Ⅳ.万事屋ロロ

歴史

 天文台の談話室。俺はソファでお茶を飲みながら、子供向けの学習本を解いていた。小鳥らしき絵の下に、不思議な形の文字が並ぶ。


 今日は朝から、文字の読み書きの勉強をしている。「文字を理解できるようになりたい」とシオンに零したところ、彼女がこの学習本を買ってきてくれた。おかげでひととおり文字の形の書き取りはできたのだが、読み方も文法も分からない。

 二十分ほど前までは、クオンとシオンに協力を求め、解読を手伝ってもらっていた。


「これは……猫? あれ、でもさっきはこの形の字を違う読み方したような……」


「ぶっぶー、これは都の外の森に出る、野獣の一種だよ」


 クオンが俺の答えを一蹴する。俺はくたっと頭を下げた。


「俺の知らない生き物じゃ、課題すら読み解けない……!」


 同じ文字でも言葉によって発音が変わるし、法則性が全然分からない。自分の知っている言語でメモを書き込んでは、アルカディアナ文字と比べる。余計に頭がこんがらがる。

 シオンが小首を傾げた。


「こんなに文字を覚えられないなんて……イチヤくん、一体どこから来た人なんだろう」


「でも会話は成立してるんだよな。同じ言語を話してるのに、違う文字を使ってる……訳が分からない」


 これは、ずっと不思議に思っていた。もしも俺が本当に異世界から来た人間なのだとしたら、言語が違うはずで、そうならクオンとシオンと話せないはずだ。

 だが今のところ、多少知らない言葉を聞くことはあっても、会話自体は滞りなく成り立っている。だったら使う文字も同じでいいと思うのだが、文字はさっぱり読めないのだ。


 やがてクオンとシオンは、俺に勉強させるのに飽きてしまい、外へ遊びにいってしまった。ひとり取り残された俺は、まだ学習本と向かい合って、絵とスペルを組み合わせて記憶していた。


 テーブルの上の小瓶を開けて、中の薄紅色の粉をお茶のカップに入れる。小さいスプーンで三杯ほど入れて、かき混ぜた。

 文字が分からないなりに、俺もこの世界に順応しはじめている。この粉が砂糖に準ずるものであることを覚えたし、お茶の入れ方とか、食器の使い方とか、日常の中で体が覚えてきている。


 そこへ、入口の扉を叩く音が聞こえてきた。クオンとシオンが帰ってきたのかと思いきや、開けた先にいたのは、フレイだった。


「またお前か」


「なんだその態度は。昨日、酒でぶっ倒れてたから、心配して様子見に来てやったのに」


 今日のフレイは公休日らしい。暇潰しついでにここへ来て、俺の監視兼、体調を確認しに来てくれた。

 ちょうど節目になったので、俺は勉強を一旦切り上げた。キッチンでフレイの分の茶を入れて、談話室のテーブルに置く。そしてソファに座っていたフレイに、訊ねてみた。


「月の民が昼でも動けるようになる……月の雫、だっけか。月影読みが、この天文台で作るんだよな?」


「そうだ。まあ、代理とはいえお前には無理だろうが……」


「だな」


 それは自分でも重々承知である。


「月影読みが重要な立場なのはよく分かるけど、何者なんだ? 本人は大地の民らしいし、どうしてここで月の雫を作ることにしたんだろう」


「カツラギ家は月影読み一族の親戚なんじゃねえのか。そのくらい知ってるだろ」


「そ、そうなんだけど、記憶がなくて。自分がカツラギ家の人間だっていうのも、セレーネの文書で知ったくらいで……」


 下手に突っ込まれると厄介だ。曖昧に濁すと、フレイは気の毒そうに眉を寄せた。


「記憶喪失って大変だな……」


 同情してから、彼は律儀に話しはじめた。


「三百年くらい前、月の民が大地の民から、賢者を募ったんだよ。そのとき名乗りを上げたのが当時の大賢者、アリアン・ロッド。それが代々、月影読みを引き継いでる」


「ふうん、大地の民が月の都を侵略したんじゃなくて、月の民の方が、大地の民を呼んだんだな」


「ああ。月影読みが現れる前までは、月の民は、月光に生活を委ねる民族だった。昼に眠って夜に活動する。大地の民とは体質も文化も全然違うから、月の都は大地の国から完全に独立した、ひとつの小国だった。……らしい」


「らしい」と伝聞調なのは、彼も生まれていない古い話だからだろう。フレイの口から、俺の知らない月の都の歴史が語られた。


 月の都は、大地の国にある街ひとつ分程度の規模しかない。そこに住まう月の民も、当然少数民族だった。


 かつての月の民は、月の光の赴くままに、殆どの時間を眠って過ごしていた。新月や、月が細い夜、雲で月光が届かない日は、夜であっても活動しなかった。月の明るい夜の数時間しか動けない上に、全く活動できない日もある。そんな生活だった。


 しかしこれでは、活動時間が制限されて、街が発展しない。

 そこで月の民たちは、月の光を保存して、エネルギーが足りないときに自由に体に取り入れたいと考えた。


「でも月の民たちは、気ままに暮らしていたツケで、文化も化学も遅れてる。どうしたら自分たちのしたいことができるのか、分からなかった」


 俺は黙ってお茶を口に含んだ。味は紅茶に似ている。フレイが続ける。


「彼らは自分たちの土地の外……すなわち大地の国へ、賢者を募った」


 大地の民は日照時間に準じて活動する民族であり、領土も広く、文化の発展も月の民に比べて著しい。賢い者も多かった、と、フレイは語った。


「迷える月の民に知恵を差し出したのは、当時の大地の国の大賢者、アリアン・ロッドだったってわけだ」


「なるほど。その大賢者が月の都に出向いて、この天文台という施設を造り上げたんだな」


 アリアン・ロッドは観測室で月を見守り、光を集めエネルギー粒子に変えて、「月の雫」を生み出した。

 フレイがそう説明するのを、俺はお茶を飲みつつ聞く。


「おかげで月の民は、その水を飲めば、月のない夜でも自由に動けるようになった。昼は今までどおりに眠って、夜は月の形に拘わず目を覚ます。アリアン・ロッドはその後も、天文台に腰を据えて、月の民たちのために月の雫を作り続けた」


 アリアン・ロッド。天文台のシステムを造り、月の民に恵みの水を与えた。つまりその人が、初代月影読み。


「月の民たちにとって、アリアン・ロッドの存在は革命だった。月の民に手を差し伸べた人格者だし、自分たちの知らないことをなんでも知っている。そのうちアリアン・ロッドは、月の都の統治者となっていった」


 マイトも言っていた。月影読みは月の民の王様であり、もはや神様なのだと。

 俺はふうと、お茶に息を吹きかけた。


「その月影読みが、代々引き継がれて、今のセレーネがいるんだな」


「そう。月の雫の生成方法は、ロッド家に生まれ、尚且才能のある奴に伝授される。引き継ぐ者はミドルネームに初代の名前を入れるのがしきたりになってて、セレーネのフルネームも『セレーネ・アリアン・ロッド』だ」


 セレーネに触れたあと、フレイは話を戻した。


「アリアン・ロッドが現れるまでは、月の都と大地の国はそれぞれ独立してた。けど大地の民であるアリアン・ロッドが月の民の生活に干渉するようになってからは、一気に交流が増えた」


 月の都は、大地の国に倣って町を発展させた。月の雫のおかげで活動時間が伸びた月の民は、たくさん働いて、暮らしやすい豊かな街を築いていった。

 高度経済成長みたいだ、なんて思っていた俺に、フレイは神妙な顔で言った。


「情報が増えたのは大地の国も同じだ。アリアン・ロッドの介在で、次第に月の都の実態が、大地の国にも知られるようになった」


 大地の民は、月の都は行政機関すらない無法地帯だと知った。自堕落に暮らしていて、文化、学問、いろいろな面で劣っていると気づいた。安い労働力として扱き使い、果ては無知な月の民を唆して、犯罪や奴隷に使うようになる。


「そのうち月の民の生活は、大地の民の都合に合わせられるようになった。昼でも月の雫を飲んで、活動する。昼夜が逆転したわけだ」


 大地の民は、昼間だろうが早朝だろうが、月の民を使えるようにしたかったのだ。俺はうっと顔を顰めた。


「そんな。月の雫はそういう目的で作られたものじゃないのに……」


「月の民も流石に、自分たちが利用されてるのに感づいただろう。でも、頼んで天文台を作ってもらった立場だ。強くは出られない」


 月の民と大地の民の、あからさまな差の正体が分かった。これは異なる文化が摩擦を生んで、刷り込まれるように形成された関係構造だったのだ。


 月の都は独立した自治体でありながら、役場は大地の民が管理している。フレイの語り口から察するに、この役場も、大地の国の王国議会に付随している。月の都は、大地の民に支配されてしまったのだ。


 本来アリアン・ロッドは、月の民の生活を想って、天文台のシステムを作ったはずだ。それがいつの間にか、こんな歪んだ形になってしまったのだ。


「にしても、月光のエネルギーから月の民の薬になる水を作るなんて、すごいな、月影読み。そういや、最高ランクの賢者だって言ってたな」


 俺が浅い感想を言うと、フレイは頷いて脚を組み直した。


「そうだよ。そういうすげえ奴の座に、お前は今いるの。分かってんのか」


「自覚するたびに不安に煽られるよ。すごく責任が重い」


 お茶の水面が、空中に浮かぶ照明の光を反射している。


「セレーネって、どういう人だったんだ?」


 訊くと、フレイは鋭い三白眼をギロリと俺に向けた。


「過去形で訊くな。死んだわけじゃない。……はずだ」


 保身がかった語尾をつけ、彼は指を組む。


「ものすごく変人で、ものすごく頭のいい女だ。月を観測して先のエネルギーを推察する計算は恐ろしく速い。頭の中に機械でも埋め込まれてるんじゃねえかってくらいに」


 お茶の水面からふよふよ、湯気が漂っている。


「頭の回転が速いから、書きたいものに手が追いつかない。だから信じられないほど字が汚い。本人も読めてないが、書きたかった内容が頭に入ってるから問題ないらしい。こっちは読めねえのに、自分の中では解決してる」


 フレイの話を聞いて、俺は観測室にあったセレーネのメモを思い浮かべる。用紙いっぱいに詰め込まれた走り書きが、机の上に乱雑に散らかっていた。シオンが俺を月影読みに仕立て上げるのに使った文書も、およそ読めないほど字が汚かったようだった。

 フレイはもはや愚痴を零すような口調で、セレーネの行動を立て並べた。


「日頃からなに考えてるんだかさっぱり分からん奴だった。従者である双子にもなにも告げず、ふらっと出かけてしまう」


 そして小さなため息を洩らして、テーブルの木目を睨む。


「……こんなに帰ってこないことは、今までになかったけどな」


 彼女がいなくなって、もう六日目になる。俺はお茶のカップを手に取った。


「行きそうなところとか、見当つかないの?」


「さっぱり。普段から脈絡のないところへ出かけてたしな。変人の考えることは分からん」


 聞けば聞くほど、セレーネという人物が分からなくなった。

 常人には理解されないほどの頭脳を持っていた彼女だ。変わり者で、行動原理も謎めいていたのだろう。だけれど双子を引き取るくらいだから、他人に無関心なわけではない。地位のある仕事を任されるほどの責任感もある。フレイだって、彼女を変人だと評価しながらも信頼はしている。

 読めない行動をとる人ではあるが、誰にもなにも告げずに何日も天文台を空けるのは、やはり不自然だ。それとも、もともと本当は無責任な性格で、全部が面倒になって放棄してしまったのか。


 セレーネという人物が分からない。なぜセレーネはいなくなったのか。どこへ行ったのか。


「このまま放っておくわけにはいかないんじゃないか? 警察とか、動かないの?」


「警察? 警備団のことか?」


 フレイが不思議そうに言った。


「大地の国の議会が抱えてる傭兵団とかならともかく、月の都の警備団は、人捜しは仕事の内じゃねえな。他人の迷惑になることする奴は死ぬまで袋叩きにするし死んでも袋叩きにするが、セレーネは罪から逃亡してるわけじゃねえし……」


「ちょっと待って、警備団ってそんなにガラ悪いの?」


「そりゃ、腕っ節に自信のある血の気の多い連中が集まってるだけだからな。ん、そんなのも記憶にないのか?」


 どうやら警備団は、俺の知っている警察組織のような国営のものではなく、街の青年団に武器を持たせたような、正義のチンピラ集団らしい。法律に基づいて動いているというよりは、悪い奴を見つけたら制裁を加えに行くというスタンスだという。


「フレイ、役人よりそっちの方が性に合ってるんじゃないか?」


「性格的にはそうかもしれないなと、自分でも思ってる」


 そのとき、バンッと勢いよく扉の音がした。廊下を走ってくる、ふたり分の足音が聞こえる。双子が帰ってきたのだ。


「聞いちゃったね、シオン!」


「聞いたね、クオン!」


「これは行くしかないよね?」


「早速イチヤくんに稟議だ!」


「はいはい、どうしたどうした?」


 俺は大盛り上がりの声の方に向かって、返事を投げた。俺のいるソファの方へと、クオンとシオンが飛び込んでくる。ふたりとも興奮して頬を赤らめている。


「よくぞ聞いてくれましたー! あのねイチヤくん、重大発表!」


「なんと……この街に」


 たっぷり溜めて、シオンがばんっと、俺にチラシを突きつけた。


「移動歌劇団ルミナが来ます!」


「来る!」


 クオンがそれを両手で指し示す。ふたりは街へ遊びに出て、このチラシを見つけてきたみたいだ。なにやら劇団のものらしきチラシには、読めない文字とテントの絵が刻まれていた。

 俺とフレイは、双子のアピールを前にぽかんと絶句した。クオンとシオンはポーズを変えずに反応を待っている。


「……へえ」


 俺はやっとそう返事をした。移動歌劇団ルミナとは、なんなのだ。ふたりが大騒ぎするくらいだから、珍しいものなのかもしれないが……。そこまで考えてから、あっと思い出す。


「ああ! マイトが言ってた劇団か」


 灰色の月の民の少年、マイトである。彼は移動歌劇団ルミナの演劇を観て、役者を志したのだった。


 シオンが俺に寄り添って、甘えた目で見上げてくる。


「私、一度でいいから、ルミナのお芝居を観てみたい」


「私も私も! ねえねえイチヤくん、行こうよ」


 クオンも反対隣にくっついてきて、腕に頬擦りしてきた。


 マイトが言うには、劇団は各地を旅していてなかなか出会えないとのことだった。それがこの街を訪れたのは、相当ラッキーなのだろう。観にいこうかと返そうとすると、先にフレイが喋り出した。


「お前らなあ。セレーネが帰ってこないまま何日も経ってるってのに、脳天気すぎないか?」


 クオンがむっとして言い返す。


「そうだけど、都の外へは捜しにいけないし、待ってるしかないじゃない。心配しても慌てても、セレーネ様の帰りがはやくなるわけでもない」


 しかしフレイは、首を縦には振らない。


「演劇なんてアホらしい。そんなもの観てなにになる?」


 それには、俺が口を挟んだ。


「さてはフレイ、演劇を観たことないんだろ。芸術的感性を養ってこなかったから、そんなに脳筋なんだな?」


「うっ」


 図星だったらしく、フレイが呻く。シオンも、チラシをフレイに突きつける。


「ルミナは滅多に来ないの。このチャンスに行かないと、この先一生観られないかもしれないんだよ」


 目の前に突き出されたチラシを見て、フレイが唸る。


「ふうん、演目は『アズール・ルーナ』か」


「アズール・ルーナ?」


 やや身を乗り出して、俺もチラシを覗き込んだ。だが文字はさっぱり読めないから、見ても分からなかった。

「アズール・ルーナ」という語感になんとなく聞き覚えがあると思ったら、これもマイトが口にしていた言葉だ。


『月影読みは、アズール・ルーナ様にお仕えする巫ですもん』


 天文台や月影読みに関係する言葉なのだろうか。

 フレイが俺を横目に一瞥する。


「アルカディアナに伝わる神話の一節だ。大地の神と月の女神が揉める話」


「へえ。どんな話なんだろう」


「お前がまともに文字を読めるようになったら、分かりやすく省略された幼児向けの神話絵本を買ってやるよ」


「いちいち癪に障る言い方する奴だな」


 チクチク言い合う俺たちに、クオンとシオンが訊ねる。


「観に行ってもいい?」


「いいよね?」


 ふたりに迫られ、フレイは複雑そうに頷いた。


「たしかにお前らの言うとおり、セレーネのことは心配してたってどうにもなんねえもんな」


 それを受けて、たちまちクオンが飛び跳ねる。


「やったあ! じゃあ早速、ロロのところでチケットを買おう」


「早くしないと売り切れちゃう。行こう、イチヤくん! ロロは取り置きしてくれないんだから」


 シオンもソファを飛び降りる。俺は双子に促されるまま、立ち上がった。


「う、うん。ところで、ロロって誰?」

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