きまじめ令嬢ですが、王女様（仮）になりまして!? 訳アリ花嫁の憂うつな災難／伊藤たつき

第二章

　ユリアは叫（さけ）んで腰（こし）砕（くだ）けになり、その場で座り込んだ。鏡の中のローラもしゃがみ込んでいる。頭の中は大混乱だ。目の前の鏡に映るローラが自分だとはまだ信じられない。

　驚きすぎて浅い息を繰（く）り返していると、扉（とびら）がノックされた。

　返事する間もなく、初老の女性が入ってくる。

「ローラ姫……ああ、目覚められたのですね！」

　見た事がない顔だ。侍（じ）女（じよ）のようだが、服装がヨルン国のものとはどこか違う。

（わたしを見てローラ姫って言った。他人から見てもローラ姫に見えるんだ……！）

　固まっていると、女性が駆（か）け寄ってきた。

「道中、崖崩れにあわれたのですよ。覚えてらっしゃいますか？」

　頭は混乱しているが、ピンチの時こそ情報収集をと軍学校で習ったのを思い出した。

　とりあえず状（じよう）況（きよう）を把（は）握（あく）しようと頷（うなず）くと、女性は話を続けた。

「事故のあった場所の近くに住む村人から知らせがあって、兵達が駆けつけたんです。姫は崖下の湖に馬車ごと転落なさったんですよ。幸い軽傷ですみましたが、ファーストデンテ国のお城に運び込まれてからも、意識が戻（もど）らなくて心配しておりました」

（いまの話からすると、ここはファーストデンテ国の城だ。どうりで部屋の趣（おもむき）が違うはずだ。つまり、わたしは事故にあってから、ずっと意識がなかったって事？）

　困惑していると、女性が心配そうに顔をのぞき込んだ。

「申（もう）し遅（おく）れました。侍女頭（がしら）のマーサと申します。ローラ姫のお世話を申しつかっております。すぐにお医者様をお呼びしますので」

　きびすを返そうとしたマーサの手を慌（あわ）てて掴（つか）んだ。

「いえ、大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）です。……わたしと一緒に馬車に乗っていた……」

　みなまで言わずとも、マーサは察したようで頷いた。

「女性護衛の方ですか？」

「そうそれ！」

　思わず叫ぶとマーサが目を丸くした。

（しまった！　どういう事かわからないけど、いまわたしはローラ姫の姿をしている。ここはファーストデンテ国だ。事情を打ち明けていい状態か、まず把握しなくては。ローラ姫はこんなしゃべり方はしないから……）

　この危機的状況から抜（ぬ）け出すには、まず自分の体を捜（さが）さなければと思った。

　だから無理にでも笑（え）みを浮（う）かべる。

「失礼。彼女が心配で大きな声を出してしまいました。彼女はどこにいるのですか？」

　ローラの笑顔には、相手の心を魅（み）了（りよう）する力がある。

　実際自分もこの笑顔に何度も惹（ひ）きつけられている。案の定、マーサは相好を崩（くず）した。

「まあ、お優しいのですね。護衛の方は第十二医（い）療（りよう）室です。あとでご案内……」

「いえ、いま行きます。場所を教えてください」

「ですが、目覚められたばかりですよ。お医者様に診（み）ていただいてから」

「いいえ、この目で無事を確かめたいのです！」

（あ！　しまった。ちょっと強（ごう）引（いん）だったかな。驚（おどろ）かせたかも）

　目を丸くしていたマーサが、ふいに涙（なみだ）ぐんだ。

「臣下思いでいらっしゃるのですね。すばらしいですわ」

（何とかごまかせたみたいだ。よかった……）

　胸をなで下ろしていると、マーサがクローゼットからガウンを取り出した。

「ではご案内致（いた）しますので、こちらをお召（め）しになってください」

　ガウンを羽織って、マーサのあとに続いて部屋を出る。

　何がどうなっているのかまったくわからないが、これだけはわかっていた。

（わたしはいま、ローラ姫の姿をしている。ローラ姫が不利になるような言動はしてはならない。まずは自分の体を捜してどうなっているのか確かめよう）

　頭の中は混乱しているが、軍学校で鍛（きた）えた精神力で、前に進んだ。

「こちらでございます」

　マーサが扉を開けると、そこはベッドを置いたら他に何も置けないぐらいの狭（せま）い部屋だった。ベッドには、赤毛の女性が眠（ねむ）っている。ユリアはその顔を見て、目を見開いた。

（わたしだ！　いつも鏡で見るわたしの顔！）

　混乱しつつも、落ち着けと心に命じてマーサに向き直る。

「ずっと眠ったままですか？」

「はい。彼女も軽傷で命に別状はないのですが、目覚めなくて」

「そうですか。すみませんが、しばらく二人にしてください」

「ですが……」

「彼女は事故の時にわたしを庇（かば）ってくれたんです。少しの間だけでいいので……」

　両手を組んでマーサを見上げる。これをローラにされると自分も逆らえない。

　マーサは戸（と）惑（まど）いつつも頷いた。

「少しだけですよ。あとでお医者様の診（しん）察（さつ）を受けてくださいませ」

　礼を言って、マーサが出て行くのを見届けた。扉が閉まってから、さっと鍵（かぎ）をかけ、慌ててベッドに駆け寄る。横たわっているのは、赤毛の直毛、訓練で日焼けしたそばかすだらけの顔、長身で細身だけど鍛えた体の自分だった。

「わたしの体！　起きて！」

　思わず揺（ゆ）さぶった。ここに来るまでの間に、一つの仮説を立てていた。

　それが正しいか確かめる為（ため）には、自分の体を目覚めさせる必要がある。

「起きて！　寝（ね）てる場合じゃない！」

　揺さぶりすぎて、がくんっと首が傾（かし）いだ。

「う……ん」

　自分の体がうめき声を上げたのに気づいて、今度はそっと揺さぶった。

「起きたの？」

　真実を知るのが怖（こわ）かったが、目を背（そむ）けるわけにはいかない。

　自分（ユリア）の体が目を覚ます。緑の瞳（ひとみ）がぼんやりとこちらを見つめた。

「あれ……どうして私がいるのかしら？」

　自分の体が発したその言葉で、仮説が正しかったとわかった。

「ローラ姫（ひめ）、ですか？」

　おそるおそる聞くと、きょとんとした自分（ユリア）が頷いた。

「ええ、あなたは誰（だれ）なの？」

　戸惑った様子のローラの肩（かた）にそっと触（ふ）れた。

「落ち着いて聞いてください。わたしはユリアです」

「えっ……？　でも、じゃあ、私は……」

　首を傾げる仕草はローラのものだが、自分の体でされるとちっとも可愛（かわい）く見えない。

「信じられないかもしれませんが、姫はいま、わたしの体にいらっしゃいます」

「何を言っているの……？」

　ローラが目を瞬（またた）かせた。確かに突（とつ）然（ぜん）こんな事を言われても信じられないだろう。

　だから最後の手段だと、近くにあった手鏡をとる。

「きゃあぁぁぁっ……！　ぐっ」

　手鏡を見たローラが一（いつ）瞬（しゆん）で青ざめて叫んだ。慌てて口を塞（ふさ）ぐ。

「静かにしてください。ここはファーストデンテ国なんです。騒（さわ）ぎはまずいです」

　ローラは目を白黒させつつも、状況を理解したのか頷いた。

　手を放すと、涙を浮かべてこちらを見つめる。

「どういう事？　どうして私がユリアに？　それにあなたが私（ローラ）になっているわよね？」

「はい。何が原因かはわかりませんが、わたし達はどうやら体が入れ替（か）わっているようです。崖（がけ）崩（くず）れがあったのは覚えていらっしゃいますか？」

　ローラが考え込むように俯（うつむ）いた。

「崖崩れだって叫び声が聞こえて。それから……どうなったのかしら。覚えていないわ」

　さきほどここまで来る間に、マーサから聞いた話を思い出す。

「崖崩れで落ちてきた岩に当たって馬車が横転したんです。そのまま崖下の湖に馬車ごと落ちたそうです。わたしも姫も奇（き）跡（せき）的に軽傷でしたが、十日間眠っていました」

「十日も？　だったら結（けつ）婚（こん）式まであと一ヶ月しかないわ。私は意（い）気（く）地（じ）がなくて、ぐずぐずとここに来るのを延期していたの。城に着いたら急いで準備にとりかかるはずだったのに。どうしましょう。もう準備が間に合わないかも……」

　震（ふる）えるローラの手をそっと握（にぎ）った。

「状（じよう）況（きよう）はわかりませんが、落ち着きましょう。わたしは何があっても姫の味方です」

　力強い言葉に、ローラが少しだけ微笑（ほほえ）んだ。

　ドンドンドンッ！

　聞こえてきたのは扉（とびら）をノックする音だ。強めのノックに、ローラがびくっとする。

「ここを開けて」

　声には聞き覚えがあった。がちゃがちゃとドアノブが動いている。

　マーサが出て行ったあと、とっさに鍵をかけた自分を褒（ほ）めてやりたい。

「レオン王がいらっしゃったみたいです」

　呟（つぶや）くと、ローラが真っ青になった。

「まずいわ。こんな状況が知られたら、結婚が破談になってしまう。いまのままでは〝完（かん）璧（ぺき）な王（おう）妃（ひ）〟になれないもの……」

「完璧な王妃？」

　ローラは破られんばかりにノックされている扉を見つめて、唇（くちびる）を震わせた。

「ヨルン国をホラクス国の侵（しん）略（りやく）から守る為に、ファーストデンテ国の後ろ盾（だて）を得る。それが今回の政略結婚のヨルン国側のメリットよ。結婚により、ファーストデンテ国はヨルン国の宝石の流通を一手に引き受け、利益を得る。それが彼ら側の政略結婚のメリットなの。でもね、レオン王が結婚を承知してくれたのは、他（ほか）にも目的があるからなの」

「どういう事ですか？」

「ファーストデンテ国はすでに経済大国として莫（ばく）大（だい）な富を築いているわ。宝石の流通の利権が手に入らなくても、揺るがないくらいの経済基（き）盤（ばん）を持っている。レオン王が私との結婚を決めた一番の理由は〝完璧な王妃〟が欲しいからなの」

　初耳だった。ローラが震える手でユリアの手を握り返した。

「ファーストデンテ国では、国王は二十歳（はたち）までに王妃を娶（めと）るという決まりがあるそうよ。レオン王は十九歳。そろそろ妻をと急（せ）かされているそうなの。だからファーストデンテ国の後ろ盾を得る代わりに、私は完璧な王妃を務めると約束しているの」

　目を見開くと、ローラがそっと自（じ）嘲（ちよう）した。

「この結婚は、国内外でも見（み）栄（ば）えがする完璧な王妃が欲しいというレオン王の希望に添（そ）ったものなの」

「そんな！　いくら政略結婚だからって……」

　ローラが物のように扱（あつか）われている気がして、怒（いか）りがこみ上げた。

「いいの。私が完璧な王妃を務められればヨルン国の平和が保たれるんだもの。だけど、体が入れ替わってしまったなんて、レオン王に言えないわ。完璧な王妃になれないなら、破談になるかもしれない。そうしたら、ヨルン国は終わりよ。ううっ……」

　ローラが両手を顔に当てて泣き出した。

　確かにホラクス国に狙（ねら）われているいまの状況で、ファーストデンテ国の後ろ盾が得られなければ、ヨルン国はあっという間に滅（ほろ）ぼされる。事の重大さに気づいて、青ざめた。

「ユリア、どうしましょう。このままでは、ヨルン国が……！」

　あまりの事に思考が停止していたが、ローラの泣き声で我に返った。

（結婚が破談になったらヨルン国が滅ぼされてしまうかもしれない。こうなったら……）

「……ひとまず、わたしがローラ姫のふりをしましょう」

　扉を叩（たた）く音はどんどん大きくなっている。呼びかける声もイライラが募（つの）っていた。

　このままでは、扉が蹴（け）破（やぶ）られるかもしれない。決断するならいまだった。

「でも……」

「何か原因があって体が入れ替わったのだと思います。それを調べる時間を稼（かせ）がないと。原因がわかればもとに戻（もど）れるかもしれません。それまでの間、互（たが）いのふりをするのです」

　無（む）謀（ぼう）だと自分でもわかっていた。しかしゆっくり考えている暇（ひま）はない。

「そんな、自信がないわ……」

　不安げなローラの顔をのぞき込んだ。

「わたしも不安です。でも一（いつ）緒（しよ）に乗り越（こ）えましょう。ヨルン国の為です」

　ローラがはっとした顔になった。一度目を伏（ふ）せて、すぐに顔を上げる。

「……わかったわ」

「入れ替わっているのがばれたら、まずい事になります。わたしがローラ姫のふりをするので、サポートをお願いします。何かおかしな事をしたら、目で合図してください」

　王女としてどう振（ふ）る舞（ま）えばいいかなんてさっぱりわからない。一応貴族ではあるから、行（ぎよう）儀（ぎ）作法は一通りできるはずだが、ローラのように優（ゆう）雅（が）に振る舞える自信はなかった。

（不安だけど、やらなくては。ローラ姫は真っ青になっていらっしゃる。わたしが恐（おそ）れていたら、ローラ姫はもっと怖いと思われるだろう。姫を守らなくては……！）

　亡（な）き父の遺志を継（つ）ぎ、騎（き）士（し）団に入った。父と同じくヨルン国の平和を願っている。ローラのふりをする事で、ヨルン国の平和を守れるなら、やってみせると心に誓（ちか）った。

　ローラをベッドに戻らせた。息を整えて、いまにも破られそうな扉の鍵を開ける。

　ばんっと扉が開いて、レオンが侍（じ）女（じよ）達を連れて入ってきた。

「……おや、何日も眠（ねむ）っていた割に、ネグリジェで動き回れるぐらい元気なんですね」

　にこやかだが、なかなか扉を開けなかった事で怒（おこ）っているのがびんびん伝わってくる。

　ファーストデンテ国の国王レオンと会うのは、これで二度目だ。茶色の長い髪（かみ）に、大陸の太陽と噂（うわさ）される整った顔立ち。灰（はい）褐（かつ）色（しよく）の瞳は見つめるものを魅（み）了（りよう）するという。

　背は高く細身で、濃（こ）い赤のビロード生（き）地（じ）の上着と細身のズボンがスマートな印象を与（あた）えた。物言いは柔（やわ）らかいが、いつも瞳（ひとみ）には鋭（するど）さが宿っている油断ならない男だ。

　彼を見て、顔が引きつりそうだった。

（二度と見たくなかった顔だ。でもローラ姫（ひめ）の為（ため）だから我（が）慢（まん）しないと……！）

　彼のせいで謹（きん）慎（しん）させられた。確かに殴（なぐ）ったのは悪かったと思っている。

　しかし彼は許可なく蔵書室のある建物に侵（しん）入（にゆう）した不（ふ）審（しん）者だったのだ。

　もう一度殴ってやりたい衝（しよう）動（どう）に駆（か）られながらも、何とか微笑んだ。

「申し訳ありません。わたしの親友がまだ目覚めないと聞いて、心配だったんです」

　部屋の中ではびくびくした様子のユリア……ローラがベッドに座っている。

　レオンはそちらに目を向けて、口角を上げた。

「ヨルン国で私を殴った女性兵士だね。あれはなかなかいい拳（こぶし）だったよ。君が目覚めるのを楽しみにしていたんだ」

　ローラが目に見えてびくっとした。レオンが彼女に近づこうとする。

（まずいぞ！　すごく意地の悪い笑（え）顔（がお）だ。わたしが同行するのを許可したのは、告げ口して謹慎させただけじゃ飽（あ）き足らず、自分の手で嫌（いや）がらせしたかったからに違（ちが）いない。目覚めて喜んでいるのは、さっそく何かする気だからだな……！）

　思わず彼の前に立ちはだかった。

「その話は伺（うかが）っていますが、夜中に許可なく建物に入ったあなたも責任があるのでは？」

　国王にこんな無礼な発言は許されないだろうが、積もり積もった恨（うら）みが声に出た。

（ローラ姫はわたしの体にいる。この状況で、レオン王に嫌がらせをされてはまずい。ガラスのように繊（せん）細（さい）なお心が傷ついてしまう。ローラ姫をお守りしなくては！）

　近（この）衛（え）隊員としての使命感が体を突（つ）き動かしていた。

　まっすぐに見つめると、レオンが軽く目を見開く。

「……これは驚（おどろ）きです。ローラ姫は噂と違って、口を開くと案外気がお強いようだ」

　どきっとしたが、退（ひ）くわけにはいかない。そのまま見つめていると、レオンは腕（うで）を組む。

「どいてください。あなたの護衛に話があります。ヨルン国で起こった事について」

（やっぱり殴った事を責める気なんだ。そうはさせない……！）

「わたしの護衛と話をなさりたいなら、わたしを通してください。彼女はあなたと話をする為にここに来たのではないので。それに彼女もわたしも目覚めたばかりです。少し落ち着く時間をくださってもいいのでは？」

　毅（き）然（ぜん）と言い返すと、レオンがあっけに取られた表情になり、やがて苦（く）笑（しよう）した。

「確かにそうですね。どうやら私の分が悪いようだ。言い負かされる前に退散しましょう。それにしても本当に意外だ。ローラ姫がこんなに気がお強いとは。ですがそのぐらいの方が王妃としてふさわしいかもしれませんね」

　レオンはこちらとベッドのローラを交（こう）互（ご）に見つめる。

「話はまたあとにしましょう。二人とも目覚めて本当によかった。ですが、目覚めたばかりで動き回るのは感心できません。まず医師の診（しん）察（さつ）を受けてください。結（けつ）婚（こん）式までそう間がないので、元気になったのなら、準備をよろしく」

　部屋を出て行くレオンを見て、ほっと息をつく。

　扉（とびら）が閉まると、ローラのしゃくり上げる声が聞こえた。

「これからどうしたらいいの、ユリア……」

　涙（なみだ）ぐむローラに慌（あわ）てて駆け寄る。

「わたしが必ずお守りします。体が入れ替（か）わった原因がわかるまで、このまま互いのふりをしましょう。それがヨルン国の為です」

　意識して力強い声を出した。不安なのは自分も同じだが、それを声や表情に出したら、ローラはもっと怖（こわ）がるだろう。ローラの為にも、ヨルン国の平和の為にも、強くあらねばならないと、ユリアは心に誓った。

　　　　●　●　●

「コルセットがきついです。ローラ姫……息も絶え絶えなんですが……」

　ユリアは、浅い呼吸を繰（く）り返しながら、鏡に映るローラの姿を見つめた。

　クリームイエローのドレスを着たローラは、神（こう）々（ごう）しいまでに美しい。

　腰（こし）まである豊かな金色の巻き毛は艶（つや）やかで、ピンクの口紅は愛らしかった。

　ヨルン国の城で見かけるローラは、いつでも優（やさ）しい笑みを浮（う）かべていた。だが本当はいつもこんなにきついコルセットをつけて苦しい思いをしていたなんて、知らなかった。

　ローラは椅子（いす）に座って紅茶を飲んでいる。膝（ひざ）を揃（そろ）えて座り、背筋がピンと伸（の）びていて、優雅な仕草だ。顔は自分なのに、仕草が違うだけで別人のように見えた。

「貴婦人のたしなみだから、我慢するしかないわ。ごめんなさいね。辛（つら）い思いをさせて」

　目を伏せたローラに、慌てて両手を振った。

「これもヨルン国の為ですから！　ですが、姫がこんなに大変だと思いませんでした」

　目が覚めて三日ほど経（た）っていた。その間の事を思い出すと、冷や汗（あせ）が出る。

「毎日早朝から起きて、侍女にコルセットをぎりぎり締（し）め付けられてドレスを着て、髪を結（ゆ）い上げて化（け）粧（しよう）が終わる頃（ころ）はもう昼。夕方になったら、白い肌（はだ）を保つ為に毎晩オリーブ油のお風（ふ）呂（ろ）と蜂（はち）蜜（みつ）で全身パック。髪だって艶やかさを保つ為に卵白を混ぜた液で洗って」

　気の遠くなるような努力で、この美しさが保たれているのだ。ローラの毎日は、軍学校の訓練より過（か）酷（こく）だというのが正直な感想だ。何とか息を整えて、彼女の前に立つ。

「結婚式までもう一ヶ月もありません。お互いになりすます為に、体調が悪いと言って部屋に閉じこもり情報交（こう）換（かん）していましたが、そろそろ限界です。入れ替わった原因を探（さぐ）る為にも、思い切って外に出て行動しなければ」

　ローラが不安げな顔になる。

「でも怖いわ。もしばれてしまったら、ヨルン国は終わりよ。結婚式まで体調が悪いと言って誰（だれ）にも会わないでいられないかしら。結婚式が終われば私は晴れてファーストデンテ国の王（おう）妃（ひ）だから、そうそう離（り）縁（えん）はされないと思うの。原因を探すのはそれからでも……」

　不安に思う気持ちは痛いほどわかった。この結婚にはヨルン国の未来がかかっている。

「ですが結婚式の準備が滞（とどこお）っています。部屋にこもってばかりでは、肝（かん）心（じん）の結婚式が準備不足で行えなくなる可能性もあるかと。侍女達からも今日こそは結婚式関連で着るドレスを選んでほしいと急（せ）かされましたし」

　招待客を迎（むか）える準備にドレス選び。結婚に伴（ともな）う様々な行事の準備に、結婚式の進行や晩（ばん）餐（さん）会のメニューや席順を決めたりと、やる事は山積みだ。

「ローラ姫……というか、ユリアは護衛という事でローラ姫……つまりわたしに、付き添（そ）う許可を頂いています。二人で準備しましょう。わたしがついているので大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）です」

　力強く微笑（ほほえ）んだ。ローラはそれを見て、ようやく頷（うなず）く。

「わかったわ。頑（がん）張（ば）りましょう。ユリア……ありがとう」

　頭を下げたローラに慌てて首を振った。

「とんでもありません。わたしはヨルン国騎（き）士（し）団の近衛隊員です。謹慎中で強制退（たい）役（えき）寸前だったのに、復帰させてくださったローラ姫には感謝しております。姫の為ならどんな事でもする覚（かく）悟（ご）でここに参りました。お手伝いができるのは光栄です」

　正直な気持ちだった。ヨルン国を守りたくて騎士団に入ったのに、一年も経たずに謹慎になった。あのままだったら近い将来、騎士団を辞（や）めさせられていただろう。

（さすがにローラ姫と体が入れ替わるなんてとんでもない状（じよう）況（きよう）は想定していなかったけど、どんな形であれ、ヨルン国の為に役に立てるなら精（せい）一（いつ）杯（ぱい）やろう。これはわたしが国の為に尽（つ）くせる最後のチャンスになるかもしれない）

　今回はローラの強い願いもあって一時的に復帰が認められた。

　この任務で実績を積めば、謹慎は解けるかもと淡（あわ）い期待もあった。だが近衛隊の隊長は渋（しぶ）々（しぶ）同行を許可したようで、無事に任務をやり遂（と）げたとしても復帰は難しいと言われた。

　だからこれが軍人として最後の任務かもしれない。気を引き締めて、ローラを見つめた。

　赤い髪（かみ）も緑の瞳も、鏡でよく見る自分の姿だ。少しハスキーな声も自分のものだ。

　こうして客観的に自分を見るなんて、いまでも信じられない状況だ。

「……ローラ姫。結婚式の準備をしつつ、入れ替わった原因を探りましょう。何度も伺って申し訳ありませんが、入れ替わったのは、崖（がけ）崩（くず）れの事故の時だと思うんです。あの時の事を何か覚えていらっしゃいますか？」

　これと同じ事は目覚めてから何度も聞いている。

　繰り返し聞く事で新たな発見があるかもしれないからだ。

「いいえ。崖崩れだと叫（さけ）ぶ声が聞こえて、それで……そこから記（き）憶（おく）がないの。そういえば、この質問はあなたにはまだしていなかったわ。あなたはどう？」

　問い返されて、あの時の事を頭に思い浮かべる。

「わたしも何も覚えていないんです。侍（じ）女（じよ）から聞きましたが、近くで事故を目（もく）撃（げき）した村人がいたようです。彼の証言では、地（じ）響（ひび）きがして崖の上から大きな石がいくつも落ちてきて、それが馬車に当たって横転し、崖下の湖に落ちたようです」

　湖に落ちた自分達を、その村人が助け出してくれたらしい。彼らは、馬車にヨルン国の紋（もん）章（しよう）が入っているのに気づき、慌ててファーストデンテ国の城へ報告したそうだ。

「ヨルン国の兵や侍女達も怪（け）我（が）を負いましたが、幸い死者は出ませんでした。彼らは現在この城で療（りよう）養（よう）しています。姫（ひめ）が外に出ても大丈夫なら、彼らの様子も見に行かないと。入れ替わったのは崖崩れの前後だと思うので、誰か何か知っているかもしれません」

　部屋にはまだヨルン国の者は誰も訪ねてこない。他国の城なので、許可がなければ彼らも動けないのだろう。こちらから出向く必要があった。

　ローラは恐（おそ）ろしそうにぎゅっと目を瞑（つぶ）った。

　気弱な彼女には、こんな状況で人前に出るのは辛いだろう。しかし王女としてどう振（ふ）る舞（ま）ったらいいのかわからない事も多いので、部屋から出るなら一（いつ）緒（しよ）がいい。

「わかったわ。ユリアが一緒にいてくれれば心強いもの。真相を突き止めましょう」

　二人で頷いた。そして勇気を出して部屋の扉を開け、外に一歩踏（ふ）み出した。

　ユリアはローラとともに、ヨルン国の兵士達がいる医（い）療（りよう）室に赴（おもむ）いた。

　医療室では二十人ほどのヨルン国の兵が寝（ね）かされている。

　怪我人の世話をしているのは、軽傷だったのだろうヨルン国の兵と侍女達だ。

「ローラ姫！」

　寝ていた兵達が起き上がろうとした。

（わたしがローラ姫だから、こんな時は……）

「そのままでいい……わ。怪我をしているんだから、ゆっくりしてて」

　優しい笑（え）みを浮かべようとして顔が引きつったが、何とか口角を上げた。

　ファーストデンテ国の侍女達はローラと会うのが初めてだから、多少おかしな言動をしてもごまかせる。しかし彼らはローラを身近で見てきた兵や侍女達だ。

　少しの違（ちが）いでも見（み）逃（のが）さないだろう。信（しん）頼（らい）できるヨルン国の者達だが、秘密を知る者は少ない方がいい。だからばれないようにしようとローラと話し合っていた。

「姫！　ご無事でようございました」

　ベッドの上から声を上げたのは、中年の大（おお）柄（がら）な男だ。近（この）衛（え）隊の小隊長で、今回の護衛隊長だった。近づくと、右足と左（ひだり）腕（うで）に包帯が巻かれている。

「骨折ですか、ギョルンおじさん！」

　思わず声を上げた。ギョルンは父の軍学校の同期で、子どもの頃から家族ぐるみの付き合いをしてきた。ギョルンが目を見開く。

「ギョルンおじさん……？」

　はっとして慌（あわ）てて口を押さえた。

（しまった、わたしはいまはローラ姫だ）

　ギョルンの怪我を見て、気が動転してしまったが、すぐに居住まいを正す。

「ユリアから……そうユリアからあなたの事を実の父のように慕（した）っておじさんと呼んでいると聞いていたのでつい……。ギョルン隊長、骨折した……いえ、なさったのかしら？」

「はい。足と腕の骨折で、治るまでかなりかかりそうです。申し訳ありません！　私がついていながら、姫にお怪我をさせてしまい……」

「事故だったんです。仕方ありません。……死者はいなかったと聞いていますが、みんなの怪我の状況は？」

　余計な事は言わずに端（たん）的（てき）に質問した。

「私が一番ひどい怪我で、軽傷の者はもう動けます。姫がご結（けつ）婚（こん）されるまでは我々が護衛を務め、ヨルン国の侍女がお世話をする予定でしたので、動ける者を配置しようと思いましたが、まだ万（ばん）全（ぜん）ではないから療養に専念するようにレオン王から通告がございまして」

　ギョルンは実直で真（ま）面（じ）目（め）な軍人だ。申し訳なさそうに目を伏（ふ）せる。

「他国の城ゆえ、レオン王がそう命じられたら我々にはどうする事もできず。さぞご不安だったでしょう。何とかレオン王にお願いして、ヨルン国の者をおそば近くに……」

　起き上がろうとしたので、押しとどめた。ヨルン国の者は普（ふ）段（だん）のローラを知っている。

　近くにいられると入れ替（か）わっている事がばれる恐れがある。

「大丈夫です。無理をしないで。みんな怪我をしているのは事実だし……いえ、ですし、ここはレオン王のご命令通り、療養した方がいい……でしょう」

　言葉に柔（やわ）らかな雰（ふん）囲（い）気（き）を持たせなければと思うあまり、ぎこちない感じになってしまった。ギョルンは不自然さに気づかなかったのか、男泣きする。

「お言葉、感謝致（いた）します！　ですが他国で一人きりではご不自由では……」

「ユリアがいてくれるので大丈夫です。護衛や世話はファーストデンテ国の兵や侍女が務めてくれている……わ。だから本当に療養に専念して」

　ギョルンが後ろにいたユリアに目を移した。

「ローラ姫。ユリアはとても優（ゆう）秀（しゆう）です。亡（な）くなった親友の娘（むすめ）で、子どもの頃（ころ）から知っております。剣（けん）の腕も立ちますし、頭もいい。きまじめすぎるのが難点ですが、信頼してくださってけっこうです」

　ギョルンは厳しいが、褒（ほ）める時は手放しで褒めてくれる。そんなところが大好きだ。

「褒めてくれてありがとうございます」

　思わず嬉（うれ）しくて声が漏（も）れると、ギョルンが眉（まゆ）根（ね）を寄せた。

「どうしてユリアを褒めたのに、ローラ姫がお礼を……？」

　あっと心で叫んだ。

「それは……ユリアとは一緒に事故にあって、一緒にこの数日を過ごして、まるで姉妹のような気持ちでいるので。彼女が褒められたら、自分の事のように嬉しくて……」

　しどろもどろで話をすると、ギョルンは微笑（ほほえ）んだ。

「娘同然のユリアを、そう思って頂けるとは嬉しい限りです」

（な、何とかごまかせた。ギョルンおじさんが単純でよかった。気をつけないと）

「それより、事故の事を覚えている？」

　気を取り直して、一番聞きたかった事を口にした。

「はい。地響きがして、大きな石が落ちてきて馬車に当たりました。そのせいで馬車が横転し、姫をお助けする間もなく崖下に……。あの高さから落ちてよくご無事で……」

「……何か気になる事はありませんでしたか？」

　ギョルンがさっと目を伏せた。

「それは……」

　口ごもったギョルンに、思わず身を乗り出す。

「何かあったんですね。何に気づいたんですか？」

「……いえ、何でもございません。姫は何もご心配なさる事はございません」

（ギョルンおじさん、目が泳いでいる。長い付き合いだからわかるけど嘘（うそ）をついてるな）

　何か隠（かく）し事があるようだが、あまり探（さぐ）りすぎるとぼろが出るかもしれない。

　躊（ちゆう）躇（ちよ）していると、ギョルンが話を続けた。

「あの辺りは前日大雨が降ったそうです。そのせいで地（じ）盤（ばん）が緩（ゆる）んで崖（がけ）崩（くず）れが起きたのではと思われます。ファーストデンテ国の軍が調査を行うそうなので、何かしらわかるでしょう。私達も一緒に調査したいと申し出ておりますが、自分達の領土で起こった事だからとレオン王に許可して頂けなくて」

　心の中で舌打ちした。

「あいつめ……！」

「えっ？」

　思わず口から出た言葉に、ギョルンが首を傾（かし）げた。

「いいえ。何でもありません。……怪我をした兵や侍女達に何か異変はないですか？　様子がおかしい人とかは？」

　入れ替わったのはもしや自分達だけではないかも、と辺りを見回した。

「いいえ。怪我をしている者はおりますが、みんな落ち着いています。ここはファーストデンテ国。何か問題でも起こせば、結婚が破談になる恐れもございます。みんなそれを理解しておりますので、ご心配なさいませんよう」

　ギョルンと療養中の兵達からは、不自然な様子は伝わってこなかった。

　後ろにいるローラに目を向けると、彼女も同意見のようでそっと頷（うなず）く。

　これ以上は情報は聞けないだろうとギョルンに向き直った。

「まず、怪（け）我（が）を治す事に専念してください。動ける者は怪我した者の世話をお願いします。他国で療（りよう）養（よう）するのは気を遣（つか）うでしょう。何かある時はいつでも相談してください」

　ギョルンが感心したように目を丸くした。

「少し見ない間に、しっかりされましたな。ローラ姫（ひめ）」

　どきっとしたが、ギョルンに他意はなさそうだ。

「ローラ姫、あまり長居をなさると、みなさんお疲（つか）れになると思います……」

　蚊（か）の鳴くような声を出したローラに頷いた。あまり長く彼らといると、入れ替わっているのがばれるかもしれない。みんなの事が気になるが、そろそろ帰らなければ。

「わかりました。戻（もど）りましょう」

　ギョルンに会（え）釈（しやく）し、部屋を出ようと扉（とびら）に向かう。ドアを開けて部屋の中に向き直った。

「では、みなさん、ごきげんよう……」

　ローラに教えてもらった、ドレスの裾（すそ）をつまんで片足を曲げるという優（ゆう）雅（が）な挨（あい）拶（さつ）をした。

　彼女は臣下であろうと、別れ際（ぎわ）には丁（てい）寧（ねい）な挨拶をするので有名だった。

（うっ、コルセットをつけてのこの姿勢は地味に辛（つら）い……！）

　姿勢を正そうとしたが、コルセットのあまりのきつさのせいでバランスを崩す。

「危ない……！」

　転びそうになったが、近くにいた若い兵士がとっさに支えてくれた。

（うっ……！　男に触（さわ）られた……！）

　考えた途（と）端（たん）、総毛立つ。ぶつぶつとじんましんが吹（ふ）き出た。

「男がわたしに触るな！」

　ぱっと腕から離（はな）れ、渾（こん）身（しん）の一（いち）撃（げき）を彼の顔めがけて放つ。

「うっ……！」

　拳（こぶし）は見事に顔面にヒットして、兵が尻（しり）餅（もち）をついた。それを見て、我に返る。

「あっ、すまない。つい……！」

「何だ！　何が起こった？」

　起きられないギョルンには、何が起こったか見えなかったようだ。

　部屋にいた人々がいっせいにこちらを見たので、慌てて顔を隠した。

　ローラが倒（たお）れている兵に駆（か）け寄る。

「大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）ですか？　ローラ姫もまだ、お加減が悪いのです。苦しくてもがいたら、手が当たってしまったようですね」

　兵に声をかけると、彼は頬（ほお）を押さえながら立ち上がった。

「大丈夫です。ローラ姫、体調が悪いのに、見（み）舞（ま）いに来てくださってありがとうございました。お部屋までお送りしましょうか？」

「いいえ。私がお連れします。さ、姫。参りましょう」

　ローラのとっさの機転に救われた。

　顔を俯（うつむ）けたまま、ローラと一（いつ）緒（しよ）に足早に部屋を出る。

（体が入れ替わっているのに、男性恐（きよう）怖（ふ）症（しよう）の症状が出るのか……!?）

　ローラの体に入っていれば、症状が改善されるかもと密（ひそ）かに期待していたが、違（ちが）っていたようだ。自室に戻り、とりあえず椅子（いす）に座る。顔を上げると、ローラが目を見開いた。

「私の顔にぶつぶつが！　手にも首にも出ているわ。どういう事？」

　彼女にはまだ秘密を言っていなかった。ユリアは、一度口を引き結んでから息をつく。

「実は、男性恐（きよう）怖（ふ）症（しよう）なんです。男性に触られると、恐怖のあまりじんましんが出て、無意識に相手を攻（こう）撃（げき）してしまうんです。体が入れ替わっているから大丈夫かと思いましたが、精神的なものが原因なので、ローラ姫の体に入っていても出るらしく……」

「男性恐怖症？　いったい、なぜそんな事に？」

　理由はあまり口にしたくなかったが、いまローラは自分（ユリア）だ。

　互（たが）いのふりをする約束でもあるので、彼女には話した方がいいだろうと思った。

「子どもの頃に、父と一緒にいた時、男達に襲（おそ）われた事があって。父は軍人だったんですが、機密事（じ）項（こう）を扱（あつか）う部署にいたようで、まずい情報を知っていた父を殺そうとしたみたいです。わたしは男に捕（つか）まって剣で喉（のど）を切られて」

　ローラがはっと目を見開いた。

「それって、もしかして、この傷の事……？」

　ローラが軍服の襟（えり）元（もと）を緩（ゆる）めた。鎖（さ）骨（こつ）の上に引きつったような大きな傷がある。

「はい。血がたくさん出ました。出血するのと同時に命も体から流れ出していく気がして、怖（こわ）くて仕方ありませんでした。死にかけたんですが、父が敵を倒して急いで止血してくれたので、命は助かりました。でも、それから男性に触られると、あの時の出血と同時に命が流れ出していくような恐怖が押し寄せてきて……」

　思い出すだけでも苦しくなる。死に直面したあの時、自分の中で何かが変わった。

「その恐怖のせいで、じんましんが出るんです。同時に身を守ろうと体が勝手に反応して、触った相手を攻撃してしまうんです。もちろん軍人を目指した以上、克（こく）服（ふく）しようと努力しました。いまはあんな男達に負けないくらい剣（けん）術（じゆつ）もうまくなりました。ですが、理性よりも恐怖が勝（まさ）ってしまうらしくて」

　じんましんは、死ぬかもしれないという恐怖から。

　相手を攻撃してしまうのは、生存本能からくるのではないかと医者は言っていた。

　軍学校の時も騎（き）士（し）団に入ってからも、男性が多い中で必死で隠してきた。用心に用心を重ねて、男性とは接（せつ）触（しよく）しないよう気をつけていた。努力の末、心構えがあれば少しは触られても大丈夫なほどまでにはなったが、急に触られるとどうしても症状が出てしまう。

「しばらくしたらじんましんは治まります。その間かゆみに堪（た）えないといけないんですが」

　ローラは鎖骨の引きつれた傷を撫（な）でながら、目を伏（ふ）せた。

「そんな症状が出るなんて知らなかったわ。どうして教えてくれなかったの？」

「すみません。もし周りに知られたら、心身ともに健康なのが条件の軍人ではいられないので。知っているのは、家族とギョルンおじさん……いえ、ギョルン隊長だけです」

　見つめると、ローラは眉（まゆ）根（ね）を寄せていた。彼女にしては珍（めずら）しい表情だ。

　しかしすぐに表情を緩ませる。

「……驚（おどろ）いてしまって。そんな怖い目にあったのね。あなたはとてもすごいと思う。男性恐怖症なのに、男性が多い騎士団に入って優（ゆう）秀（しゆう）だと評価されていたんでしょう。大変だったわね。……もしかして、レオン王を殴（なぐ）ったというのも……」

　あの時の事を思い出す。レオンに手を握（にぎ）られて、じんましんが出て思わず殴った。

「そうです。さすがにあれは人生で最大の失敗でした」

　項（うな）垂（だ）れると、ローラはそっと肩（かた）に手を置いた。

「これからは極力男性には触（ふ）れないようにしましょう。私もフォローするから」

　いつも弱々しいローラがとても頼（たの）もしく思えた。

「ありがとうございます。ローラ姫！」

　涙（なみだ）が出るくらい嬉（うれ）しかった。ようやくかゆみが治まってきたので、鏡でじんましんが引いたか確（かく）認（にん）していると、ローラが胸に手を当てた。

「さっき、ユリアがギョルン隊長とお話ししていた時、私も兵士達の怪我の具合が心配で彼らのベッドを回って話を聞いていたの。そうしたら、気になる事を聞いたわ」

「気になる事とは？」

　首を傾（かし）げると、ローラは戸（と）惑（まど）った様子を見せた。

「彼らは私の事を〝ユリア〟だと思っていて〝ローラ姫〟には内密にと言われたの。先日ファーストデンテ国の兵士達が、崖（がけ）崩（くず）れの事故の調査に行ってきたそうなの。それで……あの事故は爆（ばく）薬（やく）を使ったせいで起きた可能性があるという事がわかったらしくて」

「なんですって！」

　思わず声を上げると、ローラがびくっとした。

「すみません、大きな声を出して。それで？」

「詳（くわ）しく調べる為（ため）に、近いうちにファーストデンテ国が大がかりな調査隊を組織するんですって。それでヨルン国の怪我のない兵士達もそれに同行できるよう、ギョルン隊長がレオン王に願い出ているそうよ」

「ギョルン隊長……わたしには何も言ってくれなかったのに」

「あなたは〝ローラ〟だもの。はっきりした事がわかるまでは知らせないつもりだと思うわ。私（ローラ）は怖がりだから、事故が故意に起こされたとわかったら泣くと思ったのかも」

　思い出すだけでも怖いのだろう。小刻みに震（ふる）えるローラを見て、思わず駆け寄った。

「大丈夫ですか？」

「ええ。私一人ではないもの。ユリアがそばにいてくれるから、すごく心強いの」

　無理して微笑（ほほえ）んでいるローラの肩に手を置いた。

「すごく重要な情報です。教えてくださってありがとうございます」

　さきほど事故の話をした時、ギョルンの様子がおかしかった。

　おそらくこの事を〝ローラ〟に隠（かく）していたせいだろう。

「いったい、誰（だれ）が事故を起こしたのかしら？」

　ローラの怯（おび）えた声を聞いて、はっとする。

「もしかして、レオン王との結（けつ）婚（こん）をよく思わない誰かの仕（し）業（わざ）では？」

　思わず考えが口に出ていた。輿（こし）入（い）れするヨルン国の王女を狙（ねら）う理由はそれしか考えられない。ヨルン国の城では警備が厳しく狙いにくい。ファーストデンテ国の城でも同様だ。

　移動中が一番狙いやすかったのだろう。ローラが不安げに瞳（ひとみ）を揺（ゆ）らめかせる。

「結婚を阻（そ）止（し）する為に私が狙われたというの……？」

「もしそれが目的だとしたら、爆薬を仕（し）掛（か）けたのは、ホラクス国の可能性が高いと思います。彼らはヨルン国の宝石での利益を手に入れる為に侵（しん）略（りやく）しようとしている。しかし結婚が成立してファーストデンテ国がヨルン国の後ろ盾（だて）になれば、さすがに手を出せない」

　経済大国のファーストデンテ国と軍事国家のホラクス国は、八つの国々からなる大陸の中でも、並び立つ大国だ。ホラクス国はファーストデンテ国と一戦交えるなら、滅（ほろ）びる覚（かく）悟（ご）も必要だ。結婚が成立して一番困るのは、ホラクス国で間（ま）違（ちが）いない。

「ホラクス国め……！」

　怒（いか）りのあまり拳（こぶし）を握った。ローラが戸惑うように俯く。

「……それともう一つ気になる事を聞いて。話を聞いたヨルン国の兵士は、お母様がファーストデンテ国の生まれらしいの。彼の母親は、あの事故のあった場所の近くの村で育ったそうよ。彼から聞いたんだけど、私達が落ちた湖には不思議な伝説があるそうなの」

「不思議な伝説……？」

　ローラが意を決した様子で顔を上げた。

「実はあの湖には、その昔水浴びしていた姉妹が、湖の精（せい）霊（れい）のいたずらで体が入れ替（か）わってしまったという伝説があるらしいの」

　衝（しよう）撃（げき）で息を吞（の）んだ。

「それって、いまのわたし達の状（じよう）況（きよう）とよく似ていますね」

「ええ。私達は姉妹ではないけど、一緒に湖に落ちて体が入れ替わったわ。事故の時、あの湖に落ちたのは馬車に乗っていた私達だけ。私、あの伝説が無関係だとは思えないの」

「わたしもそう思います。二人の姉妹はそのあと、どうなったんですか？」

　はやる気持ちを抑（おさ）えて問いかけると、ローラは顔を俯けた。

「それが……。彼もそれ以上は知らないそうよ。子どもの頃（ころ）にお母様に聞いた話だから、記（き）憶（おく）もあいまいだと言っていたわ。ごめんなさい」

　目を伏せたローラの手をそっと握った。

「謝らないでください。すごい情報を二つも手に入れてくださってありがとうございます」

　ローラが顔を上げた。微笑む彼女に力強く頷（うなず）く。

「まだはっきりとわかりませんが、わたし達が入れ替わったのには湖の伝説が関（かか）わっている可能性は高いと思います。その伝説について調べる必要がありますね」

　ようやく進むべき道が見えた気がして、ユリアは久しぶりに心からの笑（え）みを浮（う）かべた。

「ユリア、城の中にも、湖について詳しい人がいるかもしれないから、兵士や侍（じ）女（じよ）達に聞いて回ってみましょうか？」

「それは得策ではありません。湖の伝説について聞いて回ったら、わたし達の様子がおかしい事と結びつけて考える人も出てくるかもしれません。確実に湖の伝説について詳しいと思われる人にだけ質問した方がいいでしょう」

　ローラが戸惑うように目を揺らめかせた。

「確実に詳しい人って、いったい誰に聞けばいいのかしら？」

「一番確実なのは、湖の近くにある村に住んでいる人でしょう。湖の事を教えてくれたヨルン国の兵士の母親がその村の出身だったというなら、その村にいまも住んでいる人は伝説の詳しい内容を知っているかもしれません」

「でも、城から半日ほど行った場所に村はあるのよ。どうやって村人に聞けばいいの？」

「ファーストデンテ国が事故を詳しく調べる為、調査隊を派（は）遣（けん）するのですよね。それに同行できれば……」

「外出なんて無理よ。結婚式を控（ひか）えているんだから」

　確かにそうだ。いまの状況では、ローラの外出は不可能に近い。自分（ユリア）の姿をしているローラだけなら外出できるかもしれないが、彼女一人で行かせるわけにはいかなかった。

　悩（なや）んでいるとノックの音がした。慌（あわ）ててローラに目配せして扉（とびら）に顔を向ける。

「どうぞ」

　入ってきたのはマーサだ。居住まいを正すと、彼女が目の前まで来る。

「ローラ姫（ひめ）、レオン王がお呼びです」

　彼の顔を思い出すだけでうんざりするが、無視するわけにもいかない。

　ローラと二人で扉に向かうと、マーサがローラだけを押しとどめた。

「護衛の方は部屋でお待ちください。ローラ姫と二人でお話しになりたいそうですので」

「そうはいきません。一（いつ）緒（しよ）でないと」

　思わず口を開いた。情報交（こう）換（かん）はしているが、自分がまだ知らない事も多いだろう。

　近くにいて、サポートしてもらわないとまずい。

「レオン王のご命令です」

　マーサは引かなかった。ローラと顔を見合わせる。

　立場的にはこちらが弱い。レオンの命令に背（そむ）くわけにはいかなかった。

（挨（あい）拶（さつ）の仕方と結婚式の主な流れについては教えてもらった。ここでごねて不（ふ）審（しん）がられるとまずい。それに……このピンチをチャンスに変えられるかもしれない）

　ふと頭にひらめいた作戦は、自分でもとてもうまく行くとは思えなかった。

　それでも、試（ため）してみる価値はある。

「……わかりました」

　目を向けると、ローラも状況的に仕方ないと思ったのか頷いた。彼女が耳元で囁（ささや）く。

「わからない事を聞かれたら、余計な事は喋（しやべ）らずにこにこするといいわ」

　的確なアドバイスだと思った。自分（ユリア）ならそうはいかないが、金（きん）髪（ぱつ）巻き毛の美少女ローラなら、きっとたいがいの苦難は笑みの一つで乗り越（こ）えられるだろう。

　だがなぜか胸がもやもやした。

（なんだろう。この感じ……）

「ローラ姫、こちらにどうぞ」

　考えようとしたが、マーサに声をかけられ、慌てて彼女についていく。

　余計な事は考えず、いまを乗り切るのが先決だと、ユリアは表情を引き締（し）めた。