いつかの終わりが恋なかれ

堂上みゆき

いつかの終わりが恋なかれ

「ねえ、ずっと川の流れを見てて楽しい?」


 後ろから声をかけてきた彼女は心底疑問に思っているようだった。


「……」


 その疑問に答えようとしても喉が震えない。そこにある音は川のせせらぎと夏の暑さを暴力的に増幅させる蝉の鳴き声だけだ。


「ほら、一緒に入ろうよ!」


「……」


「きゃー! 冷たい!」


「……」


「いいから、いいから」


「……」


「あははは! 見てるだけよりもずっと楽しいでしょ! 君が一歩踏み出したからこその今という時間だよ!」


「……」


「素直じゃないんだからー」


 水が上から下へと流れるように時間も今から先へと流れ、先が今となる。


「……あ! そろそろ帰らなきゃ!」


「……」


「じゃあね!」






「……待ってくれ!」


 少し荒れた息遣いと共に飛び起きる。この季節になるとよくあの時の夢を見る。俺は後悔しているのだろう。だからといってあの時間が取り戻せるわけはない。時の流れはどれだけのことがあっても止まらないのだ。


「……暑い」


 寝る前まではエアコンをつけていたはずなのに、部屋の中が汗ばむほど暑い。俺はリモコンを取って冷房を再びつける。


「もう四年か」


 高校二年生までの人生しか歩んでいない者にとって、四年という月日はあまりに長い。小学校ならピカピカの一年生から高学年への仲間入りを果たす時間だし、中学や高校なら卒業してもお釣りがくる。


 もう一度。もう一度でいいからあの子に会いたい。ただ神様がその願いを叶えてくれると言ってきたとしても俺は断るだろう。一度会ってしまえば、それだけで満足なんてできるはずがない。


 今の彼女は何をしているだろう。このことを考える度に思い浮かぶのは彼氏や友達と楽しく高校生活を送っている風景だ。


 向こうは俺のことなんて覚えていないだろうに、俺はいつまで引きづっているんだ。一目惚れの片想いもその対象が近くにいなければ特に辛いということはない。そこにあるのはどうしようもないという無力感と虚しさだ。ただそれは忘れる理由にはならない。


……俺はつくづく救いようのない人間だな。こんなに拗らせることになった原因は自分にあるというのに、未だにどこか希望を抱き、期待している。神様にも自分にもだ。


「……寝よう」


 明日は田舎の母方の実家に顔を出す予定だ。彼女と出会ったのもこの時期、その田舎でだった。


「だからなんだよ」


 冷房が少し効いてきたのを確認して、俺は薄いブランケットで体を覆って、再び目を閉じた。






「夜には帰ってきてよー」


「分かってるよ」


 次の日、朝一番で家を出て、車を二時間ほど走らせた距離にある実家に着き、一通り祖父母と話した後に俺は家を出た。


 夜には帰ってこいか。今は昼過ぎだが、こんなド田舎のどこに一人で数時間過ごせる場所があるというのか。見渡す限り見えるのは田んぼと山。店らしい店はなく、都会では住民に同化している飲料の自動販売機もこの自然の中で不自然の代名詞となっている。


 俺はそんな自販機で一つ飲み物を買って、近くの山の中に入り、十分ほど奥に進む。


「変わらないな」


 あの日以来、毎年ここに来ている。俺は一つずつ大人に近づき、田舎も自販機が増えたりとほんの少しずつ変化し続ける中で、ここは変わらない。


 日の差し方、木々の匂い、そして川のせせらぎ。全てあの日のままだ。


 俺は小川の近くの岩に座り、さっき買ったソーダを一口飲む。シュワシュワという音が体に響き、弾ける。


 ここで何をするわけでもなく、ただ川の流れを見つめる。四年前は彼女と川に入って遊んだが、一人で同じことをやるには俺はもう無邪気じゃない。そんな俺ができるのは一つだけ。そう、この川を見るだけだ。




 もうどれくらい時間が経ったのだろう。川の流れと時間の流れが一体となり、離れて、またくっつく。どうしてあの日の俺は川の流れを見るなんてことをしていたのだろう。どうして今の俺は川の流れを見るなんてことをしているのだろう。


 あの日の答えは分からない。ただそうしたいと思ったからだ。今の答えは明白だ。ただこうしたいと思っているからだ。


 俺は再びサイダーを一口飲む。暑さのせいかかなり炭酸が抜けていて、もう体の中で弾けない。


「……帰るか」


 もう気持ちを整理する時かもしれない。希な望みだから希望なんだ。ここに彼女は来ない。だからもう……。




「ねえ、ずっと川の流れを見てて楽しい?」


 後ろから声をかけてきた彼女は心底疑問に思っているようだった。


「……楽しいから見てるわけじゃない」


 ずっと出したかった声はこんなことを言うためじゃない。ただ飛び交う俺の意識を川のせせらぎと夏の暑さを暴力的に増幅させる蝉の鳴き声がかき消す。


 彼女は少しの微笑みを返し、サンダルを履いたままワンピースの裾をめくって川に近づく。


「ほら、一緒に入ろうよ!」


「……俺はいいよ」


「きゃー! 冷たい!」


 俺の返答を待たずに彼女が川の中に入る。


「……だから」


「いいから、いいから」


「……分かったよ」


 俺もスキニーパンツの裾を何とか折り返し、裸足になって川に入る。外はこれだけ暑いっていうのに、川の水は冷蔵庫でずっと冷やしていたかのように冷たい。


 そんなギャップを少しだけ楽しんでいると彼女が水の中から脚を上げて、俺に水をかけてきた。


「えへへ。脚が滑っちゃってー」


 俺が負けじと水を蹴り飛ばすと、彼女もやり返してきて、いつの間にか川は戦場になった。


「ちょ、ちょっとー! 手は反則だって! 私はスカート抑え……きゃっ!」


「危ない!」


 彼女がバランスを崩し、倒れそうになったところに手を差し伸べようとして、そのまま俺の体も川にダイブした。俺と彼女の体が重なり、川の流れに抵抗を生んでいる。


「あははは! 見てるだけよりもずっと楽しいでしょ! 君が一歩踏み出したからこその今という時間だよ!」


「……それは違う」


「素直じゃないんだからー」


「いや、違うよ。俺が一歩踏み出したんじゃない。君がいたからあの日の俺は川に入った。今の俺は川に入っている。見てるだけよりも楽しいわけじゃない。君がいるから楽しいんだ」


「……覚えててくれたんだ」


「……ずっと待ってた。あの日は君の名前も聞けなかった。楽しいって気持ちも伝えられなかった。その奥の気持ちも……」


「奥の気持ち?」


「……君のことが好きだ」


「……あの日は何も聞いてくれなかったのに今日は随分積極的だね。私たちは出会って合計二日だよ」


「違うよ。四年と一日。これだけ時間があれば好きでいるには十分だと思う。それにそれだけ片想いをしたんだ。今日気持ちを伝えなかったら後悔してもしきれない」


「君は私の言うことを否定してばかりだねー。お返しに私も君を否定するね」


 重なり合ったまま彼女が意を決したような顔をする。


「片想いは違うよ。私も君のことが好き。あの日を後悔しながら、あっち側でずっと待ってた」


 川の流れが急に速くなった気がした。その流れに俺は付いていけていない。


「俺の名前は……」


「駄目……」


 彼女が俺の顔を両手で挟み、唇を重ねる。川に入っているからか、人肌よりも冷たい。


「私たちは今日結ばれようとした。私がそれを望んだ。……けどやっぱりまだだね」


「何がまだなんだ? もっと待てばいつかはってことか……」


「……そう。いつかは。川の流れが止まることはあっても、時間の流れは絶対に止まらない。いつかその日が必ずやってくる。ただ……今は私の気持ちだけを知っておいて」


 川の流れが更に速くなったように感じる。


「上がろうか」


「そうだね」


 びしょ濡れになった状態で俺たちは川からあがり、最初に俺が座っていた岩に戻る。


「……あ! そろそろ帰らなきゃ! もう私は時間がないんだよねー」


「今来たばっかりじゃないか」


「君に会いに来ただけだから。……そう会いに来ただけ。じゃあね!」


 彼女が濡れた服のまま、再び川に入り、向こう岸に渡ろうとする。俺はあっち側に言ったことがないが、向こうにも道が続いているのだろう。


「……」


 夢の時と同じだ。どれだけ声を出そうとしても喉が震えない。本当にこのまま彼女と別れていいのか? 自分の気持ちは伝えた。彼女の気持ちも知った。本当にそれだけで後悔はなくなるのか?


「……待ってくれ!」


 俺はきっと分かっている。分かっていてもう一度川に入る。


「このまま別れたくない。一緒にいたい」


「……それは今じゃないって言ったでしょ? これからまた会えるから……」


「今からじゃなきゃ駄目なんだ。もう君を待たせるのも今のこの瞬間だけだ」


 俺が彼女の方に手をかけ振り返らせると、彼女の顔から水が飛び散った。それはそうだ。さっき散々濡れたのだから。


「もういいんだ。もういい。好きだからそれで……」


「好きだからこそ嫌って気持ちを無視するの?」


「川の音で何も聞こえない。言葉じゃ伝わらない」


 今度は俺から彼女に口付けする。不思議と先ほどまでの冷たさは感じない。俺の体も濡れた服のせいで冷えてきているのだろう。脚で感じる川の流れがこれまで以上に速くなる。


「馬鹿……」


「それは四年前の俺だよ」


 もうそれから彼女は俺に何も言わなかった。もう俺たちに言葉は要らなかったからだ。もう終わりだったからだ。この体温が全てを語る。この川が俺たちを映し出し、流し、その瞬間に時が止まった。

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