黄昏のささやかな奇跡

 エイダは目を覚ましたとき、自分は今、自分が殺してしまった娘の肉体にいるのだと理解した。

 ひどく不思議な気分だが、それも今の状況を考えれば無理はないことだ。

 エイダは三十五歳のときに妊娠して、そのとき、すっぱりと中絶した。仕事のほうが大好きで、楽しくてたまらなかったのだ。医者は女性であったが、中絶を非難することもなければ、賛成する人でもなかった。ただ、中絶した理由を尋ねてきたのにエイダはなんら感慨もなくあっさりと答えた。

 ――仕事のことを考えたいから。

 まさか、一人で子供を産むなんて考えられない。エイダが、そのとき関係を持っていたのは同僚のペーターだけだったが、彼はエイダが妊娠していることだって気がつきはしなかった。彼はエイダがくたくたになって帰ってきた自室の、しかも寝室のベッドの上でいつも自由なときに裸で待っているだけの、あとは冷蔵庫のグルメを一人で楽しく味わうような身勝手な男だった。

 その命があったことはエイダと、医者しか知らないことだ。


 エイダは、ゆっくりと起き上がって殺してしまった娘の手を見た。私と同じ、けど、少し黄色かかっている手。年齢は、十五歳、高校に入って、今日はとびきりいやなことがあったの。そうよ、失恋したの。最悪なことに、その男の子は自分のラブレターをふれまわった。明日、どんな顔をして学校にいけばいいのか、わからない。

 エイダは自分の殺してしまった娘の今日一日を回想した。


 自分が、産むことなく殺してしまった娘の肉体にいるなんて変な気分だ。正確にいえば、自分が産むことなく、殺してしまった娘の魂が転生した肉体。あら、これってややこしいわね。エイダは苦笑いしながら、ふとこんなややこしいことなのにちっともびくびくしたり、不思議に思わない自分の可笑しさにくすくすと笑いそうになった。そして、同じくらいびっくりするのが、自分は今、この娘を守らなくてはいけないという母性愛に目覚めているということだ。

「リツコ、心配しなくてもいいのよ。そんなこと」

 エイダはリツコの唇を使って慰めをいう。この言葉が、リツコ自身に通じているかなんてわからない。

「あなたを傷つけるものは私が許さないからね」

 今更だけど。


 エイダは仕事が楽しくて、母親になることを拒んだ。それは今だって正解だとおもっている。ペーターに相談したとして、彼がエイダのよき夫になったかといえば、答えはノー。

 身勝手な愛情を押し付ける母親になるなんていやだった。エイダは心の中で愚痴るようにいった。けど、今は心の中に溢れるばかりの愛情がある。自分が否定した魂と肉体。リツコ。それが私の娘の名前。黒髪に黒い髪。そう、女の子で、日本人。私はイタリア人なのに……ま、そういうこともあるわよね。

 エイダはリツコの黒髪をくしゃくしゃと手で撫でた。癖っ毛で、ちょっといじったり手入れを怠けるだけで傷んでしまう。エイダはストレートヘアで、髪の毛が癖なんて一度もつけたことがないのでその問題はわからない。けど、どうしてリツコの悩みを瞬間的にわかるのかしら――たぶん、同じ肉体だから? ――悟ることができた。

「そういうのもチャーミングよ。リツコ」


 エイダはリツコの肉体で、外に出た。リツコの家は一軒家、両親は父と母ともに健康で仕事と家庭を大切にすることを第一にしている。

 夕方近くで素肌には叩くような痛みのある冷たい風が吹いている。コートを着てくればよかったと後悔したが歩く足は緩めなかった。

 もし、今、私に起こっていることを人に話したら、きっと頭がいかれていると思うにきまっている。そうよね、だってこんなややこしいことですもの。

 エイダは軽く伸びをして歩いた。いやなことがあるときは、歩くのがいい。リツコには見慣れた町並みだが、エイダにとってははじめての町並み。家が立ち並び、舗装された道路。少しいけば、コンビニがある。

 どうして今更、愛情なんてものが湧き上がってきたのだろう。

 たぶん、それはリツコの肉体にいるせいだ。

 人間が、ちっぽけで、小さいということをリツコの肉体にいるエイダに再確認した。昨日の夜、エイダはオフィスで、お気に入りの革張りの安楽椅子に腰掛けて仕事をしていた。仕事が大好きで、それをしていることが喜び。だから人がなんといおうと気にしない。けれど時々、感じる。寂しという名の焦がれるような気持ち。

 身勝手な愛情を今更抱いて、なんになるというのかしら。

 エイダは自分のセンチメンタルな気持ちに笑ってしまった。

 エイダが女として生きることを割り切るきっかけになったのは、学生時代に好きになったレックスのせいだった。ハンサムで、部活はラグビー。エイダは彼に一目で恋に落ちた。だって、笑ったときの白い歯がとっても素敵だったんですもの。エイダは学生のときから男性たちにもてた。抜群のプロポーションで在学中、学校の美女コンテストでは毎年一位をとり続けたのは密かな誇りだ。ただし、みんなが知らないところで自分の胸が大きいことやお尻の大きさとか気にしていた。レックスのことを好きになったときだって、自分の人から褒められる肉体に思春期らしくいつも不満をもっていた。だからレックスがデートをオッケーしてくれたときは嬉しかった。人生の一代決心だったから、がんばってお化粧をして服だって選んだ。いざデートにいって、映画をみて楽しさに満足して、その夜にキスをした。初めてのキス、そのあと、レックスと付き合ったが、実は二股をかけていることを知ってエイダは途方に暮れて、悲しくて、悔しくて、たまらなくなった。それも自分のほうが二番目であることを知ったときの怒りはひどかった。レックスは男友達にいかにエイダの肉体がよかったかということを自慢しているということを知ったときのあの失望。

 男は信用できない。レックスの与えてきた愛情は偽者で、エイダを少しだって満たしてくれなかった。その日からエイダは自分で利用できるものは利用し、男を目の敵にして生きてきた。それが自分をもてあそんだ男に対するささやかな、復讐だったが、それは人生を捧げるほどのものかといえばそうでもない。そのうち、復讐ではなくてただ本当に仕事が楽しくなっていった。

 今の生活だって気に入っている。仕事をして、お酒を飲んで、好きに快楽を貪るのだ。

「男なんてそんなものよ」

 茜色の道を歩きながら、エイダは言った。

「欲望丸出し、優しくなくて、ひどいやつらよ」

 エイダは言いながら笑った。それと同じようなことを自分もやりかえしてきた。まるで小さな子のやりあい。なんて汚い人生なのかしら。楽しいといえば楽しいけど、何も残らないといえば何も残らない。

「だから、リツコ」

「前田さん」

 呼ばれてエイダはふりかえった。

 学生服を着た、息を切らした男の子。頬にちょっとだけニキビがあるのが中々に可愛らしい顔立ちをしている。その男の子の手にくしゃくしゃにされた手紙があったのにリツコの体が反射的に震えた。

 男の子は無言でくしゃくしゃになった手紙を差し出した。それはリツコが出したラブレター。最低の末路を辿った、もうみたくない手紙。

「手紙、のけておいたから」

 男の子が真っ赤になって俯いて頭をさげる。

「泣くなよ。あいつが最低なんだ」

 リツコの肉体は固まったまま動かないのにエイダは眉を顰めた。

「こんなことされても、困るわよ」

 エイダは冷たく言った。もう、関わらないで、もうリツコを苦しめないで。

「そもそも、あなたには関係ないでしょ」

「許せなかったから」男の子は顔をあげた。顔が夕日みたいに真っ赤で、目は真剣だった。

 リツコの肉体が震えだしていた。エイダは驚いたのは頬に伝う冷たい何かを感じた。涙。泣いている、リツコが

「ごめん」

「なんで、あんたが謝るの?」

「とりあえず、ごめん!」

 男の子はそういってリツコの手に手紙を押し付けて、背を向けて走り出した。その背を泣いているリツコはじっと見ていた。

 エイダは呆然として、そして自分のいま、やりかけてしまった過ちに気がついた。リツコを護ろうとして男の子を引き離そうとした。これが正しいこと? 今、リツコは泣いている。この涙は悔しくて、悲しいだけなのだろうか。リツコも私のように男を憎んで、何も残らない人生を歩ませたいの? ――違う。そういうわけではない。とすぐさまに心のなかで否定した。リツコにとって、どれが一番いいかなんて、わかるわけがない。ましてや決定する権利などエイダにはないのだ。そう、一度全てを手放したエイダには。

 私の時には、あんな子、いなかったわ。

 エイダは心の中でリツコに言った。

 よかったわね。

「最低な男にひっかかったら、次にいい男に出会えればチャラよ。リツコ」

 エイダは優しくいって頭をくしゃくしゃと撫でて目を閉じた。

 次に起きるのは、すべて元通り。自分はオフィスでせこせこと仕事をしているだろう。きっとこれからもエイダの人生はかわらない、変えたりしない。こうしてずっと生きてきたんですもの。それがエイダの誇りだ。――ただ、ほんのささやかな、奇跡を見れて、よかったと思えた。

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