月の電話

 文明の発展から得られるものは自由である。

 その一行をキーボードで打ち終わると、僕はできあがった原稿をメールで出版社に送るとパソコンのスイッチを切った。

 僕が一日の仕事を終えてもう泣き出してしまいたいほどに疲労に喘いでいるにもかかわらず、友人たちは実に悠々と本日のお菓子はなにかと尋ねてくる。この友人たちは非常に我がままで、またとても繊細だ。お菓子は僕の手製でなくてはいけない。時間は必ず三時。そして二日続けて同じものは絶対認めない。僕は彼らのためにも必ず三時の前には台所に向かう。いや、その一時間くらい前から仕事にはならない。なんといっても今日のお菓子はどうしよう、ああしようと悩んでしまうから。

 彼ら――三人は非常にグルメで、それぞれに好きなものが違う。甘いクリームを愛する者、チョコを愛する者、フルーツを愛する者とそれらの好みにあったものではないとそれぞれから文句がついてしまう。意外と僕は彼らにお菓子を作ることも、彼らの文句も好きなのでここらへんは苦にならない。

 本日は、仕事が終わったあと、すぐさまにスコーンを焼いた。その上に白くふわふわの生クリームをたっぷり、真っ赤なイチゴ。

 コーヒーは僕の好きなモカにした。

 豆から時間をかけて淹れたおかげで部屋いっぱいにコーヒーの香りがする。彼らは紅茶が大好きなので、彼らの分はちゃんと別に用意する。今日はウヴァ。薄い紅色がカップを満たし、傍らに置いてあるミルクを垂らすと、白い液体がふわりと溶けあっていく。

 友人の一人はその様子を見てにこりと笑った。彼は紅茶が三人のなかでとても大好きなのだ。匂いを確かめ、うむ、これはいいとスプーンをとると紅茶を飲み始める。ちょび髭の几帳面な彼はすでにフォークで本日のお菓子と戦いをはじめ、もう一人のおなかがはちきれそうなほどに出た彼は角砂糖を大切そうに両手に抱えている。

 電話が鳴った。

 僕はこの家に電話なんてものがあったのかと心底驚いて立ち上がると音を頼りに電話を見つけ出して、受話器をとった。

「はい」

「……」

 息遣いだけが聞こえてくる。

「あの、もしもし」

 僕は少しばかり苛立った口調で切り出した。せっかくの友人との時間を邪魔されて腹を立てていたのだ。

「私、今から死ぬから」

「はぁ」

「だから死ぬから」

 甲高い、ヒステリックな声に、僕は胸を乱暴に掴まれたように目を瞬かせた。

 彼女はなにゆえに――声では女性だ。――僕にそんなことを告げているのだろうか。

「あの、間違い電話ではありませんか」

「私は、今から自殺するから」

 そんな宣言をされても。

「どうぞしてください」

 受話器の前で彼女が息を飲むのがわかった。

 無頓着に友人たちが騒ぐのでそちらに視線を向けて、ああとため息をついた。

「あなたのところから月は見えますか? 今日はとてもきれいなんですよ」

「月?」

「ええ。空を見てください。黄色の」

「月なんて灰色じゃない」

 彼女は怒りをもって吐き捨てた。

「灰色ははじめて聞きました。あなたのところから月は見えますか? 今夜はとてもきれいだ」

「……見えるわ」

 彼女は自棄のように言い返したあと、ため息をついた。

「きれいだわ」

 僕と彼女は今同じ月を見ているのだと、その一言に確信した。

 僕は椅子に腰かけて、月をまじまじと見つめた。

 月はよく塗り込んだ夜色のなかで、周囲にある星の光すら奪って自分こそが王者だと言いたげに淡い色を放って空に君臨している。女王さまだ、と友人が口を挟む。

「そうか、女王さまか」

 僕は友人の言葉に相槌を打った。

「あなたは変ね。死ぬっていうのに、月なんて見て」

「だって君が死のうが、生きようが僕には関係ないことだし……いて」

 几帳面な友人が僕のことをぎろりと睨みつけ、フォークを構える。さながらお姫様を守る騎士のようだ。

 僕は慌てて逃げたが、彼のフォーク捌きは見事なもので僕の左手は穴があくほどに突かれた。

「そこに人がいるの」

 受話器の向こうで彼女が再び息を殺すのがわかった。獲物を狙う猫のような吐息だ。きっと身も縮めて今にも爪を出そうとしているに違いない。

「うん。友人が三人、紅茶を飲んで、お菓子を食べているんだ。今はおやつの時間で」

「こんな時間に」

「君はこんな時間に自殺するじゃないか」

 僕はわざと軽く言い返した。とたんにフォークが僕の手をつついた。いたい、と僕は囁いて友人を見た。友人の目は僕のことをとても軽蔑していた。

「謝るよ。ただ、今の時間におやつを食べてはいけないという法律はないよ。僕はこの時刻には仕事の休憩に入るんだ」

「仕事ってなにをしているの?」

「ライター」

 僕はそっけなく言い返した。

 僕は自分の仕事がそこまで人に誇れるものではないことをちゃんと心得ている。お金をもらって文章を書いているのは飢えないで済むというためのもので、クリエイターであるというプライドとか自意識とかはない。

 他人にだって僕ぐらいの文は書けるはずだ。ただ外の世界と関わりたくない僕の生きていく手段がこれしかなかったというだけだ。

「へぇ」

 彼女はとても冷めた声で言い返した。背後で、がざりと音がした。座ったのかもしれない。

「友人が三人もいるっていうけど、その人たちと一緒に暮らしてるの?」

「うん。彼らはいつもこの時間におやつを食べるんだ。……今はテーブルの上で、紅茶を飲んで、スコーンを食べてる」

 僕はそう口にしたあと、いけないと思い直した。友人のことを人に話すべきではないと医者に忠告されたし、心優しい友人たちもみんなそう言ってくれた。大抵の人はそれを受け入れられないのだと、何度かの経験でわかっている。忠告してくれた友人たちはすべて僕の元から去っていったから。恋人を亡くした日からテーブルのうえにいる三人の友人。部屋から一歩も出られない僕を彼らだけが未だに見捨てずにいる。

 僕は月を見たまま、彼女の声がまるで輝きによって潰されてしまう星のように儚く消えてしまうのではないかと危ぶんだ。

「どういう人たちなの?」

「……五センチくらいで、いつも黒いスーツをきてるんだ。笑顔の紳士と、几帳面な紳士、ふとっちょの紳士がいるんだ。……笑顔の紳士は紅茶が大好きで、几帳面な紳士はいつもフォークを片手におやつと戦うんだ。ふとっちょの紳士は角砂糖が大好きでいつも抱えている。彼らには名前はなくってね、だからまとめて友人と呼んでる。けど、それぞれ個性が違うから絶対に間違えない」

 一気にまくしたてて、呼吸すら忘れたまま僕は彼女の声を待った。

「そうなの」

 僕は自分がとても胸をどきどきさせているのに気がついた。

「いいわね」

 彼女の反応は嘘か本当か電話ではまるでわからない。だがその冷静な声を聞いたとき、すっと心臓が静かになるのがわかった。

「ありがとう。友人たちを受け入れてくれたのは君が、そうだね。はじめてかもしれない」

「そうなんだ」

「君はなんで自殺するの?」

 僕の問い掛けに電話の向こうで再びがさり、と音がした。

「今度教えるわ」

 それが冷たい拒絶ではなく、本当に今度また電話をしたときに教えるといいたげで僕は嬉しくなった。

「そっか。あ……君にプレゼントがあるんだけど」

「え?」

「ふとっちょの友人から、角砂糖を君にあげるって」

「本当? ありがとう」

 本当に嬉しそうな声なのに僕はなぜか鼻先につんとした痛みを覚えた。文明とは自由である。僕は部屋から一歩も出なくても生きていけるだけの自由のなかにいる。彼女もたった一人で生きるだけの自由のなかにいる。僕らはまるで輝けない星のように孤独のなかに一人ぼっち。それでも僕らはこうして見えない糸で繋がって声をかわしあっている。それも文明のおかげなのがどこか滑稽だ。

 あ、そっか。これは月の繋げてくれた電話なのか。あの美しい女王は微笑みながら時々人の運命を弄ぶ。今日はきっと機嫌がいいんだな。

「そろそろ空が白けるよ」

「あー、八時からまた仕事なのに一睡もしてないわ」

 彼女の嘆きの声に僕は笑った。

「おつかれさま。少し寝るといいよ。おやすみ。次に起きたときのためにおはよう」

「おやすみ。おはよう」

 僕らは電話をきった。

 あんなにも世界を照らしていた月がもう消えてしまい、空が白く染まっている。

 僕はテーブルのうえにいる友人たちに微笑みかけて、休憩の続きを楽しむことにした

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