第24話 歯医者


 何となくここまでごまかしてきたけれど、とうとう諦めて行くことにした。

 歯医者、それも初めての歯医者へ。


 これまで通っていた歯医者とは十年以上の付き合いだった。と言っても私の場合、その歯医者に行っても、医師より衛生士さんに面倒を見てもらってる時間の方が圧倒的に長かった。

 もう数年前のことになる。通院し始めて以来ずっと担当してくれていた衛生士さんが、私の手入れをし終えて側を離れる時に、「私、今度辞めるんです」と小声で耳打ちしていった。突然のことで引き留めて話を聞くこともできず、次に来院した時には初めて見る方が私の横に立っていた。

 勤務先を変えたのか、それとも仕事自体辞めたのか、彼女のその後は分からずじまい。ともかく新しい方が担当してくれるようになって、その方が悪いとかそういうことでは全くないのだけれど、何となく行く気になれなくなって(そもそも病院って渋々行く場所だと思う)、ずるずると先延ばししているうちにコロナ渦、それでまた避け続け、今に至ってしまった。

 年単位でのご無沙汰ではあれこれ言われるのが目に見えている(ここの先生はかなり口が悪い)。となると余計行きづらくて、それならこの際だから違う病院に行ってみようと決めたのだった。


 検索してみると、これがまあ出てくる出てくる。近隣にこんなに歯医者があったなんて知らなかった私は、さて、ではどこへ? と思案した。

 とりあえず歩いて通える距離の中でも遠い方がいい。あんまり近いとプレッシャーがかかる気がしたのと、通院で少しは運動になるかと思って。あとは口コミもあれば見た。そうして目が留まった病院にしばらく悩んでから電話した。

 電話口に出たのは男性で、それだけでも意表を突かれたのだけれど(個人病院って大抵女性が受付してる印象がある)、簡単に事情を話した所、どう考えても医師のそれとしか思えない対応を受けた。

 いきなり電話口に医師自ら出てくることってあったっけ? と会話をしながら頭の中に?マークが飛びまくる。それでも話をしていて悪い印象がなかったので、そのまま予約をお願いした。


 当日はあいにくの雨。傘を差し、長靴を履いて出かけた。

 5分前に着いた病院のドアは全開で、半透明ののれんのようなものがかかっている。手でかわして入ると小さな玄関、少し先にカウンター。中に割と若く見える男性がひとり座っている。

 カウンターの上には電話、診察券入れ、などなど。そして他にひとが見当たらない。と言うことはやはり彼が医師らしい。

 医師ひとりきり、そんな病院は多分、生まれて初めてだ。今まで通っていた病院は先生からしてふたり、受付さんに衛生士さん数人、と大所帯だった。そこまでではなくても、少なくともひとりは他にスタッフがいるのが一般的ではないだろうか。昔だったら、いかにも家族ですといった様子の女性が受付やサポートに入っていた病院は多かった気がする。

 ともあれ問診票を書いて、カウンター後ろの診察室(と言っても半分も仕切られていない)に通された。


 口を開けて見てもらう。電話で伝えていたことを確認し、考えられるいくつかの治療方法、長期計画、などを丁寧に話してくれる。こちらの希望もきちんと聞いてくれる。その上で、「かなり歯が削れてますね。これ、凄く力入れて噛みしめてるんだと思いますよ」と言われた。思わず問い返す。

「削れてる、って?」

「ここ、引っ込んでるこの歯、下と合うように噛んでもらえますか?」

 言われた通りに上下の歯を合わせる。

「で、ちょっとだけ横に動かしてみてください」

 ピタッとはまる場所があるはずなんだけど、と言われて動かすと、たしかに。上の歯の波打ったような曲線が下の歯ときれいに合わさった。

「これ、噛んでて削れたんです。で、その横の下の歯、そっちは先が削れてて、中の象牙質が見えてきてるんだけど、」

 コーヒーの飲み過ぎで着色したのかと思っていたら、どうやらそれが象牙質らしい。知らなかった。

「象牙質見えてるの、この前歯、皆、そうですね」

 怒ったり呆れたりというのではなく、淡々と面白がっているといった話しぶりに、「はぁ、」と答えるしかなくなる。何と言うか、客観的観察の見本みたいな、一歩引いた好奇心の表れみたいな、と言ったら分かってもらえるだろうか。

「噛みしめてるのって良くないんですよね?」

 私の問いかけに頷いた彼は、

「これがね、そうだな、例えば二十年前にマウスピース作って寝てる間に付けてもらってたら、多分だけど歯、もっと長持ちできたんじゃないかと思うんです。それこそプロ野球選手は噛みしめる力がもの凄く強いんで、奥歯ガタガタになって抜けちゃってるひと多いんですけど、それと同じですね」

 まさか自分がプロ野球選手と同列に扱われるようなことがあるとは思ってもいなかった。それも残念ながらあまり嬉しくないことで。

 何とも言えない気持ちになって、見るともなくあたりを見る。と、本棚に目が留まった。空いたスペースにとりあえず突っ込みましたといった体のカラーボックス的な細長い本棚。

 中の大半は医学書だの学会誌だの、そんな感じの分厚くゴツい本で埋められている。ただ、ごく小さな一角だけ、二十冊ほど文庫本が並べられていて、背表紙のタイトルが海外ミステリーばかりだった。

 海外ミステリーを私はほとんど読まない。たまたま有名な本ばかりだったから分かっただけだ。しかも珍しく読んだことのある本があって、それもかなりキツい内容のものだったので、へぇ、とやや意外に思った。

 それからレントゲン写真を撮り、細かい説明を受け、「どうしましょうかね」などと今後の方針を話し合う合間に、手元の問診票を見ていた彼に今度はさらりと問われた。

「住所からすると結構離れてますよね。もっと近くに歯医者はいくつもあると思うんですが、」

「ああ、それは、」

 正直に言うのもどうかと思ったのだが、何となくまあいいかと思ってしまった理由は自分でもよく分からない。そんなことを医師に尋ねられるとは思ってなくて、不意打ちに近かったからのような気もする。

「……日常生活ではあんまり目にしたくないと言うか、」

 さすがに少し歯切れが悪くなってしまった私に、彼は「ああ、なるほど」とあっさり納得した。

「それと最近、運動不足を痛感してまして、雨が降っても歩いて行くのに苦痛ではないくらいの距離でなるべく遠くをと、」

「この先、〇〇あたりにはもっと歯医者があるんですよ」

 何でだろう、妙に楽しそうに彼が言い出す。

「そこまでは歩かなくていいです」

 苦笑交じりで答える私に、なおも彼は笑顔で続ける。

「それもコロナの間に何軒も新規開業してるんです」

「減ったんじゃなくて?」

「そうなんです、増えたんですよ。閉院した所もありましたけど、あれは多分、ご高齢だったんでしょうね。で、全体としては増えてるんです。最近でもまた何軒か新規と、後はリニューアルもあって、」

「自転車でだったらよく通ってますが、全然気付いてませんでした」

「まあそうですね、関係なければ目に付かないんでしょうね」

 初対面の彼とここまで話をしてきた末、腑に落ちる所があって、今度は私が問うた。

「先生、ミステリーがお好きなんですか?」

 一瞬、ん? と言う顔をしたので、畳みかける。「本棚に、」

 私の視線の先を追った彼が、「ああ、」と頷いた。

「読むのは海外物だけ?」

「いえ、日本の作家も読みます。妻も好きで、伊坂幸太郎とか中山七里とか読んでますね。本と言えば、××駅のTSUTAYA、あそこ無くなっちゃったじゃないですか、」

 ××駅はこの病院からだと歩いて15分くらいで着く、JRでは最寄りの駅だ。

「ですね。元々あのビルが開業した時はちゃんとした書店が入ってましたよね。あそこ、私、好きだったんだけど」

「え、それは知らなかったです」

「ご存じなかったですか。何年前だったかな、結構前です。閉店するとなって、でもすぐにTSUTAYAが後に入ると決まったからとりあえずよかったと思ってたのに、結局はそれもダメって、あの街から本屋無くなっちゃって」

「そうそう、イオンの中にあった本屋、あそこもTSUTAYAより前に無くなりましたもんね」

「あそこは広くて便利で良かったんですけどねえ」

「だからって訳でもないんですが、◇◇駅のホーム下にある本屋、ご存じですか?」

「ええ、知ってます」

「ぼく通勤で使ってるんで、たまにあそこに寄るんです。それで買ってきて、合間にここで読んで」

 患者が途切れたエアポケットのような時間。雑用もそこそこに本を取り出し、ひとりミステリーを読みふける歯科医。

 私の脳内に浮かんだ彼のその姿はコージーミステリーの主人公のようで、そして彼のキャラクターもやけにミステリーにぴったりに思えて、ちょっと出来すぎのような気がしてくるくらいだった。

 私の想像が伝わった訳でもないだろうが、何となくお互い曖昧な笑みを交わした。それを区切りに本の話を終えると、そこから先は治療の話に戻った。



 *



 と言うことで、歯医者通い始めました。

 歯医者に行けば痩せるかな? なんて淡い期待もありますが、2回通っただけでは当然、全く変わりはありません。

 それから何故か、予約を入れるとその日は雨になるのです。私、雨女ではないはずなんですけど。でも2回目はほぼ止んでいたので自転車で行きました。

 3回目も雨、しかも朝から本降りだそうです。

 歩け。自転車じゃ痩せないぞ。ってことでしょうか。


 歩いてきます。


 


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