第九章 誘い

「ノ―・・・!

私が知りたい事はそんな曖昧なデータではない」


荒々しく机を叩いてMrグラントが話す言葉を、時には流暢な英語で聞き返しながら穏やかな口調で雪子が日本語に訳す。


居並ぶ役員に対して堂々と話すこの体格のいい青年を大半の者は煙たがって見つめているのだが、頭取で雪子の父である正秀だけはするどい視線を送っていた。


「私はアメリカで待っているベルツ銀行の幹部に正確な報告をしなければならない。

こんなごまかし半分な調査では、何の役にもたたない・・・と申されています」


Mrグラントの調査は非情で、冷酷なまでに正確にこなされていった。


彼はいつ休んでいるのかと思われる程よく働いていた。


ホテルに雪子が迎えに行く時も部屋のテーブルの上には資料を山積みにし、ノートパソコン相手に懸命にデータを打ち込んでいる。


そんな姿を雪子は冷淡な目で見つめていた。


相川に、彼が広洋銀行を乗っ取る為に送り込まれた男だと聞かされたせいもあるが、その行動も何か銀行の弱点のデータ分析なのかと疑う雪子であった。


それに、この男は尊大で無礼であった。


普通、欧米の男は女性に優しいときまっているのだが雪子がホテルに迎えに来るのさえも当然のように振る舞い、あまつさえ雪子に車のドアを開けさせ、女性が持つには重すぎる資料を山ほど取り寄せさせたりする。


相川には逐一、この男の行動を報告しているのだが中々尻尾を出さない。


いつか男のスパイ行為の現場を暴いてやろうと、虎視眈々と狙っている雪子であった。


そして、その事が父や相川等、広洋銀行の行員の為になると使命に燃えている。

ひととおりスケジュールをこなすと、もう夕方の5時になっていた。


雪子は今夜の片山とのデートに胸を弾ませていた。

男を思うと、熱い気持ちが込み上げてくる。


ようやく伸男の事が吹っ切れたと言う訳ではなく、むしろその逆で、片山に伸男の面影を重ねていた。


幸せだったあの頃に戻っている気がするのだ。

男への気持ちが本気なのかはまだ分らないが、恋心は確実に育っていた。


この忙しい日々が終われば、ゆっくり会って自分の気持ちを確かめてみたいと思っている。 


「ミス・ユキコ・・今夜、予定はありますか?」


雪子はスケジュール表を書いていた手を止めて、Mrグラントを見た。

 

「もし、よろしければ・・・

夕食にご招待したいのだが。

今までよくして下さったお礼に・・・」 


雪子は戸惑いながらも頭の中で懸命に計算をしていた。


突然の申し入れと、欧米人の男性の油断ならない行動を見こして余程断ろうかと思った。


しかし、相川にこの男の事を少しでも探ってくれと言われていた事と、自分自身の好奇心もあって雪子はこの誘いに応じることにした。


「ええ、けっこうですわ。喜んで・・・」 


そう答えると、意外な事にMrグラントは表情を崩して微笑んだ。


子供のような人なつこい笑顔であった。


「じゃあ、いったん私のホテルに戻って・・・

そこのロビーで待っていて下さい。

上のレストランで食事をしましょう・・・」


そう言うと男は雪子を促し、二人は部屋を出て駐車場に向かった。


今日こそ、この男の正体をつきとめてやろうと思う雪子であった。


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