第五章 雨上がり

肩先に寒さを感じて目を醒ますと、雨やどりの人達で溢れているポケットパークにいた。 

時計を見ると、約束の時間から一時間が過ぎていた。


「夢・・・か」


男は立ち上がり、人波をかき分けるようにして交差点を眺めた。

雨は小雨に変わり、うっすら空の色が明るくなり始めていた。


男は大きく伸びをすると、嬉しそうに空を見上げた。

眠ったせいもあるのだろうが、妙に身体が軽く感じられた。

さっきまで、心の中でくすぶっていた怒りと疲労が、嘘のように消えていた。


「よしっ」

男は決心するように頷くと、傘もささずに小雨の交差点を渡っていった。


雲が流れる速度を早めている。

雨はもう、あがりそうだ。


    ※※※※※※※※※※


オフィスの扉が開いて男が入ってくると、東は立ち上がって驚きの表情で見ていた。

他の気づいた数人も、同じようにしている。 

男は背筋をピンと伸ばして、自信を持った顔付で近づいて来ると、大きな声をかけた。


「どうだ。報告書はできているか」

東は、男の迫力に押されるように答えた。


「ハ、ハイ。

今、課長が見ています」


「そうか、わかった」


男は東から報告書のコピーを受け取ると、課長の席にツカツカと近づいていった。

課長はニガ虫を噛み潰したような表情で、報告書を読んでいた。


「ただいま戻りました」


男の声に顔も上げず、ブツブツとした口調でしゃべっている。


「何だね、これは・・・。

これじゃあ、ウチがまるっきりミスしたと言っとるようなもんじゃないか。

だいたい君は・・・」


「ミスですっ!」


いつにない強い口調に遮られた課長は顔を上げると、息を飲んだ。


「今、A社は怒っています。

原因は我社がA社の許可を得ずに勝手にコストダウンした物を発注したからです。

今回の報告でハッキリと非を認めて製品をスペックアップした物と交換すれば、最小限のクレームで済みます。

逆に曖昧な態度をとれば、ヘタをすれば訴訟問題にも発展しかねません・・・。

その責任を取られる勇気はおありですか?」


課長は男の迫力ある態度に押され、ただ口を開けて聞いている。


「明日さっそくA社に伺おうつもりです。

もちろん、課長も同行していただけますね?」


いつの間にか、社内の全員が男に視線を集めて、固唾を飲んで聞いている。


「わ、分か,った・・・」


課長が苦しそうに答えると、男は顔を真っ直ぐに上げて、自分の席に向かっていった。

周りの者達が課長の方に遠慮勝ちに目を向けながら、集まってきて口々に質問している。


「オイッどうしたんだい?

その頭・・・」


「ヤルじゃん。

マイケル・ジョーダンみたいでカッコイイぜ・・・」


男は照れ笑いを浮かべながら、スキンヘッドになった頭を撫でた。

みんなも堂々と課長をやり込めた男に、尊敬の念を浮かべながら、徐々に声を大きくしていった。


課長はいつの間にか、席から姿を消していた。


「スカッとしたよ・・・。

あの課長、いっつも適当な事言って逃げるからなー」


「それにしても・・・思い切ったよなー」 


みんなドッと笑って、次々と男の頭を触っている。

喧噪が収まり、みんなが退社した後、男は一人オフィスに残って仕事をしていた。


身体中に、力がみなぎってくる気がする。

パソコンのキーボードを叩いていると、その隣に湯気の出ているカップが置かれた。


「ハイッ、サービスです。

本当・・・。

カッコ良かったですよ」


顔を上げると、谷口ゆりが可愛いえくぼを作って微笑んでいた。


「ありがとう・・・」

男はカップを口に運ぶと、おいしそうに熱いコーヒーをすすった。


湯気の向こうに見える彼女は、はにかみながら俯いている。

私服に着替えたモスグリーンのワンピースが、スタイルのいい彼女にフィットしている。 


きれいだな、と思った。


    ※※※※※※※※※


交差点の向こうから、ベージュのツーピースにイエローのスカーフを組み合わせた女が近づいてくる。


男はポケットから手を出すと、笑顔で軽く手を振った。

彼女もえくぼの顔から白い歯をこぼし、肩先で手を振っている。


小さな手だ、と思った。


あれから男の仕事や生活に大きな変化は無かったが、何か一本、芯が入ったようにキビキビと仕事をこなしていった。

相変わらずの不況で面倒な仕事が多かったが、根気良く社内でディスカッションし、あの課長でさえも、部下の意見を多く取り入れるようになっていた。


次第に男は人望を集めていき、充実した日々を送っている。

谷口ゆりとも交際を始め、今日も何回目かのデートで待ち合わせているのだった。


彼女の腕の温もりを心地良く感じていると、どこか見覚えのある公園に差しかかった。

デジャブーのような、不思議な感覚がした。 


青い屋根の下にベンチがあった。

男が戸惑いの表情を浮かべていると、一人の美しい女性が通り過ぎていった。


いい香りがした。


男が振り返り、何か言おうと口を開たが、それを遮るように女はウィンクすると、いたずらっぽい微笑を残して去っていった。


「どうしたの・・・?」

女の存在に気づかないのか、ゆりが不思議そうに聞いた。


「いや・・・。

何でもないよ。ほら・・・。

きれいだよ」


男は微笑むと彼女の肩を少し強めに抱きしめながら、空を指さした。

公園の緑の向こうにそびえ立つ高層ビル群の上に美しい虹がかかっていた。


長い雨の季節もようやく終わりを告げようとしているかのようだった。

不思議な気持ちが心を包んでいた。


あれは、まぼろしだったのだろうか。


(いや、それでも・・・)

男はスキンヘッドの自分の頭を触りながら、心の中でそっと呟いた。


(ありがとう。

さようなら・・・)


「雨やどり(薄くなった男)」―完―

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