「夜の海に取り残されてしまったので」

環境

夜の海に取り残されてしまったので <完結>

 実のところ、麻実は暇をもてあましていた。


 腕時計に視線を落とす。電車内の照明が落ちてから三時間四十五分、スマホの充電が切れてから約十分が経過していたらしい。

 がらんとした車内では、数人の乗客が座席でうなだれている様子だった。横たわってしまった人もいる。五時間前には満員状態だったこの場所も、ずいぶんと快適になったものだ。

 窓の外を眺める。海面が月の光を反射して、静かに揺れていた。


 ***


 世界が海に飲み込まれてしまう、というニュースが放送されたのはつい先週のことだ。環境省による発表だった。世界各地で暴動が起きはじめ、社会は混乱を極めていた。

 センセーショナルな話題は星雲のような無秩序さをもってして、日常を破壊しつつあった。マスコミはここぞとばかりに面白おかしく取り上げて、世界が終わるというのにどのチャンネルを回しても同じような特番が組まれている。


「学校も、家も、ここから見える景色もぜんぶ海になるんだって」

 夕子は麻実の席にやってくると、そのまま机の上に腰掛けて大仰なため息をついた。スカートの裾に覆われてしまったノートは、絶対温度Tを五八〇〇Kとしたところで途切れている。

「じゃ、どうするの」

「そこなんだよね」

 夕子は〇・八㎜芯のシャープペンシルを指先でくるくると回している。なにかに迷った時のくせだ。回し終えたときに、棒の先がどちらを向いているかで物事を決めるのだという。シャープペンシルは、夕子から見て右を向いて静止した。どちらがどうだという選択肢を図示でもしてくれたらいいようなものだが、夕子はいつも結論だけを話す。テストでも計算式を飛ばすせいで大きく減点されているのに、本人はまるで気にしていない。

「電車に乗って、遠くに行こうよ。地球が沈むところを見よう」

「ふたりで?」

「そう。ふたりで」

 その日は特に予定が入っていなかったし、悪くない提案だった。麻実はうなずいて、二人分の青春18きっぷを買うことにした。


 ***


 地球最後の日ですら、夕子が約束を守ることはなかった。

 麻実は待ち合わせ場所のファミレスで、たっぷり二時間ほどかけてマロンパフェを食べ終えると店を出た。残念ながら、今日ばかりは悠長に待っている時間はない。


 夕子の家へ迎えに行くと、彼女は首だけの状態になって、玄関先に転がっていた。

「遅かったじゃん」

「待ち合わせはファミレスのはずでは。というか、どうしたのさ、それ」

「ごめんごめん。今、手がなくてさ。連絡できなかったんだよね」

 玄関マットの上をコロコロと転がりながら、悪びれもせず笑っている。ふつう、こんな状態で人間が生きているはずはない。どっちにしろ、今日ですべてが終わるのだから些細な問題だった。

「それで、どうするの。行く?」

「行く。連れてって」

 夕子の頭を抱きかかえながら、部屋に上がる。指示されるままに持ち物をスクールバッグに詰める。夕子をふかふかのタオルケットで包み、一番上に詰め込んだ。

「狭あい」

「なにかおいていこうよ。多分ハンドクリームとか要らないと思う」

「無理」

「じゃあ我慢して」

 こういう場合、きっぷは二枚必要なのだろうか。骨壷に運賃はかからないらしいが、生きた状態の生首はどうなのだろう。やっぱり要るのかもしれない。


 最寄り駅は人でごった返していた。新幹線のりばに向かって伸びた列は、階段を挟んだ在来線のホームにまで伸びているほどだ。

「せまい! くるしい! あつい!」

 と、文句たらたらの夕子をなだめすかして、鈍行列車に乗り込む。普段からは考えられないほどの乗車率だった。みんな、どこかに逃げたいのだろう。少し彼らを気の毒に思った。

 何度か乗り継ぎを繰り返していると、運良く座席に座ることもできた。夕子が希望していたような景色は、まだ現れなかった。


 ***


「みんなはさ、どうしたと思う?」

「みんなって?」

「ここを出ていった人たち」

「ああ」

 グレーのスクールバッグを開いて話しかけると、眠たそうな生返事が返ってくる。


「眠っていたの」

「少しね」

「外の景色、見るんじゃないの」

「うん」

 夕子はそう言うと、もぞもぞとカバンの奥に潜り込む。首だけで器用に動くものだなと感心した。


 ***


 貴重な話し相手は眠ってしまったし、爪の甘皮もすべて剥いてしまった。髪の毛をいじるのも、眠った彼女に化粧を施すのにも飽きた。単語帳を開いたが、もう私には必要のないものだ。


 再び腕時計に目をやる。この電車が停止してから約五時間三十分。本当ならとっくに水没しているはずだが、傾きかけた車体がかろうじて何かに引っかかって停車していた。

 開け放された扉からは潮水が満ち引きを繰り返している。たくさんいたはずの乗客たちは約二割ほどをのこして、すでに逃げ出していた。


「寒いなあ。ねえ夕子」

 返事はない。

「どこに逃げたって同じなのにね」

 おやすみと声をかけてスクールバッグをひと撫ですると、麻実はゆっくりと目を閉じた。

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