貴方が走れば私も走る

夢月七海

貴方が走れば私も走る


 初めて彼の姿を見た時、幻ではないかと思った。


 その時は、穏やかながらもしつこい雨が降っていて、一族全員が洞窟の中に避難していた。四本の足を畳んで座り、あちこちで焚いた火を囲んでいる。

 私は、その輪からそっと外れて、洞窟の入り口近くに立っていた。冷たい風が入ってくるのに、わざわざそちらへ向かったのは、洞窟の正面に聳える丘に、何か動いているのが、見えた気がしたからだった。


 私たち芦毛の一族が暮らしている草原には、湖の反対側に森が広がり、その向こうに小高い丘がある。さほど高くはない丘だけど、裾野が広くて、禁足地でもあるあそこを越えたものは誰もいなかった。

 その丘の斜面を、駆け上るケンタウロスの影があった。馬体に当たった雨粒が一瞬で蒸発して、その輪郭を浮かび上がらせている。雨の煙を纏っていたのは、私達の一族とは違う毛色の、ポンチョをしていない男のケンタウロスだった。


 あんな所にと思うよりも先に、彼の足の速さに息を呑んだ。なだらかとはいえ、あの丘の斜面を、真っ直ぐに信じられない速度で上がっていく。一番下の低木から一番上の低木まで辿り着くまで、六十も数えなかった。

 登りであんなに早いのなら、平地だったらもっと速いんじゃないか。私は、そう考えてわくわくした。しかし、一方で、あんなに早いケンタウロスなんてありえない、何か別の生き物の見間違えだと、思う気持ちもあった。


「エクラ、風邪ひくわよ。こっちに来なさい」


 ぼんやりと、あの影を見続けている私に、洞窟の奥からお母さんがそう声を掛けてきた。尻尾を引かれるる気持ちのまま、母の囲む薪へと戻る。

 生まれた時は黒い馬体が、年を取るにつれてだんだんと灰色、白色へと移っていく芦毛一族の中で、私は生まれた時から白い馬体をしていた。たまに生まれた白い馬体の子は、体が弱くて、あまり長生きできなかったという。


 だから私は、他のケンタウロスの子よりも大切にされてきた。森の中に入るのはもちろん、走ることも禁止されている。

 温かい火のそばでも、ずっと、あの走る影を思っていた。あんな風に走れたら、どんな気持ちなんだろうと。






   ■






 次に彼の姿を見たのは、青空が広がる日だった。


 私と年の近い子達は、小さな湖の周りでかけっこをする。ただの遊びだったり、喧嘩の決着だったり、結婚相手を決めたりと、ケンタウロスにとって、かけっこという行為は色んな意味を持っている。

 かけっこのやり方だって細かく決められている。湖と川が繋がる場所から、一周、四分の三周、半周、四分の一周するのか。草の生えている所を走るのか、その内側の砂地を走るのか。右回りか、左回りか……。どの決まりによって、誰が速いかも変わってくる。


 例えば、私のお父さんは、砂地で走ると誰も追いつけないくらい速かった。アウルムは、スタートが苦手だけど、ゴールまで全力まで走り抜けられる体力自慢だから、一周走るのが得意。反対に、女の子のベリェッサは三分の一周だと、男の子にも負けないくらい速い。

 だけど、どんな形のかけっこでも、みんな一生懸命に走る。四本の足で地面を力強く蹴り、二本の腕を必死に振って、上半身から汗を散らしながら。勝ったら喜んで、負けたら悔しがるけれど、そのどちらの表情も、きらきらと眩しい。


「エクラ! 今の走り、どうだった?」


 私は走らないけれど、いつもみんなの姿を見ていた。だから、時々こうして、意見を訊かれることがある。

 今、私に尋ねたゲネシスは、黒っぽい馬体を艶めかせながら、私に歩み寄ってくる。彼女は湖を一周したのに、爽やかに笑っていた。


「うん。この前より、曲がるのが上手くなっていたよ」

「そっかそっか。最近、練習していたからね」


 私にそう言われて、ゲネシスは嬉しそうに頷く。

 誰かの力になれることはすごく嬉しい。こんなふうに、私の言葉が成長に繋がるのならと、私もみんなの走りに目を凝らす。


 その時、私の背後がざわついているのに気が付いた。振り返ると、かけっこに参加していないひとたちが全員、森の方を見ている。

 どうしたんだろうねと私たちも顔を見合わせて、そっちの方に近寄ってみた。大人たちが険しい顔を、子供たちが不安そうな顔をして眺めているものを、私も確認した。


 森の外側、草原との境目に生えている木の間に、彼が立っていた。茶色い馬体に、黒くて長い髪を靡かせている。上半身には何も着ておらず、筋肉質な胸には木が空に枝を伸ばしているような、藍色の模様がついていて、首には木片を連ねた首飾りがかかっている。

 彼は、無言でそこに立っていた。じっと表情すら動かさない。私達の群れと彼との距離は、三十歩ほどしかなく、皆緊張の面持ちで彼を見つめている。


 一方、私の胸は高鳴っていた。あの雨の日に、私が見たのは間違いなく彼だったのだという確信を得て、また会えたことがただただ嬉しかった。

 だけど、私と同じ年くらいの女の子たちは、上半身裸の彼の姿になれなくて、恥ずかしそうに目を伏せていた。周りを見ると、彼を直視している女子は、私だけのようだ。


 その間に、私のお父さんも含めた、数人の男たちが前に出た。全員、弓矢を持っている。彼が危ない。私は恐怖で総毛立った。

 しかし、お父さんたちは、弓に矢をつがえたが、その矢じりを下に向けたままで立ってる。それでも、これ以上近付いたら、射るという意思表示だった。


 彼は大丈夫よ。私は、お父さんたちにそう教えたかった。でも、理由をうまく説明できずに、二組を見比べるだけだった。

 しばらくして、彼は踵を返し、森の中に入っていった。その姿が木々の合間に見えなくなってから、やっとみんな安堵して、目を合わせた。


「今の見た?」

「あたし、この一族以外のケンタウロス、初めて見た」

「俺もだよ」

「どこから来たんだろうね?」


 同い年くらいの子たちは、輪になるように集まり、口々に彼に対する印象を述べていた。その中に混じりながらも、私はそっと、大人たちの方も窺う。

 族長を中心に、大人たちは集まっていた。彼は何者なのかよりも、これからどうするべきなのかを話し合っている。


 どちらの輪も、彼のことを異質なものとしているのは同じだった。それを感じ取って、私はどうしようもなく悲しくなる。

 彼の話を聞いてみたい。私は森の方を見て、そう考えているだけだった。






   ■






 それから何度も、彼は私たちの前に姿を現した。しかし、森の中から出たことはなく、警備中のひとが近付くと、丘に逃げてしまうらしい。

 あの時の脅しが効いていただろう、大人たちはそう判断していた。ただ、丘は一族の禁足地になっていたので、彼を完全に追い返すことが出来ず、歯痒そうだった。


 誰も追いかけていない時の彼は、いつも走っていた。森の中の木々の間や丘の斜面を、ものともせずに颯爽と駆けていく。なんて美しい走り方だろうと、私は彼に釘付けになってしまう。

 だが、周りの反応は全く違った。「不気味だ」「何を考えているのか分からない」「こちらに来たりしないだろうか」……彼に対する評価、そういうものばかりで、その走りに関する言及はなかった。


 その為、一族は彼に対する警戒心を全く緩めなかった。彼が現れる以前よりも、警備に回す人手と時間が増えた。寝床である洞窟の前でも、一晩中見張りを立てるようにした。

 このような膠着状態が何日も続いたある日、旅商人が定期通りに草原へやってきた。


 旅商人は、人間という種族の男だ。足は二本しかなく、顔は私たちに近いけれど、口と鼻が嘴になっている。だが、その嘴はマスクと呼ばれるもので、服のように取り外しができるらしい。

 私達は、旅商人からポンチョなどと湖の魚の干物や森で獲れた動物の干し肉とを交換する。そのポンチョなどの商品を運んでくれるのは、ロバという生き物だった。ロバは、私達の馬体と似た体をしているけれど、首と顔と耳が長くて、体中を覆う毛色は灰色で、子供よりも小さくても、私達よりも力持ちで沢山の荷物を背負っていた。


 私は、母と並んで、ポンチョをどれにしようか選んでいた。でも、楽しそうなのは母ばかりで、私は、他のことが気になっていしまう。

 子どもたちが珍しがってロバに群がるその隣で、行商人が族長や警備係の男たちに囲まれていた。彼らの会話が、しっかりと聞こえてくる。


「森の中で、我々とは毛色の違うケンタウロスを見なかったか?」

「ええ。ちらりとですが。僕を見ると、すぐに逃げていきました」

「奴のことを、何か知っているか?」


 族長に尋ねられると、旅商人は丘の方を見た。


「あのケンタウロス、元々は丘のずっと向こうに住んでいたようですが、自分の群れの族長に楯突いて、追い出されてしまったようですね」

「族長に逆らうほどの乱暴者だったのか?」

「さあ……僕はそこまでは……。ただ、この話をしてくれた同じ群れの方は、『あの子は、ただ走るのが好きだったのに』と言っていました」


 行商人の曖昧な言葉に、族長はまだ険しい顔をしていたが、それ以上は追及してこなかった。恐らく、行商人はそれ以上のことを知らないだろうと思ったようだ。

 みんな、彼への懸念を募らせている様子だった。だけど、私は、「ただ走るのが好きだった」という言葉が、彼らしいと感じていた。


 ――その数日後の夕方、太陽も沈み切り、その残光で景色のほとんどが陰になっている中、私は彼の姿を見た。

 彼は、その時も森の中を走っていた。立ち塞がる木々をよけて、縦横無尽に。その信じられない速度に、私は彼から目を離せなかった。


 きっと、この瞬間の彼は、世界中のケンタウロスの誰よりも速いだろう。私は何故か、そんなことを確信した。それくらい、彼の走る姿には、心を捕らえるものがある。

 その姿は見えたのは、ほんの一瞬だった。すぐに夜の闇が濃くなり、彼の姿を塗り潰してしまった。


 私は、そのことに心底がっかりしながら、洞窟へ向かった。他の一族は、すでにそこへ入っている。

 敷かれた藁の上に横たわり、目を閉じた時も、真っ先に思い浮かんだのは、先程の彼の姿だった。それを眺めながら、私は眠りについた。






   ■






 私は、知らない草原の上に立っていた。さっき寝たばかりなのに、どうしたのだろうと、瞬きをする。

 辺りは、雨が降っていて、視界が悪かった。周囲は真っ白け。でも、空を見上げると、息を呑むほど満天の星空が広がっていて、不思議だった。


 ふと、左を見た時、きらきらと太陽の光のように輝きながら、遠ざかる影が見えた。

 彼だ。それがケンタウロスの形をしていると把握した時、咄嗟にそう思った。


 その姿に呼ばれるかのように、私は彼に向かって走り出した。走るのは初めてだったのに、驚くほど滑らかに足や手を動かしていた。

 ぬかるんでいる地面も、体中に当たる雨粒も、全然気にならなかった。それ以前に、濡れているという感覚がしない。私は、怖いくらいに無音の中を、必死に走った。


 彼はとても速い。私が見てきた中で、一番の速度を出しているのかもしれない。

 それでも、私はあきらめずに走り続けて、彼の真横に並んだ。叫び出したいほど嬉しかった。


 隣の私に気が付いて、彼がこちらを向いた。そして、そっと微笑んだ。

 彼の笑顔を始めて見たのに、私はなぜか懐かしいと思った。と同時に、彼に聞いてみたかった質問は全て消え失せて、ただ一つの疑問を口にしていた。


「私も、貴方のように輝く命になれる?」

「……もちろん」


 息一つ乱さずに、彼は穏やかな声色で言った。すぐに、こう続ける。


「君が、心から自由に走ることが出来たのなら」


 私も、彼のようになれる。そのことがただただ嬉しくて、私は満面の笑みで頷いた。

 その後は、二人でずっと走っていた。前を向いたまま、どこに行くのか分からないのに、こんな雨の中を、たくさんの星に見守れながら。


 延々と続くように思われたこの幸せな時間は、しかし、唐突に終わってしまった。


「僕はもう、ここまでのようだ」


 彼の声が、私よりも後ろから聞こえて、振り返った。彼の速度が、徐々に落ちていき、泣きそうな顔で私を見つめながら、完全に立ち止まってしまった。


「行かないで!」


 私はそう叫んでいた。走っているのは自分の方で、彼は止まっているのに、それは無意識の言葉だった。

 だけど、彼は再び走ることはなく、私も自分の馬体が別の生き物になってしまったかのように、このまままっすぐ走ることしか出来なかった。


 彼の姿は遠くなり、小さくなる。その内、雨に紛れて、影すら見えなくなった。この頃にはもう、彼は輝いていなかった。

 後ろを向いたまま、私は滂沱ぼうだの涙を流していた。彼にはもう会えない、その予感に、心が引き千切られていた。それでも、足は止まらず、ずっとずっとどこまでも走っていた。






   ■






 あの夢を見てから、十七日の間、誰も彼の姿を見なかった。私は、妙な胸騒ぎに襲われて、森の中や丘の上に目を凝らした。


「奴が死んでいるのを見つけた」


 森の中へ見回りに行っていたピーパさんが、そう告げた時、私は雷に打たれたような衝撃に立ち尽くした。

 ピーパさんは、それだけを報告して、去ろうとしたので、私は慌てて呼び止めた。詳しい話を聞きたがる私に、ピーパさんは不可解そうな顔をしていたが、全て教えてくれた。


「森から見上げることの出来る、丘の裾野の木の一本に、もたれ掛かるように倒れていた。穏やかな顔をしていたから、寝ているのかと思ったが、全く動かなかったな」

「どうして、死んでいたんですか?」

「右の前足の蹄が割れていて、そこから足が腐っていた。恐らく、あれが死因だろう」


 ありがとうございますとお礼を言って、ピーパさんと別れても、私の心は彼のことが離れなかった。

 誰よりも速く駆けて、光り輝く命を持っていた彼。そんな彼が、誰にも看取られず、ひとりぼっちで最期を迎えたなんて……。私は、禁足地の丘の上で、永遠の眠りについた彼を想った。


 その晩は、全く眠れなかった。夢の中なら、彼が来てくれるかもしれないと思って目を閉じても、瞼の中は暗闇が広がるばかりだ。

 夜が明けきる前に、私はそっと起き上がった。洞窟の中、岩のように蹲って眠っている皆をよけて、外へ抜け出す。


 なんとなく、湖の方へと歩き出した。朝露で濡れた草を踏むと、むわっとする緑の匂いがした。空は、小さな星が点々と残っていて、私を微かな光で照らしている。

 もうすぐ夜が明ける、清らかな空気があたりに漂っていた。そして、湖を目の前にした時、私は息を呑んだ。


 風のない草原の中で、湖は波を立てずにそこにあった。それは、静かな彼の瞳によく似ていた。

 芦毛一族が、生まれてから死ぬまでの間、ずっと見守ってくれているこの湖。私が、彼を正面から見た時に心を許したのは、その笑顔を見て懐かしいと思ったのは、いつも眺めているこの湖を思い起こさせたからだった。


 止まっていた足が、動き出した。私は今、心から走りたいと思っている。

 少しずつ、速度を上げていく。夢の中と違って、腕の振り方が滅茶苦茶で、四つの足がもつれそうだ。朝露で、足元がびしょびしょになる上、草が絡みついてきて、走り辛い。


 でも、私は走っている。自分の意志で。自由に。いつかの彼のように。

 心臓が、この上なく脈動している。私が巻き起こす、風の音だけが耳に入ってくる。外のひんやりとした空気に対して、私の体内は、火よりも熱く燃えている。


 嬉しい。楽しい。走るのって、こんなに気持ち良かったんだ。

 ううん。気持ちいいってだけじゃない。全ての感情が、今、爆発している。私は、走りながら笑い声を上げた。


 ――どこか遠くで走っている貴方へ。

 私も、心から自由に走るから。いつか貴方に追いつく瞬間まで。































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