Aとあの憎たらしいクソ女

寅田大愛(とらただいあ)

第1話

 幸せな人はいじめをしない。いじめの本質が幸せな人には決して理解できないから。だからAは今日もあの女を殴る。罵りながら、あの女を、ひどく殴る。大丈夫、決してだれにも見つかったりしないから。いいひと、とか、善人、みたいな人は、全員あの女を見放すに違いないから。だから平気よ。あたしはAにそっと耳元で囁く。Aは金属バッドを手にとって、あの女に近寄っていく。あの女。名前は明かさない。あたしたちが悪者にされるのはまっぴらごめんだし、だいたいあんな女なんかに名前なんてあるわけない。あったとしたって、ちゃんと呼んでなんかやらない。物みたいな、そこらへんに落ちているただのゴミかなにかみたいに、あの女、と呼んでやる。

 あの女はもう目が見えない。あの憎たらしい眼つきができないように、あの眼球ごとえぐり出してやりたかったけど、簡単に死なれてはつまらないから――たかが眼球をえぐったぐらいで――死なない程度に、潰してやった。本当は唇だって、針と糸で縫って永遠に閉じさせてやりたかったくらいだ。あの減らず口が叩けなくなるくらい、精神が台なしになってしまった後でだって、そんなこと、いくらでもできるんだから、今は別にいい。その代わり、奥歯を何本でもペンチで引っこ抜いてやるのだ。気絶しようが失禁しようが、失神しようが、バケツに入った水をぶっかけて何度だって叩き起こしてやるんだ。

 Aが金属バッドであの女の背中を思い切り殴る。パイプ椅子に座らされて手足を縛られている状態のあの女を、罵りながらいじめているAの姿をあたしは見る。A。黒くてしっかりした髪の毛が色っぽくて、あたしはAが好き。あと耳の後ろを嗅いだときに漂うあのお香みたいな匂いも。背が高くて、笑うと心がほっとするような顔つきなのに、眼だけが嫌に真っ暗で途方もない闇を抱えているみたいな雰囲気だけがちょっと気になる。真夜中の暗がりのなかでいつまでも手探りしているみたいな感じを思わせるような、なんて言うと、つまんない女だと思われるかもしれないので、あたしはだれにも言ってはいないけど。黒い動きやすそうなスポーティな服装をしている。髭は剃っているしお風呂にも入っているんだと思う。割ときれいな身なりだ。感じは悪くない。詐欺師みたいに綺麗すぎることもない。その青年はあたしのことを共犯者かなにかだと思っているのかもしれないが、あたしはあの女には触りもしない。ただそばで見ていて、Aにあれしろだのこれしろだの命令をするだけだ。Aはきっと昂っているだろうけど、あたしは別に興奮しない。あたしはあの女に対して、性的な気持ちは持っていない。だってあの女、ちっともえろくないもん。Aはこの犯罪が見つかることをきっと恐れていない。Aはきっと気が狂っている。そうでなきゃ、同じくらい気が狂っているあたしの言うことなんか、聞くわけない。

 あの女があんまり間抜けな悲鳴をあげ続けるので、あたしは思わず笑ってしまった。馬鹿みたい。あんたやる気あんの? アホみたいな声出してる暇があれば、もっと懇願すればいいのに。そうすればあたしたちはもっと面白いのに。やめてください、殴らないでくださいってどうして言えないの? ほら、早く言えったら!

 あたしはイライラして、ずっとあの女を殴っているAに歌でも歌えばいいのにな、とすら思った。Aの歌声は低くて吐息交じりでうまくて最高にセクシーなんだ。残酷な歌詞の歌が聴きたいのに。でもあの女にとってAの甘美な歌声が救済になったら癪なので、今は提案しないでおく。ああ、つまらないな。早く歌が聴きたいな。早く死んでくれないかな。でももっと苦しめてやりたいのにな。辛いな。

 どうやってここに辿り着いたかはだれにも教えない。きっとだれもここにあの女を助けにくるものなんていうのも、もちろんいない。なぜって言われたって、そういうものだから、としか言いようがない。あたしはAのよくしなる腕を眺めながら、もっと面白くなる方法ってないかなとかぼんやりしていた。感電死とかさ、爪のなかに針を刺して爪を剥いで指を全部切り落として両手首をチェーンソーで切り落とすとかさ、いろいろしたいのにな。そんなことしたら、あの女、すぐ死ぬんだろうな。はあ。

 あの女が失禁している。臭い。最低。死ね。あたしはAと一緒に顔を歪めてあの女の泣き顔を見ている。涙がうす汚れている頬を濡らしている。目が見えていなくても、恐怖は感じるのか、身体が震えている。怯えているらしい。この程度で?

 ホント、この程度で怖いと感じるのか、あの女は? 人間はこんなにいじめや暴力や犯罪に対して弱いものなのか。本当に、つまらないよ。

 あたしは不意に、自分の心臓に対して問いかける。あたしの心臓、ねえ、苦しい? あたしの心臓はすぐに答えてくれる。うん、苦しいよ。

 このクソ女! あたしは頭に来て、パイプ椅子を足で蹴る。蹴り上げたいところだけど、あの女の体重がかかったパイプ椅子はあたしのやわな足なんかではびくともしない。

 Aは多分元々いい子であまりクリエイティブではないな。ああしようこうしようみたいな提案はしない。思いつかないし、できないんだろう。兵士みたいで、あたしはそこがいいとすら思っている。単純な男はかわいい。複雑な男は、もっとかわいいけど、あたしには興味がないらしく寄ってくることは少ない。どうでもいいけど。

 うす暗いし黴臭いし、あまり居心地のよくないここで、あの女を監禁してから、どのくらい経ったのだろう? 暴行するにも、体力と気力がいるんだけどな。あいつら、なに考えているんだろう? あたしたちに、あの女を酷くいじめるように指示したあの偉そうな人たちは、今、一体どこにいるんだろう?

 見えているんだとしたら、ちゃんとした対応をとってほしい。あたしたちだって暇じゃないんだ。きっとどこかで監視しているはずなんだけど、あたしたちには、不思議とそれがわからない。仕方がないんだけど。監視カメラで見ているはずなんだけどな。どうなってんだろ。

 あたしは胸の前で腕組みして、Aに、ねえ楽しい? と聞いてみた。Aはまだ息を切らしていない。あの例の昏い眼のままで、全然楽しくねえよな、と答える。なんて平凡なんだろう。あたしたちは自分たちがちっとも犯罪者に向いていないことを思い知った。煙草、持ってないの? とあたしは続けて問う。今日は持ってない、とAは答える。ああ、もう。

 あの女がまだ震えていてあたしはまたけらけら笑ってしまう。だっておかしいでしょ? おかしくない? Aはただ沈黙している。

 吐き気がした。あの女が、あたしに吐き気を催させるんだ。そういうのがわかって、あたしは舌打ちした。吐きそう。そう言うと、Aは心配そうに視線を寄越した。Aは今なにを考えているんだろう? あたしは人の気持ちがよくわかったりよくわかんなかったりすることがあって、そこの落差が激しくて、そこが自分でももどかしくて、たまに嫌になる。

 Aが自分から動いた。しっかりした背中をあたしはただ見ている。Aはあの女の首を両手で絞めているようだ。なんでもう首絞めるの? 簡単に死んじゃうよ? もっと嫌なこといっぱいしてやらなきゃ、気が済まないのに。あたし絶対もっと。

 あたしの心臓がわずかに跳ねる。苦しいんだ。良心の呵責とかそういうのではなくて、もっと身体的ななにかだ。

 なんで首絞めちゃったの? あたしがAに訊ねると、Aは困惑したような表情になった。きっとAにもわけがわかっていないのだ。あたしはね、もっとね、なんていうか、こうね。そう言いかけると、Aはぐにゃりと顔を歪めた。

 苦しいよ。

 Aはそう言った。

 A、あなたも苦しいの? 

 ああ。心臓が、苦しいよ。

 クソ女死ねよ! もう死ねったら! あたしはパイプ椅子に座ったまま泣いているあの女の身体を左手で殴る。生ぬるい皮膚がべったりと湿っている。気持ちが悪くて、あたしはあの女の横っ面をひっぱたく。そのくらいではもちろん、この身体に宿る殺意や敵意は消えてはくれない。それがわかっているのに、あたしにはたいしたことがなにもできないのが、とても腹立たしい。

この出来損ないが!

 Aが突然叫ぶ。急に叫んだAがまるでA本人に自分で言っているみたいな錯覚になって、あたしは言葉を失ってしまう。Aが何度もその言葉を繰り返しながら、あの女の頭を金属バッドで殴りつける。Aの頭のなかにはきっと、その言葉を何度も言われた記憶が蘇っていて、その言葉をあの女に言わなければ気が済まないのだろうという気がした。Aが、Aに言われた言葉を、あの女にぶつけることによって、Aは救われようとしているんだ。塗りつぶすように、塗り替えるように、塗り重ねるように。記憶が。過去が。言葉が。あたしは勝手にあの女のなかに、罵られているAの姿を見る。Aは金属バッドを振り上げる。あたしの脳内をなにかの映像が漂って飛び散る。この出来損ないが、というのは、Aがかつてあの女の父親によく罵られていた言葉だった。あたしは不思議とよく知っていた。

 A。あなたは。

 あたしは両手を頬に当てる。涙で濡れていた。Aは、きっと泣いてはいない。ただ、祈るように、Aの過去がそれで書き換えることを期待しているような顔をして、何度も壊れたようにあの言葉をあの女に罵りながら、金属バッドをあの女の顔に振り下ろしている。Aはあの女を憎んでいる。Aは、あの女によく殴られていたから怨んでいるんだろう。それは、仕方がないよ。

 お姉ちゃんが全部悪いんだ。

 Aは俯いて確かにそう言った。子どもっぽいやつ。あたしは呆れた。あの女は、あたしたちを呪っている。呪い殺そうとしている。殺してやりたいくらい、あたしたちを呪う、という殺意が、あの女からは感じられるんだ。それが憎くてたまらない。あたしたちを憎むな。憎たらしいクソ女!

 そうでなければ、あたしたちの心臓がこんなにも痛むはずがない。 

 心臓?

 あたしたちに、そんなものがあるはずなかった。そんなもの、とっくになくなっているはずだった。

 あたしたちは、あの女にとっくに呪い殺されたんだからさ、心臓なんて、あるわけないんだ。五寸釘かなにかで貫かれたように痛みだす、ないはずの心臓。

 あたしの弟は、床に倒れたあの女の顔を靴で執拗に踏みつける。

 ぼくは出来損ないなんかじゃない。

 弟があの女の顔――あたしの顔だ――を踏みながら、そう言っている。

 だってお父さんが。

 うるさい!

 あたしたちはいつものように喧嘩をしはじめる。馬鹿みたい。あの女が、床にだらりと横たわったまま、口の端を上げてそう言って笑っている。声があたしにそっくりだった。あのクソ女は、あたしなんだから、当たり前だ。あたしたちはずっと、あたしをいじめて楽しんでいたんだ。本当に、馬鹿みたいだ。顔が赤くなる。弟の顔を見る。あの昏い眼のなかに、すでに眼球はない。腐れ落ちて、どこかに抜け落ちてしまっている。死体だ。弟は、死体なんだ。あたしたちは、あたし本人に呪われてここにいつまでもずっといる。当たり前だ。

 あたしたちは、いつまでもそうやって、殺し合いを繰り広げながら、ずっとこの場所から抜け出せないままでいる。ねえ、だれかいい加減あたしたちを助けてよ。

 無論、だれも助けにきたりなんかしない。全部しょうがないことなんだ。お父さんは死んだの? 知るかよ。どうでもいいだろ。なんでそんなこと言うの。――

 天にましますあのお偉い人だって、嘲笑って見下すように見ているだけなんだ。なにが楽しいんだか知らないけど。

 死ぬっていうのは、きっとそういうことなんだろう。




                           了

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Aとあの憎たらしいクソ女 寅田大愛(とらただいあ) @punyumayo

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