私の好きな先生の話

まろにか

1

 私の学校には、歴史ハゲと呼ばれている先生がいる。


 その先生は、二学年の日本史担当の先生で、私のクラスを含む三クラスを担当している。

 私はその先生が好きだ。勿論、先生としての好き。

 先生の声は優しい。四十二歳という年齢に合った、落ち着いていてほんのすこし渋みがある声。語尾を少し伸ばす先生の喋り方は、年齢とは不相応におじいちゃんと話しているような安心感がある。


 その先生は、いわゆる歴史オタクというやつだ。授業中も、教科書の内容から脱線して、この人物の昔のあだ名はこうだっただとか、この人物は大の酒好きでこんな逸話があるだとか、そんな話を満面の笑みでする人。

 私は機械的に年号や流れを覚えるよりも、その人物の人柄や性格も併せて頭に入れた方が印象に残って覚えやすい。それに、自分とは遠くかけ離れた存在であるはずの歴史上の偉人たちが、先生のマニアックで面白い説明を聞くことで、すごく身近に感じられる。まるで、その人物が近所に住んでいるかのように。

 しかし、そんなことを思う私は少数派で、大半の生徒は「わかりにくい」「歴史の人物の雑談とか興味無い」「そんな話受験に出ない」などの理由で先生の授業が嫌いだ。なので先生の授業はクラスの三割が寝ている。しかし先生もそれを怒らない。


 そんな先生は、陰で自分が歴史ハゲと呼ばれていることなど知らないであろう。


 このあだ名が広まったきっかけは、三か月ほど前の授業終わりの出来事だ。

 授業終了のチャイムが響くと、先ほどまで机に突っ伏していた男子たちが、啓蟄けいちつを待っていた虫のように一斉に活動を始める。授業を終え、黒板の前の教卓で、余った配布プリントや使った教科書などを片付けている先生の後ろを、スマホを片手にドタドタと男子たちが駆けていく。

 その中の一人が、不意に先生にぶつかったのだ。

 先生はその衝撃で、前へ押し出され、教卓にダンッと両肘をついた。

 ぶつかった男子が、「すみません」と言ったのとほぼ同時に、先生の後頭部から黒くて大きな蜘蛛のようなものが落ちてきた。それは当時一番前の席だった女子の机の上に落ち、その女子の「キャー!」という耳をつんざく悲鳴が教室に響いた。はしゃいでいた男子たちがその子の机の周りに集まると、ある男子がこう言った。


「え、これカツラじゃね?」


 その男子はそれを拾い上げると、教室中に見せびらかすかのようにそれを高く掲げた。


「ああ、それ……私の部分ウイッグです。ごめんね、汚いもの机の上に落としちゃって」


 先生がそう言うと、男子たちは格好のネタを見つけたといわんばかりにはしゃぎだす。


「ええ、先生ヅラだったの!」


「わあ! ほんとだ! 後ろハゲてる!」


 先生の後ろに回り込んだ男子がそう叫ぶ。


「アハハ……実は若い頃、右後頭部を火傷してしまってね……」


 先生はどうやら瘢痕性はんこんせい脱毛症というやつらしかった。怪我や手術、火傷などによって外部から強い刺激が毛根に伝わることで、その部分が瘢痕となり、髪が生えなくなるのだそう。

 部分ウイッグをおもちゃのように扱う男子。「汚ないんだけどー」と笑いながら机をウエットティッシュで拭く一番前の席の女子と、それを見て笑う女子たち。そして困り顔で笑う先生。私は我慢できなかった。


「ねえあんたたち小学生? 先生困ってんじゃん! 早く返しなよ! そのウイッグ!」


 普段怒鳴ったり、人に意見したりしない私がこんなに声を荒げたのが珍しかったのか、教室中の全員の目が私を捉え、一瞬の静寂が訪れた。

 そして二、三秒して教室内の張り詰めた空気が緩むと、男子たちは、ばつが悪そうにお互いの顔を見合わせ、先生にウイッグを返した。先生はウイッグを受け取ると、渡してくれた男子にわざわざ「ありがとうね」とお礼を言って、ウイッグを付け直しもせずに足早に教室を去っていった。


 その日を境に、クラスメイトからの私の印象は、「真面目そうで近寄りがたい人」から「怒らせるとやばいおじさん好きのキモいヤツ」へと変わった。


 そんなことがあった一週間後、日本史の授業終わりに、またもやある事件が起こった。

 その事件の発端は、授業終了のチャイムが鳴る数分前の、先生のある発言だった。


「ええと、今日の授業はこれで終わりなんだけれどぉ、最後に一つだけ。来週にある期末試験のときの提出物について話しておくね」


 先生は、寝ている生徒たちが起きるように声のボリュームを上げ、クラス全体を見渡しながら話した。


「私が前に出した『明治の文化レポート』の課題、みんな覚えてるよねぇ。それの提出日時が日本史のテストがある日――つまり、二年生は最終日かな? の放課後までなんだけど、このクラスに社会科係さんっているかな?」


 先生がそう問いかけても、だれからも返事がない。私は一番前の席だったので、先生にこのクラスは社会科係というものが存在しないことを伝えた。


「そっか、このクラスはいないんだね。じゃあどうしようかぁ……。誰かにレポートを回収して社会科室まで持ってきてもらいたいんだけど……。じゃあ申し訳ないんだけどHR委員さんにお願いするしか――」


 先生がそう言いかけると、教室の後ろの方にいる日本史居眠り常習犯の男子の一人が、それを遮って笑い交じりの声でこう言った。


「山川さんがやればいいと思いまーす」


 山川というのは私の苗字である。

 その男子の発言を受けて、クラスの猿どもがギャーギャーと騒ぎ始めた。


「あっ、それナイスアイディア~」


「いいじゃんいいじゃん、山川に行かせようぜ」


「おいっ、放課後の社会科室だぞ? 何かあったらどうすんだよ~。山川、大人の階段上っちゃうんじゃね~?」


 各々好き勝手騒ぎだす猿どもに、先生は狼狽しながら口をパクパクさせている。

 そうしているうちにチャイムが鳴った。猿どもは、挨拶も待たずにガヤガヤとしたその雰囲気のまま勝手に休み時間に入りだした。

 もはや先生の「あのっ……ちょっと……」という小さくて気弱な声は、祭り会場の電話の声のようにかき消されて宙を舞っている。


「先生、私やります」


 私は席に座ったまま目の前の先生を見上げ、まっすぐ目を見てそう言った。


「え、山川さん……本当にいいの?」


「はい。私やります」


 私がはっきりとそう返事をすると、先生は本当に押し付けていいのかを悩んでいる様子だった。まあ、先ほどクラスの会話を聞いていたら、私は押し付けられただけで、嫌々この仕事を引き受けたと思われても仕方ないだろう。

 しかし私はそうではなかった。

 私が先生に真っ直ぐな視線を送ると、優しさの塊である先生も、私の意志に折れてくれた。

 そして「ありがとうね、山川さん」と言って次の教室へと駆けて行った。

 ――先生に名前を呼んでもらえて、ありがとうと言われた。


 私は少しだけにやけた。




「失礼します。伊藤先生いらっしゃいますか」


 試験最終日の放課後、私は社会科室のドアを三回ノックし、レポートを落とさないように気を付けながらドアを開けてそう言った。すると、「あ、山川さんありがとうねぇ」と言いながら、コーヒーの芳しい香りを纏った先生が駆け寄ってきた。


「ごめんねぇ、わざわざ。重かったでしょう」


 先生は、入口で私からレポートを受け取ると、「少し外で待っててくれるかな?」と言って自分の机にレポートを置きに行った。

 私は社会科室のすぐ外で、壁に背中を預けながらそわそわした様子を必死に隠していた。先生と放課後二人きりでお話……。


「いやぁ、おまたせおまたせ」


 社会科室から出てきた先生は、手にマドレーヌを持っていた。


「はい、これどうぞ。レポート届けてくれたお礼に」


「わざわざありがとうございます」


 私はそれを両手で受け取った。


「山川さん……いつも私のせいで面倒ごとを押し付けられてごめんねぇ……」


 眉をハの字にさせて、腰を低くしながらそう謝る先生は、守ってあげたくなるような愛らしさがあった。思わず笑みがこぼれそうになったが、ここでにやけるわけにはいかない。


「いえいえ、先生のせいじゃありませんよ。それに無理やりじゃないですし」


 どうせレポートは私が持ってこようと思ってましたので。


「でも、辛かったら言ってね。先生、なんとかしてみるから」


 私の双眸そうぼうをしっかり捉えて離さない先生の優しい視線に、私は体が熱くなるのを感じた。これ以上話を引き延ばしても、先生が「やっぱり何か言いたいことがあるのではないか」と心配する一方なので、私は軽く頭を下げて、その場を後にした。

 荷物が置いてある教室に戻る道すがら、貰ったマドレーヌを鼻に押し当ててみたが、箱から出したばかりなのか、先生の匂いはしなかった。


 



「――それでこの黒田清隆という男は面白い奴でねぇ。のちに総理大臣にもなるんだけど、黒田はとにかく酒癖が悪くってねぇ――」


 あ、先生がまた歴史オタクモードに入った。こうなったら五分は黒田清隆の話をやめないだろう。

 私はこの状態に入った先生が好きだ。頬の肉が重力に逆らい、目じりには沢山の皺ができる。教壇の上を右へ左へと行ったり来たりしながら、少し上の方を見て、まるで学生時代の友人の話をするかのように楽しそうに話す。

 そんな先生を、私は少しだけ口角をあげながら、一番前の席でじっくりと堪能するのである。


 私は先生の後頭部に瘢痕性脱毛症があっても気にしない。

 私は先生がみんなから「歴史ハゲ」と馬鹿にされていても気にしない。

 私は先生の家が私の家から14.38kmも離れていても気にしない。

 私は先生の左手の薬指に、銀色に光る輪っかが着いていても気にしない。

 私は先生の家の郵便受けに、伊藤○○・○○・○○と、先生の名前に加え、妻と娘の名前が書かれていても気にしない。

 私は先生が私以外の誰かを心から愛していても気にしない。


 え? 先生のことが好きなのかって?

 勿論好きだよ。先生として……ね。

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