悲しみの追憶

 08:17。青葉台駅の改札口へサラリーマンと学生たちが駆け込み、朝の慌ただしい人波が過ぎ去ると、メイン通りの歩道に佇むマリアの姿が浮かび上がり、車道の向こうのカフェ「Maybe」を複雑な表情で睨んでいる。


 その瞳には復活祭の前日にウインドーに車が突っ込み、ガラスが破壊されるシーンが追憶された。


『マスター、貴方も死ぬなんて』


 悲劇は午後、轟音と共に津波の如く押し寄せ、テーブルを拭くマリアが顔を上げ、歩道を乗り上げて走る車に気付き、「逃げてー」と叫んで客と悠太を端へ押しやるが、ウインドーに激突してガラスが飛び散り、タマゴとうさぎの飾り付けを踏み潰した車は店内へ猛スピードで侵入した。


 テーブルと椅子は破壊され、客は壁側に座り込み、ガラスの破片が散らばる床を悠太が這って、ボンネットに撥ね飛ばされたマリアに近寄る。


 マリアは車が衝突する瞬間は鮮烈に覚えていたが、悠太が倒れたマリアの心臓マッサージをし、自分の死体を見て驚愕する事は知らない。


『私は幽霊になり、葬儀会場へ導かれた……』


 鈴木悠太が軽快に走って来てカフェのドアを鍵で開け、マリアは現実の時間に戻って通りを横断し、声を掛けられた悠太が振り返る。


「マスター。おはようございます」

「あれ?早くないですか」

「時間は待ってくれませんからね。朝一でマスターのコーヒーを飲みたくて」

「いいですよ。僕もマリアさんとのコーヒータイムが楽しみになってます。でも、何かありました?」


 マリアは髪をアップにし、胸元の赤いリボンタイが明るい印章を与えたが、瞳には悲しみを映す涙が溢れている。


「まさか泣いています?」

「マスターに逢えた、うれし涙ですよ」

「なんか大げさですね」

「祖母が死んだ時の話を聞いて欲しかったの。言い忘れてたので……」


 マリアは瞳から零れた涙を微笑みに変え、悠太はそれを見て急いで店内のカウンターへ入り、棚からコーヒー豆と手挽きミルを出し、サイフォン式コーヒーを淹れる準備をする。


 マリアが働き始めてまだ4日目だが、悠太は数十年の知り合いのような気がして、女神が転がり込んで来たと喜んだ。カフェの仕事にも熱心で、ポジティブな性格と明るい笑顔でマイナス思考の自分の心を照らしてくれる。


「実は僕もマリアさんに話したいことがあったんだ」


 マスターの声を調理場でガラス越しに聞きながら、マリアはうさぎのエプロンをしてサラダとゆで卵を作り、食パンを厚切りにしてモーニングの用意をし、空模様があやしくなって視界がぼやけた。


「高校の時、溝端賢士という同級生がいたんだけど、僕は彼に救われたと今でも感謝してるんだ。神的な雰囲気のある生徒で、ケンジを揶揄してジーケンって呼ばれててさ。めちゃカッコよかったんだよ」


『マスター、それもう知ってるから……』


 心の中に降り出した涙は鈴木悠太の葬儀の時と同じく、大雨の大洪水となってマリアの頬を流れてエプロンまでびしょ濡れにする。

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