6

 おそらく従業員用の階段なのだろう。装飾のない、コンクリートがむき出しのそこは、壁に同化した扉に隠されていた。非常口の表示灯がなければ、気づくこともなかっただろう。

「さて……、と」

 ゆっくりしてはいられない。閉店を知らせる音楽はまだ鳴り続けているが、いずれ客が全て退店すれば、ここを従業員が行き交うようになるだろう。友香は携帯電話を握りしめたまま、踊り場に立った。あの男がどこから来ても迎え撃てるよう、意識を集中させる。

 そのまま、どのくらい経っただろうか。退店を促すBGMが静かにフェードアウトし、店内がしんと静まりかえった、その時だった。

 どこからともなく、花の香りが流れてくる。最初は気のせいかと思うほどに淡く、次第に空気が甘く色付いていくように、段々とそれは強くなる。

 ――来る

 友香は足下に携帯電話を置くと、即座に自分の周囲に結界を展開した。踊り場の上下に続く階段の中程に、ぼんやりと光が伸びるのとほぼ同時に、階下から男が姿を現した。

「全く……こんなものを掛けるとは、酷いな」

 口元に微笑を湛えたまま、男が言った。

「臭くてかなわん」

「それは失礼」

 階段の真下で足を止め、男は友香のいる踊り場を見上げた。

「そろそろ遊ぶのにも飽いてきたな」

 結界が張られていることに気づいていないわけでもないだろうに、男は悠然とした足取りで階段を上り始めた。じり、と友香も一歩下がる。やがて、結界の張られたポイントまで来ると、男は静かに手を伸ばす。すぅっと金属が融けるように、結界に穴が空いた。男の身体がそれを潜る――その、刹那。

「――――――――――――!」

 猛烈な光が階段室に炸裂した。視界を奪うほどのその光――いや、電撃が男の動きを止めた。バチバチという音が無人の階段室に響き渡る。

 優に数十秒。雷にも匹敵する強さで炸裂し続けたその電撃は、始まった時と同じく唐突に収まった。友香の足下で、プスリと小さな音を立てて黒煙が上がった。どうやら出力オーバーのようだ。

 辺り一面、焦げ臭い匂いとともに、煙が漂う。少しやり過ぎただろうかと思いつつ、煙と匂いを処理しようとしたその瞬間、鼻先を甘い香りが掠めた。

「――!」

 咄嗟に飛びすさった友香の目の前で、煙が渦を巻く。その中心に人影を見つけ、友香は愕然と目を見開いた。

「――なかなかの攻撃だったが、足りぬ」

 男の双眸が友香を捉えた。

「嘘……」

 あれだけの電撃にさらされたにもかかわらず、寸毫も変わらぬ男の姿に友香は呻いた。身体はおろか服の裾ひとつ乱れていないことを誇示するかのように、男は軽く両腕を掲げて見せる。

「嘘だと思うなら、もう一度やってみても構わないぞ」

 男の言葉に、友香は声もなく後ずさった。先程の電撃は、最後の手段だったのだ。

 友香たちが持ち歩いている携帯電話には、万一の時のために強力な術式がいくつかおさめられている。友香はそれを起動させた上で、なるだけその効力を持続させるために結界のエネルギーを使った。男との力量差を考えれば、結界が壊されることは充分予測できていた。だから結界が破壊された時、そのエネルギーが携帯電話の術式へと向かうよう、工夫を加えておいたのだ。

 けれど蓋を開けてみれば、男には傷ひとつ負わせることができなかった。携帯電話は黒焦げになってしまったし、これ以上友香に打つ手はない。

「ふむ、そろそろ打ち止めか?」

 友香の内心を読み取ったかのように、男が嗤う。

「さあ、どうかしら」

 相手から視線を外すことなく、友香は応えた。正直なところ、今すぐにここから逃げ出したいが、そうも行くまい。ここまで追い詰めた獲物を逃がすような敵ではないだろうし、友香自身も公安長として一矢すら報いずただ敗走するつもりは毛頭ない。

 ――こういうところがゴリラって言われるのよね

 内心で苦笑する。得体の知れない敵に対する恐怖心を押さえつけて、口元にも微笑みを浮かべた。

「――なるほど」

 おそらく友香の虚勢などお見通しだろうに、男は興味深そうにゆっくりと頷く。

 触れれば切れそうな緊迫した空気の中、友香はピクリとも動かずに――いや、動けずにいた。相手の次の手が読めないからこそ、不用意に動いて均衡を破ることができない。そんな友香を微笑交じりに眺めながら、不意に男が片手を挙げた。

 男の腕の周囲に黒いモノが湧き上がり、ぐるぐるとうねるように動きながら大きくなっていく。男の動きに対応しようと、友香が目をこらした――その瞬間。

 唐突に旋風が巻き起こった。

「――――っ!?」

 猛烈な風に、友香は数歩後ずさる。売り場フロアに比べると掃除が行き届いていないのだろう、床に残っていた埃が巻き上がる。電撃の名残の焦げ臭い匂いが上階へと煽られて四散する。

 そして――

 風が収まる。ゆっくりと瞼を開けた友香の視界に、見慣れた背中が映った。

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