私は防音室の隣の自分の部屋に入って椅子に座ると、漏れ聞こえるピアノの音に耳を澄ました。


ゆっくりゆっくりだけど、すこしずつ。

少しずつ出来るようになってるみたいだ。

前回より難易度が高い音列が聞こえている。

レッスンの進行もスムーズ。


「よかった」


私は、勉強机の二番目の引き出しを開け、その一角を埋め尽くしている数十通の武君からの手紙を改めて眺めた。


「ほんとによかった」


中学を卒業して、私は芸術高校に進み作曲を専攻し、武君は地元の商業高校の夜間部に進学した。

武君が夜間の高校を進学先に選んだのは、家業の雑貨店を昼間はみたいという理由からだった。彼はもともと学校の成績は悪くない。高校入学時には、商業系の資格もすでにいくつか取得していたのだ。

彼の将来の夢は、家業の雑貨店を大きくすることだった。


こうして、武君と私は各々の進みたい道を進んだ。

しかし、わかっていたこととはいえ、生活のリズムが二人まったく違うと、会える時間が全然なくなってしまった。

お互い学校に通って時々メールを交換して、高校生になってから一度も会えないまんまに訪れた梅雨のある日。


夕暮れのどしゃぶり雨の中、私の帰宅を待って、武君は合羽を着て私の家の前に立っていたのだった。


「どうしたの?武君。びしょびしょ。学校は?」

「うん。今日は休んだ」

「大丈夫なの?」

「うん。それより伝えないと」

「何を?」


濡れている武君を傘に入れようとしたら彼はそれを拒んで、そのまま私にこう告げたのだ。


「ひろみちゃん。俺たち、別れた方がいい」

「え?」

「そうしないと駄目だ」

「なんの話?」

「よく考えた。ひろみちゃんはひろみちゃんの行く方向がある。それには、それに適した相手じゃないと」

「ちょっと何言ってんの?」

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