3 急


 滔々としゃべりつづける赤ら顔の男と、酒に骨がとろけて軟体動物のように頼りなく揺れている女。いつもの光景だ、と上司は思った。酔ったふたりと、意識を保った自分。いったい彼は酒が得意でない。にもかかわらず外食する際かならずアルコールを頼むのは、それが普通と世間が見做す標準から外れることをおそれる想いと店への遠慮と、加えて同席する者たちと調子を合わせるためだ。彼はそれを社会性と呼ぶが、人によっては下らぬ体面繕いの小市民と吐き捨てるだろう。


 その小市民のひたいは不断の心の緊張からか、ここ数年でのっぺりした不毛の曠野に侵食されつつあった。黄色い蛍光灯にひかる額をとろんと眺めて、そう云えば一年前より額が広くなった、と女は思った。

 時速2ミリメートルぐらいのなめくじみたいなゆっくりペースでハゲが進行している。だれもその歩みを感知することはできないが、たしかにいまもそこで進行中なのだ。

 ハゲに偏見はないし差別するつもりも毛頭ない。毛根ほどもない。ただ彼の心の持ちようを醜いと思うだけだ。堂々とハゲればいいものを、なまじ若々しい髪を保つことに汲々として、肝心の男としての尊厳をずいぶんそこなっていることにこの男は気づかない。哀れだ。そして卑しい。矮小で歪んだ、男の自尊心。


 普段はそこそこオブラートに包んで自分にさえも秘め匿してなまあたたかい眼で見ていると云うのに、きょうは毒が止まらない。毒を吐くのを自分でめられない。

 いまの私の心は日本海なのだ。冬の日本海の荒浪なのだ。ざっぱあんと岩にぶつかる白い浪。とは云い乍ら、都会育ちで日本海をついぞ訪ねたことなく、それどころか海の記憶もたいしてたない彼女が思い泛べるのは絶壁を洗う波濤ではなく人口の防波堤をさらう、東京湾のマイクロプラスチックたっぷりな浪。

 防波堤の先端では、鋭角でも鈍角でもなくきっちりぴったり直角の頂点に三つの方形が合わさる。ああそう云えば、こいつ包茎気味じゃなかったか? 笑えるぜ。ま、それでも子供がデキてるんだからたいした問題じゃないんだよきっと。そこを清潔にしてさえいればね。なのにわざわざ秘めようとするとかまったく性根がちっせえ。サイズ以上にちっせえ。

 てえかこれからコトに及ぼうってのにその中途半端に準備の整ってない状況、今から思うとそれって失礼じゃんかってくっそムカつく。

 私は荒れる日本海なのだ。堤防は決壊寸前なのだ。まっくろな海がどんどんどんどん膨れあがって、泡立つ浪が荒れ狂っているのだ。



 妻帯者の酒も、ビール二杯のあとロックがもう五杯目になる。彼の饒舌はようやく勢いが落ちてきた。酔いが醒めたわけでは無論なく、舌の先までまわったアルコールが彼の頭も舌も唇も、その働きをまとめて容赦なくどんたらしめたまでのことだ。

 男は瞑目して天を仰いだ。

 沈没しそうだ。目をとじるとまっくらなのにたしかに世界がまわっているのがわかる。ぐるぐるまわる、ひっくり返る、ずっとぐらぐら揺れている。女もぐらぐら揺れている。ぐらぐら揺れるのは船。方形の船が大洪水の海をさすらっているのだ。包茎が女に飲み込まれる。だれがやさしい海でいてやるもんか。ちゃんと勃てってんだよ、嵐のなか、向かい風にじず。男ども、屹立せよ。

 て、とテーブルに突っ伏した女は口走った。起て、男だろ。

 やれやれ、と男は思った。すっかり出来上がってしまった女を放って帰るわけにはいかない。かと云って手を出すわけにもいかぬと気を引き締めた。引き締めたのは上司の方だ。妻帯者の方はもう夢に落ちている。夢のなかで妻帯者は思った。今夜はこいつはからみ酒だ。一度寝ただけで彼はすっかり女の上位に立った気になり、仕方ねえなあこいつは、めんどくせえけどおれが世話焼いてやるしかねえのかあ? と保護者気どりになっているがじつのところは夢のなか。


 雑音だらけの濁った空気のなかを漂う、かそけき旋律を男はとらえた。澱んだ酒場に、線香花火みたいな澄んだ、侘びて寂びた輝色が散らばる。途切れて、紛れて、よくよく耳を傾けていないと見失ってしまう、なのに派手な色の歌声。名はなんと云ったか、往年のロックスタアの歌だ。世代を越えて愛される名曲。なんだっけこれ、ここまで名前が出かかってんだけど。

 問いかけた先のふたりはもう二日目の雪だるまみたいにずぶずぶに融けてしまって、正体をうしなっている。あー。こりゃいつも以上にだらしないな。ちゃんと帰れるのか? 負ぶって送ってやらなきゃならんのか? でもそんなところにもセクハラの罠は口を開けて待っているかもしれないし、ふたりまとめて背負うなどできるわけないし、女だけならよろこんで負ぶってやるんだけどでもやっぱりセクハラはこわいし、まあ下心のないわけじゃないからまったくの冤罪でもないし、そこをなんとか言い抜けようなんて口べたなおれにできるわけないし社会的に抹殺されるのいやだし耐えられないし。うー。

 部下のふたりは仲よく融けっぱなしでぎたない。できようもんならおれもいっしょに融けたいよ。融けて女の大事なとこに浸みこんでいきたいよ。おーん。わずか残ったオスの本能が雄叫びを夜の居酒屋に響かせる。おずおず出した雄叫びはもちろんすぐ雑音に飲みこまれて消えた。いっしょに融けたいんだよ。男のつぶやきはやっぱり喧騒に撥ねかえされてだれにも届かない。とどかないからちょっと声をおおきくしてみる。突くとかぶっ刺すとか突っこんでかき回すとかさ、そんなの要らないんだ。融けて融合して、どこまで自分でどっから相方なんだかわかんなくなるよな、そんなセックスがしたいんだよ。そんな忘我の果ての快楽に溺れて星の海のうえで果てたいんだよ。互いに最後の一滴までぎゅうぎゅうに絞り倒して搾りつくされたいんだよ。

 男にはもう客たちの怒鳴り声なんか聞こえない。聞こえてくるのはロックの旋律しらべ。スタアなんだよ。四半世紀が過ぎても、いやもっとながい時の忘却の洗礼を執拗に受けても輝きつづける、ほんもののロックスタアなんだよ。わかるかきみたち? あーおーん。



(完)

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居酒屋シャウト 久里 琳 @KRN4

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