後篇

「死んだらゾンビになれるかな」


 彼女がそう言ったのは、高校卒業も近くなってきた、雪の降る日のことだ。その言葉の前にゾンビに繋がる内容の会話はひとつもなかった。


「何言っているの、いきなり。なりたいの?」

「きみは、なりたくない?」

「死んでまで、生きていたくないよ」

「不思議な言い回しだね。でも私は逆なんだ。いまの私たちは死んだように生きている。生に対して実感を覚えていない。でもじゃあ、生きたように死んでいるなら、それは何よりも生を実感できる瞬間なんじゃないか、ってそんなふうに、思うんだ」

「また変なことを……。あと、私たち、って、勝手に私まで含めないで。私はいま青春を謳歌して、生を実感しているよ」

「嘘ばかり。本当にきみは、嘘ばかりだ」


 私たちは同じ大学に行く予定だった。この時はまだ試験を受ける前で、どちらかが大学に落ちたりしない限りは、一緒の進路になることをお互いが知っている、そんな時期だったのだ。もし落ちるとすれば、学力の面で劣っていた私のほうだろう、と強い不安も抱えていた。私たちは地元の国立大学を志望していて、私にとってその大学は、明らかに背伸びした場所だった。


「きみは、ゾンビの出てくる小説は書かないの?」

「そう言えば、一度も書いたことない気がする。興味がないわけじゃないから、たぶん、なんとなく」

「結局、一回も読ませてくれなかったね。小説」

「いつか納得がいくものが書けたらね。……っていうか、普段、私の作品、あんなに悪く言うくせに」


 こんなふうに言いながら、でも永遠に納得のいくものなんて書けないと思っていた。完璧なものなんて書いた時、きっと私の創作熱なんて冷めてしまうだろう。書き連ねた文章のまとまりなんて、歪くらいでちょうどいい。ただ私は恥ずかしさを隠したかっただけに過ぎなくて、いつかは彼女に読んでもらいたい、というそんな気持ちもあった。もちろん口には出さない。


 でも結局、そんな日が来ることもなく、彼女は死んでしまった。私が、殺してしまったからだ。だけどこの時はまだ、その未来をかすかにも想像していなかった。


 彼女が大学の試験に無断欠席した、と知ったのは、私が大学の合格通知を受け取った日の夜のことだ。


 家族の次に、私がその喜びを伝えた相手が彼女だった。彼女が落ちていることなんて、……というより、そもそも入学試験を受けていない、なんて思いもしなかった。


「合格したよ」

 と電話越しに、彼女に伝えると、

『そっか……、私は受けなかったんだ』

 と返ってきた。


 その声音に、悲しみは感じられなかった。日常の、他愛もないことを話すように、彼女は言ったのだ。私はショックを受けていたし、驚いてもいたけれど、彼女の反応に合わせるように、私も気にしていない振りをした。本音をしまいこんでしまうのは、私の悪いところだ。


 どうして、と聞きたかった。


 だけど実際に私の口から出てきたのは、

「そう、なんだ。まぁ気持ちが変わること、ってあるもんね」

 という物分かりがいいだけの言葉だった。


 もやもやとする気持ちを晴らすことのできないまま、私たちは卒業した。私は大学生になり、彼女はフリーターになった。最初はファミレスの店員をしていたけれど、いつの間にか辞めていて、別の仕事をはじめていた。かなり転々としていたみたいだ。頻繁ではないものの、卒業後も定期的には会っていたので、いくつかの仕事先は知っている。ただ私の知らないうちに辞めてしまった仕事もそれなりにはあるような気もする。


 どこか暗いまなざしには、気付いていた。あとになって思えば、目の奥にあるよどみは高校の卒業前からはじまっていたのかもしれない。そう、ゾンビの話を急にはじめた、あのくらいの時期から。


 私の大学生活のほうは、特に波風が立つ感じもほとんどない、静かなものだった。平穏だが、変化は乏しく、本当に自分の人生はこれで良いのだろうか、と漠然とした不安はまとわり続けていた。正直に言えば、起伏の大きい彼女の人生が、羨ましくもあった。


 会う時、誘うのは大抵、私からだった。


 だから私たち両方が二十歳になってすぐの頃、彼女が、

『会いたい』

 と電話を掛けてきた時には、驚いた。その時の口調はいつもの彼女のようで、まったく違うものだった。他のひとには分からないかもしれないが、私には分かる。


 彼女のひとり暮らしの部屋に誘われたのは、はじめてのことで、やけに、どきどき、としていたのを覚えている。別にふたりきりの空間はめずらしいことではなく、私たちが、私の部屋でふたり過ごすことはよくあった。私の部屋か、彼女の部屋か。ただそれだけの違いを、その時、なぜか何よりも重要に感じてしまっていたのだ。


 机の上に置かれた数本の缶ビールとおつまみのお菓子を挟んで、私たちは向かい合っていた。顔がすこし赤くなった彼女が、癖のように銀色の缶をこつこつと叩く音は、静かなタイミングになると、よく響いた。なぜだか、その音が耳にしっかりと残っている。不思議な感じだった。ついこの間まで学生服を身に纏っていた私たちが、いまではもう普通にお酒を呑んでいても咎められることのない年齢になっている。


「この間、お母さんが死んだんだ」

 と、会話の途中に、彼女が言った。


「知らなかった……」

「だって言ってないからね」

 彼女がほほ笑む。会ったこともない彼女の母親は、どんな顔をしていたんだろう。ふとそんなことを思った。想像上の彼女の母親を、頭の中に浮かべてみる。きっとそれは現実のそのひととは、まるで違っているはずだ。


「そう、だね」

「知らなくていいでしょ。会ったこともないんだから」

 確かに彼女の実家には何度か訪れたことはあったが、彼女の母親と顔を合わせたことは一度もない。家にいないのが普通だ、と高校時代、彼女が言っていた記憶もある。


「じゃあなんでいま、言ったの?」

「ちょっと気になって、さ。ねぇ、親が死ぬ瞬間の感情、って、どうなるのが普通なのかな? ねぇちょっと想像してみてよ。きみの家族が、死ぬ瞬間を」


「何それ。また変なことを……」と笑おうとして、やめた。彼女の表情に対する返事として、まったく合わないと思ったからだ。「……分かった。想像するよ。うまくできるかは分からないけど。……うん。悲しいし、もしかしたら怒るかもしれないね」


「そっか、じゃあまだきみは、人間なわけだ」

「どういうこと?」


「私は、お母さんが死んでも、悲しくなかった。嬉しくもなかった。怒りもなかった。嫌いだったわけじゃない。好きか嫌いかで言えば、好きだった。なのに、何ひとつその死に対して、感情が動かなかったの。あぁ死んだんだ、ってそれだけ。私は成長する過程の中で、人間らしさを捨てちゃったのかもしれない。無意識に。ねぇ、卒業の前に話したこと、覚えてる? 死んだら、ゾンビになれるかな、って。ふっと、あの話を思い出したんだ。なんだ、私、生きているのに、ゾンビみたいだ、なんて思えてきて。そしたら、きみと話したくなってきて、ね」


 じっと見つめる彼女の目に耐えられず、逸らした。窓越しの景色が、明け方を忘れたような暗夜が、その先に見えた。


「私、なんて返したらいい?」

「返す言葉くらい、自分で決めなよ。ひとに頼らず。まぁこんな話をしたこっちが悪いんだけど、さ。……小説はまだ書いてるの?」

「一応……」


 私は嘘をついた。何も書いていなかった。たぶん彼女は見抜いているはずだ。


「ふぅん。そう言えばきみは、ひとを殺す小説、書いたことある?」

「まぁ、ミステリーとかホラーは書いたことあるから」

「じゃあ、ひとを殺したことは?」

「ないよ。当たり前でしょ。現実と空想をごっちゃにしないで」

「そっか、でもせっかく書くなら体験しておけば」

「どういうこと?」

「ここに死ぬ度胸はないけど、死にたがっている生きたゾンビがいます。どう? サンプルにちょうどいい逸材だと思わない?」


 彼女が私にゆっくりと近付いてくる。手を伸ばせば、届く距離まで。指摘しようかどうか迷ったが、私は言わないことにした。彼女は、その時、泣いていた。なんの涙か、は分からない。だけどなんらかの感情が動いた結果として、その涙があるのなら、彼女はゾンビなんかじゃない、と思った。でも絶対に認めないだろう。私はそれくらいには彼女のことを知っている。


「嫌だ」

「本当に嫌なの? 殺したことはなくても、殺してみたい、と思ったことはあるでしょ。だってあんなに物語の中で、ひとを殺してるんだから」

「読んだことないくせに。それに何度でも言うけど、現実と空想を一緒にしないで」

「読まなくても分かる。きみの物語なら」


 たとえば、と私は思った。もし彼女が、私以外の別の誰かに殺されてしまうのならば。あるいは彼女が、みずからを死に追いやろうとするのならば。長く関係のあった私が、殺してあげるべきなのではないだろうか。心の中に萌した都合のいい、言い訳だ。彼女の死に顔をこの瞳に宿したい、とそんな感情が心のどこかにあった可能性を否定することが、私にはできない。


 私の身体に向かって倒れ込んでくる彼女の、首を掴んだ。


「できないよ」


 彼女の、柔らかく細い首から、私の手が離れる。その手は、震えている。


「そっか。きみは、本当に臆病者で、嘘つきだ。どこまでも。だから私は、きみが嫌いなんだ」

「……ちょっと外の空気、吸ってくる」


 彼女の家の近くには公園がある。何をするわけでもなく、冷たくなった夜の空気に身を委ねていた。わがままな私の心は、すこしだけ迎えに来てくれる彼女の姿を想像していた。


 ポケットに入れていたスマホから、音が鳴る。

 メッセージが届いている。


『私はきみが嫌い。その臆病な心が嫌い。平気で嘘をつく、その口が嫌い。鏡を見ているみたいに、私自身を見ている気分になるから。じゃあね。絶対にこっちに来るなよ』


 私が部屋に戻ると、彼女は死んでいた。

 みずからの首を切って。現実に見る血飛沫の痕に、鮮やかさはなかった。


 警察には、事情をかなり深く聞かれた。ある年輩の警察官のひとには、はっきりと疑っているとまで言われてしまった。それは、そうだろう。だって客観的に考えても、死の直前まで一緒にいた私は、明らかに怪しい。


 摩耗した心は、いっそ殺したのが私だったら良かったのに、と思っていた。


 私が、彼女を殺した。


 その言葉には、どこかあまい響きがある。世間では、彼女の死を、自殺、と呼ぶ。だからと言って、私が世間に合わせなければいけない道理はない。


 心の中だけでも、私が殺したことにしよう、と決めたのはいつだっただろうか。


 ときおり、おのれの感情の気色悪さに吐きそうになる。残滓のような冷静な思考が、無理やりいびつになろうとする心を、糾弾してくるのだ。弱く、愚かな心を。それでも、背負わなくてもいい罪で自身をコーティングすることでしか、もう私は彼女に近付けないのだ。



 私が彼女を殺してから、五年近くの月日が流れた。



 また新たに小説を書きはじめたのは、彼女の葬儀が終わったあと、すぐのことだ。火葬場で骨になった美しい女性を見ながら、過去を回想する若い女性の物語を描いた。これはフィクションだ。だって私は、彼女の骨を見ていないのだから。


『たとえば、きみの私への想いを小説の形にして、素直に綴ってみたら?』


 高校時代の、彼女の言葉がよみがえる。私は、彼女を前にして、どれだけ真実を話していただろうか。私が彼女への気持ちを素直に綴ったフィクションと見比べると、一目瞭然だ。私は本当に嘘つきだ。あぁフィクションを通してだったら、こんなにも真実を描くことができるのに。


 それから私の書く小説は、明らかに変わった。そこにはつねに、彼女への想いがある。


 たまに私は、

「好き」

 と、虚空に彼女の姿を浮かべて、つぶやく。



 嘘つき。



 空想の音が、彼女の声を形作るからだ。

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ゾンビになれない彼女と嘘つきな私 サトウ・レン @ryose

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