神話

 食事のあと、俺はフレイに子守を任せて、自分は洗い物を済ませた。それから貰った本を抱えて階段を上り、天文台の最上階へと向かう。

 濃紺の壁に、ガラス張りの天井。白い階段の先には、白と金色の望遠鏡。天文台を天文台たらしめる、観測室だ。


 本を胸に抱いて、白い階段を上る。ガラスの天井からは、爽やかな青空と霞むように流れる雲が覗いていた。


 望遠鏡の周りは散らかったままである。開きっぱなしの本、書き散らかしたノート、メモ。それらに囲まれた望遠鏡が、凛と上を向いて佇む。白と金のボディに鉱石の垂れた鎖が絡みついて、なんとも言えない繊細な美しさである。俺は、望遠鏡の横の椅子に腰を下ろした。


 文字の学習に集中していたのにはもうひとつ理由がある。それは、セレーネのメモから月の観測について読み解きたかったからだ。

 セレーネが失踪して、もうすぐ二週間になる。セレーネが戻らないまま満月の夜を迎えてしまったら、いよいよ月の雫がなくなってしまう。


 さらには、この都の道具はだいたい月のエネルギーで動いている。天文台が機能しなくなれば、それらもまともに稼働しなくなる。これもまた、月の都に大きな障害を与える大問題だ。


 俺は本を膝に載せ、セレーネのメモを一枚、手に取った。


「『月』……、『光』、これは……なんて読むんだろう。これは、『獣』?」


 知っている単語をかい摘んで、文章を読解しようと試みる。

 月の観測は、天文台を創設した大賢者の血を引く者にしかなせない。多分俺にはどうにもできないが、それでも俺は、機能していない天文台を放置しておく気にはなれなかった。

 月のエネルギーを天文台に保存する、そのからくりを知りたい。もしもセレーネが戻らなかったときのために、俺になにかできるのなら、やれるだけのことはしたい。

 しかし知らない単語が多いし、なにしろセレーネの字はぐちゃぐちゃに繋がっていて解読不能だった。


「やっぱり読めないか……」


 ひとり言を呟いて、メモを元の場所に戻す。クオンとシオンが帰ってきたら、一緒に読んでもらおうか。


 難易度の高いセレーネの置き土産は後回しにして、代わりに、膝に載せていた本を開いた。フレイがくれた子供向けの絵本である。表紙の単語を「アズール・ルーナ」だと知ってから読むと、作中に現れる単語は大体読み取れた。


 物語は、この世界、アルカディアナがふたりの神様によって統治されていたという前提から始まる。

 太陽と恵みと生命力を司る大地の神と、夜の闇と癒しを操る、月の女神だ。柔らかなタッチの挿絵では、大地の神は体格のいい色黒な男、月の女神は青く長い髪の色白な女に描かれている。それぞれの神は、昼と夜を見守り、アルカディアナの人々を導いていた。


 ところが、月の女神がそのバランスを崩した。生きるために働く人々の忙しなさに、彼女は胸を痛めた。そして、長く深い癒しの眠りを、人々に与えようと考えた。

 その想いは暴走し、月の女神は碧い月の霊獣、“アズール・ルーナ”に姿を変えた。


 俺は、壮大な挿絵に息を呑んだ。青白い月のような、透き通った秘色色の獣が描かれている。瞳は海のような青色。三角の耳に長い尻尾という形は、月の民に似ている。しかし体躯は一緒に描かれる人間の二倍はあり、背中に広がる大翼と胸に埋め込まれる満月のような銀色の水晶が、この獣が化け物であることを物語っていた。


 きれいだ、と、思ってしまった。物語の上では悪役の立場なのかもしれないが、この氷のような透明感と圧倒される大きな翼は、なんとも神秘的で見入ってしまう。


 眠りの死神と化した霊獣アズール・ルーナは、大地の神に鎮められ、眠りについた。

 アズール・ルーナが眠った大地は、「月の都」と呼ばれるようになった。翼から抜け落ちた羽毛には、魔力が宿っており、アズール・ルーナの意志を受け継ぐ人種、「月の民」へと生まれ変わった。獣の耳と尻尾を持ち、月のないときに眠る月の民は、アズール・ルーナの子孫たちなのだ、とある。


 俺は単語を指さして、ひとつひとつ意味を確認しながら読んだ。この神話は、月の都と月の民というものが、どのようにして生まれたかを語った物語のようだ。


 最後のページを開くと、森に佇む天文台が描かれていた。アズール・ルーナが長い眠りに落ちた場所に天文台を建て、彼女は今もそこに幽閉されている……と締めくくっている。


「じゃ、この建物は、アズール・ルーナが封印されてる場所なのか」


 俺は部屋を見回した。神話だから作り話なのかもしれないが、この場所がまさに、と思うと胸がドキドキしてくる。

 ということは、と、俺は数ページ前まで本を戻った。霊獣アズール・ルーナが描かれたページで、手を止める。この建物のどこかに、この美しくて巨大な獣が眠っているのだろうか。本当なら、ちょっと見てみたい。


 俺は本を閉じて、真上を仰いだ。ガラスの天井から青空が見える。小鳥の影がすっと、太陽の光を微かに遮って通り抜ける。

 シオンが言っていたとおり、久しぶりに日の光でも浴びようか。俺は椅子から立ち上がり、代わりに本を置いて、階段を下りた。

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