第19話 アイリーン(2)

 

 鮎香瀬さんは、飲み物をワインからビールに変えて、長谷部先生のエピソードを聞きながら大笑いしたり、顔をしかめたりしていましたが、寡黙にワインを少しずつ飲んでいた良枝さんが何気なく尋ねてきました。


「手切れ金をもらって別れた後、長谷部とは、それっきりだったの?

 ずっと瑛斗とそんなプレイしてたのに、結婚生活は上手くいったのかな?」

 

「正直に言うと、別れた翌年の大学三年生の冬に電話がありました。

 今、旦那さんと別居中で、近々離婚するから

 また昔みたいに会ってくれないかって」


 良枝さんの顔が急に強張り、手にしていたワイングラスをテーブルに置いて私を見ています。さっきは過去の女性に対しては何も感じないと言ってましたが、明らかに怒っています。鮎香瀬さんが言わんこっちゃないという表情で私に告げます。


「なぁ変態君、正直は美徳だけど、雉も鳴かずば撃たれまいって知ってるよな?

 ビーノは嫉妬深いって、アドバイスを、もう忘れたのか?」


 長谷部先生から久々の連絡があったときには、もう良枝さんと付き合っていたので、今は特定の人がいるから無理ですと返事しました。


「誤解しないで。私は島崎くんの恋人になりたいんじゃなくて、

 前みたいに月に2~3回、ホテルで会って欲しいだけなの。

 若い彼女さんとの邪魔はしないから、いいでしょう?

 私と、あれだけのことをやってたんだから、

 今更、普通のセックスじゃ、我慢できないでしょう?

 彼女とは絶対にできないことを私とやろうよ」


「今の彼女は、先生と同じ13歳年上で、背が高くてカッコよくて、

 すごく可愛いい人なので、絶対に裏切れませ


 自分と同い年と聞いて、長谷部先生は、さすがに驚いたようでした。その人と、どこで知り合い、どんな人なのかを尋ねてきたので説明をしました。


「ふーん、私と同い年か。じゃあ、あのまま付き合い続けていたら、

 私にもチャンスがあったのかな? だったら人生最大の失敗だな。

 彼氏からカッコよくて可愛いいって褒められて、

 絶対に裏切れないとか言われたら、もう最高だよ。

 いいな。私も島崎くんに『裏切れない』とか言われたかったな」


 こちらから聞くとはなしに長谷部先生は、自身の離婚について語りました。結婚前は打たれ強く見えた旦那さんは、凡人並みの能力しかないくせに、トップアスリートをも凌駕する自信と高すぎるプライドをもつ厄介な人で、結婚してすぐにアトリエに籠って、なるべく顔を合わせないようにしていたとのこと。

 結婚前も言ってましたが、セックスが絶望的に下手で、我慢できなかった先生は、千葉市に下宿していた元美術部員の大学生を誘い、ホテルで定期的に会っていました。ところが相手が先生に夢中になってしまい、ある夜、帰宅途中の旦那さんを待ち伏せて「響子先生はセックス下手のお前なんか、全然、愛していないぞ」と告知するという暴挙に出ます。

 御陰で浮気がバレて、先生は別居を経て離婚に。旦那さんが相手の大学生を訴えると息まいていたので、彼の両親が示談金を支払い、一家揃って地元から姿を消したそうです。


「好きでもない相手に結婚っていう餌で釣られて、

 つまんない人生を送る羽目になって、浮気がバレて離婚だから、

 全部、自業自得なんだけどね。

 島崎くんとの関係を復活させたかったけど無理か。

 じゃあ、もう連絡はしないよ。その人を幸せにしてあげてよね。

 同い年の私からのお願いね。さようなら。彼女とお幸せに」


 そう言って電話は切れて、以後、二度と連絡がくることはなかったです。話を聞き終えた良枝さんは満足気に微笑んでテーブルに置いたグラスを再び手にし「心配させないでよ」と呟きます。鮎香瀬さんは苦笑してビールを一気に飲み干します。


「いい話じゃないか。そこまで思われているビーノが羨ましいよ。

 ……参ったな。本当は今日は、もっと面接っぽいことをやるつもりだったんだよ。

 変態君に大学時代やサラリーマン時代は何をやってた、とか質問して、

 その回答に意地悪くダメ出しをして『アイリーン、彼は素晴らしい人よ』とか

 一生懸命に庇う健気なビーノが見たかったんだよ。

 それが、長谷部の話で、全部、ふっ飛んじまった。

 正直言うと、変態君のことは、もう調べてあるんだ」


 そういうとトートバッグから一冊のファイルを取り出します。良枝さんが減量をしている三ヶ月の間に、鮎香瀬さんは私の身辺調査を調査会社に依頼していました。会社員時代の勤務態度、過去の女性関係、風俗やギャンブルに入れ込んでないか、借金はないか、千葉の実家に戻ってきてからの様子や近所の評判。さらに鮎香瀬さんは社会的地位があるので、交友関係に変な連中がいないか等々。


「結論から言うと変態君は何の問題もなかった。

 地方自治体の公務員だった父親と農業をやっている母親の一人っ子。

 父親は高校三年生のときに亡くなり、母親も半年ほど前に他界。

 借金もなく、ギャンブルはやらないし、大酒飲みでもない。

 おかしな連中との付き合いもない。

 会社員時代の勤務地は鹿児島と名古屋で、勤務態度は良く、

 同僚からの評判も良好。特に名古屋支店での評価は高いね」


 鮎香瀬さんが依頼した調査会社のスタッフは、間近の名古屋支店だけでなく、鹿児島支店時代の関係者にも話を聞きに行ったようです。


「女性関係については、鹿児島時代は結構モテたみたいだけど、

 遠距離恋愛の女性に一途って、これはビーノのことだな。

 離島の営業担当だったから、月の半分は支店にいなかったんだね。

 名古屋時代には、滝谷っていう雑誌編集者と三年間の交際して、

 相手は結婚を考えていたけど、既に関係は解消と。

 ここ三ヶ月は特定の人物と付き合っている様子はなく、

 近所のキャベツ農場でバイトをしてたと。なんともきれいなもんだ。はははは

 長谷部のことは『高校時代に女流画家のモデルをやっていた』

 としか記述がなくて名前すら出てないから、完全に秘密が保持されていたね。

 その点では調査会社よりも彼女の方が一枚上手うわてってことだ」


 茶々を入れるつもりはありませんが、滝谷さんは雑誌編集者でなくてグラフィックデザイナーです。勤務先が編集プロダクション会社だったから、そうなったのでしょうか? あと鹿児島時代にモテた記憶がありません。「今度、美味うんめかお店、教ゆっで、一緒に行きもんそ~」とか、よく取引先の女性から声を掛けられたけど、それのこと? あれは単なる社交辞令ですよね。


「ねぇ、アイリーン、ちょっと聞きたいんだけど、

 その報告書には、瑛斗が名古屋で付き合っていた女性の写真も載ってるの?」


 突然、良枝さんが鮎香瀬さんに質問します。写真があって、滝谷さんが良枝さんに似ているとわかれば、当然、別れ話の原因となった例の女性かと問い詰められるでしょう。


「あるよ。名前は滝谷久美子。愛知県の老舗洋菓子店の一人娘。

 雑誌編集者の傍ら『盛元ナヲ子』のペンネームで4コマ漫画を連載中だとさ。

 望遠レンズで盗撮だから、そんなにきれいに写ってないけど、顔はわかるよ」


「えっ!滝谷さんの実家って老舗洋菓子店だったんですか?」


 思わず声に出してしまうほど衝撃的な話でした。


「おいおい、変態君、三年も付き合っていたのに知らなかったのか?」


 鮎香瀬さんが呆れていますが、悲しいかな初耳でした。


「全然、知らなかったです。会社の先輩に紹介されて、

 栄(名古屋の繁華街)の居酒屋で顔合わせしたとき、

 実家はお菓子を作ってると自己紹介はしてましたけど、

 町のケーキ店とか和菓子店かなって思ってました」


「そうなんだ。え~っとね、

 御遣物おつかいものや御進物用のマドレーヌやクッキーが有名な焼洋菓子の老舗で、

 県内に複数の直営店舗があり、商品は名古屋市内のデパートや

 JR名古屋駅でも販売されているってさ」


 鮎香瀬さんが口にした店名には覚えがあります。退職して千葉の実家に戻って間もない頃、母へのお見舞いとして、滝谷さんから豪華な箱に入ったマドレーヌとクッキーが宅配便で届きました。

 滝谷さんに御礼の電話をすると、この店の包装紙デザインをやったと自慢するので、彼女が手掛けた仕事ならばと包装紙に記載されていた店の名前をしっかりと記憶してました。当時は、デザイナーとして受けた仕事だと思っていましたが、まさか彼女の実家だったとは。


 名古屋を離れられないのは老舗の跡取り娘だからで、婿養子に拘っていた理由も、それならば十分に合点がいきます。もう手遅れだけど、いきなり両親に挨拶に来いみたいな言い方じゃなくて、その辺の事情をちゃんと説明してくれていたら、全く違った結果になっていたと思います。

 

 鮎香瀬さんから、滝谷さんがどんな人物か尋ねられ、良枝さんも「聞きたい! 瑛斗の名古屋時代の彼女、詳しく知りたい!」と大はしゃぎしたので、良枝さんに似ているということは伏せて、彼女の為人ひととなりも含めて話しました。


「そうか……我儘なお嬢様かと思ったけど違うんだな。

 まぁ滝谷に限らず、老舗や有名店の跡取り娘は、

 妙齢になると家業を隠す奴が多いよ。

 実家の資産目当てで近づいてくるヤバい連中がいるからね。

 あくまで推測だけど、たぶん滝谷には変態君が

 結婚してくれるっていう確証がなかったんだよ。

 それを確認するため、両親へ挨拶に来て欲しかったんだろう。

 本当に君が来たなら、ネタばらしするつもりだったんじゃないかな?

 まぁ、変態君も彼女と結婚しておけば逆玉で、

 こんなとこで、変な女医に絡まれずに済んだのにな。

 逃がした魚は大きかったな」


 鮎香瀬さんは上手く言ってやった風に笑ってますが、私の隣席の方は発言内容に御立腹な様子です。鮎香瀬さんも、すぐ気付き、拙いぞという表情に変わりました。


「おっと、やばいな。ビーノに思いっきり睨まれちまったよ。

 いや、今のは言葉の綾だよ。ちょっと冗談が過ぎた。

 そんなに睨まないでくれよ。悪かったよ。御免よ。

 私だって、本心では変態君が滝谷と結婚せずに、

 ビーノのとこに戻って、本当に良かったと思っているって」


 滝谷さんの昔話の御蔭で時間は稼げましたが、ファイルに写真が貼ってあって、良枝さんに見られたら、たぶん一巻の終わりだという状況に何ら変りはありません。ファイルを強奪して、この場から逃げたい衝動に駆られますが、実行する勇気は到底ないです。「もういいから。早く滝谷さんの写真を見せてよ」という良枝さんの言葉に促され、鮎香瀬さんはテーブルの向かいに座っている彼女にファイルを開いて見せます。


 ああ、終わったなと思いながら、ファイルを横目で覗き見ると驚くべきことに写真は、滝谷久美子さんではなく全くの別人物でした。どういうことでしょう? 探偵が撮影対象を間違えた? それとも何らかの事情で本人の写真が撮れず、適当な写真で誤魔化した? 事情はわかりませんが、とにかく助かったことだけは確かです。写真を事前に見たであろう鮎香瀬さんが「滝谷って、ビーノに似てないか?」と言い出さないか不安でしたが、この写真なら、そんなことをするはずがありません。良枝さんは、じっと写真を見つめています。


「私ね、三年ぶりに瑛斗と再会したときに聞いた、

 彼女と会っているときにも私のことを思い出して、

 自分の本当の気持ちがわかったっていう言葉がすごく嬉しかったの。

 それからずっと瑛斗の名古屋の彼女が、どんな人か気になっていた。

 鼻が高かったり、垂れ目だったり、背が高かったりとか

 どっか私を思い出すような部分があったのかなとか想像してたけど、

 写真を見たら全然違ってた。

 瑛斗は滝谷さんのどこで、私を思い出したの?」


「それは外見じゃなくて仕草です。

 裸エプロンならぬ、裸Tシャツで朝食を作ってくれたり

 朝、起こしてくれる前に顔を優しく撫で回してからキスとか。

 ああ良枝さんはディープキスだったよなって思い出して、

 どうしているかな?もう一度、会いたいな、になったんです」


 我ながら咄嗟に思い付いた嘘にしては上出来だったと思います。良枝さんも「ああ、仕草か。なるほどね。ある程度、関係が進まないとできないことってあるもんね」と納得してくれました。良枝さんの機嫌が直ったからか鮎香瀬さんも安心したようで、私に話し掛けてきました。


「ビーノから聞いたと思うけど、前から女性っぽい男を探してたんだよ。

 正確には、中性っぽくてスーツ着せれば男性で、

 化粧して着替えれば女性になるっていう条件だったけど、

 なかなか希望どおり人がいなくてね。

 ニューハーフとも何人も会ったけど、彼らは恋愛対象が男性だし、

 女性になりたい願望が強くて、私の希望とはベクトルが違ててね。

 ホストクラブにぴったりの子がいるって情報もらって、

 店に行ったら確かに中性っぽかったけど、

 本人が途轍もない馬鹿だったんで即行で諦めたりとかもあった。

 その点、変態君は、今まででベストだよ。

 きれいな顔だし、身体つきは女性っぽくて女装にも抵抗がない。

 身辺調査は問題なしで、長谷部や滝谷の話を聞いて、頭の良さと、

 人に物事を伝える能力の高さは、よくわかったよ。

 ビーノの彼氏じゃなかったら、絶対に奪取してたよ。はははは」


 様々なSNSやマッチングアプリのある現在であれば、付き合えるか否かは別として、変わった条件のパートナーであっても探すだけなら、さほど難しくはありませんが、そんな便利ツールが存在してない1990年代末は、特殊な嗜好を満たしてくれる相手を探すのは至難の業でした。


「男性なのに胸が膨らんでいるんだって?クラインフェルター(症候群)か?」


「いえ、性染色体の数は正常値で、

 クラインフェルター症候群の外観的な特徴である

 高身長でもないので、性分化疾患だそうです」


「性分化疾患? そういう診断されたのか? う~ん、そうかな?

 まぁ、私は専門医じゃないから、断定的なことは言えないけどな……」


「胸を御覧になりますか?」


「おっ! ぜひとも見せておくれよ」


 上着を脱ごうとしたら、鮎香瀬さんとの会話を遮るように良枝さんがお願いしてきました。


「……ちょっと瑛斗、私ね、今すぐコーヒーが飲みたいの。

 でもポットのコーヒーが完全に冷めちゃっているから、 

 悪いけどレンジで温めてくれない?」


 いつもなら何も言わずに自分でやるのに珍しいです。「いいですよ」と良枝さんのカップにコーヒーを注ぎ、ミニバーの横にある部屋備え付けの電子レンジへ。


「瑛斗、御免ね。本当は人払いだったの。これから私とアイリーンの会話は、

 聞こえるだろうけど、聞こえなかったことにして欲しいの。いいわね?」


 普通に「二人の会話は聞かなかったことにして」でいいのに、いつもの良枝さんらしい変な言い回しです。

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