1話 濡れ鴉①


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 今日もお店は忙しかった。

 《濡れ鴉》はカウンター十席と四人掛けのテーブル一つだけの小さな創作料理店だが、料理をするのはわたし一人なので、どうしても慌ただしい。

 平日のうえ、すでに十時半を回っているのに店内は九割が埋まっている。もう仕込んでおいた食材がほとんど残っていない。しかしラストオーダーまであと三十分しかないので、今日のところは間に合うだろう。

 じきにその三十分が過ぎた頃、ホールを任せているアルバイトの女子大生に、「カナちゃーん、ラストオーダー取ろっか」と伝える。

「はい」と返事をした彼女はお客さんにオーダーを訊いて回り、「菊菜さん、お料理のラストオーダー、花どんこ椎茸の雑炊、シャンパンジュレのフルーツポンチ。これで全部です」と知らせてくれた。

「はいよー、ありがとう」

 そう答えてから私は調理に入る。

 まずは花どんこ椎茸の雑炊――。干し椎茸を冷水に漬け丸一日かけて出汁を取っておき、戻した椎茸はミキサーにかけて自家製の赤味噌と合わせ椎茸味噌を作る。椎茸の出汁に白米を入れて煮立て、焼いた椎茸味噌で味をつけてから、鰹節と浅葱、そして胡麻油でカリカリに焼いた椎茸スライスを数枚乗せる。仕上げに擦りおろした酢橘の皮を少々振りかけた。

 出来上がったのでカナちゃんに渡すと、「ああーこれやっぱり美味しそうっ」と声を上げる。「食べていいですか?」

 嬉しい言葉ではあるが、「いいわけないでしょうが。はやく持っていくっ」

 彼女は「はーい」といって口を尖らせて運んで行った。

 次はシャンパンジュレのフルーツポンチ――。シャンパンにグラニュー糖を溶かしたあと、レモン果汁とゼラチンを加え、冷蔵庫で冷やし固めてジュレを作る。これをカットした果物と和え、炭酸が強めの辛口ジンジャーエールを少しかける。チャービルを添えた。

 出来上がったのでカナちゃんに渡すと、例によって、「食べていいですか?」と訊いてきたので、「はやく行け」といって運ばせた。

 最後の料理をお客さんに出して、私は自分の肩を叩きながらようやく一息ついた。たったいままで自分は呼吸をしていただろうか、と思うほどだった。料理をすることに苦労は感じないが、肉体疲労は嘘をつかない。

 左右の肩を叩き終えたとき、お店の入口が開くのが見えた。

 反射的に、「いらっしゃいませ」といったが、「え?」と眉を潜ませる。

 お店に入って来たのは、わたしの旦那である刀也だった。

「刀也……」

 彼は、「今日も繁盛してるじゃないか。さすがだな」といいながら空いているカウンター席に腰を掛けた。「菊菜、なにか作ってくれないか?」

「え? ああ……うん……えっと、なにがいい?」

「菊菜の料理ならなんでもいいって。なんでも最高だ」

「わかった……すぐ作るから……待ってて。待っててね」

 私が調理にかかろうとすると、「どうかしたんですか?」と声をかけられる。カナちゃんだった。彼女はカウンター席と、わたしの顔を交互に見ていた。

「――え?」

 改めて刀也のほうを見ると、もうそこに彼の姿はなかった。彼が座ったはずの席に客はおらず、ぽっかりと空いている。

 また幻覚……

 それはそうだ、刀也がこのお店に来るはずがない。もう何度も経験したので頭では理解しているのに、無視はできない。身体がつい反応してしまう。

「大丈夫ですか?」とカナちゃんから心配そうにいわれる。「最近、急にぼーっとしたり、独り言とかいったり……そういうことが増えてると思います」

「そうかな……いや、そうだよね」

「お店もますます忙しいし、だいぶ疲れてるんじゃないですか? 先日はお客さんも心配していましたよ」

「そうだったんだ……ごめん」

「私に謝っても仕方がないですよぉ……お店、何日かだけでもお休みにしたらどうですか? 私は実家暮らしなので、生活費はなんとでもなりますから」

「うん……そうだねありがとう。考えてみる」

 それから十分ほど過ぎてお客さんが残り僅かになったころ、またお店の出入り口が開く音がした。私がはっとして確認すると、女性が入って来るのが見えた。新人社会ではないが中年ともいえない。私と同じ、三十くらいだろうか。

 女性は、「まだ、大丈夫ですか?」と落ち着いた口調で訊いてきた。「一杯だけ、いただけたら嬉しいのですが」

 するとカナちゃんが、「えっと、今日はもう――」といったので、私はその声を遮り、「いいよ入ってもらって」と彼女の肩をぽんぽんと叩いた。

 私は女性に、「あと一時間もありませんが、このお店でよかったら」

 正確には三十分もないのだが、多少オーバーするのは構わない。もともとこういったお客さんはたまにやってくる。わたしも酒が好きなので、どこかで一杯だけ飲んで帰りたいという気持ちはよくわかるし、泥酔していたりしていなければ迎えていた。

「ご迷惑でなければ」と返事があった。

 カナちゃんが私に、いいんですか? といいたげな目を向けてくる。時間のことではなく、わたしの体調を気遣ってくれている顔だ。

「せっかく来てくれたんだから、追い返すのも悪いでしょ」

 カナちゃんは苦笑して、「わかりました」といったあと、「もう、菊菜さんはそんな風に優しいから疲れが取れないんです。もっと適度に手を抜いてくださいねっ」と小声でいって離れて行き、「ご来店ありがとうございます。こちらへどうぞ」と女性をカウンター席に促した。

 ラストオーダーが終わっていることを雰囲気で悟ることができたのか、「ありがとうございます」と女性客は頭を下げてから酒棚を眺めて、「日本酒が揃っていますね」

「ああ、はい。私も旦那も、日本酒が一番好きなものですから、それをメインに。ですけど一応、ウィスキーもワインも置いてありますよ」

「でしたらお酒をいただきましょう。なにかもらえますか。銘柄は任せます」

「んーと、でしたら今日は石川県の天狗舞がありますので、冷酒でいかがですか。純米大吟醸ですので、吟醸香が苦手でなければ」

「いただきます」

 私がカナちゃんに目で合図を出すと彼女は頷き、ホール側に設置してある冷蔵庫へ向かった。

「お料理は、なにか召し上がりますか?」

「でもお時間が。それに一杯だけといったのに」

「いえいえ、気にしないでください。ああもちろん飲み物だけでも結構なんですが、うちは突き出しがありませんので、もし口が寂しければですが」

 そういって私は一応メニューを渡した。

 女性はメニューを手に取って眺めたあと、「どれも美味しそうです。お勧めメニューだけでやっているのですか」

「ええ、そうなんです」

 《濡れ鴉》にはグランドメニューを置いていないので、紙一枚でも収まる品数だ。本日は十二種。その日に仕入れた食材でメニューは変わる。狭いお店で自分が満足できる料理を振る舞うには、これが限界だった。

 彼女は何秒か迷ったあと、「では白甘鯛の松笠焼きをいただいても」

「かしこまりました」といって調理にかかる。

 白甘鯛の松笠焼き――。鱗を残したままバターで揚げ焼きにした切り身に、白甘鯛の骨から取った出汁ソースをかける……

 女性客は冷酒を口に運びながら、そんな料理の風景を見ていた。

 私は最後に、白甘鯛に仔羊の骨髄を乗せてから、「どうぞ」と女性客に提供した。

 それから何分かした頃に女性が、「美味しいです」といってくれた。「開店して一年も経っていないのに、高い評価を受けていることがわかります」

「あ、うちのことご存じだったんですね」てっきり飛び込みだと思っていた。

「もちろんです。ずっと伺いたいと考えていました。東京にはこの手の創作料理店はいくらでもあるのに、わざわざこのお店に通う意味がわかります」

「ありがとうございます。でもまあ、できるだけ付け合わせとか減らして値段落としてるんで、いまのところ居酒屋感覚でお客さんは来てくれてますけど、まだまだ料理に個性もないし方向性も定まってないし、世間に誇れるようなレベルじゃありませんよ。そもそもわたしは特に料理の修行もしてないので、この先はどうなることやらですよ」

「修行をしていないって、そうなのですか?」

「いくつか飲食店の調理場でアルバイトをした経験はありますけど、ほとんど独学です」

 ただ生活費を稼ぐために求人広告で見かけた仕事に応募をして働いてきただけで、――修行、と呼べるような感覚で働いたことはない。

 それでも料理が上達した理由を考えるなら、身近なところに師匠がいたからかもしれない。

 そう……旦那なら……刀也なら、もっともっといい店を作れたはず……

 女性客はそのあと静かに食事をし、お酒もすでにお積もりだったので、手早く会計を済ませてから席を立った。

 帰り際に、「また寄らせてください」といわれる。

「お持ちしています」といって見送った。


 最後のお客さんが帰り、洗い物をしているとカナちゃんがいう。

「あのお客さん……お料理、美味しいっていましたよね」

 わたしが片付けの手を止めて彼女を見ると、最後に入って来た女性客がオーダーした料理、白甘鯛の松笠焼きが乗っていたお皿を手にしていた。

「ああうん。いってくれたね」

「ですよねえ……」

「もしかして、残してた?」と訊いた。

「いえ、とても綺麗に食べていました。でも食事中……なんていうか、悲しいっていうか……残念そうっていうか……そんな顔をしていたんです」

「えーほんと? じゃあ、無理して食べてたのかな。あの料理、けっこう美味しいと思ってるやつなんだけどなあ」

「はい、ここのお料理は全部美味しいです」嬉しいことに自信たっぷりだった。「食材の好みはあるでしょうけど、あのときは菊菜さんが勧めたんじゃなくて、お客さんが自らオーダーしましたし」

「そりゃどうも。まあ、たしかに気に入らなければ、わざわざまた寄らせてくださいとはいわないかもね。んー……だったらなんだろ。たとえば今日、なにか嫌なことがあったのかもしれないね」

 そういうとカナちゃんも納得したように洗い物を再開したので、わたしも片付けを急いだ。


      2


 閉店作業を終えると早々と帰路につき、自室であるマンションの玄関を開ける。

 靴を脱ごうとしているとき、はっとした。

 廊下の奥から旦那の刀也が顔を出し、「菊菜おかえり。お疲れさま」

「あ、うん……ただいま。ありがとう」と答えて中に入る。

 リビングに入って刀也のほうを見ると、彼はいつものように自分の柳葉包丁を見つめて微笑んでいる。

 私はテーブルの椅子に腰を掛けてからいった。

「お店、開店してからもうすぐ一年なんだよ。ちゃんと覚えてる?」すでに日付が変わって本日は十月十二日。去年の十月十五日にオープンした《濡れ鴉》は、あと三日で一周年を迎える。「相変わらず、けっこう繁盛してるんだ。この調子なら、なんとかこのままやっていけると思う」

 飲食店というものは、開店直後は物珍しさで入って来るお客さんで混むものだが、そのあとが勝負となる。もちろんそれはわかっていたので、一人でどこまでやれるか、自分の料理がどこまで通用するか不安もあった。飲食店という業態の閉店率は極めて高いのだ。

 しかし売り上げは、むしろどんどん上がっている。最近、キッチンの従業員が一人ではちょっと苦しくなってきたと思う。

 静かな空間が何秒か流れたあと、わたしはまた口を開く。

「そういや今日はお店に来てくれたよね。嬉しかったけどこっちは忙しいんだからさ、普通だったら手伝ってくれるべきじゃないの? ほら味見とかも、してほしいし……」

 いや、そうじゃない。ただ彼と一緒にいたいだけ。そして、なんでもいいから話がしたい。明日は晴れるのかな、宇宙人っているのかな、そんなくだらないことでもいい。

 彼を見つめる視線に充分な熱を込めたが、もちろん彼がなにか答えてくれることはない。わたしのほうを見てくれることもない。

 私は立ち上がって、棚に乗せてあるフォトフレームを手に取る。

 この部屋で撮影した写真だった。わたしたちは料理の写真は沢山撮ったけど、自分たちの姿を記念撮影したりすることはなかったので、姿が残っているのはこの一枚だけ。オープンキッチンで包丁を見つめる様がなんだか格好よくて、手にしていたスマートフォンで隠し撮りをしたのだった。

「ねえ刀也……」収められた写真に映っている彼に呟く。

 話しかけたところで返事があるはずもないのに、毎日毎日、もうどれほどの言葉をかけてきただろう。いくら話しかけたところで、彼は写真の中で自分の柳刃包丁を見つめて微笑んでいるだけなのに。

 わたしは写真を胸元に抱きしめて、「ばか」という。「抱きしめられたいのは、わたしのほうなんだからね」

 また、あの日のように……力強く、背中に腕を回してほしい。

 しかし、その願いが叶うことはない。

 奇才といわれていた料理人、水乃刀也はあっけなく交通事故でこの世を去った。ちょうど先日、うちのお店の一周年よりも先に一周忌を迎えたばかりだ。

 彼が死んでから、一人でオープンすることになったお濡れ鴉に全身全霊を注ぐために、なるべく彼のことは考えないようにして生活を送ってきたが、しかし最近はよく彼のことを思い出す。思い出したくなくとも、どうしようもないのだ。

 彼が、わたしの前に現れるようになったから――

 さっそく、「菊菜、一杯やろうか」とテーブルのほうから彼の声がした。視線をやると、刀也はお風呂上がりのような簡単な部屋着姿で、椅子に腰を掛けている。人の気も知らないで、呑気なものだ。

 わたしは苦笑して、「なに飲むの?」

「吟醸酒がいいな。肴はある?」

「久しぶりに、あんたの料理が食べたいんだけど」

「なにいってるんだ。俺たちの店の料理長は菊菜なんだ。腕が鈍らないように、どんどん料理を作ってくれなきゃ困るよ」

 たしかに、料理長はわたしだと刀也が勝手に決めていた。あくまで自分は調理補助だといい、お店の料理メニュー制作もほとんど任せられているほどだった。

「何度もいってるけど、どうして料理長がわたしなのよ。知名度も実力も、あんたが上でしょ」

 これを訊くと彼は、生前そうしていたように、なにも答えずすまし顔をしている。

「はいはい、なにか作りますよ」

 もっとも料理をすることはまったく苦痛ではないので構わなかった。むしろ日々、作った料理を刀也に味見してもらうことを楽しみにしていた。

「えーっとね……そうだなあ、今日はお店で余った鱧があるから、これに冷たいみぞれ餡でもかけようか」

「いいね。そうしてよ」と満足げな返事があった。

「はいよ」とわたしはキッチンに足を運ぶ。すぐに消えてしまう儚い幻覚だと、わかっているのに……

 最初もこんな風だった。

 三ヶ月ほど前、お店から帰ってきたわたしがキッチンで肴をこしらえていると、刀也がテーブルに座っていた。わたしは思わず手にしていた包丁を床に落としてしまったことを覚えている。

「センスがいい食器店を見つけたんだ、一緒に行こうよ」

 そういった彼はこちらも向かないまま、手にしている料理雑誌をめくっていた。

 あの時はまだ、現在のわたしみたいに冷静に話しかけたり、自然な態度で接することはできなかった。ひとつの言葉さえ吐けなかったし、身動きもとれなかったのだ。

 じきに彼は消えてしまったわけだが、その光景をしばらく眺めていたわたしは高波のように押し寄せてくる悲壮感に溺れ、恐ろしいほどに苦しくなり、床に崩れ落ちて嗚咽を漏らしながら泣いた。

 それからも刀也の幻覚はちょくちょく現れるようになったが、少しずつ泣くことはなくなった。急に現れてくれたときにはいまだに驚くこともあるし、もちろん消えてしまったあとには悲しくなることもあるけれど、慣れとは恐ろしいもので、今ではけっこう上手にこの現象と付き合っている。

 幻覚を見る理由はわかっていない。もちろん病院にはかかったが、精神的な要因や肉体疲労からくる症状の可能性がある、という断定的ではない診断だった。しかしその通りだと思っている。お店の開店直前に旦那が死去し、それからがむしゃらに働いてきたのだ。開店準備の段階からとても忙しくて、毎日のように頭痛がしていた。地面が揺れるような眩暈もした。それでも無事にオープンにこぎつけたものの、むしろ生活は慌ただしくなって、しばらくは体調が優れなかった。それでも寝込んでいる暇はなかったので、まずは今日まで約一年間走り抜けてきたのだ。

 精神的な要因……肉体疲労……。どんな医者でもまずはそう診断するだろう。わたしとしても否定する理由がなかった。

「ほらできたよ」わたしは料理とお酒を手にしてテーブルに運ぶ。――鱧の冷製みぞれ餡かけは吟醸酒にもよく合うだろう。「ほら、味見してよ。ここ一年、あんたの感想がないから張り合いがないんだって」

 そういうと、彼は申し訳なさそうな顔をしたあとに、ふっと消えた。

「まったく」とわたしは吐息をついて。「わざわざ作らせといて手もつけないなんて、薄情な奴だね」

 とはいえ彼が食べられないことはわかっているし、もともと自分で食べるために作ったので、出来立ての肴で晩酌をはじめることにした。

 お酒を一口舐めてから、彼が座っていた席をじっと見る。

 そう……彼の幻覚を見ることには、ずいぶん慣れた。それには安堵している。

 しかしそれゆえに次は、これまで忘れていたというか、無理やり脳の隅に追いやってきたものが芽吹いてくる。とてもそこまで考える余裕がなかったものが、少しずつ思い出されてくるのだ。

 刀也が死ぬ、前日のことだった。

 オープン予定だった《濡れ鴉》の料理メニューは例によってわたしに任されていたし、二人で考えてきたドリンクのメニューもほとんど決まっていたが、彼は日本酒のラインナップがどこか物足りないと考えていたらしく、さらなるお酒を探すためにしょっちゅう一人で出かけていた。ときには日帰りで他県まで出掛けていくこともある熱心ぶりだった。

 その日も彼は朝早くから出掛けていて、帰って来たのはとっくに暮れた後、九時頃だったと思う。

 ――聞いてくれよ菊菜。すごいんだ。すごい日本酒を見つけたんだ。

 刀也は帰ってきた途端に興奮した様子でこんなことをいっていた。もっとも彼はすぐに酔い潰れてしまいテーブルに突っ伏して眠ったので、結局、どこのどんな銘柄だったのか聞いていないままなのだ。

 酒にしても料理にしても、彼があそこまで絶賛することはなかった。お茶目な一面もあったので、そんな冗談をいう可能性も無視はできないのだが、あのときの言動はそれを疑わせない。

 ――奇跡だよ。奇跡といえるほど芳醇な酒なんだ。

 まるで存在しないとされてきた未確認生物を自分が初めて発見したかのような輝きを瞳に宿していた。いま考えてみれば、どうして近頃まで考えないようにしていられたのか不思議なくらい気になる謎だ。

「なんだったのよ、あれって」

 そのお酒を最近、飲みたいと思うようになっている。彼は酔っていたし、奇跡というのはいいすぎなのかもしれないが、興味を持たずにはいられない。もっとも、美味しいものを味わってみたいという意味以上に、彼が死ぬ直前に飲み、わたしたちのお店に必ず仕入れようと思っていたものを味わってみたいという気持ちが強いのだ。

 ――これで繁盛間違いなしだ。俺たち、幸せになれるぞっ。

 わたしたちのお店のために、わたしとの将来のために、幸せのために……走り回り見つけてきてくれたもの。それを、口にしたかった。どんなに美味しかろうと思い出と混ざり合い、悲しい味がするかもしれないけれど、それでも……

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