第21話 電話番号


 母のスマホの暗証番号は電話番号だ。

 と言っても今現在使っているものではない。50年近く前、6、7年程住んでいた家の番号である。

 それは多分、私が初めて覚えた電話番号で、それからずいぶんたくさんの番号を暗記してきたはずが、今となってはもういくつも覚えてはいない。だって携帯電話を持つようになってからは機械が勝手に覚えてくれるのだもの、以降覚えたのは自分の携帯番号くらい。それまでに覚えた番号は忘れていく一方。


 覚えている数少ない番号のひとつを、今年の秋に使った。師としている女性の自宅の電話だ。

 私には心密かに師と仰ぐ女性が三人いて、お三方共母親世代の方たちで、番号を記憶しているのはその中で最も付き合いの長いAさんのみ。後のお二人はスマホ任せにしている。

 Aさんは電話とFAX、ふたつの番号を持っていて、どちらの番号も空で言える。当時それくらい頻繁に連絡を取っていたし、公私共にお世話になってもいた。

 仕事付き合いがなくなってからは、年に一度ほど電話をかけていた。それも段々と間遠になり、気付けば年賀状でしかほぼ連絡を取らなくなった私に、Aさんは仕事用葉書で活躍ぶりを知らせてくれていた。


 そんな私が家族で彼女の自宅に遊びに伺った事がある。彼女に息子たちを会わせたかったのだ。Aさんは自宅リビングで私たち家族の写真を撮って後から送ってくれた。その家族写真はずいぶんと長い間、我が家のリビングを飾っていた。

 その後も私たちの、年賀状の往復+Aさんの仕事を伝える葉書または封書+数年に一度の私の電話、という付き合いは特に変わることなく続いていた。

 年を重ねても彼女は出会った頃と変わらずエネルギッシュで、コロナ真っ只中に仕事の葉書が届いたものだから心配になって電話をしてみたら、一笑に付された。聞けばワクチンも打っていないと言う。

「ちゃんとしたものを食べて規則正しい生活を送っていれば大丈夫、そんなのには罹らないの。だいたい普段から薬だって飲んでないくらい健康なんだから」

 言い出したら聞かないひとだ。

「くれぐれも気を付けてくださいね」

 とだけ言って、電話を置いた。


 実際、Aさんは後期高齢者と呼ばれる年代になっても仕事をし続けていた。そうしてこの間、立て続けにいくつかの節目の年を迎えた。そのどれにも会いに行かなかった私は、今年こそはと心に誓っていた。と言うのも、師とする三人の中で最高齢だったCさんが昨年亡くなり、今夏、納骨の場に同席させて頂いていたからだ。

 Cさんの話をすると長くなるので触れないが、なんでもう一度会いに行かなかったのかと後悔の念が強い。だからこそAさんに同じ気持ちを持ちたくはなかった。

 Aさんはホームページを持っていて、そちらにごく簡単な予定を載せている。それを見ながら会いに行く日を考えていた。最初、彼女の誕生日近くに行こうと思っていたのだが、人気者のAさんのことだから会いに来る方が多いだろう、だったら少し外して翌月にでも、と思い直した。

 誕生日翌月早々、固定電話のボタンを押した。覚えているか心許なかったけれど、指が覚えていた。電話かFAXか、FAXならピーヒャラヒャラと甲高い音がするが、ふつうに呼び出し音が聞こえてきて、それも間違っていなかったと安堵しながら出るのを待っていた所、出ない。相変わらず元気に飛び回っているのだなあと感心しながら、時間を置いてかけ直しても出ない。翌日かけても出ない。ホームページを確認し直すと、トップ画面に新しいメッセージがあった。

 弟さんの名前で、Aさんが誕生日の一週間程前に亡くなったこと、葬儀は身内で済ませたこと、お別れの場をAさんの自宅で開くこと、その日時が感謝の言葉と共に記されていた。

 呆然とした。しばらくして我に返って、文末にあった弟さんの携帯番号に電話した。電話口に出たのは女性の声で、しどろもどろになりながらそれでも電話した理由を伝えた。

 女性は弟さんの奥様だった。Aさんは突然ひとりで旅立ったこと、その諸々の経緯を穏やかな口調で教えて下さった。


 お別れの日、Aさん自宅の最寄り駅にひとり下りた。この駅に来たのはいつ以来だろう、家族で伺った時は車だったからそれ以前になる。とにかく記憶にないくらい昔の話だ。グーグルマップで確認してから歩き始めた。

 それでも特徴的な道は覚えていて、すぐ近くまではすんなり来ることが出来た。ただ、そこから迷ってしまって冷や汗をかいた挙げ句、黒い服を着ているひとたちが目に入り、それでようやく辿り着いた。

 地元の方たちだろうか、エプロンを着けてお手伝いされている方たちに促され、用意されていた花を骨壺の前に一輪供えた。少しふっくらした顔のAさんが写真の中で微笑んでいて、ふっくらしている分だけ穏やかに見えた。

 弟さんとその奥様ともゆっくりお話することができた。弟さんは、

「姉は直前にも『したい仕事がまだまだたくさんあるし、百までは生きるから』と言っていて、実際それくらいまで元気でいるんじゃないかと僕も思ってた。我が道を行くひとだったから彼女に迷惑をかけられたひとも多かったと思うけど、好きに生きて突然消えていなくなって、それでもこうやってお別れに来てくれる方たちがいる。彼女らしいいい人生だったんじゃないかな」

 と笑顔で話して下さった。顔は全然似ていなかったけれど、笑った雰囲気がどこかAさんと似て見える、そういう笑顔だった。物で溢れていた懐かしいリビングはきれいに片付けられていて、代わりに残されたAさんの仕事が整然と並べられていた。

「良かったらどれでも好きなものを形見として持って帰ってください」と声をかけて頂き、お言葉に甘えた。色々と記憶にあるものばかりで選ぶのに酷く難儀しつつそれでも何とか決めると、二度と訪れることのない家を目に焼き付け、悔しさと別れがたさと共に胸に抱え帰路についた。



 私の手元には今、頂戴した品の他に、ミニアルバムが一冊残されている。表紙にはAさんが書いたと一目で分かる文字で、私の名前と彼女の住まいの地名が黒マジックで記されている。中身は子供を連れて伺った時に夫が撮った写真で、写りがいいものを選んで後日私が送ったものだ。お別れの場で、たくさんの写真が山になって置かれていた中から偶然見つけて、お声がけして持ち帰ってきた。

 お別れの場から数日して、息子たちにAさんの話をした。長男はともかく次男はずいぶん小さかったから覚えていないかと思ったら、意外そうな顔で「覚えてるよ」と言った。

 そうか、覚えているのかと思いながら、形見分けの品を見せた。二人共、ふぅん、という顔をしていた。ミニアルバムはなぜだか見せなかった。いまだに見せられずにいる。理由は自分でもよく分からない。

 Aさんの骨壺は海の見える弟さんの自宅リビングで過ごした後、一年後にご両親が眠る墓に入る予定だそうだ。


 Aさんとのお別れ翌月、3人目の師Fさんに電話もせずに会いに行った。何せ彼女の家は徒歩で15分程なのだ。それでも最近では年に一度か二度程しか顔を合わせていないのだが。

 3人の中で一番不健康で一番口の悪いFさんは、変わらないひとの悪い笑顔でもって出迎えてくれた。彼女は不健康な割にフットワークが軽く、家にいないことが多い。そういう意味でラッキーだった。Fさんは最近かかった病院の話をした勢いで、

「こんな感じなら、ある日突然死ぬこともあるかも」

 とふてぶてしく笑ってもいた。

「憎まれっ子世にはばかる、って言うじゃないですか」

 と返した私は、庭に落ちていた花梨カリンの実を目ざとく見つけ、もらった。何十年も庭に植えているにも関わらず、Fさんは花梨の実を使ったことはないと言う。なら何で植えたのかと尋ねれば、「さあ、分からないわ」。

 木にはまだたくさんの実がなっていて、「来週、丁度庭師が手入れに来ることになっているから、欲しかったらまたその後にでも取りにいらっしゃい」と言われた私は、喜んでその言に従った。

 そうして作った花梨ジャムは、作っている間中、優しくたおやかな香りで部屋を満たしていた。そのくせ仕上がりは彼女の口の悪さが移ったかのように後味が少々渋め。おかげで手が伸びず少し置いてから再び味をみてみた所、見事に渋さが消えていい塩梅に収まっていた。

 花梨酒の方は飲み頃になるまでしばらくかかるから今はお預けだけれど、そちらもきっと、と思うと何だかFさんの顔が勝手に浮かんできて妙に可笑しくなってくる。今しばらくは思い出し笑いをしていたくて、大きな瓶を床下にしまうことなく台所の隅に置いたまま年を越そうと思っている。




 *



 と言うことで、今年もお世話になりました。

 皆様におかれましては忙しくも楽しい年の瀬をお過ごしの事と。

 来年も変わらずにご縁を頂ければ幸いです。


 






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