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「……それで、うちに来た、と」


 トーマスがあきれ顔でため息を吐いた。


 サーヴァン男爵家にもアリスト伯爵家にも、もちろんノーティック公爵家にも帰れない。


 しばらくあちこちを走り回っていたティーゼが最終的に頼れる先として思いついたのが、幼馴染のトーマスのクライスラー伯爵家だった。


 トーマスの両親であるクライスラー伯爵夫妻とも、ティーゼはもちろん既知の仲なので、目を泣きはらして伯爵家へやってきたティーゼをトーマスも伯爵夫妻も何も言わずに邸に上げてくれた。


 そして、トーマス相手に、これまでの事情を洗いざらいぶちまけたティーゼは、再び溢れてきた涙をぐしぐしと拭きながら、口を尖らせる。


「ひどいでしょ!? あんまりだと思わない!? もうあんな家になんか帰らないわ!」


「……まあ、確かにそれはひどいけどな」


 帰らないと言っても、これからどうするつもりなんだとトーマスに冷静に訊ねられると、ティーゼはうぐっと押し黙った。


「まあ、とにかく。甘いものでも食って少し落ち着け」


 ティーゼの前にはお菓子が山ほどおいてある。これらはクライスラー伯爵夫人が「泣いている女の子には甘いものよね」と言って用意させたものだ。やけ食いしたい気分だったので、とてもありがたい。


 ティーゼがシフォンケーキを勢いよく胃に流し込んでいると、紅茶を飲みながらトーマスが言った。


「好きなだけうちに置いてやりたいところだが、今お前がここにいると、少々厄介なことになりそうなんだ。できれば落ち着いたら家に帰ってほしい」


「厄介なこと?」


 口にフォークをくわえたまま首をひねると、「公爵夫人のくせにはしたないぞ」と嘆息された。


「俺、三日前に婚約を解消したばかりなんだ」


「うぐぅ!」


 トーマスの爆弾発言に、ティーゼはシフォンケーキを喉に詰まらせかけて、拳で喉元をドンドン叩く。


 トーマスがレモンティーを差し出してくれたので、それをぐびぐび飲み干して、ティーゼは身を乗り出した。


「どういうこと⁉」


「どうもこうも、あっちが婚約を解消したいって言いだしたんだから仕方ないよな。好きな男ができたんだと」


「はあ?」


「もともとあっちは金目当てだったし、うちはうちで、あっちの侯爵家と縁続きになりたかっただけで、俺たちはお互いになんとも思ってなかったからな、俺としたら破談になろうとどうしようとかまわないには構わないんだが、うちの両親がなあ……。一応、俺、後取りだし。父上も母上もかわりの嫁探しに躍起になってるから、お前が離婚の一言でも言おうものなら、間違いなく狙われるぞ。言っておくけど俺、お前みたいなじゃじゃ馬を御せる自信ないから」


「誰が馬よ! 失礼ね!」


「暴れ牛でもいいぞ」


「よくないわよ!」


 ティーゼはじろりとトーマスを睨みつけて、それからちょっとだけしんみりした。


 貴族社会の結婚なんて、本人同士の希望が叶うことの方が珍しい。すべては家同士のつながりを求める結婚で、トーマスのようなケースも珍しくない。結婚後も冷えた夫婦関係の家は多々あるし、結婚する前から愛人を抱えているような男性も多いと言う。ティーゼの従姉は、そんな愛人を抱えている男に嫁がされて、あまつさえ、その愛人の産んだ子を我が子として扱わなければならないと嘆いていた。貴族の結婚には、夢も希望もない。……それは、わかっている。


 だから、五年間一度も会ったことがないという理由で離婚を望むティーゼは、世間一般に言えば我儘にあたるのかもしれない。一度も会ったことがなかったけれど、ティーゼの生活は保障されていたし、イアンは愛人の一人も抱えていなかった。だけど――


(……まるで、質屋の質になったような気がして、嫌なのよ)


 会わなかった理由がなんにせよ、五年間、まるで借金の質として手に入れた、例えば一枚の絵のように……、まるで人扱いされていない。そんな気がした。もちろんイアンにその気はなかったのかもしれないけれど、ティーゼはどうしてもそう感じてしまったのだ。慣れない公爵家での生活、一度も会いに来ない夫。ティーゼは聞き分けのいい性格ではない。嫁いだばかりの十五歳の子供に、その生活はつらすぎた。


 トーマスは苦笑して、ぽん、とティーゼの頭に手を置いた。


「離婚離婚って騒いだところで、本人の希望だけで離婚はできないからな。落ち着いたら、一度話し合いの席を設ける必要がある。それはわかるな?」


 ティーゼはこくんと頷いた。


 この国で貴族の結婚には王の許可が必要になる。そして、離婚に際しても、王からの許可を得なければならない。その際、提出する書類には本人と、妻と夫の家の家長のサインが必要だ。イアンはすでにノーティック公爵家を継いでいるので本人だけでいいけれど、ティーゼは父のアリスト伯爵のサインが必要なのだ。


 借金だけ何とかなれば、すぐに離婚できると高をくくっていたけれど、今日の父の様子を見る限り、父はイアンの味方なのかもしれない。そうなると、離婚するのは簡単ではなさそうだ。


「なあ、ティーゼ。俺、思ったんだけどさ。どうして五年前、公爵はお前んとこの借金を肩代わりしてくれたんだ? お前んとこの伯爵家とノーティック公爵家は縁もゆかりもないだろう? たとえお前の親父さんが頼み込んだところで、普通は借金を建て替えるなんてしないだろう。ましてや、その建て替えられた借金、返さなくていいって言われてるんだろう?」


「……うん」


「思えばその五年前からこじれてるんだよ。離婚する前に、どうして公爵が借金を立て替えてくれたのか、お前と結婚する気になったのか、わからないことは全部訊いてこい。全部知って、それでも納得できなければ、離婚すればいい。離婚に同意しないというなら、またここに逃げて来てもいい。……ただし、うちの両親が大騒ぎはするだろうから、覚悟はしておけよ。俺もぎりぎりまで抵抗するが、どうにもいかなくなったら、最悪、離婚直後にクライスラー家の嫁になるぞ」


「……トーマスの奥さんは大変そうだから嫌だなあ」


「俺だってお前みたいなびっくり箱のような女は願い下げだね」


 ティーゼはトーマスと顔を見合わせてくすりと笑う。


 トーマスの言う通りだ。離婚したいことには変わりないが、ここまでくれば全部知りたい。ついでに、どうしてイアンがサーヴァン男爵のふりをしてティーゼを雇ったのか――ただ、揶揄っていただけなのか、それともほかに理由があるのか、教えてほしい。


 さすがに今日これからそれを訊ねに行く勇気はないけれど、クライスラー伯爵夫妻が、今日は泊って行けと言ってくれているから、明日にでも会いに行こう。


 イアンの顔を思い浮かべたティーゼは、そっと自分の胸の上を押さえる。そして、ハッとした。


(あ、手紙!)


 マイアンに渡そうと思っていたイアン宛ての手紙。怒りのあまり公爵家を飛び出してきたが、その際、手紙を公爵家に忘れてきたままだった。


 イアンに届けてもらう予定の手紙だったが、今になっては何とも気まずい。


 ティーゼはどうかあの手紙がイアンの手に渡りませんようにと祈りながら、そっと息を吐きだした。

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