで自習することも多い。

 蘭とはあれ以来、口をきいていない。最近はほとんど教室で見かけることはない。保健室の奥の部屋にいるのだろうか。会おうと思えば会えたけれど、結局足を運ぶことはない。わたしは会いたかったけれど、蘭はそうではないかもしれない、となんとなく思う。

 もうすぐ高校二年が終わる。クラス会についてメーリスが回っていたけれど、参加希望者の名簿にはやはり彼女の名前はなかった。


 *


 隣の机に鞄を置くと、ワンテンポ遅れて美知佳が顔を上げた。イヤフォンからしゃらしゃらとアップテンポな音楽がわずかに漏れている。

「おはよー、あれ、蘭髪切った? いいじゃん似合う~」

 さきほど美容院に行ったばかりだった。自分ではかなり思いきったショートボブにしたから、とりあえず変化を言及してもらえてほっとする。

「ありがと。さっきローソンでじゃがりこ買ったよ、食べる?」

 コンビニの袋から明太子味のピンクのじゃがりこを出して、封を開ける。「食べる食べるーありがと」と指が伸びてきた。

「ねえ今日のプリント解けた? もうぜんっぜんわかんなかった、問四と問六。関数いまだにわかってない」

「解いてきたけど合ってるかはわかんないよ。あと三次関数のほうは解法わかんなくて途中で投げちゃった。それでよければ」

 今日の授業の初めにこたえ合わせをする数学のプリントを渡すと、「蘭、マジ神……」とちゃっかり新しいじゃがりこを口にくわえてから受け取った。夏にいちど染めたらしい髪は、上から見下ろすと地毛の色でないことがよくわかる。

「はあーんこうやって解くんだ。頭いーわ」

 美知佳は、難関コースに変更してからできた最初の友だちだった。

 半年近く標準コースで講義を受けていたけれど、成績がある程度伸び、基礎が固まってきたという自負があった。自分の進路相談を担当している講師に「コースを上げたい」と言ってみたところ、「まあ成績伸びてるし、難関でもいいかもね」とあっさりすすめられ、コース変更が受諾された。難関コースの講義を受けるのは二度目だ。初めて予備校の授業を受けて打ちのめされたときのことを思いだしてびくびくしたけれど、きちんと理解して講義内容に追いつくことができてほっとした。標準コースに比べたら確かにレベルが高いけれど、けっして食いつくことができないほどではない。自分の成長が誇らしかった。

難関コースの授業では、講師は答えを解説するまえに生徒を当てて答えさせる。美知佳はしょっちゅうあてられては「わかりませんでした」とちいさな声で答え、皮肉っぽいため息をもらう生徒としてすぐに覚えた。そもそも、コース内の顔ぶれを確認したときから、派手な子が多いことで有名な女子高の制服を着ている、高校のイメージどおりの見た目をした美知佳がいることにはすこしびっくりしていた。とはいえコース内では落ちこぼれのようで、講師からあからさまにプレッシャーをかけられていることがすぐにわかった。予備校では生徒のモチベーションを煽る意味もあって、コース変更が講師の判断で強制される場合もある。だからみんな必死にこれ以上下に落ちないようにかりかり勉強している。基礎コースの子たちも、「昇格」のために頑張っている子が多いようだ。油断はできない。

かかわることもないだろう、と思って美知佳を遠巻きに眺めて講義に参加していたけれど、いちど隣の席についたら「ね、予習してきた? 見せてくれない?」と懐かれるようになって仲良くなった。それ以来、朝の電車で会えば一緒に乗るし、美知佳が自習に来るときはわたしがいるかどうかラインで聞いてくる仲になった。同じ高校の友だちはいるにはいるようだけれど、美知佳以外の子たちはふたつ下の基礎コースにいる。難関コースでは浮いた存在で、美知佳と親しくしゃべっているのはわたしのほかにいなかった。そして、わたしも美知佳以外の友だちはまだいない。同じ高校の子とは挨拶をするくらいの仲ではあるけれど、文理が違うからほとんどしゃべらない。つまり、わたしたちはおたがいにとって都合がいいのだった。はぐれもの同士ではあるのだけれど、べつにそのことで傷つくことはなかった。むしろ、美知佳みたいなタイプの子とも仲良くできるんだ、ということが自分に自信をつけた。

「ねえねえ春休み遊ばない? イオン行こ。ごはん食べてプリ撮ってさあ」

 さらさらとわたしの答えを書き写しながら、美知佳がこちらを見て言った。ちいさな顔には不釣り合いなほど大粒の前歯が二本こぼれている。「えー、受験生なんですけど……」と軽くあしらいつつも、一日くらいならいいかもな、と思った。それに、違う高校の女の子と遊びに行く、という自分には縁遠そうな新鮮な思い出をつくるのにもそそられる。「ってか映画映画! いまなんだっけ、少女マンガの実写化してんじゃん、あれ超見たいんだよね~」と美知佳が楽しげに笑う。「彼氏は誘わないわけ」とすこしどぎまぎしながら訊くと、真顔になり、「え。やだ。こういうのは女子同士がいいの!」とわたしの手を掴む。はいはい、と受け流しながら、頭のなかではいつが都合いいか思考を巡らせていた。

 予備校に美知佳という友だちができてから、格段に予備校に来るのが楽になった。なれ合いは基本的にはすくないものの、中学から同じ、というメンバーもすくなくない。微妙な派閥があるので、コースの新入りということもあり、授業の席を見繕うのもすこし気を遣った。口をきける子がほとんどいないので、できるだけ端を確保しようとしていた。いまは美知佳の隣か前後に座ればいい。決まった席があるというのは、とても居心地がいいのだと思った。だから女子はどんな集団に属してもグループが自然とできあがるのかもしれない。その文化のなかで十年近く苦労してきたけれど、いざ居場所が定まると、いままで疎ましく思ってきた女子特有の性質も悪くはないのかもしれない、とまで思った。

 高校は一昨日終業式があった。ひさしぶりに一日中、といっても午後一時で終わったのだけれど、登校してから下校するまでを教室で過ごした。だからといって周りが気を遣ったり、白々しく話しかけたりしてくるわけでもなく、普通だった。むしろ、いままで仲良くしていた里穂やめいちゃんの方がよそよそしく、わたしにどんな態度を取るべきなのか決めあぐねているようだった。クラス会行く? と訊いたら里穂はきっぱりと首を振り、めいちゃんははにかみつつもうれしそうにうなずいた。わかってはいたけれど、ふたりがわたしに訊き返すことはなかった。

 授業に出ていなかったぶんの単位を埋めるために春休みも補講があるとばかり思っていたけれど、そんなことはなかった。先生たちだってわたしひとりに時間を割けるほど暇じゃないのだろう。普通の子たちと同じように春休みが来て、期末の成績表をもらった。まずまずのできだった。

「まいまいが音大行くとか一時期言ってたじゃん、あれ嘘らしいよ」

 終業式があった日の放課後、誰かがそう話しているのが聞こえた。「嘘っていうか普通の大学受験するのに変えたらしいね? 可奈ちゃんが言ってた」「マジ? 舞子がライバルに増えるのはやだわあ」「どっちにしろまいまいと同じレベルの大学なんて狙えるわけないし」「は。それね」と話がつづいた。もちろん割って入っていくことなどできるわけもなく、話が終わるのを聞き届けてから教室を出た。もう入ることのないクラスとの惜別は、そんなふうだった。

 音大進学、やめたのか――。平静を装って自分の作業をしているふりをしていたものの、内心とても驚いていた。でも、保健室で進路について悩んでいることを聞いてはいたから、そういうこともあるのかもしれないな、と自分のなかで思うだけだった。うつくしいクラスメイトが自分より遥かにピアノの技術と才能があり、音大進学を考えていることを知ったとき、かみなりに打たれたみたいに動揺したのを思いだす。胸のうちの揺れは数日おさまらず、あれほど長い間しがみついていたピアノをやめるまでしたのだ。思いあまってそこまでしたのに、結局舞子もわたしと同じ進路を再選択するのか。

もちろん、そのことでうらみがましく思うわけではないけれど、皮肉を感じてくちびるが勝手に笑った。むしろ、舞子としたしくなって、自分が必死に食らいついているもののちっぽけさを思い知らされて幸運だったのだ。わたしはとくべつでもなんでもなく、ひかりかがやくものなどなにひとつ手にしていない。つまりみんなと同じなんだから勉強を頑張らないといけないのだと、あきらめながら受け入れたことはいまでも苦い記憶だけれど、いつかは目を向けなければならなかったことだった。

そうだ――わたしという人間のちっぽけさを、くだらなさを、しにたくなるほどありふれた人間でしかないということを力一杯知らしめてくれるのはいつだって、わたしがほしいものすべてを手にしている舞子だ。舞子が等身大に映る鏡をわたしに差し向けてくれたのだ。

バス停の待ち時間ですれ違っただけのような、点と点で結ばれる程度の関係しか築くことはできなかったとしても、わたしは来年も彼女が視界に入るたびまぶしく目を細めてしまうだろう。でも、もう自分の盾になってもらうためだけに入り込むようなことはしないだろう。

教室の戸が開かれる。ゆるく吹きつけてきた風に混じって花の匂いが漂ってきて、春のうつくしい気配を感じた。

視線を感じて何気なく目をやると、舞子がわたしを見て、くちびるを半分ほどひらいて立ち尽くしていた。ほんのり上気した頬はばら色で、ああなんてきれいな子だろう、とショーケースのむこうがわのお人形を見やるように思った。


2016年11月執筆

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鏡の国 @_naranuhoka_

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