天使
太陽のように輝く金髪に、透けるように白い肌。ぱっちりとした瞳。
それはそれは美しく、可愛らしい天使が、この地上にはいた。彼は、その作り物めいた見た目と同じく、神様に普通のひとの何倍も愛されていた。なんといっても膨大な財産を持つ侯爵の息子として生を受け、周りの者たちにはとても大切にされているのだから。
彼はこの世で醜いものは一切瞳に映すことなく、朝露を口にしたような純粋なまま生きることを約束されていた。
神の産物たる天使は、アスラ。
この世で最も美しい天使であるアスラは、しかし、中身までは天使ではなかった。彼は、屋敷の小さな暴君だった。彼が言うことは、誰だって逆らえなかった。父である侯爵は、息子を産んで死んだ妻にかわり、二人分の愛情をアスラに与えた。この子がこけたといえば、屋敷の庭の石すべてメイドたちに拾い集めさせ、この子が池に落ちたというと池を埋めてしまった。両親二人分の愛情をアスラは、父親たった一人からもらっていた。
アスラは常に、命令を下し、従わせることのできる立場にいた。アスラに逆らえば、すなわち、屋敷から追い出されてしまう。前も、アスラの我侭に手を焼かされた挙げ句に一人のメイドがくびになった。
アスラにとっては、メイドたちはいい玩具だった。なんといっても変わりはいくらでもいるのだから、気にすることなんてない。
なによりも、その可愛らしい天使を人は憎むことはできなかった。どれほど理不尽なことを強いられようとも彼が笑えば、たちまち心は幸せとなってしまう。彼が泣けば、その泣いた原因を殺してやりたいと思うほどの激しい悲しみに人は駆られるのだ。
アスラは、自分の魅力をよく理解していた。彼は生まれたときから、その魅力を利用して生きていた。天使は、傲慢さを持っていたが、それは人から無条件に愛されるが故のものだった。誰もアスラを憎んだり、恨んだりはしなかった。天使は、誰からも愛されるのだ。それは、至極当然のことといってもよいかもしれない。この話を聞いて、嘘だという者もアスラを見ればきっと真実、この世の誰からも悪意も向けられない者がいることを理解するだろう。悪意なく、ただ愛されるためだけに生きる者もいるのだ。
アスラは、多くの愛情ゆえに傲慢で、無邪気な残酷さを持っていたが、それすら人を魅力した。アスラは、メイドたちを辞めさせた。方法は、残酷で残忍だ。
まず自分のお気に入りのペンでも、指輪でもメイドのポケットに忍ばせて、あとはとられたと叫ぶのだ。そうすると、メイドたちは検査されて品が出てきたら両手に鞭打ち百回ののちに屋敷を追い出される。そのために屋敷を追い立てられた大半のメイドの手は血まみれだ。
アスラは、今日もそれをしようとしていた。彼は、一人のメイドをターゲットにして、自分の持っていた指輪をそっとポケットにいれたあと、いつものように叫んだ。盗まれた。こいつが僕ものをとったんだ。メイドは蒼白な顔をして、自分のポケットの中にはいっている指輪に驚き、震え上がる。その日、そのメイドの運がなかったといえば、侯爵がいたことだろう。侯爵は犯人のメイドを自分の部屋に呼びつけ、アスラの目の前で革のベルトで打った。二回、三回と力任せな折檻によって、柔らかい手の皮膚は切れ、血に染まった。メイドは悲鳴をあげて逃げようとしたが、そんなことを侯爵さまがお許しになるはずもない。彼は、メイドを椅子に縛り付けて、さらに叩き続けた。百回を数えるときには、メイドの手は、見るも無残なこととなり、声は悲鳴をあげすぎて潰れてしまっていた。アスラは、その様子を見て震えながら、笑った。彼は、残忍で残酷なことがだいすきだった。
自分の希は、どのようなことでも叶うのだと、アスラは父をみてますます思った。
アスラは父を愛していた。自分の希を絶対に叶えてくれる、それはとっても素敵な父だ。そして、そんなアスラを父も愛していた。
父がキスをすると、アスラは決まってくすぐったい気持ちにかられるのだ。髭が頬にあたり、つい笑ってしまう。父の抱擁は、かたく、温かい。この世界で、これほどにすばらしい人がいるだろうか。いいや、いるはずがない。風呂もメイドたちではなく、父が自らいれてくれた。着替えすらもやってくれる。着替えのとき、いくもの接吻をおとしてくれる。お前は美しいといい、閨で優しい一時は、アスラを満たしてくれた。
親子は、かたい絆で結ばれていた。それが、どれほどに歪んでいようとも。
だが、それもアスラが十を越えたときから、異変が起こった。
アスラは、十になると恋をした。
相手はメイドのテリーザ。彼女は、アスラとあまりかわらない年齢で働きだしていた。彼女の姿は、アスラの心を捕らえた。テリーザは、この世の人間の類に漏れず、すぐにアスラを好きになった。
わたし、あなたがすきよ。アスラ
今まで知らない甘い囁き……テリーザは、アスラの唇に接吻を落とした。交わされた口付けが、それは心地よく、さらに、もっと、求めたくなるものだった。
キスも知らないの? ばかね、私は、もっと知ってる
そういってテリーザが、アスラの体を、まさぐった。それは、知らない何か、だった。何か、という言い方は適切ではない。ただその行為になんという名がつくのか、アスラは知らなかった。アスラには多くの知識があった。父である侯爵が彼に多くのことを教え、導いた。だが、その知識の中には、この行為についての名前も、言葉もなかったのだ。
ただ気持ちよく、体がむずむずとして、そのまま、何かを吐き出した。
その日、アスラは、風呂にはいるとき、父に下着を見られた。
アスラ、お前は
下着を持って困惑とした表情の父にアスラは眉を顰めた。その夜だった。熱い夢を見た。テリーザの温かく、柔らかな乳房と、中にはいっていく感動。
そのとき、頭の中が真っ白になった。
アスラ! お前は
父の悲鳴によってアスラは起きた。汚れた下着が気持ち悪く思えたのに、怪訝としていた。そのとき、父――侯爵はアスラの腕を握り、ベッドに押し付けた。
どこでこのようなことをお前は憶えてしまったのか。
いたい。いたい、とうさま、やめて、やめて、とうさま
お前は、私だけの天使であったのに、お前は、私だけの娘だったのに!
父のあげた言葉に、アスラは意味がわからなかった。父が愛しているのは自分のはずだ。自分は、男なのに、どうして娘などと。
そのとき、はじめて父を恐ろしいと思い、嫌悪が走った。
テリーザが言っていたように、このようなことはまともではないのだろう。テリーザは、若いながらも多くを知っていた。娼婦といってもいい。十のときに父と交わったと自慢した。
今までもね、父を愛しているわ。そうよ、何度だってやった。母が死んだ日から、同じベッドで眠ってる。それで、父はいうのよ。私のことを愛しているって、おっぱいを吸って、泣きながらいうの。
けど、私、ある日、とうとう、父を受け入れてしまったのよ。それで子供ができたの。
赤ちゃんは奪われてしまったわ。父もいなくなって、私は、こんなところに来てしまった。けど、あなたに会えたわ。
どうして、あなたは交わらないの? そういうのは、異常よ
ねぇ、天使。そうよ、あなたは、天使。私に今の心を満たしてくれる。あなたは、父よ。
とうさん、私を愛して!
テリーザ、テリーザ、僕にはできない。父を愛しているが、この父を受け入れろというのだろうか、それは、ひどく嫌悪すべきことではないのか。
アスラは眉を顰めたとき、父の片手が、伸びてきた。
アナー。私の愛しいアナー、どうして、そんな汚いものを吐き出した。どうしてそんなものを知ってしまった? 私の愛したアナー、アナーよ、お前は私のアナー、妻にして娘、天使ではないのか!
やめて、やめて、とうさま。違う、僕は、アナーじゃない。とうさま、ぼくは、――人間だよ
悲鳴をあげたのに、手はアスラの肉体に触れ、力任せに――、
頭の中が真っ白に、なった。
愛しているよ、私の可愛い娘、そう、アナー。私を置いてなどいっていないだろう、アナー、私の愛したたった一人の人よ。アナー、お前は、私を置いていく事などない。お前が死んだなどうそをみんながいうのだよ。どうしてだろうな、アナー、君はずっと私の傍にいて、笑ってくれているというのに、アナー、私の妻よ
私の、天使
窓から太陽が差し込むのに、天使は微動だにしなかった。メイドたちが、この世で美しい天使の髪に櫛をいれて、整える。フリルのドレスと薄い紅をさした赤く染まった頬。この世で一番愛される天使だ。
その姿を侯爵は満足げに見つめていた。
「美しいよ。アナー」
アナーは、瞳を上げて、笑った。
太陽のように輝く金髪に、透けるように白い肌、ぱっちりとした瞳が、それば美しく、可愛らしい天使――美しい娘であった。
天使は、美しければ、それでよい。誰も、天使が何者かであることなど、気にはとめる者はいない。
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