2章 イヤーマイナスナイン

2-1


【9年前】


 少年が一人、河川敷で小ぶりなハンマーを振り下ろしている。

 時刻は夕暮れ時。少年がハンマーを振り下ろす度、ぐちゃりという嫌な音がする。しゃがみこんだ少年の足元には、つい数分前まで近所の子供たちから目をかけられていた捨て犬『だったもの』が転がっている。

 ハンマーを振り下ろす少年の顔には、およそ人らしい感情という感情がなかった。良識ある人間が見たのならば、間違いなく嫌悪と憎悪を抱くであろうほどの無機質な、無表情だった。まだ顔のない妖怪のっぺらぼうの方が、見ていて安心できるだろう。


「おい、ガキ。それはお前の犬か」


 少年の後ろから女性の声がした。その声は何十年も生きてきた老女のようにも聞こえたし、自分よりも少し年上のお姉さんのような聞こえ方もする、不思議な声だった。

 少年は少し首を動かし、横目で声の方を見る。夕日で目がくらみ、女性の顔がよく見えない。彼女の服装はどこかしこもボロボロで、靴は壊れかけのサンダル、異臭が漂い、浮浪者の典型のような見た目をしていた。だが、背筋はしっかり伸びており、その姿はどこか威厳すら少年に感じさせた。


「もう一度聞く。それはお前の犬か」

「……いいえ」


 少年が否定の言葉を発した瞬間、少年の体は吹き飛び、川の中へ転がり落ちた。浮浪者の女性が蹴り飛ばされたことに気づくのに、少年は時間を要した。


「じゃあ、ここであんたを殺しとかないとね」


 女性は少年が川の水をむせこんでいるところへ近づき、うずくまった少年の腹にさらに蹴りを見舞う。少年の体から空気という空気が押し出され、少年は口を魚のようにぱくつかせる。

 しかし、そこまでされても、少年の顔面はお面を張り付けたように無表情で、苦悶を浮かべることはなかった。そこから逃げ出すことはせず、抵抗もしなかった。


「あんたみたいな動物に手をかけるクソガキは、いずれ人に手をかけるようになる」


 女性が頭をかくと、フケが飛び、下にいる少年に降りかかる。


「そうなる前に殺しとく。あんたみたいなのはまず、あたしらみたいなのを狙うから」

「……」


 少年は女性の言葉に自己弁護はしない。息を整え沈黙して見返す。その姿はその女性の言葉を肯定しているようですらあった。


「殺す前に聞いとくよ。なんであの犬殺した」

「僕が悪人だからです」

「本でも読んで影響されたか、クソガキ」

「僕が両親を殺したからです」


 少年の言葉に老女の表情が一瞬動く。予想外の答えに、興味がわいたのだ。


「僕は両親を殺しました。妹に寂しい思いをさせることになりました。僕は悪人です。だから悪いことをします」


 少年の弁明はまるで、ふた昔前のSF映画にでてくるようなロボットのようだった。人間になりたいロボットが、自分を人間だと言い聞かせるような、必死に自分の存在を規定して自我を保とうとする哀れな言葉だった。


「お前が自分の親殺そうが、こっちは知ったこっちゃないよ」


 女性はまるで神の裁きを代理するように、少年を見下ろし告げる。


「そこの臭い犬にも関係ないことだし、お前みたいなクソガキは死んだほうが地球のためにいいだろうさ」


 少年はその裁きを受け入れていた。口には出さなかったが、いっそ殺してくださいと懇願したいほどだった。

 だが死の審判は下らなかった。


「だがせっかくだ『クソ』には『クソ』なりの役立ち方がある」


 女性はしゃがんで少年と同じ視線になると、少年の顔を見据える。


「クソガキ、お前の殺した親と犬の命へ償う『贖罪』のチャンスをくれてやる。償わないなら今ここで殺す。どうする」


 少年は女性から目をそらす。


 殺してほしい。


 そう口に出してしまいたかった。

 だができなかった。

 言葉が唇の先まで出かかったとき、妹の顔が浮かんだ。事情を何も知らない妹の顔。両親が死んだときのように泣きじゃくる妹の顔。叔母の家で、肩身の狭い思いをするであろう妹の顔を。死にかけていた少年の心に、ほんの僅かに、一瞬で消えてしまうようなか細い、だが確かに火が灯った。


「……償います。僕は何をすればいいですか」


 少年の答えに女性は歯の抜けた口で意地悪く笑う。


「お前の力を、この街に還元するのさ」


 ◆


 次の日から、少年は放課後に女性の元に通うようになった。妹は叔母の仕事が終わるまで、いとこに任せていた。一人っ子のいとこは、兄弟のような存在ができて嬉しいのか、妹の面倒をよく見てくれている、今頃はガラス張りの綺麗な図書館で、絵本を妹に読んでやっているのだろう。少なくとも、ホームレスの女性が根城にしているおんぼろキャンピングカーの近くには連れてこないはずだった。

 少年は、キャンピングカーのドアの前でワンカップ酒を煽る、浮浪者の女性にお辞儀とあいさつをする。


「師匠、おはようございます」

「来たな、クソガキ」


 女性は少年に自分のことを『師匠』と呼ばせていた。

 師匠は飲んでいたワンカップの空きビンを川に投げ捨てると、黒い棒を穴の開いていないポケット取り出す。彼女曰く『間抜けなサツから貰った』というそれは、伸縮式の特殊警棒だった。


「よし、やるか。クソガキ、構えろ」


 師匠の呼びかけに、少年はランドセルを下ろすと、中から小ぶりな鉄パイプを取り出す。師匠が数日前に少年に与えたものだった。少年は鉄パイプを両手で構えるが、師匠の横薙ぎの打撃が肩を打つと、痛みで鉄パイプを取り落とす。

 少年は急いで拾おうと手を伸ばすが、すぐさま後ろに飛び下がった。少年がいた場所へ、警棒が振り下ろされる。


「学習したなクソガキ。昨日より大分いい」


 ここ数日、少年は浮浪者の女性から、今のような戦闘訓練を受けていた。訓練といえば聞こえはいいが、隙を見せたらすぐさま攻撃を浴びせかけられ、目つぶし、かみつき、なんでもありの暴力の嵐を女性から受け続けるという、体系的なものはなにもない、リンチに等しいものだった。顔は避けられていたが、少年の体はいたるところ痣だらけだった。11歳になった少年は一人で風呂に入れていたため、叔母に露見することはなかったが、それでも傷を周りに隠すのに苦慮していた。


「さぁ、避けたがどうする。武器はないぞ、クソガキ」


 師匠の挑発的な言葉を浴びながら、少年はポケットに手を忍ばせていたものを取り出す。


「今日は考えてあります」


 少年の手にはカッターナイフが握られていた。自身より強大な力を持つ師匠でも、刃物なら臆するのではないかと、小学校の図工室からくすねてきたのだ。師匠も武器の持ち込みは少年に許可していた。

 しかし、それを見た師匠は怯えることなく、逆に憤怒の表情を浮かべると少年の手をカッターナイフごと掴み上げ、投げ飛ばした。地面に打ち付けられる少年に罵声が浴びせかけられる。


「馬鹿野郎! 殴られ過ぎて最初に教えたルールを忘れたか?! あぁ?!」


 師匠は少年を見下ろし、その体を踏みつける。


「『力を還元するときのルール』を復唱しろ、クソガキ!」


 師匠の怒声と対象に、少年は消え入りそうな声で答える。


「自分より弱い者のために戦う」

「悪人を打ちのめす。命は奪わない」

「犬猫を傷つけない」


「そうだ。刃物は使い慣れてないとあっという間に殺しちまう! お前みたいなクソガキには早い! 出直してこい! 

 師匠は激怒したまま、うずくまる少年に背を向け、キャンピングカーに戻ってしまい、その日は出てこなかった。


 ◆


「ルールは頭に叩きこんできたか、クソガキ」

「はい、昨日は申し訳ありませんでした」


 少年は次の日も師匠の元を訪れた。いつもと同じように鉄パイプを構え、師匠と打ち合う。

少年は成長していた。身の躱しは日に日に洗練され、長く師匠と打ち合えるようになっていた。だが、体格の差や技術の差は、すぐに埋められるものではない。この日も、数度警棒と鉄パイプが重なったあと、少年の手から鉄パイプが弾き飛ばされた。師匠は下衆な笑顔を向け、少年に迫る。


「さぁ、どうする。昨日と同じだぞクソガキ」

「……考えてあります」


 少年は師匠が最大限自分が迫ったのを見計らい、ポケットから黒い物体を取り出す。

 少年の手に握られていたのは、小さく黒い拳銃だった。少年が引き金を引くとパン、という乾いた音と銃口から閃光が飛び出す。無論、本物の拳銃を準備したわけではない。駅前のビルの中にある、駄菓子屋で買った、火花と音が出るおもちゃの拳銃だ。

 子供だましの、一瞬しか現れない閃光。だが、師匠の動きと思考をほんの少し止めるには十分だった。少年は隙を見逃さず、全身全霊で師匠に体当たりをする。自分を痛めつけていた彼女は、少年の想定より遥かに軽く、地面にあっさり引き倒された。

 少年は師匠の顔めがけ、拳を振り下ろす。けれども拳は師匠の手に阻まれ届かない。いつもの訓練であれば、そのまま投げ飛ばされているが、今日にいたっては時間が止まったように、二人の動きが固まった。


「……人が死なない程度の武器を用意しました」

「見りゃ分かるよ、ガキ」


 少年のようやく発した言葉に、師匠はそっけなく返すが少年を押し退ける手の動きはいつもより優しかった。少年を膝の上に乗せたまま、師匠は体を起こす。


「良い。よく一本取った。今日はお祝いしてやろう」




 少年が師匠の家がわりのキャンピングカーで待つこと数分。師匠がワンカップ酒の容器をふたつ持って戻ってきた。少年と並んで座ると、一つを少年に差し出す。


「師匠、僕未成年です」

「馬鹿野郎。酒なんて大層なもんお前に飲ませるか。お前のは公園の水だ」


 少年は受け取り、カップの中の匂いをかぐ。確かに酒の匂いはしない。底にゴミは浮いているが。


「おら、初めて一本取った記念だ。乾杯」


 師匠が自分のカップを、酒の入ったカップを少年の目の前に突き出す。少年が自身のカップを突き合わせると小気味いい音が響く。師匠はカップの中身を、一息で半分ほど飲み込む。少年は少しだけ水を口に運ぶと、ゆっくり口を開いた。


「師匠、教えてほしいことがあります」

「今日は気分がいい。聞いてやる」

「師匠は何故僕を鍛えるのですか?」


 素朴な疑問だった。


「僕のような『クソガキ』が力を持てば誰を傷つけるかもしれません。贖罪をさせるにしても、僕を一生歩けないようにするくらい、師匠には簡単なはずです」


 少年の命知らずともいえる質問に、師匠は怒り出すことなく、時間を置いて語りだす。


「あたしらみたいなのはな『いないもの』扱いされるんだ」


 師匠は酒を少しだけ口に運んで続ける。


「いないもの、存在しないものを守ってくれるやつなんていない。お前が殺した犬のように、お前みたいなクソガキのでっかくなったようなやつに殺される」


 少年の脳裏に、師匠と初めて会った日を思い出す。自分の心を守るために奪った命。それが、人間に変わっていく様子が、なぜか目に浮かんだ。


「だがあたしは考えた。お前みたいなガキを徹底的に鍛えて、ルールを叩きこめば、クソガキを一人減らせて、代わりにあたしらのボディーガードにできるんじゃないかってね」


 少年が少し迷って口を開く。


「僕がルールを破るということもあり得ます」

「あたしの見立てだ。それはない」


 師匠ははっきりと断言する。今まで受けてきた言葉のような意地悪さはなく、明瞭な声だった。だからって思いあがるなよ、お前はまだクソガキだ、ともすぐ付け加えられたが。


「僕は悪人です」

「知ったこっちゃないんだよ、そもそもお前は自分が何をしたいのかすら、まだ分かっちゃいないさ」


 それにな、と師匠は続ける。


「あたしは多分、この世に何かを残すなんてことはもうできるご身分じゃない。だけどな、自分のことをすっぱり世界から消すなんて、そんなのは後味悪くて、死んでも死にきれない」

「師匠は殺しても死ななそうです」

「黙っとけ、クソガキ」


 師匠はかなり強い力で少年の後頭部を殴る。少年が前に大きくつんのめるが、なんとか踏みとどまる。


「だからお前という『作品』を残す。ゴミみてぇなもんから、立派に輝くものを作り上げてから、死んでやるって決めたのさ」


 少年は殴られた頭をさすりながら、師匠の顔を見る。

 師匠はどこか遠くを見ていて、それでいて優しい目をしていた。その顔は薄汚れていて、世間一般の『綺麗』とはかけ離れたものだったが、少年が、11歳の蛮徒 礼人が今まで見てきた絵画や、ドラマにでてくる女優よりも美しく見えた。


 ◆


 礼人はその後も師匠の下で研鑽を続けた。礼人が師匠から受ける打撃の痣が以前より減り始めると、訓練内容は次第に戦闘から『街で生き残る』ものへシフトしていった。

 犯罪が起こりやすい場所の見つけ方、街のちょっとした闇を使った身の隠し方、大勢の中に紛れ込み追っ手を振り切る技術(師匠はとんでもない悪臭がするにも関わらず、誰にも警戒心を与えずやってのけた)などなど。

 特に礼人が好きな訓練は『移動』の訓練だった。ただ地面を歩くのではなく、建物の屋根から屋根へ、屋上から屋上へ。狭い路地を駆け抜け、障害物を飛び越える。礼人が成長してから知った言葉だが、それはパルクールといったアクロバティックな移動方法に近かいものだった。走るたびに街は刻一刻と景色という顔を変え、礼人を楽しませた。

師匠のそれは洗練されており、最小限のみの動きで、誰よりも、時には車よりも早く目的地につくことができた。

 ある日の移動訓練で、仙台駅前の百貨店の屋上に登ることができた。数年前から倒産し、閉鎖されたその百貨店の屋上から見る仙台の街の様子は、礼人が見る街の姿とはかけ離れて、より一層巨大に見えた。


「楽しいか、クソガキ」


 一緒に上った師匠は、洗われていない髪の毛を風に撫でられながら礼人に語り掛ける。


「ちょっと視線が変わるだけで、街は全く別もんに見えるもんさ。特にこの街はそうだ、飽きがこねぇ」


 口角高く、師匠はにっと笑う。頭の先からつま先まで、持っているもの、身に着けているものすべてがみすぼらしいのに、まるでこの街の王様のような威厳がある。


「クソガキ、ここから見えるすべてに、お前の力を還元するんだ。この街を頼んだぞ」


 そして街の王は、家臣に言うように礼人に淀みなく命じるのだった。


 ◆


 季節がひとつ巡るころ、その時は来た。


「師匠、来ました」


 礼人は一か月後に中学生になる。そろそろ師匠と過ごす時間も短くなると、その日、師匠に伝えるはずだった。

 だがいつもの河川敷に師匠はいなかった。

 師匠は礼人が河川敷に来れる平日は常に礼人を待っており、不在の時など一度もなかった。その日、礼人は一人でいられる時間いっぱいまで師匠を待ったが、姿を現さなかった。次の日も、次の日も彼は河川敷のキャンピングカー前で彼女を待ったが、遂に彼女は現れなかった。

 師匠を待って一週間、礼人はいままで入ることのなかった、師匠の家代わりである、打ち捨てられたキャンピングカーに入る決心をした。

 キャンピングカーのドアにカギはかかっておらず、中にはゴミと空いた酒の瓶なり缶が散乱していたが、礼人の想定よりはマシな汚さだった。礼人は師匠の死体が見つかるという、最悪の事態を想定したが、師匠の姿は影も形もない。アニメやコミックの『師匠』と違い、免許皆伝の儀式もなく、煙のように消えてしまった。

 代わりに車内を見回すと、備え付けのテーブルの上に黒い物体が見えた。師匠が持っていた黒い伸縮式の警棒。礼人が手に取ると、子供の手にその重さが乗る。


『この街を頼んだぞ』


 警棒を見ていると、師匠の声が聞こえた気がした。まるで枷をかけられた気分だった。警棒自体が、この街と礼人をつなぐ鎖になったのだ。

 自分は両親を死に追いやり、無関係の命を殺した。だが、まだ生きなければならない。両親を失い、妹を本当に一人にするわけにはいかないからだ。

 罪人である自分が、この街で生きることを許されるのであれば、師匠の言いつけどおり『自分より弱い者を守り、悪人を命を奪わず打ちのめす』という『贖罪』を続けて叶うのだろう。

 礼人は師匠がやっていたように、強く警棒を振りかざす。しゅっという音の後に小さく収められていた武器が、その力を発揮せんと本来の姿を現す。少なくとも、『贖罪』への決意とその武器が、本物であると礼人は確かに実感できた。

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