だいたい、だいたい

比古胡桃

だいたい、だいたい

 階段を一つ、二つ、三つ。それから、溜め息一つ。


「私、ダメかもしれない」


 たったひとつの溜め息は、一人を自覚させるには十分だった。


 人生には、階段がある。赤ん坊から、子供。そして、子供から大人といった風に誰もがこの順番に足をかけて、一歩ずつ上へ、上へ。勿論、状況や環境が違えば上っていく早さは全然違うけれど、順番自体は普遍的。

 その階段を更に細かく、順番まで指定してくれている人たちが居る。先に階段を上っている先人方。親だとか、国だとか、義務教育、だとか。

 最初に大人になって、次に子供、最後は赤ちゃん。なんて数奇な人生は映画の中だけ。

 義務教育と、その周りにアクセントされている幼稚園や、高等学校。それ以外にも、専門学校だとか、就職だとか。とまれ、義務教育と言ったものが中心軸に人生の初めの方は回っている。少なくとも、私……柳葉沙橙の住んでいる日本では。沙羅双樹の沙に橙色で、さと。

 ミルクティーの底に溜まったガムシロップのように重たい溜め息。それも、わずかに開いた窓から吹き込んできた、桜の残り香と若葉の匂いに巻き上げられて、消える。ついでとばかりに無駄に長い髪が、揺れる。

 人より遅めに袖を通した制服。他の仲間達の群れに合流させてあげることも出来なくて、申し訳なさでいっぱい。

 宥めるような気持ちで、真新しいセーラー服を撫でる。

 風の吹き込む窓に少しだけ近づいてみる。その先では、重々しい制服ではなく、軽そうなスコートをパタパタと右へ左へはためかせながら、白線内を走り回っている女生徒。手に持ったテニスラケットを振るう度に、ポコンポコンと、軽快な音が木霊する。

 人の殆どいない廊下をペタペタと歩く。最後に通っていたのが小学校で、今通っているのが高等学校だからか、学校の体内構造は記憶と少し違う。

 数ヶ月前まで見ていた景色は、白い天井に白い壁。それから白衣に身を包んだ大人ばかり。


「ありがとう」


 胸に手を当てて、染み込ませるように呟いた。

 今、高校に来られているのは運良く、ポンコツな心臓を交換して貰う機会に恵まれたから。お陰で制限があるとはいえ学校に通えている。

 視線を横滑りさせて、廊下へと戻す。それから、ゆっくりゆったり、歩く。過度な運動は厳禁と言われているが、そもそも数年間入院生活をしていたこともあり、そんなフィジカルは一切備わっていない。

 歩いた先、廊下の奥、校舎の端。そこには一つの教室。私の入院中最大の友人たちが居るところ。


「失礼しまぁす」


 間延びした声とともに、引き戸に手をかけると、ガラガラと、年老いた声を上げる。

 やわらかい日の光が本の傷まない程度に差し込む室内。木製の本棚と、喧噪から切り離されたかのように静かな室内。キラキラとした光を浴びていてちょっとした幻想的な美しさは、小さな塵や埃、それから目に見えないほどの小さな紙片が光を乱反射させているから。

 誰も居ない図書室に挨拶をひとつ落としながら、後ろ手に扉を閉める。カーペットの敷かれた室内は土足禁止のようで、上履きを脱いで扉横の下駄箱に預ける。

 室内をふらふら、締めきった窓の向こうから遠く聞こえてくる小気味よい打球音のリレー。私には参加が厳しい運動部が張り切っているのだろう。動いてみたい、運動をしてみたいとは思う。でも、思うだけに留める。

 ギュッと、制服の胸ポケットあたりを掴む。この子だって、負荷を与えられるときっとつらいはずだから。


「大事に、するから」


 白い牢の中から脱出できたのは全部、この子のお陰。名前は知ることが出来ないけれど、その誰かのお陰でこうして学校へと来ることが出来ている。

 感傷に浸りながらゆっくりと、図書室内を練り歩いていると、ふと気付く。本を手に取って読み始めない限り、幾らゆっくり歩いたところで五分もあれば一周できる。だというのに、ぐるぐると回っているにも関わらず、誰の影も無い。貸し出しカウンターには、各クラスの貸し出しカードがセルフで置かれているだけ。鍵を開けた誰かは、お手洗いに行っているのだろうかと考えてみるも、それにしては長すぎる。

 もしかして、戸締まりを忘れていったのだろうか。入学したばかり、それも四年以上振りの学生生活。鍵をかけるべきか、席を外した誰かを待つべきか。不安になり探るように図書室を回っていると、ぴたり。目にとまる。

 カウンターの奥に一枚の開き扉。僅かの隙間。上には小さなプラカードで『図書準備室』とゴシックのモノクローム。もしかしたら、誰かがそこで作業しているか。誰がいるのか、いないのか。

 逸る心臓。とくん、とくん。鼓動に背中を押されながら、ノブに手を添える。深呼吸を一つ。少ない力を込めて、ドアを押す。半開きになっていたから、ノブを回さずとも大人しく開く。

 真っ先に見えたのは鉄製の無骨なラック。後は所々に置かれている段ボール。本や図書室の管理資料などが置かれているのだろうか。それらが埋め尽くされているからか、間取り以上に狭く感じる室内。それから若干の埃っぽさ。

 ラックと資料のジャングルを抜けた先。窓際、ぽつんと置かれた学校机。

 そこには、女生徒が一人。

 どくん、と心臓がこれまでで一番大きく跳ねた。心臓を通った血液はまるで、火にかけたかのように熱を持ちざわつきながら、指の先の先まで駆け巡る。

 僅かに開いた窓から吹き込む風に、揺れるセミロングの金糸。太陽の光が反射しただけの単純な現象だったのだろうけれど、間違いなく、その時の自分にはこの人の髪が……この人が輝いていた。

 ぼぅ、と窓の向こうを見つめている彼女。細められた目が、物憂げに、寂しげに、言葉にならない何かを揺らめかせているようで。彼女を見ていると、心臓が痛いほどに脈打つ。意味が分からない程に。喉の手前で引っかかった言葉は、そのまま胃の中へ落ちて溶ける。

 五秒か、或いは五分か。膠着するその空間に強く吹き込む風。大きく彼女の髪を揺らした風は、それだけに飽き足らず、机の上に置いてあった一枚の紙が舞い上がらせた。打ち上げられたそれはある程度まで上昇すると、ぴたり一瞬止まる。すぐに、ひらひらと落ちてきて……目の前に。反射的に手を伸ばし、掴む。


「ナイスキャッチ」


 その紙に視線を走らせる前に、届いた声に視線を上げる。


「文芸部へ入部、ありがとう。いやー、感謝感激、雨霰とはまさにこのこと」

「へ……?」


 一人、窓を見ていた時からは想像できないほどの快活な笑みと、弾むような声。そして、訳の分からない言葉に風船が萎むような情けない声。

 彼女が、ちょいちょい、と私の手元を指さす。手に持ったプリントに印字されているのは『入部届』の文字列。


「なんて、じょうだ……」


 とん、と。背中を押された。気がした。


「入ります!! 私、入部しますっ」

「へっ」


 次に気の抜けた声を上げたのは、目の前の彼女。これが、一つ上の柊木景先輩との出会いだった。




「それで沙橙ちゃんは、久しぶりの学校で一刻も早く知り合いを作るべく、学校を歩き回っていたわけ」

「えっと、まぁ……」


 放課後、通い慣れ始めた図書準備室に足を運び、向かい合うように設置された私の机と、それから椅子。そこに腰掛けながら、文芸部部長こと柊木景先輩と顔をつきあわせている。机の上にはそれぞれのプロット立てやネタ出しの為のノートとシャープペンシル。それから、物語の書き方のハウツー本。


「そういう意味では残念だったわね。うちは、名前だけ借りている友達は何人か居るけど、活動してるのは実質私だけ」

「知ってます」


 半ば勢いで入部した文芸部。とはいえ、殆ど誰も来ない空間と、この脳天気な先輩とで過ごす時間を既に気に入り始めている。当初の、入院生活で出来た空白を埋めるため、友人を増やす、という目的とはかけ離れてはいるけれど。


「ありゃ、知ったら辞めるって思ってたんだけど」

「私が居ないと部員が足りなくて廃部扱いになるんですよね」

「まぁねー」


 入ると言ってから、後出しじゃんけんのように、廃部寸前だったのだという豆鉄砲で銃撃を受けた。部活で知り合いを増やそうにも、先輩以外の生徒は来ない。とはいえ、じゃあ辞めますと言えるほど、非情にはなれない。


「……それに、先輩と会えましたから」


 付き合いは浅く短いけれど、それでもこの人好きのする先輩との時間は、陽だまりのように心地良い。


「嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 ニッと大輪の向日葵の笑みを浮かべる先輩。見た目だけなら演劇部とか、運動部とか、そういう派手? な部活動をしていそうなものなのに。


「どうしたの? 私の顔になんかついてる?」


 顔に出ていたのか。そういうところは小学生のままなので早急に成長しなければ、と心に決める。


「その、景先輩って運動部とかに入ってそうだなぁ……って」

「あぁ、文芸部ってカオじゃ無いってことね」


 直接言うのは失礼に当たるかも知れないと遠回りに伝えたけれど、全くの無意味。心でも読んでいるのか、私のコミュニケーション能力が著しく欠如しているのだろうか。どちらも、御免被りたいところではある。


「太宰治を読み込むヤンキーだって居るかもしれないし、カフカが好きな女子高生だって居る。老眼鏡をかけたおじいちゃんだって漫画を読むこともあるでしょうに」


 ピンと、指を立てて語る先輩。いまいち要領を得なくて首を傾げる。


「そりゃ、沙橙ちゃんみたいなサラサラ黒髪ロングの『ザ・文学少女』みたいな人だって居るけれど、そういう人だって蓋を開けてみるまで中身の、それも趣味嗜好なんて分かりっこないわけ」

「あ、ごめんなさい」


 先輩に諭されて偏見を自覚。自分の浅ましさというか、単純さが嫌になる。


「ま、今回に限っては言ってることも間違ってはないんだけどね。実際、中学生の頃までは運動部じゃないけど、結構厳しい部活に入ってたし」


 カラカラと笑う表情に振り回される。一体、どちらなのだ。いや、偏見を咎めてくれたのは先輩らしかったけれど、振り回されすぎると振り落とされそうになる。こちらは病み上がりなのだから少しは速度制限をかけて貰いたい。


「その、どうして、文芸部に?」


 ついて回るのは何故という疑問。どうして文化部の中の文化部である文芸部へと移ったのか。


「うーん、そうだなぁ」


 先輩はどこかわざとらしく悩むような素振りを見せる。


「知りたい?」


 こくり。首を縦に。

 私にとって、授業以外の殆どの時間は此処に集約される。中学生活をスキップしたから、仲の良い知り合いはゼロ。趣味と言えばベッドの上でも出来た読書か映画鑑賞。けれど、最近の本や、最新の映画の話は領分では無い。

 言ってしまえば、馴染めていなかった。結果、この準備室に籠もってお昼ご飯を食べたり、本を読んだり。文章を書いてみるも、いざ筆を執り生まれる文章のなんて稚拙なことか、と言の葉を紡ぐ難さを噛みしめたりもする。それから、この先輩と他愛の無い話を転がしたり。

 たった一人の先輩のことを知りたいと思うのは、多分、普通のこと。


「じゃあさ、ちょっと売店で飲み物とお菓子買ってきてよ。ほい、お小遣い」


 私の手を取ってぽとり、落とされた五百円玉。


「あ、沙橙ちゃんもそれで好きなモノ買ってきていいからね。お駄賃ってことで」


 溜め息を一つ。本当に、この先輩には振り回されてばかり。


「飲み物とお菓子、何を買ってくればいいんですか?」


 問いに対して帰ってきたのは、お任せ、のたった一言。

 小さな売店へと向かい、とりあえず飲み物を二本と、お菓子を少し。手早く買い揃えて図書準備室へと戻ってくる。ここ一週間と少し、通って気付いたけれど、図書室を訪れる生徒は驚くほど少ない。勉強のための自習室が別にあるから、だろうか。


「お待たせ、しました」

「待ちわびたよ。戻ってくるまでの間に文庫本三冊も読んじゃった」


 肩をすくめて、くたびれたかのように椅子に背を預ける先輩。ちらと視線を横に向けると、机の上には言葉通り文庫本が積み上がっている。


「うそっ……!!」


 そんなに待たせてしまったのか、と時計をチラリと見る……けれども、分針は出る時よりも十分程度進んでいるだけ。


「くっ」


 顔を上げると、口元に手を当てている先輩が一人。


「……騙したんですね」


 その言葉が呼び水となったのか、身体を曲げて静かに震えている。なんて幼稚なウソなのだろうか、と怒りは欠片も現れず、脱力するばかり。


「いやぁー、だって騙されると思わないでしょ。ふつー無理じゃん」

「そりゃ、そうですけど……」


 普通に考えて、文庫本を三冊、どんなに速読だって十分で読めるわけが無い。


「沙橙ちゃん、見た目は大人っぽいのに、結構純粋でついついからかいたくなっちゃうんだわ。ね、だから許して?」


 その『だから』は一体どこに掛かっているのか。


「見た目で判断しないようにって話したばかりじゃ無いですか。私の最終学歴は小学校ですので」


 開き直って、自虐と一緒に少しだけ臍を曲げる。


「そりゃ、失敬。でもまぁ、これはさ、ギャップってやつだと思うんだよね。そういう抜けたところをクラスでも見せたら、すぐに友達出来るんじゃない?」


 なんと、この、ちゃらんぽらんな先輩はあろうことか、気にしている急所を突っついてきた。流石に、気にしていることを言われて、流せるほどの大人では無い。むしろ、同級生よりもずっと子供。けれど、先輩に言い返せるほどの度胸もなく、ぷいと顔を背けて拗ねる。


「折角、先輩の好きなコーヒー買ってきたのに、あげませんからね」


 見せつけるように取り出し、コンと音を立てて机の上に。


「えー……あれ?」


 わざとらしい残念そうな声のあと、素でこぼれ落ちたような疑問符がコロコロ。机の上を転がって、缶コーヒーにぶつかる。何に対しての『あれ?』なのかが分からず、釣られて首を傾げる。


「私、ブラックが好きなこと、言ってたっけ」

「え……」


 机の上に置かれた缶コーヒー。それもブラック。花の女子高生とブラックコーヒーの組み合わせはどこかアンバランス。


「私、どうして……」


 景先輩がブラックコーヒーが好きなことを知っているのだろう。好きな飲み物の話なんてしていない。偶然、とは思わない。私は、先輩が好きな飲み物だと認識した上で買った。


「もしかして、入学前から私の大ファンだったとか?」


 真剣そうな声で言うモノだから、思わず溜め息が零れる。張り詰めた空気が一瞬で台無し。


「……そんなわけないじゃないですか。入院していたんですから」

「そこまで否定しなくてもいいじゃん」


 スッパリと言い切ると、先輩は瞼を震わせた。


「あっ、その……」


 言い過ぎたか、と慌てて取り繕おうとすると、瞼は震わせたまま、器用に口の端を上げた。にやり。そんなオトマノペが聞こえてくるようだった。


「んじゃ、これでおあいこって事で。いただきまーす」


 カシュッと小気味良い音。こくりこくりと喉を鳴らす。本当に、ブラックコーヒーが好きなんだ、と。

 結局、最後まで先輩のペースだな……と、初めて買った無糖の紅茶を飲む。やっぱり、美味しかった。



 一度ならば偶然、しかしそれが二度三度と続けば最早必然と同義。



 文芸部室……という名の物置で一人。真っ白な原稿用紙の上、今日もペンを転がす。遠く聞こえる運動部の声。カキィンと響き渡る音。ボールすら届いてきそうな程に清々しい音。初めて挑戦する、自分自身で物語を紡ぐという行為。眼高手低とはよく言ったモノで、目が肥えている所為ですぐに手が止まる。

 けれど、今、手が止まっているのは別の理由。


「私、どうしたんだろう……」


 自分がとる行動の理由が自分にもわからない。慣れ始めた学校生活。景先輩との仲はそれなりに良好なのは勿論、クラスメイトとも徐々に馴染めるようになってきた。義務教育課程の一つめを途中から、二つ目は丸ごと飛ばした弊害はそれなりにあるけれど、学生の順応性は流石のモノ。事情を話すと、つまらない入院生活のことすら話の種にして盛り上がってくれる。人との会話で一歩踏み出す勇気を忘れてしまった私は、笑いながら聞いているだけのことが多いけれど。

 ありふれた日常に、自分自身が慣れていけば慣れていくほど、違和感というのは目につくようになる。入院中に食べたことのないもの、飲んだことのないものを、知っているモノのように手を出す。初めての筈なのに、身体が求めていた味だと感じる。苦手だった食べ物を知らぬ間に食べている。先輩の好き嫌いを何故か知っている。

 それらは無意識のうちに尾を出していて、後になって気付く。


「……気味が悪いなぁ」


 自分のことなのに、まるで自分じゃないみたい。鬱屈とした感情が溢れ出て、物が溢れ狭い室内をすぐに満たしていく。

 私は息苦しくなって、立ち上がった。建て付けが悪いのか、老朽化なのか、固いクレセント錠。なんとかこじ開け、窓を開く。滑りの悪い窓を、貧弱な腕力でいっぱいまで開くと、澱のような空気が、春と初夏の風によって撹拌されて薄まる。

 少しだけ気分は晴れたけれど、もう一度机にかじりついて書くほどリフレッシュできたわけでも無い。書かなければいけない、と分かっている。分かっている時に限って、別のことに手が伸びるわけで。

 机の置かれている窓側とは正反対、入り口近くに置かれている掃除用具入れから、箒やちりとり、雑巾を取り出して、準備万端。

 此処は図書準備室ではあるが、同時に文芸部室でもある。なので、準備室の掃除は文芸部員が自主的にするようにとのこと。部室の掃除は部員でしなさい。そういう、単純な話。

 部室は殆ど、景先輩しか使っておらず、他の部員は名前だけ借りている、先輩の友達、らしい。なので、掃除も最低限、机の周りと通り道が多少されている程度。部室は常に埃っぽい。折角なので、綺麗にしてサッパリしようと、気合いを入れて向き合った。

 段ボールをまとめて、整理整頓。書籍と、それ以外の備品に分けて邪魔にならない端っこに、綺麗に並べていく。段ボールが放置されていた所為で、その周りに溜まっていた埃を集めてちりとりに。ある程度綺麗になったら、最後に、一番腰を落ち着ける机と椅子。綺麗な雑巾でから拭き。机の中も、すっからかんだけれど拭いておく。

 私の机と、それから先輩の机。 


「ん……?」


 手に何かが当たる。いつも、先輩はペンや荷物をカバンから出していたので、机の中には何も入れていないと勝手に思い込んでいた。僅かの硬直。雑巾から手を離し、触れた物を更に触る。感触的には一枚の紙。ただ、プリントというには小さい。それから若干厚い。

 先輩には悪いと思いつつ、もし何か大事な用紙を忘れていたのだったら届けてあげなければ。ただのゴミだったら捨てておいてあげよう。なんて、都合の良い建前を並べながら、その紙を机の中から取り出す。 

 取り出したそれは、小さい画用紙のようで……私も見慣れた大きめのカード。図書室にはあって当然の貸し出しカード。その裏面。


「なぁんだ……」


 肩透かしを食らったけれど、すぐに違和感の影が差す。貸し出しカードは基本的に、図書室に置いてあるはずで、準備室にあるのは、過去の生徒か、新品のカードのみ。常に何かしらの本を借りている先輩のカードがこんな所にあるのはおかしい。

 なにより、裏側は真っ白。借りていた本の記録も何も無い。手首を傾けて、表を見る。白紙のカードなのだろうか、と。


「柊木、夕……?」


 白紙のカード、ではなく。きちんと名前が書かれていた。けれど、知っている名字と、知らない名前。書き損じなら兎も角、自分の名前を間違えるなんて事があるだろうか?

 学年には『一』の字。けれど、組には何も書かれていないから、どこのクラスの生徒なのかも分からない。

 妹か弟が居るのだろうか? けれど、そんな話は一度も先輩からは聞いたことが無い。もし居たのならば、部活に誘えば私がいなくとも廃部は免れただろうに。仲が悪いのか、別の部に入ったのか……色々可能性を考えるも、結局は憶測の域を出ることはない。当然、答えが出るだけの材料はないし、答え合わせだってできない。

 一先ず、先輩の机の中にカードを戻す。

 一体全体、柊木夕という人間が誰なのか。わからないし、見当もつかない。

 少しだけスッキリとした部室とは正反対の靄を抱えてしまった。困るのは靄は部室と違い、掃除のしようがないことだった。


 心の靄の晴らし方というものを、黒板の前でチョークを走らせる先生は教えてくれない。病室にいるときのどうしようもない靄も晴れたことはない。できたのは物語に没頭して、一時的に忘れるくらい。

 結局のところ、このもやもやをどうにかするには、発生装置自体をどうにかするしか方法はないのだろう。

 溜め息をつきながら、板書をとる。入院している間は、あれほど羨んでいた学校の授業だったというのにも関わらず、いざ始まってみると億劫に感じるのだから我が儘だと思う。というより、病院に籠りっきりで、基本的に自習で勉強していたからか、自分のペースで勉強したくなってしまう。今日は少な目、その分明日はガッツリ。みたいなバランスの自由度が低い。これが本来の教育の形なのだから文句を言うのは筋違いだとはわかっているのだけれど。

 ぼぅ、としていても授業は進んでいくもので。

 とんとん。ビクり。

 肩を突っついた相手の方も思わずビクり。横を向くと、クラスメイトが指を、私に向けたまま固まっている。


「な、なんでしょうか……」


 思わずかしこまってしまったのは、混乱しているから。


「いや、ほら」


 私に向けた指をそのまま教室の前方。黒板のほうに向いてから、角度が上向きに。釣られて視線を動かす。


「……いつの間に」


 見上げた先、掛け時計は授業の終了どころか、ホームルームまで終わっていたようで放課後を挿していた。


「いやいや、柳葉さんも授業受けてたでしょ」


 全部が全部、聞いていなかったのが悪いので、言い訳の余地なし。


「早く部活に行かないと怖ーい先輩とかに怒られるわよ」


 ぶるりと身体を震わせて、心なし顔を青褪めさせるクラスメイト。


「吹奏楽部ってそんなに厳しいんですか?」


 彼女の手には、学校指定のカバンとは別の楽器ケース。曰く、フルートが担当らしい。イメージでは吹奏楽部と言えば文化部で、こう上品なイメージがある。見学という名目で音楽室に行ったけれど、演奏中で入るタイミングが見いだせず、そのまま引き返した部でもある。


「厳しいも厳しい。一年は走り込みとかさせられるし、なによりそこまでする必要があるのかーってくらい上下関係にうるさいんだよねぇ……」


 筆記用具をペンケースにしまい、教科書類と一緒に鞄の中に。それから、内心で、病み上がりの久しぶりの学校生活一発目で吹奏楽部に入らなくてよかったという気持ちも鞄の中に突っ込んでおく。


「文化部なのに、ノリが体育会系なのがなぁ」


 肩を握りこぶしで叩くクラスメイト。その仕草はどこか哀愁に満ちている。鞄を取って立ち上がり、一緒に教室を出る。互いの部活へと向かう道すがら、会話する。とは言っても、一方的に話を聞くことが殆ど。


「確か、文芸部だっけ?」

「は、はい……」


 文芸部の知名度は驚くほどに低い。と、言うよりもないに等しい。私が入るまで、部員が足らなくて廃部寸前だったのだから。


「文芸部、かぁ」

「知っているの?」

「ちょっとだけ、ね」

「柊木景っていう先輩、けっこー吹奏楽部じゃ有名人なの」


 クラスメイトから聞かされる初めての話。そこで、ふと、少し前に先輩が言っていた『厳しい部活に入っていた』という言葉を思い出す。別のことに気を取られて理由を聞く機会を逃していたことを。


「中学まで吹奏楽でピアノの伴奏をやってて、小学校の時とかは結構凄い賞を取ってたみたい」


 そのクラスメイトにとっては何でも無い話なのだろうけれど、私は何も知らない。


「……でも、今は文芸部」


 どういった心変わりがあったのかはわからないけれど、高校に入ってからは文芸部に所属して殆ど一人で校舎の片隅に籠もっている。


「それじゃ、また明日ね」


 それぞれの部活へと向かう先が分かたれたところで、クラスメイトと別れる。一人、図書準備室に向かいながら、自問自答。

 問いその一。柊木景先輩が文芸部に入った理由。

 問いその二。柊木夕って、誰。

 問いその三。自分自身が知らないことを知っているのはどうして。

 まとめて、わからない。

 それを聞いて良い物なのか、聞いたからどうなるのか。私が高校へと入学して初めて出来た繋がりは、学校に馴染みはじめた今でも特別。会うと胸が温かくなる。先輩と窓際に座っている時の居心地の良さは何物にも代えがたい。

 何も答えが出ないまま、図書室につく。そのままカウンターを潜って図書準備室へ。


「おつかれー、たまにはオシャレにと思って紅茶持ってきたんだけど飲む? っていってもティーパックだけど」


 一番奥、窓際に座っていつも通りの笑みを浮かべる先輩。紅茶なんてどこから……と思ったら、部屋の片隅に電気ポットが置いてある。つい先日、部屋の掃除をしている時に何故か見つかったポット。古いけれど、小綺麗になったのはきっと先輩が綺麗にしたから。それを淹れているカップも、同様に見つけ出したのだろう。


「頂きます」


 私がそう言うとすぐ「りょーかい」と、先輩がポットの近くへと寄る。


「あの、自分でやりますか」

「いいっていいって、私が居ない間に掃除をしてくれたごんぎつねちゃんにささやかなお礼くらいさせて頂戴」


 そんな風にサラリと躱して、カップにティーパックを落とし、そのまま湯を注いだ。ソーサーとセットで、机の上に置いてくれる。


「あのポットもそうだけど、昔、何にここを使ってたんだろうね」

「さぁ……なんというか、置いてる物に見境がなさ過ぎて、どういう人が居たのかも想像つきません」


 本が一番多いのは勿論なのだけれど、意外と段ボールの中を見てみると雑多な物が詰まっている。ポットやカップに箸まで。トランプに加えて、縄跳びや工具なんかも入っている。


「歴代の文芸部員の遺産、なんだろうねぇ」

「遺産っていうより、忘れ物って感じですけど……」


 頃合いだということで、ティーパックを釣り上げる。先輩が、ビニール袋を差し出してくれたのでそこに放り込む。


「ほれほれ、なんとお茶請けもありますよお嬢さん」

 そう言ってカバンの中から取りだしたのは、購買で売っているクッキー。紅茶にクッキーとは、定番の組み合わせ。軽いお礼と共に受け取る。


「今日は随分、豪華ですね。これもお礼、なんですか? その、礼を貰うために掃除したわけじゃ……」


 時折、お菓子を買ってくることはあるけれど、今日のように至れり尽くせりの歓待を受けることはない。昨日、この部屋の掃除をしたことに気付いていた先輩。二人で使う部室だから、綺麗にしただけなので、少しばかりの申し訳なさ。


「半分はお礼だけど、もう半分は私の思いつき。いや、思いつきを実行するための建前って言った方が正しいか」


 ベリベリと切り取り線に沿って開かれた箱。個包装されたチョコチップクッキー。先輩が取り出したのを見てから、手を伸ばす。個包装を剥き、中には二枚のクッキーが実っている。一つ、取り出してかじる。


「どう?」

 首が傾く。どう? とは、それこそ、どういうことなのか。モソモソと咀嚼して喉の奥に。口の中に残った僅かな生き残り達を、紅茶で更に流し込んでから、一息。


「チョコチップクッキーの味がします」

「そりゃあそうだ」


 肩をすくめて笑う先輩。何が言いたかったのかは分からないけれど、私の答えが的を外していたことだけはなんとなくわかった。


「変なこと、言いましたか……」


 むっ、と顔を顰める。相手は先輩なんだけれど、ついそれを忘れてしまうのは、私が子供っぽいからか、先輩が距離を忘れさせるのか。


「いやいや、沙橙ちゃんは別に当たり前のことを言っただけで変じゃないよ」


 ニコニコ笑いながら、追加でクッキーを頬張る先輩。


「学校の中で、ポットで紅茶を淹れて、クッキーを食べるって、なんか特別な感じがするじゃない?」


 じゃない? って言われても。


「特別って言われても、普通をあんまり知らないですもん。これだって部活をやってたら普通のことなのかな、って思うくらいですし」

「たしかに」


 先輩は、それじゃあ、と付け加えて。


「沙橙ちゃんの中の普通に、私とのお茶会を溶け込ませるって言うのは、中々良い気分だ」


 サラりと言い放った言葉。もそもそとクッキーと共に咀嚼していく。口の中で溶けるチョコチップは甘いけれど、脳味噌の中で噛み砕かれている言葉は酸っぱい。もっと言えば、聞いているこっちが恥ずかしくて、照れてしまいそうになる。


「……先輩、クサイです」

「えぇー、そう? 案外満更でもなさそうだと思ったんだけどなぁ」


 わざとらしく、自分の手の甲をクンクンと嗅ぐ先輩。最近、ようやく気付いた。こういった先輩の悪ふざけを全部相手にしても何も得をしないと言うことに。

 ぼやきながら、二杯目を淹れに行く先輩。残念そうな声とは裏腹に、その足取りは軽やか。どこまでがバレているのだろうか。事実、この先輩との日々が初めて会った特別な先輩から、当たり前へと変わっていくのを、心のどこかで望んでいる。

 だから、この心に掛かる靄を晴らしたい。晴らさない限り、望んだ物へと手を伸ばせないから。


「吹奏楽部では、普通じゃ無かったんですか?」


 先輩のことを知りたい。誰かではなくて、先輩がいい。他の友人が、知り合いが増えても、きっと誰も、景先輩の穴埋めにはならない。


「知ってたんだ。いや、この間、言ってたっけ?」


 勇気を出した角張った言葉は、先輩のきょとんとしたような間の抜けた声で、すぐに地面に落ちて転がって丸くなった。


「吹奏楽部のクラスメイトから、聞いて……」


 先輩は、なるほどね、と一言呟いてからコポコポとお湯を注ぐ。


「吹奏楽部に居たのは中学で、高校に入ってからは文芸部一筋。まぁ、話を聞く限りここの吹奏楽部も中学校の時と同じで、やたらと規則が厳しそうだけどね。少なくとも、こうやって優雅にティータイムなんてしてたら良くてお説教、悪くて村八分って感じ。肩が凝るったらありゃしない。あー、やだやだ」


 よいしょ、と椅子に座る先輩。愚痴を溢しながら洗濯物を干しているお母さんみたい。


「それが吹奏楽部を辞めた理由なんですか?」


 先輩はマイペースで、自分の好きな時に寝て、好きな時にご飯を食べていそう……そんな野良猫みたいな印象が強い。でも、小説の構成を考えている時だとか、本を読んでいる時の表情から、面倒くさいという理由で続けてきたことを辞めるような人だとも思えない。


「まぁ、半分は」


 半分なんて言っているけれど、きっと違う。大部分の理由はもっと別になる。


「残りは?」


 モヤモヤしていて、どう切り出すか、聞いて良いものか悩んでいたのがウソのように、踏み込む言葉が止まらない。零か百しかない極端な選択肢しかとれない私が嫌になる。


「今日は随分グイグイ来るねぇ……先輩の事、もっと知りたくなっちゃったって感じ?」

「茶化さないでください」


 掴み所の無い先輩の態度が、腹が立つ。こちらは真剣なのに。でも、その真剣さが私のエゴだと分かっているから、自分にも腹が立つ。割合としては半々、くらい。

 少しだけ強い語気に、先輩の顔からは、常に浮かんでいた軽薄な笑みが引っ込んだ。先輩が、三角形のティーパックをカップから上げると、紅茶の匂いが一層膨らむ。窓を閉めているから、紙と紅茶の匂いがこの机の周りを漂っている。ゴミ袋代わりのビニール袋にティーパックを捨ててから、ゆっくりと啜る。


「特に面白くもなんともない、探せばどこにでもあるような暗い話よ」


 それを聞いても私は頑として、態度を崩さなかった。ここまで聞いておいて、続きを聞かないなんて選択肢はなかったから。先輩は肩をすくめて、もう一口紅茶を啜った。


「私が吹奏楽部を辞めて、文芸部に入ったのは、約束したから」


 誰と、と気になったけれど、言葉はまだ切り出されたばかり。


「昔から身体の弱い、ちょっと珍しい病気の妹が居てね。元気になったら、一緒に部活しようっていう約束をしたの。あっ、でも、吹奏楽部は厳しいから嫌だって言われちゃってさ。まぁ、私が事あるごとに愚痴ってたのが悪いんだけど」


 回答その一。妹と約束していたから。


「その妹さんと一緒に部活動するために文芸部で待っている」


 カップの中で揺らめいている残りの紅茶は冷めていて、少し、渋い。


「正確には、待ってた」


 ぼそり、この場には二人しか居ないのに、声を潜めたのは、本当に誰にも聞かせたくないから? もう、分かっていた。一つ、手がかりを得たら、後はこの子が、答えを教えてくれた。

 とくん、跳ねる心臓。その名前を出すのに、躊躇いは無かった。


「柊木、夕」


 凄く馴染む。知ったばかりの筈なのに、自然と口をついて出た。

 何も、言われなかった。ただ、少しだけ目を丸くしてから、すぐに気まずそうに眉をひそめた。初めて見る先輩の驚いた顔。どうして知っているのか、と。私は、机を撫でながら、白状する。


「……掃除の時に」


 回答その二。柊木夕は、柊木景先輩の亡くなった妹さんのこと。


「あぁ……」


 ばつが悪そうな、言い難そうな。


「夕は長くは無いって知っていたけど文芸部で待ってた。もう来ないってわかってたけど、ここを失いたくなかった……約束に縋ってたって言い換えてもいい」


 此処に本当に居るべきなのは柊木夕さん。

 そして、一番居てはいけないのは私。自覚した瞬間、言葉が溢れた。


「……ごめんね」


 目頭に熱が灯り、心臓が一つなる度に満たされた涙が、一粒零れる。


「この心臓は貴女のもので、此処は貴女の場所なのに」


 けれど、そこに収まっているのは柳葉沙橙という別人で。

 回答その三。


「全部、貴女が知っているから」


 私の好みが変わったのは、貴女の影響で。私が景先輩の事を知っているのは、貴女が先輩の妹だから。


「ごめんなさい」


 先輩を慕う、特別だと思っていた気持ちは、そもそも私の物では無くて。私という人間を動かしてくれる貴女のもので。

 あまつさえ、それを自分の物だと勝手に勘違いして、のうのうと貴女の席に座っていた。

 逃げ出したい。この場に居るのが、怖い。柊木夕さんの為に用意された席を、勝手にチケットを使って居座っている。それも無意識にしていたのだから尚のこと性質が悪い。

 どこにいくかも、どうするかも、決まらないままに立ち上がって、逃げ出した。狭い室内、足場の悪い中を、ノロノロと抜けて、逃げ出そうとした。


「待ちなさいっ」


 けれど、部室のノブに手をかけたところで、後ろから伸びてきた手に止められる。


「放してっ」

「いやよ」


 手を振りほどこうとしたって、非力な私が勝てるわけがない。本気でがむしゃらに突き飛ばしでもすれば離れられるかもしれないけれど、そんなことをしたら先輩が怪我をする。


「そんな状態のあなたを黙って見送れるほど、私は人間出来てないわよ」


 知られるのが、怖い。あなたの妹の心臓でのうのうと生きています、なんて言いたくない。私のものではない、柊木夕さんの心を自分のものだと思っていました、なんて言えるわけがない。


「話すまで、放さないから」


 腕に力を込めてみても、それ以上の力で抑え込まれる。


「このまま放しちゃったら、沙橙ちゃん、もう来ないでしょ」

「…………」

「私は、明日もあなたに来て欲しいと思っている」


 そうさせて欲しかった。この心臓が強く打つ度に、先輩への罪悪感が増していく。

その通りだったから、何も言い返せなかった。

 理由を話さないと納得しない。引き下がらない。そう、手に込められて力が物語っていた。でも、話してしまうと嫌われてしまうかも、拒絶されてしまうかもしれない。その感情さえ、私のものではなくて、柊木夕さんのものなのだろうか。


「……退部は、しませんから」


 わからない。どこまでが自分の感情? どこまでがあなたの想い? 私か夕さんか。どちらかの心が、先輩の守ろうとしたこの場所まで奪いたくないと絞り出した。懇願するような声。それを最後に静かになる先輩。


「そういうことじゃないわよ」


 一拍置いて編まれた言葉が、私にはわからない。たくさんの感情が交ざり合っていて、元の色がわからない。出来上がった色でさえ、なんと呼べば良いのか分からない。


「私を独りにしないでよ」


 ドアノブを握った力が、する、と抜けた。


「居心地がいい。楽しい。まだ、あなたと会って短いけど、心からそう思った……夕が居なくなって、部を続ける意味もなくなった私にとって、それは何よりも救いだった」


 きっと、それは先輩自身の裸の言葉。だから、だからこそ、救いがない。


「誰でもいいわけじゃない……あなたが、一人だった私のところに来てくれた。それを偶然だなんて思いたくない」


 もう、いいや。


「偶然、なんかじゃないです」


 先輩の言葉は、どれも、これも、私の心を静かに、抉ったから。


「私だって同じです。やっと退院できて、学校にも居場所ができた。不安だった私にとって、この場所は救いでした」


 確かに救われた。そして、今も、ここが大切な場所であることは変わらない。


「私が悪かったのは、ここです」


 先輩の手を握り、私の胸に押し当てる。


「碌に運動もできない、発作がいつ出るかわからないから、病院からも出れない。でも、私はここに、来れています」


 力強く脈打つ。どく、どく、と。


「出来損ないだった、心臓を取り換えてもらったから」


 普通の手術ではどうにもならなかったから、正常に動いているものと取り換えてもらう必要があった。


「私がここに居るのは、景先輩の妹が、柊木夕さんがドナーになってくれたから」


 止まることなく脈打っているのは、柊木夕という少女の心臓。信じられないのが、私の胸にあてた手の強張りから伝わってくる。


「そんな、偶然……」

「偶然があるとしたら、私のドナーに、夕さんが選ばれたこと」


 そこだけは、本当に偶然だったのかもしれない。年齢が同じだから、移植するのに丁度よかったのかもしれない。


「私が先輩の好みが分かったのも、食の好みが変わったのも……先輩と会ったときに、運命を感じたのも」


 全ては、偶然なんかではなくて。


「この子が、柊木夕が教えてくれたから」


本当に、柊木夕という少女の心臓だという証拠は一つも無い。けれど、他の誰でもない私だからこそわかる。


「先輩。私は、どんな顔でここに居ればいいんですか」


 多分、顔は酷く、情けなかったと思う。だから、それを見せないように、俯いた。

 先輩が救いだと言ったのは、妹の空いたままの席に、代わりに私が座ったから。

 私が救われて学校に来られているのは、心臓を柊木夕という人から貰ったから。


「わからない」


 ほら。妹の犠牲のお陰で生きているような人間なんて、この場には、いや、先輩の近くには一番居てはいけない。私自身だって罪悪感できっと、耐えられない。


「全然分からないけど……ううん。分からないからさ、どんな顔するのか見せてよ」

「えっ」


 顔を上げた。そこには、泣いているのか、笑っているのか、よくわからない表情をした先輩。


「沙橙ちゃんの、ここで、夕の、一部でも、生きているんだとしたら、嬉しいから」


 何度も詰まりながら、告げられた、継ぎ接ぎの嬉しい。


「ウソです」


 ハリボテの嬉しいだってことは、夕さんに教えて貰わなくたって、見れば分かる。


「寂しそうな顔をしているじゃないですか。私じゃ、先輩の寂しさは埋められない……いるだけで、先輩の傷を開いてしまう」


 私の存在は、先輩にもう会えない妹を想起させる。時が癒やしてくれそうになった傷を、何度も、何度でも、開いてしまう。


「寂しい。でも、嬉しいのもウソじゃ無い。本当よ」


 先輩は胸に添えた手を、そのまま私の頬に添える。


「そんなにも、簡単に割り切れる物なんですか?」

「ううん……割り切れてないよ。ゆっくりでも受け入れないと……って口では綺麗事言えるけど、実際は言う通りに、穴埋め、なのかもしれない」


 だから、その穴に私だけは、埋まってはいけない。埋めるどころか、広げてしまうから。


「でも、ずっとこのままだと夕に怒られちゃう」


 何が、という言葉を番える間もなかった。


「沙橙ちゃんの言う通り、偶然じゃないんだ。きっと夕が、あなたを連れてきてくれた」

「連れて、きた……?」

「いつまでもウジウジしている私が見ていられなかったんだろうね」


 楽しそうに、口の端を上げる先輩。嘘ではない、本物の表情。


「どうして、そんなに自信あるんですかっ。連れてきた、なんて私には都合良く取れません。夕さんが、私のことを疎ましく思ってたりするって思わないんですか」


 もう亡くなっている人間の意思なんて、誰にもわかるわけがないのに。亡くなった人は考えることなんてできないのに、生きていたらそう思っていた筈、だなんて好き勝手に代弁した気になって、都合のいい解釈をできる気がしない。

 なのに、先輩はありえない、と首を横に振る。


「私が夕の姉だから」


 当然のように、言い放たれた言葉。


「あっ」


 身体から力が抜ける。そりゃあ、そうだ。この心臓が柊木夕さんのだからと言って、その心の残滓が伝わってきたとしても、理解者を気取るのはお門違い。


「それにさ、本当にそんなこと思ってなかったとしても、私はそう言ってもいいの」


 ニッと笑う先輩。いつも通りの快活な、見ていて気持ちのいい笑顔。


「それも、夕さんの姉だから?」

「そっ。好き勝手言って、後で、夕の居る天国に行った時に怒られればいいんだもん。怒られるのは慣れてるから」


 先輩の言葉の端々が、想像していた柊木夕という像が間違っているのだと遠回しに伝わってくる。


「始まりは互いに替わりだったのかもしれないけれど、今は、全部がそういうわけじゃない」


 先輩といると楽しい。きっと、先輩だって私といると楽しい。


「私は、ちゃんと、あなたが好きよ」


 単純な言葉が、胸の一番中心。その深いところへと、まっすぐ。スーッと落ちていって、それから、ストン。自分ですら、手が届かない場所に収まった。こんなにも、理屈と自己嫌悪とワガママを並べておきながら、その言葉が収まった途端、丁寧に並べているのが、バカらしくなってしまった。


「私の中にも、先輩が好きなんだって気持ちがあります」


 この感情が誰由来なのか、きっとそれが分かる日は来ない。


「この気持ち、二人分あるんだって思うことにしたいんですけど……」


 それは、エゴ。それも、私にこれ以上ないほど都合のいい特大のエゴ。だというのに、先輩は「いいね」と笑ってくれた。本当に、そんなことをしていいのだろうかと、胸に手を当ててみる。

 とくん、と心臓が小さく、跳ねた。気がした。


「いいの?」


 もう一度、尋ねてみる。また、とくんと、脈打った。否定か、肯定か、わからない。でも、間違えていた時は先輩が代わりに怒られてくれるから、頷いてくれたんだって、受け取ることにした。


「ありがとう……これから、よろしくね」


 先輩と一緒にいたい。きっと、夕さんも一緒にいたい。おんなじ気持ちなんだって確かめるのはずっと先になりそうだけど、その答え合わせも、今は楽しみ。


「夕と話してないで、私には何にもないの、後輩ちゃん」

「えっ、あっ、ごめんなさいっ」


 先輩の前だから、伝わるけれど、他のところでやると、大概変な人に見えるから、気を付けないと、と自戒。


「ううん、怒ってないよ。これからもよろしくね」


 差し出される、手。一瞬固まるけれど、すぐに両の手で握り込む。


「はいっ、よろしくお願いしますっ」


 精一杯握る。顔を綻ばせた先輩。胸がぽかぽか、暖かくなった。


「怒ってないんだけど、その、一個だけ、お願いしたいんだけど、いいかな」


 嬉しそうな表情のまま、そこに僅かの別の感情をエッセンスとして加えたような顔が、覗く。先輩のことを知っているようで、まだまだ何も知らないから、その表情の正体にたどり着けなかった。


「私に出来ることなら」

「その、沙橙ちゃんにしか頼めないことなんだけど」


 私は、ずっと病院に居たから世間を知らないし、体力だってない。時間だけはあったから、人並みに勉強はしていたけれど、そこを先輩に求められるとは思えない。


「あんな偉そうなこと言った手前、頼みづらいんだけどさ……イヤじゃなかったら、心臓の音、聴かせてもらってもいい、かな、なんて?」


 なんだ、そんなこと。声が、重なった、気がした。

 たしかに、それは他の誰にも出来ないこと。嫌なんて気持ちは、欠片も存在しない。

 小さく頷いて、するりするり、制服を脱いでいく。リボンを外して、ボタンを外す。


「えっ、いや、そのままでいいよっ!?」


 私が突然脱ぎ出したからか、これまでにないくらい動揺する先輩。これも、知らない表情。夕さんも、もしかしたら知らない表情。


「ダメです。ちゃんと直接聴いてください」


 中に着たシャツも脱いで、学校の片隅で上半身を纏うものは地味な下着が一枚だけ。

 後ろ手に、ドアのノブについた鍵をカチリ、と回す。

 それから、両手を広げる。


「はい、どうぞ」


 多少の羞恥心はあるけれど、それ以上に、この心臓の音を先輩に聴かせられるんだ、ということの嬉しさの方が、はるかに大きくて。


「……これこそ、夕に怒られるな。絶対」


 そう言いながらも、ゆっくりと、寄り添ってくる先輩。髪の隙間から、赤くなった耳が見えて、すぐに、私の左胸にピタリ、とひっつけられた。

 羞恥心と喜びが、二人三脚で胸の中をいっぱいにして、心臓を強く脈打たせた。これなら、きっと、よく聴こえる。

 先輩を、胸に抱いたまま、扉に背を預けて、ずりずり、と腰を下ろした。頭を抱かれた先輩は、赤子のように引っ張られて腕の中、私たちの胸の中にすっぽりと収まる。

 もう、余計な言葉はいらない。自分と、夕さんと、先輩と。三人でできる唯一の会話を今、しているのだから。肌に触れる、生暖かな雫については、気付かなかったフリをしてあげることにした。そう、頼まれた気がしたから。

 先輩を抱きながら、ふと、思いつく。これまで、どれだけペンを握り、紙に向き合っても、一向に浮かんでこなかった、小説のアイデア。私は、まだまだ初心者で、ゼロから物語を生み出せる自信はない。けれど、あったことを創作に昇華する。エッセイではないけれど、物語に昇華することなら、できそう。

 いや、違う。したい、と思った。誰に見せなくても、形にしたい、と。

 頭の中に付箋を一つ。私の心臓は夕さんの借り物で、先輩にとっての私は、妹の代わりで。

 大体が、何かの替わりから始まった。今なら、それで良かったんだと思えるのは、私たちだからこそ、代わりになれたから。きっと他の誰でもダメ。

 頭の中の付箋に、これまた、想像上でペンを走らせる。

 そのタイトルは――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だいたい、だいたい 比古胡桃 @ruukunn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ