深夜でも

「間違っていたのさ、結婚が」

 辛辣ともとれる一言のあと、冴子は上機嫌でパスタをほおばった。

 イタリアン料理が食べたいとの要望に室澤謙一郎は知っていた店に連れて行った。彼自身は、こんな洒落た店は大嫌いだったが、仕方がない。

 二十歳過ぎの外見と同じく頭も良く出来た女秘書が、素敵なお店と評価するだけはあって中々のところだった。――うっとおしすぎないボーイ、洒落ているが耳障りとはならない音楽も許せる範囲だ。

 だが、冴子は、そういうものは気にしないらしい。ようは、料理が美味しいか、まずいかということを重視していて、折角の窓側であってもろくに景色を楽しもうという気もない。

 彼女らしいといえば、彼女らしい。

「間違った結婚があるのか」

「あると私は思うよ」

 そういってワインを一口。

「ん、美味しい」

「お前の舌に合うワインだ」

「気障たらしい台詞だ」

 冴子はそういって笑った。ワインで少し酔ったらしく頬が赤い。元々、酒にあまり強くないが、飲むのは好きなのだ。本人曰く酒はほろ酔いが一番いいそうだ。

「こういうのいいなぁ」

「こういうの?」

「二人で景色をみて、美味しいものを食べるの」

「お前、景色を見てないだろう」

 室澤の言葉に冴子はむっと眉を寄せて睨んできた。口を尖らせる子供ぽい怒り方が冴子のクセだ。

「見ているさ。こういうのが十万ドルの夜景なんだろう、くだらないな。こんなものに十万ドルなら、私がほしい」

「十万ドルの価値をわかっているのか、お前」

「知らない」

 冴子は大口を開けてパスタをほうばった。

「ここのデザートは美味しいそうだ」

「いいな、それ。全部食べたい」

「食べられなかったのはどうする」

「持って帰る」

 冴子がそう言ったとき、携帯電話が鳴った。

 舌打ちを一つして室澤はとった。

「もしもし」

 話を終わる頃には冴子はパスタを食べ終わり、行儀悪くテーブルに肘をつくと頬杖で景色をみていた。

「すまない」

「いや、いいよ」

 冴子は景色を見ながら呟いた。

「デザートは今度のほうが、いい」

「冴子」

「極上の時間には言葉は無粋なんだそうだ。だから、かけるべき言葉はいつも控えめに」

「お前の新作か、それ」

 彼女の書くミステリィはありえないトリックと嘘の真実を書く。常に正義と悪は対立せず、正義が勝つこともないとも自分で知っていながら。

「私は恋愛小説はかけないよ。自分が人を愛せないんだから」

 冴子は笑った。


☆ ☆ ☆


 室澤が、その日、家に帰宅したのは、深夜の十二時を回ってからだ。

 一度結婚し、そのあとさっさと離婚した室澤の行動を制限する人間は今のところはいない。一人暮らしは、慣れていたし、そもそも室澤は結婚する気などなかったが、それが自分と彼女のためのささやかなつながりになっていた。恋愛というにはあまりにも冷たい絆だった。

 結婚式なんてあげずにただ結婚届を出すだけの味気ないものだった。彼女はそれで良いと言っていたし、自分もソレでいいと思っていた。思えば、結婚からして全ては彼女の我侭を通したようなものだ。

 離婚したあとは、事務所兼家になっている部屋に戻るのはいつも深夜をまわっていた。弁護士なんかをすると、いやでも付き合いがある。

事務所にはいると、電気をつけてウィスキーの甘さの漂うげっぷを一つ。電話の留守電の点滅ボタンを押した。一つは秘書から、もう二つは遠山から。最後に沈黙が流れた。悪戯か? 室澤が削除ボタンに指を伸ばす。

『ダンナ』

 冴子からだった。

『おやすみ』

 震えている声に室澤は携帯を取り出してすぐに冴子の携帯電話に電話をかけた。

留守電がはいってから一時間は経っていたが、きっと起きているはずだと信じて。


 家を出て行ってから、どこに引っ越したのか聞いていなかったし、冴子は住所を教えてはくれなかった。携帯電話は、結婚当時に買ったもので、まるで夜逃げ同然に出ていってしまった彼女が家から持ち去ったものだ。


 四度目のコール。ようやく繋がったが、無言。

「もしもし」

 やはり無言。

 寂しいなら、そういえばいいのに、意地を張りと笑いそうになる。だが、それは自分も同じだ。

「俺は、お前が好きだ。時々思い出すように、たとえお前が俺を騙したとして、逃げ出したとしても、たぶん俺はお前が好きだ。結婚したいと思ったほどに、離婚してもいいと思ったほどにはお前のことが好きだ」

 息遣いが聞こえてくる。

「お前が呼ぶなら、今すぐにお前のところまで行こう」

 時計を見ると、もう朝の一時だ。留守電に入っていた秘書と遠山の言葉を思い出すと明日もはやい。

「冴子」

 電話の向こうで吐息が聞こえる。

 掠れるような、声が聞こえてきたのに室澤は車のキィを握りしめてドアを出た。

「何か話そう、そちらにつくまで」

 君が夜に一人で寂しくないように

「極上の時間はやれないが、また酒と食事をともにしよう。冴子」


 言葉が多すぎるよ、ダンナ。冴子が笑った。職業柄、黙ったら死んでしまう生き物なんだと言い返した。

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