へたれ、ながれ、とどめ。

燈外町 猶

忘れたこと。忘れないこと。

×


 どうか失望してほしい。

 できれば失望する前に、言い訳を聞いてほしい。


×


 初めてのセックスは覚えていない。

 大学生になってすぐというのは覚えているけれど、どこで、誰としたソレが初めてなのか判然としない。

 少なくとも私の家ではなかった。恋人の家だったのか、先輩の家だったのか、恋人の友達の家だったのか、まだ十年も経っていないだろうにその辺りの記憶が酷く曖昧だ。

 一生に一度の経験をこんな風に無下にしてしまったのは、連日飲み会続きで、誘われれば誰の家にでも遊びに行き、迫られれば受け入れた私が悪い。

 それくらい、当時の私は愛されたかった。単なる友達以上の、家族以外の関係や家庭以外の居場所が欲しくてたまらなかった。


 世間様からすれば間違った方法というのはわかる。けれど間違ってしまった原因は確かにあって、それは高校二年生の冬に起きたあの出来事なのではないかと、堕ちた自分に責任を負いたくない自分が叫ぶ。


 重ねて言う。

 どうか失望してほしい。

 できれば失望する前に、言い訳を聞いてほしい。


×


 簡単にどんな時代だったかを説明しておくと、私が高校生の頃、スマホはまだあまり普及していなかった。

 多くの生徒がWILLCOMという通話用のケータイと、メールやネットサーフィン用のケータイ(ガラケー)でいわゆる二台持ちをしていた、そんな時代。


 私はテニス部に所属していて、毎日をそれなりに楽しく過ごしていた。ある日、友人間で交流のあった軽音楽部と共にカラオケに赴く。

 そこで私は初めて彼女に出会った。彼女はボーカルということもあり非常に歌が上手く引き寄せられた。

 それだけでなく彼女は、大して上手くもない私の歌についてあれやこれや言葉を並べて褒めてくれた。当然悪い気がするはずもなく、その日を境に頻繁に遊ぶようになった。


 完全に互いを互いのものと意識するきっかけになったのは、高校二年生の秋に北海道で催された修学旅行だろう。

 六人組のグループに分かれて行われた渓流下りで、私と彼女は偶然同じ班になった。

 なんてことない恒例行事。ボートから落ちた生徒を生徒が拾い上げ掬い上げるお約束イベント。

 それでも私はその時、彼女を冷たい川から抱き上げた時、暖かさだとか、重みだとか、香りだとかいう、愛おしさに繋がる諸々を味わってしまった。

 修学旅行が終わり地元に帰ってすぐ彼女が私に交際を申し込んできたことから、それはやはり、互いに感じていたのだと思う。


 付き合ってからわかったのは、彼女は人よりちょっと涙脆くて、人よりちょっと手首の傷が多くて、人よりちょっと日常的に服用している薬が多い、ということ。


 気にしていないといえば嘘になる。なぜ彼女がそれらに頼るのか気になってはいたが、それらは彼女に対するマイナスには繋がらなかった。ただ、ただ、彼女の全てが愛おしかった。


 秋から冬に変わる頃、私達は普通に恋人をしていた。

 放課後には校舎の端にあり滅多に誰も訪れない非常階段で密かに会って、粛々と抱き合った。時間が来れば私も彼女も部活かバイトがあるため名残惜しくも離れて、メールでやりとりをする。夜、時間が合えば電話もする。そんな、高校生の等身大の恋愛をしていた。


 ある日、どんな話の流れかは思い出せないけれど、彼女が我が家へ来ることになった。

 たぶん面白い動画があるから一緒に見ようとか言ったのだろう。断言するが、下心は一切なかった。少なくとも、私には。

 学校から私の家に行くには畑に挟まれた細い道を歩く必要があって、肥料の匂いが充満していて恥ずかしかったのを覚えている。


 家に着いてまず私達がしたことと言えば、パソコンを立ち上げてくだらない動画をダラダラ眺めることだった。デスクチェアに座る私の膝に座る彼女の太ももがとても熱かった。彼女は私の手が冷た過ぎると笑っていた。


 それから部活の話をして。趣味の話をして。

 私の部屋には座布団だのクッションだのといった気の利いたインテリアはなかったので、必然的にベッドに腰掛けて。


 私は当時から小説を書いていたけれど、軽音楽部の彼女と付き合ってからは、いつか彼女が歌ってくれたらなと思ってもっぱら詞ばかり書いていた。

 ついそれを零してしまい、当然のように見せて欲しいと言われる。そうなれば恥ずかしいとなるのが思春期のサガであり、どうしようか逡巡していると彼女は強引に、私の恥ずかしい言葉が書き殴られたルーズリーフを取り上げてしまった。

 奪われると奪い返したくなるのも人の性。私達は一枚の、何の価値もない紙を取り合い、彼女はやがてそれを、自身の制服のシャツの下に仕舞い込んでしまった。


 私が返してと言っても、勝手に取ればいいと言う彼女。それはつまり服を脱がせろということだったが私に聖域を暴く勇気はなく、ただじっと見つめていると根負けした彼女が不承不承といった具合で返してくれた。

 結局彼女に読まれることもなく私の記憶からもとうに消えた詩達については、じっとりと汗ばんでいたことだけ覚えている。


 十九時になったあたりで、彼女は「眠くなった」と言って制服のままベッドで横になってしまった。「少ししたら起こすね」と言って電気を消し、することもないので私も横になる。

 やがて闇に慣れた網膜が朧げに彼女の背中や後頭部を映して、私はそれをただ眺めていた。


 しばらくすると彼女は、背中を向けたままずるずると移動して、私との距離をゼロにした。

 驚きつつも腕の位置が気持ち悪かったので彼女の前に回してしまい、抱きしめるようなカタチになる。

 彼女の呼吸は荒かった気がするけれど、それ以上に私の心音がうるさくてあまり覚えていない。


 肌寒かったので布団をかぶり、互いの体温を分かち合った。

 貧乏臭い私の布団や枕を、彼女の甘いシャンプーの香りが上書きしていく。私の吐息が結露となって彼女のうなじを濡らす。

 暖かい泥に沈んでいくような時間だった。これまでにしたどんなセックスよりも心地良い時間だった。

 彼女は時折腰をくねらせたり、私の手を自身の胸に導いたりしてみせたけど、私はその瞬間の幸せを享受するだけでいっぱいいっぱいで、ただ抱きしめて呼吸することしかできなかった。


 永遠にこの時間が続けばいいと思った矢先、彼女のケータイがけたたましく鳴り響き、私達は同時に体を跳ねさせる。

 彼女は私から離れると慌ててそれをとり、内容を確認した後「帰るね」とだけ言った。

 突然失った体温を惜しむ間も無く、言われるがままに淡い蓄光を頼りにリモコンを探して手に取り電気をつけた。

 

 すぐさま私は、突然の光のせいで何も見えないフリをした。

 彼女はシャツが酷くはだけ、黒い髪も濡れて肌に張り付き、頬はライブ終わりのように上気していて、まるで見てはいけない光景に思えたから。


 彼女が自分のはしたない格好に気づいて服装を直すまで瞼を擦り続けようとしていた私へ、

「本当に何も見えない?」「うん」

 つまらなそうに一言確認した彼女は、あっという間に近づいてなんでもないように優しく口付けた。


 互いの唇が適切な深さまで沈む。

 歯も舌も出番はない、痛みも快楽もない、教科書に載っているようなフレンチキスだった。


 離れて、私の目を見て少し微笑んだ彼女は、乱れた衣服や髪をさっさと整えて帰り支度を済ませる。

 ふと時計を見ると二十一時だった。二時間。私は彼女を二時間も待たせて、何も出来なかった。

 彼女とバスに乗り、最寄りの駅に着いて解散するまでの間、会話は一つもなかった。


 後日、元彼とやり直すから別れて欲しいとメールが来るまで、そう時間は掛からなかった。


×


 この臆病な体験が、大学生時の過剰な恋愛体質を作り上げたのかもしれないと——だからなんだという話なのに——言い訳がましく思う。

 セックスをしなければ人が離れていってしまうと、無意識に絶望していたのかもしれない。

 だのに。

 今となっては初めてのセックスすら思い出せず、結局は孤独な我が身を思うと笑えてくる。


 あのとき、押しつけられた胸を揉みしだいていれば。

 挑発的にはだけた衣服を剥ぎ取って、粘膜と粘膜でコミュニケーションをとっていれば。

 私と彼女の未来は何か変わったのかなぁなんて、未練がましく後悔せざるを得ない。


 だけど、できなかった。

 満たしたかったのは肉欲じゃなかった。

 それは、きっと彼女を酷く傷つけた。

 だから、彼女はそれを叶えてくれる人間の元へいった。


 初めてのセックスは覚えていない。


 それでも、あのキスは。

 私という臆病者に失望し、その咎を永遠に恥じるよう楔の如く打ち付けられた優しい唇は、きっとこの生涯、忘れることはないだろう。

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へたれ、ながれ、とどめ。 燈外町 猶 @Toutoma

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