人形

 鼻腔をくすぐる香りは、真新しい畳からのものだ。その上に無造作に白い肌を晒した、何もまとわぬ娘は仰向けに転がっていた。白すぎる肌に、切りそろえられた黒い髪は肩ほど。胸はやや小ぶりに突き出し、淡いピンクの尖先に、女の秘密たる場所を隠すものはなく、羞恥もなく。まだ男を知らぬといいたげな娘は、ただ天を仰いでいる。その目が閉じられることもなく、そのきめ細やかな肌に芋虫のようなたるんだ皺くちゃな手が触れるというのに当然のことながら微動だにすることなく娘はただ天を仰ぎ、物言わずに穢れた存在を甘んじて受ける。娘は、ただ天を仰ぎ見ている。そうしている間に苦しげな発作のような喘ぎ声が漏れ出し、娘に覆いかぶさる。娘はただ天を仰いでいる。黒シミのついた肌と娘の白い肌が重なりあい、きぃきぃと軋み音をたてるが、それは物言わぬ娘の悲鳴のようにも聞こえれば、生まれたところに帰る喜びのようにも聞こえる。ただ娘は天を仰ぎ見ている。硝子球の瞳は深色で、何も映しているのかはまるで解らない。

 今日もまた、娘は犯された。私は、それをただ見ている。


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 その話になったのは、どういう経緯であったのか。私はいまさらだが、良く覚えていない。ただ雰囲気のよい居酒屋のカウンターの端にたまたま横に座った老人が、ぽつりと漏らしたのだ。

「娘なんですよ」

「ほぉ」

「旦那、信じてはいませんね」

 老人はしたり顔で断言するのを見るのは良いものではなかった。餌箱に顔をつっこんだ溝の鼠を思わせるほど老人は、ひどく汚かったのだ。垢まみれの上に染みのついた薄茶色にくすんだ肌はつんっと鼻につく汗のすっぱさと生魚が腐った匂いがする。それも髪の毛は白と黒が程よく混ざったものであるが、その白はフケ交じりで油断すると、ぽろぽろと落ちてくるのだが、老人はまるで気に留めることはないようだ。歯もやにで黄色に変色し、見た限りでは前歯は上に一本、下に三本しかありはしない。ともかくこの世の醜くさというものが形をなして人となった姿である。もし、店がいっぱいでなければ、横に座ることなんぞ遠慮しただろう。

 私は熱燗に口つけた。

「私には、私を愛してくれる娘がいるのですよ」

「そんなまさか」

「では、見ればいい」

 この老人の鼻を明かすのは悪いことではないだろう。ここまで自信満々にいうとは、なかなかに面白い。私は酒に酔っていたのもあり、老人の言葉を快く受け取った。なによりも、その娘が本当にいるとして、どのような娘なのか。見てみたかった。ようは悪乗りをしたのだ。


 男の連れてきた家は、貧相なものであった。家と言ったら一般の家に対して失礼ではないのかというほどに板をあわせたもので、入り口は板を外すと現れる小さな穴で身を低くせねば入ることはできない。おかげで腰を痛めてしまった。男の家というものにたどり着いたときには、もう酔いが冷めて、己の愚かしさに辟易しており、さて、どうやって逃げようかと考えていた。このような汚いところに娘がいるはずがない。

 そう思っていたのも束の間、娘がいたのだ。汚い蝿のたかる住まいに、唯一、美しい畳の上にちょこんと赤い着物を纏った娘が、笑っている!

 それを見た瞬間の私の感情は、なんといえばよいのか。鳥肌が立ったのだ。全身の毛が泡立ち、首の裏がむずむずとする。期待と、不安に恐怖が混じったようなものであった。私は叫びだしそうになっていた。

 私の興奮を見て取ったのか男が、にやにやと下品な笑みを浮かべると、そのまま娘に近づき、無造作に抱き寄せた。なんて、腹の立つことか! 私は、男を殺してやりたくなった 。ああ、このような美しい娘に触れるなど、嫉妬で胸が引き裂かれそうだ。たった一目であるというのに私は娘に心が奪われていた。

「これは人形ですよ、ダンナ」

「人形」

 まるで生きているかのような代物だというのに、人形ではないか。生きていないものではないか。だが、それは、まさに人間そのものではないか。

 暗闇ゆえ錯覚だろうか。娘が私に向けて笑っているように見えるではないか。

「だから、恐れることはございませんよ」

 けけ、けけっと男が笑って娘の――ああ、この娘は人形であるが。その服の中に手を忍ばせていくではないか。男のなんといびつで、劣情に身を任せた行動なのか。男は私の目の前で人形の着物を脱がせ、辱めるため、乳をさらしては笑うのだ。





 これは人形なのですよ。さる人形師が作り出した代物でね、それを譲り受けたのですよ。この娘に出会い、愛してしまい、妻は出ていき、家は荒れていきました……それでもいいのですよ。この娘さえいればいいのですよ。私のちょいとした楽しみはこの娘を人に教えて、その前でね、この娘を愛することなんですよ。ええ、悪趣味でしょうが、私のような男が、こんな美しい娘を持ち、愛している。それを自慢せずにいられるでしょうか。いいえ、できません。なんといってもこの娘は美しい。誰もがこの娘を愛してしまい、そしてそれゆえに嫉妬する姿のなんと滑稽で、嗚呼、ダンナをバカにしているわけじゃありませんよ。たた老人のささやかな楽しみなのですよ。ご理解ください。ねぇ、ダンナ。





 ――老人は、美しい娘を犯すのに私はただ見つめていた。そして、魂が抜かれたようにして、家に帰って、ようやく自分が下着を汚していることに気がついた。




 ――あの娘をなんとしても己のものにしなくはてはいけない。


 私は家に帰り着くと、漠然とそう思った。あの娘こそ、私の求めていた者なのだ。私は、そうして毎夜、毎夜、あの汚らしい老人の家へといっては人形を見続けた。最初は、それだけでよかったのだ。だが、そればかりでは飽き足らなくなったのだ。あの娘がいるのだ。あの娘を自分のものにしなくてはいけない。


 ――あなたは、人を愛せないのよ


 婚約者が私に向けて吐いた言葉は未だに呪のように私を支配している。私の肉体は女を愛せない。どれほどに必死になっても、いや、必死になればなるほどに。婚約者は、そんな私を愛してくれた。だが、私がどのような努力をしても虚しさばかりとわかると男を作って逃げていった。あの人形に私は劣情を煽られた。あの人形を自分のものにすれば。そうすれば。私は


 ワタシヲアナタノモノニシテ


 娘はそう言っているようではないか。そうだ。あの娘はそう思っている。私のことを求めている。私はその日、スパナを片手に老人のもとに向かった。これで老人を叩き殺そう。私はそう思ったのだ。そうして娘を手に入れる。


 人を殺すのは罪だ。

 私は、そのとき狂っていたのだろう


 その日も老人のもとに行くと、老人が倒れていた。見ると、死んでいたのだ。憐れなことに、老人は度重の疲労などがたたって死んだようだ。

私は、老人の死体の前で立ち尽くし、不本意にも泣いた。そして、警察を呼んだ。

 警察での事情聴取は簡単なもので、老人とは知り会いと言った。私は嘘偽りなく証言し、老人の死は栄養失調であることが明らかで、そのまま家へと帰された。

 私もあの老人になるのだろうか。

 私の部屋の片隅にいる娘を見て思った。お前はこうして私たちを殺していくのか。あれほどに刹那に欲していたのに老人が死んでしまって、私の欲望はなくなってしまっている。いずれは――この人形を隠したことがなによりも明確ではないか。私はこの娘を抱くだろう。そして、死ぬだろう。それでも、構わないと私は思いながら笑い、そっと目を閉じた。

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